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11.原方

暮らし・産業・文化

雨とサクランボ

かつて、収穫時に雨が降るとどんなに大変だったかを何人もの人から聞きました。

その中のお一人で、サクランボ栽培者の相川泉さん宅に、これまでの雨との闘いの歴史を教えてもらいに行きました。(平成30年9月7日訪問撮影)
色づきはじめた桜桃の実に雨粒が当たったり、降雨で土壌の水分量が急増すると、桜桃の実は瞬く間に破裂して、腐りはじめてしまいます。
相川さんによると、「サクランボはとてもとてもデリケートで微妙な作物。桃やブドウより難しい。」といいます。
しかも、寒いところが適すので、栽培南限の山梨では基本的に気候が合わず、さらにさらに難しくてリスクが大きいのだそうです。

桜桃は夏の間に花芽の分化をしており、猛暑で乾燥と高温だった場合の翌年のさくらんぼは高温障害が出て、出荷できない双子果が多くなりますが、農家にはどうしようもありません。
さらに、サクランボの実をもぐときにも細心の注意をしないと翌年に実がつかなくなってしまうので、サクランボ狩りで素人が収穫するのも大変なリスクがじつはあるそうです。

そして、一般的に「なりどし」と「うらどし」があるといわれています。南アルプス市ではそんなに大変で気難しい桜桃の栽培を、どんな知恵と工夫で乗り超えたのでしょう? 

昭和40年代はじめまでの桜桃には、まだ人工授粉や雨除け対策というものはされておらず、自然環境に左右されましたが、当時はまだ殺虫剤をそれほど使用していなかったので、花粉を媒介する虫も数多くおり、自然授粉でも大丈夫だったそうです。

[画像:個人所有]


○博アーカイブはこちら
山梨県果実連史によると、 昭和40年頃、「雨除けテント」なるものが出現しはじめます。
このテントは樹ごとに巻き上げ式の三角屋根を設置したもので、雨が降り始めると人間が急いで駆け付け、桜桃の木の上に開きました。

山梨県南アルプス市では、昭和40年代半ば頃には雨が降り始めると、黄色い雨除けテントが桜桃畑に林立し、「初夏を告げる西野のテント村」などと新聞で報道されたそうです。
 
雨除けテントは「コーボーシ」とも呼ばれていました。相川氏によると、「降雨防止」が「コーボーシ」と訛ったものだという。それがいつしか降雨の際は「はやくコーボーシしろし!」となり、コーボーシがサクランボの木の上に広げる高い帽子と解釈され、「高帽子」という当て字だと誤解されるようになったという顛末。
いまでも「昔は雨が降ると急いでサクランボにコーボーシしたじゃんね」とかいうのを耳にする。

しかし、降雨に応じていちいちテントを開閉する作業は大変なことで、西野巻屋地域での聴き取り調査では「家外の庭に鉄板を置いておいて、「ポトン」と一粒でも雨の落ちる音がしたら、急いで畑に走ってサクランボの木の上に三角屋根を広げに飛びだしたものだ」という話を聞きました。
家屋内で家事をしていても、寝ている夜中でも、サクランボの収穫時は気が抜けなかったそうです。
降雨による被害を抑える対策をしたことで、桜桃の商品化率は飛躍的に向上しました。

さらに、その頃、スピードスプレーヤーなどの普及によって殺虫剤の効果的な使用がなされるようになり、減少した昆虫による自然授粉のみでは結実する実が少なくなってしまうため、人工授粉の試みが試験場ではじまっていました。
この人工授粉の技術は、ビニールハウスの中で桜の木を育て、外気を遮断したハウス内を加温して促成栽培を行おうとする農家にも不可欠な技術でした。
南アルプス市西野地区では、昭和54年(山梨県果実連史記載)に相川泉氏、小野捷夫氏、功刀徳重氏が日本のどの場所よりも早く、ビニールハウス内で促成栽培した桜桃を露地ものの1カ月も早い4月半ばに東京の市場に出荷したところ、大評判になったそうです。

その促成栽培桜桃を出荷した一人である相川氏によると、「初夏のはしりを象徴し希少価値を強調するために、その頃には普通に流通していた段ボール箱をやめてわざわざ桐の箱に4キロ入りを詰めて出荷した。赤い宝石の扱いで、ひと箱当時で1万円から1万五千円くらいで売れた」とのことでした。
[画像:個人所有]
しかしその後、昭和53年からはじまっていた北米産のサクランボの輸入自由化、昭和54年第2次オイルショック以降の影響等により、促成栽培による付加価値は一時の夢のように失墜し、その後は少量での小分けパック販売が主流になっていきました。

打開策として、昭和50年代半ば、相川泉氏は地元の斉藤農機と協力して加温用のビニールハウスの骨組みを利用して、新しいサクランボの栽培設備を整えます。
この加温はしないが、降雨対策を容易にし、さらにサイドをネットで覆って鳥害を防ぐことで、木になった実を無駄にすることなく最大限に(結実果の90パーセントが)商品化する設備「サイドレス」は旧白根地区内に次々と建設され始めました。

経費は加温ハウスが1棟500万円のところ、サイドレスは150万円で済みました。「サイドレス」は露地ものでも雨除けテントを開閉するための労力が削減でき、鳥の害も防げて安心、設備費用も削減できました。
もともと露地ものでは本場の山形県産よりは2週間ほどはやく収穫できていたのですが、今度は量を確保できることが強みとなりました。
この後、サイドレス施設は瞬く間に周辺地域に広がりを見せます。(このサイドレス設備はその後桃やすスモモの栽培にも応用され、今日の南アルプス市の果樹栽培の技術を支えてもいる)
←西野長谷部家のサイドレス(平成30年6月11日撮影)さらに、西野農協では、サイドレス設備がサクランボの実への雨除けになるだけでなく、樹の下でサクランボを収穫する人間への雨除けとなることから、雨の日でも気にすることなく楽しめるという触れ込みで、1983年昭和58年に西野農協管内のサイドレス施設を持つ農家を利用して観光サクランボ狩りを本格的に開始するという展開を見せました。

南アルプス市はその後、平成30年現在に至るまで、初夏になるとサクランボ狩りを目的に、関東や中部方面から訪れる多くの人々でにぎわう、果樹観光産業都市となっています。

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