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メロンのガラス温室

この写真は昭和9年頃に西野で撮影されたメロン栽培用の温室内での一コマです。
立派なメロンにそっと手を添えている少年はその時、2歳6か月だった功刀幹浩さんです。
ちっちゃなあんよに不釣り合いな大きな下駄もかわいらしいですね。
その後ろで、幼い幹浩さんの背中をやさしく支える男性は、当時功刀家で働いていた文貴男さんです。撮影したのは幹浩さんの父で、温室栽培を南アルプス市に初めて導入した功刀七内という人です。

[画像:個人所有]


○博アーカイブはこちら
かつて市内で行われていたメロン栽培について、昭和6年生まれの功刀幹浩さんにお聴きしました。

戦前まで南アルプス市で大規模に行われていたメロン栽培は西野が発祥です。幹浩さんのお父さまである功刀七内氏が大正13年秋、愛知県の清州試験場に温室栽培を学びに行ったのがきっかけでした。
七内氏はその1か月の研修中にガラス製温室を設計図に作成して西野に帰宅し、さっそく翌年の大正14年3月にはじめてのガラス温室(30坪)を現南アルプス市西野字池尻に建設しました。

[画像:個人所有]
大正14年建設の30坪の葡萄(マスカットオブアレキサンドリア)用温室は一番右側のひとまわり小さなもの。
この中の葡萄の木の下に置かれたサンマ樽が西野メロン栽培のはじまりです。
右側奥にみえる煙突は、昭和2年設置の石炭を燃料とするボイラーの煙突。
このようなメロン栽培用の温室群が戦前まで白根地区各地で見られました。

幹浩氏の思い出によると、ボイラー室では、雇人二人が交代で24時間の番をしていたそうで、幼い幹浩少年はメンコをあぶって強くしようという目的もあり、よく遊びに行ったそうです。

実は、このガラス温室は、当初はメロン用ではなく、岡山で成功していたマスカットオブアレキサンドリアという葡萄の促成栽培を目指すために建てられたものでした。
しかし、ガラス温室が完成した直後に植えた葡萄の苗木が育ち、結実するまでには2~3年はかかってしまいます。
その間に見込めない収入を埋められないかと考えられた方策が、同じ温室内で行うメロン栽培だったのです。七内氏は愛知での研修で成長の早いメロン栽培も学んでいました。
サンマの入っていた樽を鉢に転用して土を入れ葡萄の苗の間に置き、メロンの苗を一本ずつ植えたのでした。

その三か月後には立派に実ったメロンを東京の有名なフルーツパーラーに出荷したところ大好評で、七内はメロン栽培の有利性に気づきます。
当時、30坪の温室で600円ほどの建設費が必要でしたが、単価の高いメロンは、栽培がうまくいけば一回の収穫で温室の建設費がまかなえるほどの収入がありました。
さらに、功刀家では、昭和2年に加温用のボイラーを取り付け、年に3回の収穫ができるようになっていました。
七内さんは抱えきれるだけのメロンを持って中央線に乗り、東京の市場に毎日運んで販路拡大にも奔走したそうです。

大正14年に西野の功刀家からはじまった温室メロン栽培は、その収益性の魅力によって、近在の農家に瞬く間に広まり、昭和14年をピークとする急激な温室建設ラッシュが起こりました。
「桑畑の中の光る建物」「朝の西野はまるでダイヤモンドで飾った村だ」「木綿煙草で知られた里も今じゃメロンで名が高い」などといわれたのもこの頃です。

[画像:個人所有]
メロン栽培用のため池や水道を設備したり、冬になると、毎年入れ替える必要のある土を男たちがハウス内から出し入れする姿が頻繁に見られました。

しかし、大東亜戦争の戦況悪化に伴い
①男手も少なくなる一方 

②ときは食料増産体制真っただ中で、ぜいたく品は作りにくい情勢

③温室は光って目印や標的になりやすいことから多くのガラスが外されて軍需工場他に供出 
以上①~③のような理由でメロン栽培は急速に縮小し、途絶えました。
戦後になっても、西野以外の市内各所で昭和時代終わりころくらいまで小規模に行われるのみでした。

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