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4.武田氏と家臣団の足跡

戦国時代の史跡を歩く

土屋惣蔵の墓

土屋惣蔵は武田家滅亡の最後まで勝頼に仕えた武将。織田軍を防ぎ、勝頼に自害の時を与えた「片手千人斬り」の伝説を残す。惣蔵の墓の他、次兄昌続ら金丸氏一族の墓がある。
市指定史跡


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土屋惣蔵昌恒は金丸筑前守虎義の五男として生まれました。金丸氏は、現在南アルプス市徳永の周辺を治めていた武田家の重臣です。惣蔵は成長ののち駿河の武将土屋備前守の養子となり、土屋姓を名のることになりました。
惣蔵は、信玄の病没後、その家督を継いだ武田勝頼の側近となります。勝頼が田野の地に追われた時、勝頼に従った人数は惣蔵をはじめわずか数十人だったと言われます。天目山で最後まで勝頼を守り抜いた惣蔵の姿は、武田家最後の忠臣として今も語り継がれています。
次に、片手千人切りへ至る伝説の軌跡をご紹介しましょう。
天正十年(1582)
 長篠の戦いで敗れた武田勝頼が、体制を立て直すた
め韮崎市七里ヶ岩の上に新しい府中である新府城を
築き、甲府から拠点を移したのは天正九年十二月のこ
とでした。しかし翌年の一月末には、織田信長の支配
する美濃との国境を守る木曽義昌が反旗をひるがえ
して織田と結ぶと、二月三日に信長は勝頼討伐を決
定します。そして伊那・飛騨から織田軍、駿河から徳
川軍、伊豆、相模、上野から北条軍の侵攻が始まりま
す。すると信玄の娘を妻としている親族衆穴山梅雪(ば
いせつ)までもが徳川家康に寝返るなど、武田軍は目ぼ
しい抵抗もできないまま総崩れとなりました。勝頼は
三月三日には完成したばかりの新府城を捨てて、譜代
(ふだい)の家臣小山田信茂(のぶしげ)の薦めた郡内の岩
殿城を目指すことになります。この時付き従う家臣は
およそ六百名でしたが、郡内へ向かう途中にも多くが
離反し、さらに小山田信茂までもが裏切ったため、一
行は笹子峠を越えることができませんでした。
 三月十一日、勝頼一行は五千もの織田軍に現在の甲
州市大和町田野に追い詰められます。数万の軍勢を動
かしてきた武田家もこの時まで勝頼に従った武将はわ
ずか四十人。その中には武田家の重臣で、南アルプス
市徳永の長盛院の地に館を築いていた金丸筑前守(か
ねまるちくぜんのかみ)の3人の息子たちがいました。そ
のうちの一人、五男の土屋昌恒(まさつね ※1)は、すでに
勝敗が決している戦いの中で大軍を前に弓で奮戦し、
最後まで勝頼を守り続けました。昌恒の働きは、戦後
織田方からも賞賛され、「よき武者数多を射倒したの
ちに追腹を切って果て、比類なき働きを残した」と『信
長公記』に記されています。
 信長の侵攻からわずか一ヵ月半、勝頼は自害し、昌恒や他の兄弟も最後まで武田家と命運をともにしま
した
天正十七年(1589)
 徳川家康は鷹狩りの途上、静岡県清見寺を訪れま
した。そこで一人の子供と出会います。その子がお茶を
出す姿に、家康は「尋常の者ならず、何者の子ぞ」と住
職に問いました。住職が土屋昌恒の子と伝えるとあの
忠臣昌恒の子かといたく納得し、家康が身柄を引き取
ることになります(※3)。この男児は後に土屋忠直と
名のり徳川秀忠に仕え、その後千葉県久留里(くるり)
藩主となり、子孫は全国に広がっていくことになりま
す。

そして、物語はまだまだ続きます、、、みなさんご存知の忠臣蔵に登場することになるのです。
忠臣蔵のクライマックスの名シーン!吉良邸討ち入りでの高提灯のシーンをご存知でしょうか?
討ち入った赤穂浪士による「申し上げまする!我ら赤穂藩、、、」と隣家に名乗りをあげるシーン。
隣家は「心得ましたと大磯殿へお伝えくだされ」と伝え、仇討ちを助けるべく高提灯を掲げ、家臣には塀を越えて逃げてくる吉良のものは打ちとめよと伝えるのです。
この家こそが久留里藩主土屋主税の宅であり、
高提灯には土屋の家紋「九曜」と「三つ石畳」が描かれているのです。
子孫の活躍が伺えるエピソードですね。

金丸氏館跡(長盛院)

金丸氏は代々武田家に仕える家柄で、現在の長盛院の地に館を築いた。東側は崖の要害で、西側には土塁と堀がめぐらされている。四代金丸虎義の次男が武田二十四将にも数えられる土屋右衛門尉昌続、五男が土屋惣蔵。


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金丸虎義は、武田信虎に仕え幼少の信玄の守り役を務めました。天正3年、長篠の戦で織田・徳川連合軍に敗れます。天正10年織田・徳川連合軍の甲斐への侵攻が始まると、主だった家臣が次々と離反、投降します。そうした家臣団の中で、金丸氏の一族は、4男金丸助六郎定光、5男土屋惣蔵、7男秋山源三は、最後まで勝頼に付き従い、天目山で討ち死にしました。

西野姫のお経塚

西野の武将、明慶院には西野姫と呼ばれる美しい娘があり、武田信虎に嫁ぐことになっていた。しかし、敵対する大井氏に一族が滅ぼされたため、西野姫は尼僧となり、お経塚で一族の菩提をとむらったと伝えられる。
お経塚は明治時代に開墾され、現在は畑地となっています。

西原五輪塔群

西野西原の円通寺北西には、妙慶院と西野姫の供養塔と伝えられる五輪塔と宝篋印塔がある。
西野周辺の遺跡分布と地層を見ると、地質は旧御勅使川の氾濫による砂礫や粘土層の堆積が見られ、遺跡はあまり発見されていません。しかし西原の五輪塔群に見られるように、西野集落では室町時代の石造物を見ることができます。
戦国時代には御勅使川の流路が北へ移動したため土地が安定し、開発が進んだと推測されます。

法善寺

真言宗の寺院。武田氏の氏神武田八幡神社の別当を務め、武田氏の戦勝祈願寺でもあった。信玄が自筆し法善寺へ奉納した和歌百首は文化8年(1811)の火災で焼失したが、焼失前に筆写された木版本が残る。


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池のほとりには 山梨県指定文化財の鐘楼があります。
周辺は、御勅使川扇状地の伏流水に恵まれ、古代から水田が開かれ市内でも最も遺跡の分布が濃い地域のひとつです。
法善寺の北側では起源がはるか中世以降に遡る「十日市」
が毎年開かれており、この地域が昔から人の行き交う、とても
栄えた場所であったことも伝えています。

妙太寺

牛頭天王の廃祠を天正年間、武田家家臣の原大隈守が本堂を建立し再興したと伝えられる。


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古長禅寺

臨済宗寺院。信玄の母、大井夫人の菩提寺であり、夫人の墓がある。もともと長禅寺と称するが、後に甲府に長禅寺が造られたため古長禅寺と称するようになった。母とともに信玄も、時の住職、岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)に深く帰依し、「信玄」の法号も岐秀が授けたものと言われる。県指定史跡。


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本像、夢窓国師坐像は椅子上に座禅を組む姿勢をとり、法衣を垂下させている。
 坐高82.5cm、材質は桧材を用いた寄木造、挿首、玉眼をはめ込み黒漆塗りが施され、頭頂はとがり、細面の容貌やなで肩など国師の特徴をよくふまえている。穏やかな表情でありながら、禅僧としての気構えや峻厳なまなざしに気迫さえ感じる。天保7年(1836)に加修の銘札が胎内に納められている。
 『天保七丙甲六月○日 
  此尊像経幾百星故漸々破壊
  奉恐不忍拝見欽奉加修理者也』
  国重要文化財。
夢想国師は庭園つくりの名人としても知られています。京都の有名な寺院や山梨の恵林寺など名園は全国各地にのこります。
古長禅寺の庭園も夢想国師の作とされています。

古長禅寺のビャクシン

古長禅寺は正和5年(1316年)に夢窓国師が本尊釈迦如来を安置、禅刹を興したことに始まるとされています。
このビャクシン自生地は「お釈迦堂」と呼ばれており、開山当時四天王をかたどり、旧客殿前庭の四隅に約十メートルごとに植樹され、通称「夢窓国師手植えの四つビャクシン」とも呼ばれています。その伝承から、樹齢約700年といわれます。


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お寺自体が県指定の史跡、納められた像が国の重要文化財、ビャクシンが国指定文化財(天然記念物)という古長禅寺は、南アルプス市の中でも最も歴史豊かなお寺のひとつといえるかもしれません。

深向院

天長年間、弘法大師創建と伝えられる寺院。武田五郎信光が再興し、天文年間に武田家の重臣であった跡部大炊介が真言宗寺院を改宗して現在の曹洞宗寺院を建立した。


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本尊の釈迦如来挫像 県指定文化財。

跡部大炊介屋敷跡(了泉寺)

 跡部大炊助勝資(生年不詳)は、武田家家臣団の中で最も多くの朱印状を奉じ、外交、内政ありとあらゆる分野に関わった官僚でした。
 信玄、勝頼の二代にわたり、主君の間近に控える側近として活躍しましたが、天正十年(一五八二)武田家滅亡の際に勝頼に従って討死したとされます。


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 現在の南アルプス市大師周辺を拠点とし、江戸時代の地誌『甲斐国志』には了泉寺の項に「跡部大炊介ノ屋敷迹ヲ寺ト為スト云フ」とみえ、現在の了泉寺がその屋敷跡と伝えられています。
 この他、勝資はかつて真言宗であった宮沢の深向院を、曹洞宗寺院として再興したことでも知られます。
※なお、一部新聞報道において音声ガイドが聞こえるとありましたが、音声ガイドは現在準備中ですのでまだご利用できません。

河村下野守屋敷跡(常泉寺)

東落合の常泉寺は、武田勝頼に従い天目山で自害した河村下野守道雅の屋敷跡と伝わっている。寺は、道雅の妻が亡き夫の菩提を弔うために建立したと言われ、河村家ゆかりの阿弥陀如来なども伝えられている。


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武藤三河守屋敷跡

阿弥陀寺は武藤三河守ゆかりの寺院といわれ、以下、武藤家の詳細、武藤家の養子であった真田昌幸についてご紹介します。
真田(武藤)喜兵衛尉昌幸と弥陀寺

大坂冬の陣において、大坂城にいわゆる「真田丸」を築き奮戦したことで知られる真田信繁(通称幸村)の父昌幸は、真田家の三男でしたが信玄の信頼厚く、当主の夭折した武田親類衆の武藤家を継いだのです。

 昌幸は天文十六年(一五四七)出生。永禄四年(一五六一)の第四回川中島戦で初陣を果たしたといいます(十五歳)。武藤の名跡を継いだ時期は不明ですが、史料には元亀三年(一五七二)から武藤喜兵衛尉とみえます(二十六歳)。その後天正三年(一五七五)長篠合戦で真田の長男信綱、次男昌輝が戦死したことを受けて、真田に復姓しました(二十八歳)。慶長十六年(一六一一)没。享年六十五才。
 戦国期の武藤氏は、武田信玄の生母大井夫人の実弟で大井信達の息子、優れた歌人としても知られた三郎左衛門尉信堯が、絶えていた武藤の名跡を許されたことに始まるといいます。武藤氏の本拠は、現在の南アルプス市落合~荊沢周辺と考えられることから、養子時代の昌幸が南アルプス市内に暮らしていた可能性は高く、若き日の昌幸と南アルプス市のゆかりをうかがうことができます。
阿弥陀寺は、武田家の奉行を勤め、昌幸の後に武藤を継いだとされる武藤三河守が、甲斐源氏加賀美遠光の崇敬した阿弥陀堂を整備したものといわれ、武藤氏の菩提寺です。
※なお、一部新聞報道において音声ガイドが聞こえるとありましたが、音声ガイドは現在準備中ですのでまだご利用できません。

名取将監の墓

武田信虎に仕えた有力な武将だったが、忠言が疎まれて遠ざけられ、芦安地区に住んだと地元で語り伝えられる。住居があったとされる場所は現在でも「殿屋敷」と呼ばれ、大曽利(おおぞうり)地区大宝寺(たいほうじ)に墓がある。

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名取将監は、文献などにあまり出てこないなぞの多い人物です。芦安地区大曽利にある妙定寺周辺は殿屋敷と呼ばれ、名取将監の住居跡と伝えられています。
Mなび7「山への信仰と伝説に彩られた山里を歩く」
大宝寺・名取将監の墓にも詳しく載っています!!

堀切

韮崎から続く竜岡台地を信玄が掘り抜いたとの伝承が残る水路。近年では御勅使川の水流によって、自然に掘りぬかれたとする説もある。人為的にせよ、自然にせよ、堀切北東に隣接する御座田(みさだ)遺跡の発掘調査によって、すでに13世紀には、堀切が存在していた可能性が指摘されている。


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江戸後期にまとめられた地誌「甲斐国志」には、『御勅使扇状地扇頂部の駒場、有野に「石積出」と呼ばれる堤防を築いて流れを高岩のある北東に向け、六科に将棋の駒の形をした石積みの堤防「将棋頭」を築いて水の勢いを前御勅使川と新たな御勅使川のルート二つに分ける。さらに下流にある下条南割の岩を掘り切って河道を作り、釜無川との合流地点に十六石と呼ばれる大石を置いて御勅使川の流れを弱め、高岩の手前で釜無川と合流させ、さらに竜王に信玄堤を築いて中郡を守る』と記されています。

将棋頭(六科水田)

将棋頭は、その名のとおり将棋の駒に見立てられた石積みの堤防で、国の史跡に指定されている。武田信玄が築堤し、御勅使川の流れを分流したと伝えられてきたが、史料的裏付けがなく初現は不明である。


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現在は北側の堤防のみ地表に残され、国の史跡に指定されている。
将棋頭は本来、徳島堰から将棋頭の堤内に導水して作られた旧六科村の水田とその下流の村々である野牛島や上高砂村まで守る役割を果たしていた。
現在も将棋頭の東側には徳島堰の水で育まれた棚田状の水田が広がり、秋には黄金色に染まる。御勅使南公園からのウォーキングがお薦めのコース。
発掘された御勅使川右岸を守る二番堤。上部は戦後の砂利採取のため削平されていたが、堤防の基底部が残されていた。堤防の基礎を守る根固めにはこぶし大の石を詰めた捨石が用いられている。
発掘された御勅使川右岸を守る一番堤。上部は戦後の砂利採取のため削平されていたが、堤防の基底部が残されていた。一番提の石積みの土台には不均等に石が沈まないように梯子土台が用いられ、さらにその木枠を、もう一列延ばして木枠の間に人頭大の石を積め、根固めとしていた。

仲田遺跡

中世の水田跡。水田に規則的に並ぶ足跡も発見された。水田は砂礫層をはさんで何層か発見されており、そうした堆積状況は、御勅使川の洪水によって砂礫で埋ってはその上に田んぼが作れてきた水害と復興の歴史を物語っている。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
水田に残された足跡。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
野牛島地区の氏神である旧諏訪神社から赤山の上に建てられていた赤山社を結ぶ参堂も発見された。現在野牛島集落の中心にある諏訪神社は、もともと能蔵池の北側にあったと言われ、その跡地に石碑が建てられている。

野牛島・西ノ久保遺跡

西に大塚遺跡、南に野牛島・大塚遺跡、東に石橋北屋敷遺跡に囲まれた遺跡。古墳時代前期や奈良・平安時代、中世の集落跡。遺跡内の小さな谷底から破片どうしが融着し形が歪んだ須恵器の大甕片が出土し、遺跡周辺に須恵器窯が存在する可能性が指摘されている。また注目される遺構として、炭焼の平窯や和鏡が副葬された土坑墓、中世の道路跡なども発見されている。


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生産遺跡と礫郭墓、和鏡
平安時代後期の住居跡からは雁又鏃が発見され、また炭焼窯や、平安時代末期の礫で囲んだ墓坑からは和鏡が発見され。生産や特殊な身分を示す遺構が特徴となる。
礫郭墓に副葬された和鏡(直径8.2センチ)
鏡の文様は格子文のなかにひとつひとつ「星梅鉢」を施し、
またスズメが2羽描かれている。県内でこの時期の墓から鏡が出土
する例はきわめて少なく、鏡を副葬できるほどの有力者が野牛島周辺に存在したことが物語れる。
また鏡は魔除けの役割を果たすとともに、女性の化粧道具であるため、埋葬されたのは女性かもしれない。
平安時代の炭焼き窯
遺跡内の浅い谷底から発見された須恵器の甕。形はゆがみ、窯体の一部が融着することから、廃棄された失敗作であると考えられ、この付近に須恵器の窯があったことが推測される。

野牛島・大塚遺跡

奈良・平安時代から中世までの集落跡。奈良・平安時代の住居跡は現在の甲西バイパスより西側に広がるのに対し、中世の溝跡や土坑墓はより能蔵池に近いバイパスの東側を中心に発見されている。野牛島集落の発祥は能蔵池北側であるとの伝承があるが、遺跡の調査結果からその伝承は中世以降能蔵池周辺に集落が移動した後の状況を伝えていると考えられる。写真は平安時代の住居跡。


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野牛島・大塚遺跡第2地点は能蔵池の西に隣接している。調査の結果、中世の溝跡や土坑墓が発見された。
野牛島・大塚遺跡第2地点で発見された能蔵池へ続く道路跡。
野牛島・大塚遺跡第2地点で発見された土坑墓。北を頭にし、屈んだ姿勢で埋葬されている。棒状の鉄製品と六道銭が埋葬されていた。

石橋北遺跡

野牛島・大塚遺跡、野牛島・西ノ久保遺跡と隣接した遺跡で、奈良・平安時代から中世までの集落跡が発見されている。とくに注目されるのは、中世の遺構である。13世紀の竪穴建物2軒、14世紀代の幅約4mで東西に走る両側に側溝をもつ道路跡やそれに並んで区画溝が発見されており、この時期に計画的な土地開発が行われた可能性が指摘されている。また16世紀後半の土坑墓も発見されており、この地域が墓域へ移り変わった変遷も明らかとなっている。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
14世紀~15世紀の道路跡。幅は約4m。両側に側溝が掘られている。道路の東側には能蔵池が位置している。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
中世の土坑墓。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
出土した中世に使われた土器。囲炉裏にかけられた内耳鍋やすり鉢、かわらけや灯明皿などが発見された。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)

村北第2遺跡

現在の鏡中条地区と下今井地区の間に位置する。50㎡の小規模な調査ながら、平安時代の住居跡1軒と中世の土坑慕が発見された。それぞれの墓には六道銭とよばれる銅銭が6枚ずつ埋められ、片方の墓にはその他に香炉や土器が一緒に副葬されていた。
1号土坑墓出土土器
出土した歯と六道銭

二本柳遺跡(甲西バイパス地点)

法善寺の塔頭(たっちゅう)「福寿院」の西側に位置する。中世の水田とともに溝によって区画された戦国時代の寺院跡が発見され、「福寿院」が東側へ広がることが明らかとなった。寺域内からは火葬骨を埋葬した木棺が出土。木棺には梵字や真言の偈文(げもん)が墨で書かれ、その内容は当時の葬送の手順を書いた元興寺極楽坊所蔵の『入棺作法』の内容とほぼ一致している。こうした状況から、寺院と関係した人物が葬られた可能性が高い。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)


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木棺の蓋を開けたところ。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
木棺墨書(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
寺域内の井戸からは、兜の飾り金具が出土。この飾り金具は、長野県下伊那郡阿智村長岳寺に伝わる武田信玄の前立てと極めて類似している。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
発掘調査風景。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)

二本柳遺跡(農道地点)

「法善寺境内図」によれば、近世の法善寺の周囲には20を超える塔頭があり、壮大な規模を誇っていた。発掘調査の範囲は、その中でも一番大きな塔頭である「福寿院」の一部で、戦国時代の土器や木製の卒塔婆、五輪塔、石臼などが発見された。土器の中には僧侶の名前と思われる文字が墨書されたものもある。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)


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出土した戦国時代の土器。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
調査風景。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)

椿城跡(上野城跡)

上野の地に小笠原長清の孫盛長によって築かれた城で上野城といい、周りに椿の花が多かったことから別名椿城とも呼ばれています。
 鎌倉時代のもので、細長い台地の上に堀や土塁で各スペースが区切られていたもので、石垣や天守閣があるようなものとは違います。堀や土塁の位置はレーダー探査によっておおよその位置が把握されています(写真)。
 周辺には地下式坑といって地下室が転々と造られており、時々陥没することから椿城には秘密の抜け穴があると伝えられてきました。市指定史跡。
(語り部:平成23年度櫛形西小6年生)
櫛形山の東麓に発達した市之瀬台地の上にあって、北に市之瀬川、南に堰野川によって、はさまれた細長い舌状台地の上、標高410メートルに立地しています。台地先端では比高差役100メートルの崖線をもって扇状地と接して、眼下には甲斐源氏小笠原家の本拠とされる南アルプス市小笠原があります。
携帯電話やスマートフォンでは音声ダウンロードの際に別途パケット料金が発生します。定額制の料金プランをおすすめします。

椿城跡(本重寺)

朱色に光る屋根が特徴の本重寺。もともとは本覚寺といい、鎌倉時代、秋山光朝の子とされる光定によって建てられた日蓮宗のお寺です。
 光定が日興上人から譲り受けた板本尊(いたほんぞん)は市の文化財に指定されています。武田晴信の母大井夫人の父親でもある大井信達(のぶさと)の法名が「本秀院」とあることから、寺院名を変える際に本重寺としたと伝わります。
(語り部:平成23年度櫛形西小6年生)
携帯電話やスマートフォンでは音声ダウンロードの際に別途パケット料金が発生します。定額制の料金プランをおすすめします。

椿城跡(五輪塔群)

小笠原長清の孫盛長が城を構えたといわれ、上野盛長と称するようになります。上野家は3代で途絶え、その後は養子を取った秋山家へと移ります。道の北側には代々秋山家が守る五輪等群があります。
また、その後時を経て、武田晴信の母大井夫人で知られる大井一族もこの地にかかわりを持ちます。居城とし、大井夫人が誕生したのがここ椿城だという伝承も有名です。また、大井氏の祈願寺だとする説もあります。本重寺はもとは本覚寺といい、江戸時代前半に現在の名前へと変更しています。父大井信達(のぶさと)の法名「本秀院」から本重寺の名となったとされています。
本重寺の北には、大井一族の五輪塔群もあります。
この周辺の畑をよ~く眺めてみてください。縄文土器や弥生土器のかけらがたくさん落ちてます。でも、手に取ったら、また元の位置に戻しておいてくださいね。
(語り部:平成23年度櫛形西小6年生)
携帯電話やスマートフォンでは音声ダウンロードの際に別途パケット料金が発生します。定額制の料金プランをおすすめします。

八幡寺

 弘法大師創建の伝説が残る寺院。本尊は地蔵菩薩。武田信武も深く信仰したと伝えられる。八幡寺には次の伝説が残されている。

 大師が当寺を建てた時、見なれない童子が毎日来て手伝ってくれた。完成した夜、その童子が夢に現れて言った。「われは若宮八幡の神なり」。これを知った大師は感銘し、本堂の正面に安置し奉った。これによって清水山八幡寺と号することとなったという。


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了泉寺

跡部大炊介の屋敷跡を寺としたと伝えられています。


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重要文化財 安藤家住宅

安藤家住宅は約300年前の建物で、国の重要文化財に指定さています。江戸時代は西南湖村の名主を務めた旧家で、現在まで一度も火災に合うことなく、往時のまま保存されています。
西南湖の集落の中心にありながら、一歩踏み入れた瞬間、静寂に包まれた癒しの空間です。茅葺屋根の江戸時代の豪農の暮らしを今に伝えます。是非ご体感ください。


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■ご利用案内
重要文化財安藤家住宅(国指定文化財) 昭和51年5月20日指定

■ご利用時間
午前9時から午後4時30分(入館は午後4時まで)

■休館日
火曜日(この日が国民の祝日にあたるときは開館し、翌日が休館となります)
祝日の翌日(この日が日曜日、または休日である場合を除く)
12月27日~翌年1月7日

■ご利用料金
大人(大学生以上)300円、子ども(小中高生)100円
団体(20名以上)の場合は大人240円、子ども80円


山梨県南アルプス市西南湖4302
電話番号 055-284-4448
長屋門
1782(天明2)年建造
もともとは武家屋敷を取り巻く家臣の住居という意味合いだった長屋と、門の屋根を一緒にしたもので、中央が出入口になっていて、左右が住居になっています。住居部分には、安藤家で働く人が住んでいました。
主屋
1708(宝永5)年建造
安藤家の敷地は約4400平方メートル、坪数にすると1300坪くらいあります。
屋根は「入母屋造り」という形式で作られています。
大戸口という引き戸から中に入ると、まず土間があります。その他、式台付玄関のある玄関の間、中座敷、奥座敷、居間、祈祷室、納戸などから構成されています。
中門・中潜門
中門は、式台付玄関に続く門です。式台付玄関は、当主と身分の高いお客様しか使用することができませんでした。中門も同じで、家族でも勝手に使うことは出来ませんでした。
式台付玄関
広い玄関。
ここを使うことができるのは、家の主人と公式なお客様だけです。
もともとは武家の正式な玄関で、武士の家には必ずありましたが、普通の民家に作ることは許されませんでした。安藤家のように村の役人をしているような家では、その家の家格を示すためや、公の客を迎えいれるために設けられました。
土間
家族が集う大切な場所です。毎日の食事の仕度をしたり、冬は暖をとる場所にもなりました。
火を焚くことによって出るススは、カヤ葺き屋根や柱の防腐剤となり、家の持ちをよくしました。
火の神様が宿ると信じられていた自在鍵も下げられています。
家の主人が客を迎える正式な場所です。
特別なお客様は、式台付玄関を上り、中座敷を通って直接この部屋に通されました。
広い日本庭園が望め、明るく風通しもよく、家の中で一番上等な部屋です。昔は主人以外の家族はめったに足を踏み入れることができませんでした。
1861(万延2)年の建造
お茶を飲みながら、お客様をもてなす場所です。
茶室の床柱は榎木で、ここに竹の子面という細工が施されています。
竹の子面とは榎木の下のほうを斜めに削り、竹の子のような木目を見ることが出来るようにしたもので、出ている年輪の数が多い方が価値があり、大工さんの腕の見せ所でした。
また、屋根を支える垂木にも一工夫があります。是非お越しいただきご確認ください。
毎年2月3月を中心に「安藤家の雛祭り」を開催しています。市内の方々がお持ちだった江戸時代から昭和までの雛人形を各部屋に展示しています。開催期間は年によって変わりますのでお問い合わせください。
平成26年夏より、スペース貸しも始めました。是非ご利用ください。
スペース貸しについては、上記「重要文化財安藤家住宅」もしくは市教育委員会文化財課まで。055-282-7269

十日市

戦国時代以前から続く伝統の市。
現在も2月の10・11日の両日に開かれ、甲府盆地に春を呼ぶお祭りとして親しまれている。
昔から十日市で売られていないのは「猫の卵と馬の角」と言われるくらい、何でもそろう盛大な市である。
古くは、法憧院の天文3年(1534年)の厨子銘に十日市場の村名が見える。


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「昔は年に2回開かれていた市でした」
江戸時代には旧暦の1月の10・12・14日と7月の10・12・14日の年に2回、合計6日開催していました。
1月の十日市は、お正月の用事や春の農作業の準備のため、
7月の十日市は先祖を迎えるお盆の用事を足すために行われました。
そのため、春正月の十日市はこの世の人のため、秋七月の十日市はあの世(先祖)の人のために開かれたとも言われています。
しかし、いつの頃からか、7月の十日市はすたれてしましました。

※現在は2月10日に開催されています。
これは、旧暦の1月10日が新暦の2月10日辺りにあたることから、2月に行っています。
安養寺に伝わる「鼻採地蔵縁起」という巻物。
この「縁起」は江戸の初めごろ、野呂瀬主税助(のろせちからのすけ)という十日市出身の尾張(現在の愛知)藩士が書き故郷へ奉納したもので、十日市の様子なども記されています。
「鼻採地蔵縁起」とは
ある時、田植え前の田んぼを平らにならす作業(代かき)の時に馬の鼻を取る人(馬の鼻先を竿で誘導する)が居なくて困っていると、安養寺のお地蔵様が童子の姿に身をやつして現れて手伝ってくれたという伝説。
この伝説から十日市場のお地蔵様は鼻採地蔵さんと呼ばれ、
農業を助けてくれる仏様として信仰を集めています。
「十日市が開かれる十日市場は、物流や文化の交差点だった」
十日市場は、静岡方面から富士川を遡ってくる文化と長野方面から富士川を下っていく文化の交差点に位置していて、古代から文化の交流拠点でした。
又、地形的にもちょうど、水に乏しい御勅使川扇状地と、水の豊かな地域との境界線にあり、それぞれの地域の産物を交換するのに都合の良い場所でもありました。
そんな場所だからこそ、ここで十日市が開かれているのです。
「十日市は、安養寺の門前で開かれているお祭り」
意外と知られていませんが、十日市は、実は十日市場の
安養寺に安置された鼻採地蔵「市神地蔵さん」の門前で開かれる
神聖なお祭りでなのす。

十日市に行く前は安養寺の鼻採地蔵さんにも是非お参りしてくださいね!

角力場第2遺跡

版本大毘盧遮那成仏経疏16巻

大日経は金剛頂経と共に密教の根本経典であり、716年インドから唐に来た名僧善無畏三蔵が翻訳した経典である。三蔵はさらにその経典についての講義を行い、それを弟子の一行禅師が筆録したのが経であり、宗教の理論的説明のさきがけをなすものとして仏教学徒の必読の書とされている。法善寺蔵のこの本は世に高野版といわれる本版本であり、巻末の奥書によれば弘安元年(1278年)頃版刻されたものである。


所在地/南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/法善寺
指定年月日/昭和53年3月30日


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大薙刀銘備州長船兼光一振

これは信玄が武田八幡宮に奉納したものであるが、明治初年神仏分離の際、法善寺へ移されたものである。「備州長船兼光」と在銘で長さ四尺六寸身幅一寸五分厚さ四分半もある実に堂々とした大薙刀である。兼光は鎌倉時代の長船鍛治を代表する名工で、初代と二代とがあり、二代の頃には武威を誇示するのあまり三、四尺もある豪刀が全国的に流行した。銘の書体から見たのでは初代か二代か決めかねるが、時代相を反映した雄大な姿から見て二代兼光作と思われる。


所在地/南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/法善寺
指定年月日/平成6年11月7日


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鎌倉時代の古刹 古長禅寺 (ふるさとメール2007年7月17日号)

戦国時代の哀しきヒロイン 西野姫(せいやひめ)(ふるさとメール2007年10月15日号)

信玄を育んだ大井氏の血脈(ふるさとメール2007年11月 1日号)

信玄を育んだ大井氏の血脈(ふるさとメール2007年11月15日号)

芦安の地に来た武将 名取将監(ふるさとメール2007年11月30日号)

南アルプス市域を駆けた武田家臣団 その1■真田昌幸(さなだまさゆき)(ふるさとメール2016年2月15日号)

南アルプス市を駆けた武田家臣団 その2■跡部勝資(あとべかつすけ)(ふるさとメール2016年3月15日号)

南アルプス市を駆けた武田家臣団 その3■原 虎吉(はらとらよし)(ふるさとメール2016年4月15日号)

南アルプス市を駆けた武田家臣団 その4■河村 道雅(かわむらみちまさ)(ふるさとメール2016年5月13日号)

南アルプス市を駆けた武田家家臣 その5■ 土屋昌続(つちやまさつぐ)(ふるさとメール2016年6月15日号)

南アルプス市を駆けた武田家家臣 その6■ 土屋惣蔵昌恒(つちやそうぞうまさつね)武田家と命運をともにした武将(ふるさとメール2016年7月15日号)

信州松本城と南アルプス市をつなぐ二つの物語(ふるさとメール2021年10月15日号)

鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏(ふるさとメール2022年3月15日号)

鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏 その2(ふるさとメール2022年5月13日号)

鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏 その3(ふるさとメール2022年6月15日号)

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