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西野の蚕種屋「甲蠶館」で使用された検尺器と顕微鏡

白根地区西野でかつて種屋とよばれた蚕種家で使用されていた検尺器と顕微鏡。
その前に、この道具を使用した蚕種家についてですが、山梨県蚕糸業概史に記載されている大正14年蚕種製造業者調べによると、山梨県には大正14年に370の蚕種製造業者があり、そのうち現南アルプス市域が含まれる中巨摩郡には23の業者があったようです。
これらの道具は当時の白根地区西野村長谷部家の甲蠶館で使用されていたものです。
もっとも、地域の蚕種業者が活躍できたのは昭和初期まで。『昭和11年頃には蚕種の自家製造と配給を随伴した他県大資本製糸会社(郡是・鐘紡・片倉・東英語・昭栄)の特約取引の進出により(山梨県内の蚕種業者は)古くからの得意先を奪われ壊滅的に』なったとのことで、ちょうどこの頃に、西郡で最も大規模で有名な蚕種家でさえも休業したもようです。(昭和5年生まれの若草地区寺部在住者からの聴き取り等による)


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一般的に検尺器は、製糸会社が使用する場合は生糸の繊度(太さ)を測定するため用いることが多い(450mの生糸が0.05グラムの時、糸の太さが1デニールという単位となる)のですが、蚕種業者が使用する場合は、繭質についての検査に使用するわけですから、主に、繭糸長(1粒の繭から得られる繭糸の長さ)をや生糸量歩(一定量の繭を繰糸して得られる生糸量の歩合)を検尺器を使用して調べていたと考えられます。
 検尺器の枠は一周で112.5㎝と決まっており、100回、200回と回転計によってベルが鳴り、停止させることができるようになっています。
つづいて顕微鏡が2点あります。蚕病にかかっていない蚕種を製造販売するために、顕微鏡は蚕種製造者にとって必需品でした。江戸時代にヨーロッパの蚕糸業に壊滅的な打撃を与えていた蚕の病気(微粒子病)が、明治以降の開国で、日本国内にも脅威が拡がっていたからです。
日本では明治19年に蚕種検査規則が公布され明治20年には体制が整い、(山梨県蚕糸業概史より)、『蚕種製造業者は必ず、産卵した雌蛾について経卵伝染する微粒子病胞子の存在有無を顕微鏡検査し、合格した無毒の蚕種のみを市販する(「日本の養蚕技術」井上元2007年 繊維と工業Vol.63,No.8 )』ようになりました。
さらに、明治44年に蚕糸業法」という法律が制定され、蚕糸業者には母蛾検査が明確に義務付けられ、日本国内におけるの微粒子病対策が徹底されるようになった流れがあります。
こちらの顕微鏡は明治時代のドイツのErnst Leitz(エルンスト・ライツ)社製のもので、箱裏に書かれていた墨書から明治43年に購入したものだと判りました。
ち日本では、高千穂製作所(のちのオリンパス)が大正9年に完成させるまで、顕微鏡はドイツのツァイス社かエルンスト・ライツ社等の輸入品を購入するしかありませんでした。
こちらのものは、大正時代の日本のオリンパス製の解剖顕微鏡です。箱裏の墨書から大正10年9月に購入されたものであることがわかります。高千穂製作所は大正10年よりオリンパスの商標になりますので、この顕微鏡にもその刻印が見えます。
こちらの解剖顕微鏡では、微粒子病の検査ではなく、蚕の卵やふ化直後の様子、その他蚕体器官の観察を主に行っていたのではないかと考えられます。
箱裏の墨書には購入年以外にも情報が書かれていたので読んでみますと、『大正十年九月
胚子調査器求之 甲蠶館』とあります。白根地区西野村長谷部家の蚕種製造販売社の名は「甲蠶館」と称していたことが判りました。西郡(にしごおり)では、明治38年頃から煙草産業が衰退し、蚕糸業へと産業が移っていきますので、「甲蠶館」は、この時期から昭和10年頃にかけて活躍した蚕種家であったと言えると思います。

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