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11.原方

暮らし・産業・文化

柿の野売り籠

「柿の野売り籠」は南アルプス市の果物産業史における重要なキーアイテムです。この資料の大きさは、口径41cm・底径45cm・高さ43cm。にしごおりの人々が、渋抜きした柿を入れ、担いで売り歩いた際に使用しました。籠の内部は、柿の渋が染みて黒くなっています。
 大正時代のはじめまでは、秋になると、渋抜きした柿を籠に入れて担いで、釜無川や笛吹川を渡って行商に出たにしごおりの人々。稲刈りをしているところに行って、柿を売ったり、籾と交換することで、生活を支えていました。
[展示された柿の野売り籠(天秤棒なし)十五所澤登家より寄贈・南アルプス市文化財課所蔵]


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市内白根地区にお住まいの小野さん(昭和10年代生まれ)から、大正時代までに地域で行われていた、一般的な柿渋の抜き方や、野売りに使用された柿の種類についてなど教えていただきました。
 『野売り籠に入れて売り歩いた柿は小粒の渋柿だったので、渋抜きをしなければならなかった。味噌桶に柿を八分目か九分目位きれいに並べて詰めるのと並行して、42~45℃の大量の湯を風呂樽を使って沸かした。
そして、柿を並べた味噌桶の中に湯を一気にかぶるくらいに入れ、上に木の蓋をしてから蓋の上や周りを菰(こも)や布団で覆って保温すると、1日か2日間で渋が抜けて、柔らかすぎずにちょうどよい舌触りの小粒で甘い柿になった。(西野小野捷夫氏談)』
[柿の野売り籠の画像(西野功刀幹浩家所蔵)]
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『かつて、西郡の行商人が売った柿は、みな小ぶりの渋柿品種で、「イチロウ」「ミズガキ」「イチカワビラ」「カツヘイ」などだった。小さな子供が手に持って食べるおやつにちょうど良く、甲州百目のような大きな柿でも渋を抜いて作ることはできたが、小さな渋柿を加工したものがよく売れた。(西野小野捷夫氏談)』とのことです。
 勝平(カツヘイ)という品種は白根地区西野の芦澤家に原木(現在は無い)があった現在の南アルプス市固有の品種です。
 大正時代に入り、果実の出荷組合が結成されたり、甲府に青果市場が整備されてくると、籠を担いだ行商人による野売りは急速に無くなりました。そして、行商用の100~150gの小さな柿の栽培も衰退しました。
 現在の南アルプス市で栽培されている加工用の渋柿は刀根早生(トネワセ)、平核無柿(ヒラタネナシカキ)、甲州百目(コウシュウヒャクメ)、大和百目(ヤマトヒャクメ)など比較的大きな柿が主流ですから、野売りという販売形態の終焉とともに、商品となる柿の大きさや品種も大きく変化して現在に至る点は興味深いですね。
[江戸時代から大正初期までのにしごおりの行商人が野売りした柿の品種(西野小野捷夫氏撮影)]
西郡果物の軌跡は「柿の野売り」による行商活動が出発点です。
古来より、砂、砂利、礫、粘土に覆われたにしごおりの原七郷(桃園・沢登・十五所・上今井・吉田・西野・在家塚・飯野・上八田・百々・小笠原)では、その恵まれない自然条件下によるギリギリの土地利用のなかで、最大限の効果を挙げようと努力する人々の姿がありました。
柿などの作物を加工したり、売る時期をずらすなどして、商品価値を高め、農閑期に村外まで売り歩く行商によって、村の生産力以上の人口を維持してきたのです。
南アルプス市域で最も古くから盛んに作られた果物は、この行商用商品として加工するための柿でした。
 行商の商品として「にしごおり果物」を生産したことは、明治以降に当地で勃興するフルーツ産業に、様々なプラス作用を及ぼしました。商機があればどこにでも出かけていく、風の如く機敏なフットワークと開拓心によって磨かれた、にしごおり行商人たちの経済観念の強さは、市場の動向にもまた機敏な果物栽培を初期段階から実現し、現在の南アルプス市における独創的なフルーツ産業の在り方へとつながっています。
[柿渋が染みて内部が真っ黒になっている展示中の野売り籠(十五所澤登家より寄贈・南アルプス市文化財課所蔵)]

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