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種別・テーマで選ぶ - 昔の道具

アヤメが丘団地(六科丘遺跡)

丘を削平して新たに誕生した住宅街で、昭和58年、開発に伴い発掘調査がおこなわれました。今から約1700年前の弥生時代終末~古墳出現期のムラの跡です。二つの河川に挟まれた舌状台地は先端で丘状に高まり、その丘の南西面に竪穴住居が建てられており、同じ舌状台地上でも長田口遺跡と向き合う位置関係となります。約25,000㎡を対象とした発掘調査ではほぼムラの全貌が調査され、33軒の竪穴住居が発見されました。

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昔の山のくらし

古から現代まで、芦安のくらしは山とともにあった。芦安の主要な生業は昭和30年代頃まで林業で、男性は野呂川などの奥地に入り、泊まり込みで木材の伐採から搬出を行い、冬期には炭焼きなどを行ってきた。女性は日用品を男性に届け、帰りには約40kgもある炭俵などの生産物を里まで運搬した。里近くの山の斜面では明治期まで焼畑が行われていたが、現在では集落名「曽利」にのみその面影を留めている。村田銃を使った熊や鹿、カモシカなどの狩猟も盛んで、カモシカ猟のパートナーとして甲斐犬が活躍した。

[画像:個人所有]

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竹蛇籠 ~現代に残る伝統の治水の技術~(ふるさとメール2009年1月1日号)

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飯野のそろばん教室

白根地区飯野に、昭和30年代から開塾しているそろばん教室に資料を見せていただきにまいりました。

そろばん教師の相川さんは全国的な和算の研究会にも所属され、そろばんに関するありとあらゆる資料を収集されている有名な方です。
かつて習い事は「お習字かそろばんか」という時代が長く、そろばん教室が各地で盛んに開かれてました。
相川さんのお話によると、明治以降に東京などの都会に出て一旗揚げたいという人も、まずは「読み書きそろばんを身に着けてから」でないと話にならなかったとのこと。
戦後も個人で使える電子計算機のなかった時代、金融機関でも行員がそろばんを使っていた昭和30年代には、複数の場所に教場を持っているような大手のそろばん塾が現在の南アルプス市内に5~6軒ほどもあったそうです。

昭和50年代になり、ピアノや水泳など習い事の選択肢が増えたきたころから、そろばん教室の状況はかなり変化してきたようですが、相川さんが開いていらっしゃる飯野にある珠算学院には、現在も小学生を中心に生徒さんが元気よく通っていらっしゃるとのことでした。


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幻のオート三輪~人と人がつながり50年ぶりに中野を走る~(ふるさとメール2018年12月14日号)

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ひしけいさんの問屋そろばん

「ヒシケイさん」と呼ばれて地域に愛され、現在も飯野で開業している街の文具屋さんですが、その前身は自転車の販売店でした。

当時を知る斉藤さん、中澤さんにその頃の様子を伺ったところ、昭和20年位(終戦直後)までは地域で一つしかない自転車屋さんだったそうです。
その時、自転車を購入したお客さんに、おまけとして「ゼブラの自転車 ヒシケイ分店 飯野驛北」の名入りの問屋そろばんを配っていました。


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瓦を焼いただるま窯

 八田地区榎原の中沢製瓦店跡には、瓦を焼くために、大正時代に造られただるま窯が現存しています。
製瓦業が大正から昭和時代にかけて盛んであった南アルプス市域ですが、大正時代に造られただるま窯が、原型をとどめたまま現存しているのはここだけです。

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綿が奏でるにしごおりの暮らし(ふるさとメール2022年1月17日号)

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西野の蚕種屋「甲蠶館」で使用された検尺器と顕微鏡

白根地区西野でかつて種屋とよばれた蚕種家で使用されていた検尺器と顕微鏡。
その前に、この道具を使用した蚕種家についてですが、山梨県蚕糸業概史に記載されている大正14年蚕種製造業者調べによると、山梨県には大正14年に370の蚕種製造業者があり、そのうち現南アルプス市域が含まれる中巨摩郡には23の業者があったようです。
これらの道具は当時の白根地区西野村長谷部家の甲蠶館で使用されていたものです。
もっとも、地域の蚕種業者が活躍できたのは昭和初期まで。『昭和11年頃には蚕種の自家製造と配給を随伴した他県大資本製糸会社(郡是・鐘紡・片倉・東英語・昭栄)の特約取引の進出により(山梨県内の蚕種業者は)古くからの得意先を奪われ壊滅的に』なったとのことで、ちょうどこの頃に、西郡で最も大規模で有名な蚕種家でさえも休業したもようです。(昭和5年生まれの若草地区寺部在住者からの聴き取り等による)


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にしごおりの「糸つむぎ唄」

明治時代に綿産業が盛んだったにしごおりには、「糸つむぎ唄」という労働唄が伝わっています。当時家庭の女性(母親)は日中の家事を終えると、夜な夜な家族が使う衣服などをつくる糸を綿から紡ぐ作業をしていました。そうした夜なべ仕事は、家族団らんのひと時でもあったのではないでしょうか。


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内国勧業博覧会に出品された南湖の綿

山梨県下一のブランド、「奈古白布(なごのはくふ)」。「奈古(胡)」とは、現在の南アルプス市域南部の甲西地区南湖(なんご)のことを指します。
 南アルプス市には、栽培した綿の実から種を取り除く道具である「実繰り(みくり)・綿繰り」などと呼ばれるもの、また種を取った綿から回転する動力を使って糸を紡ぎ出す作業を行う「糸車」、この二つの民具を中心に綿仕事関連の民具が数多く残されています。特に県下一の綿の産地、甲西地区ではどの家にも一台ずつは持っていた道具だったのでしょう。


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縞見本帳から見える明治の女たちの生活

縞見本帳(しまみほんちょう)とは、縞織物の端切れを貼った帳面です。女たちが家族用に作る手織りには、縞の太さや配色の組み合わせにより無数のデザインが可能であるため、着る人の性別・年齢・着用場面に合わせて、様々な縞柄が各家で生みだされました。織った縞は、反故紙を綴じた帳面に貼って見本帳として、次に織る時の覚えにしました。また、良い縞を織った人の縞見本帳は貸し出されたりもしたそうです。


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西郡の呉服屋さんで買えた雛人形

雛人形が入っている箱に地元の呉服屋さんの名前が記されていることがあります。当時の呉服店は、節句人形の販売代理店としての機能も担っていたようで、西郡地域の人々が飾ったお人形は甲府の雛問屋で作られたものに加え、鰍沢の春木屋などの商家を経由して入ってくる駿河で製作された人形も多く流通していたと考えられます。明治大正期に昭和初期頃の西郡の人々が人形を求めるときには、
① 甲府の雛問屋か鰍沢の商家に買いに行く。
② 甲府の雛問屋から「ひなんどー、ひなんどー」との掛け声で、安価な横沢雛を籠に担いでやってくる売子から買う。
③ 初節句の晴れ着などを購入するのに合わせて、近所の呉服屋で売っている人形を買う。
の3つの購入方法があったのだと思います。


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南アルプスブルーの響き~市民が結ぶ藍染新資料との出会い~(ふるさとメール2022年8月12日号)

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にしごおりの人も愛した甲府の雛問屋「松榮斎 松米」

甲府の雛問屋「松米」の引札
甲府の雛問屋「松米」は、江戸時代中期から昭和戦前まで甲府で雛人形や端午の節句飾り、だるまなどを製作して販売した「松城屋」という屋号の雛問屋です。初代から明治の10年代以前は店の通称を「松伝」と名乗っていました。(写真は「松米」の引札『美術 雛人形 ?ニ雛道具各種 甲府八日町 松榮斎松米商店 電話四十六 振替二百三十二番』)
江戸時代から明治、大正・昭和期に存在した甲府の雛問屋は「おかぶと(カナカンブツ)」「横沢びな」「甲州ダルマ」といった独特の在地の節句飾りや雛、玩具を生み出してきました。
 「松伝」・「松米」という通称を持った「松城屋」の店の場所については、江戸中期の初代より甲府横沢町にありましたが、明治期に入って、火事によりいったん柳町一丁目に移転。その後、明治5年から16年の間に代替わりして「松米」と改称し、三日町一丁目九番地に出店。さらに、明治24年頃には八日町一丁目に移転したという経緯が判っています。


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夏りんごの人工着色していた頃

昭和40年代まで市内白根地区の果樹地帯でも多く出荷されていた「りんご」。夏の暑い時期に栽培されることから「夏りんご」と呼ばれ、出荷前には温度と日光の加減を人為的に調節して、収穫した果実を赤く発色させる「人工着色」が行われていました。
人工といっても着色料や科学的な薬品は一切使用されてはいません。
[画像:個人所有(昭和36年撮影)]


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昭和16年 桜桃用保障紙使用許可申請書

昭和16年頃に西野村の果実農家が使用した「出荷用ラベル」。 果物出荷木箱一つ一つに貼られた、生産地や生産者が記名されたラベルは、出荷品の質を保障するもので、当時は「保障紙」と云っていたのですね。工業製品で言えば商標のようなものですから、そのデザインには目を引くような美しさがあります。
[昭和15年 桜桃用保障紙(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)]


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戦争と摺り版(果実出荷木箱印字用金型)

南アルプス市文化財課でで20点以上収蔵している「摺り版(すりばん)[果実出荷木箱印字用金型]」。


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『せんごく』と呼んでいた唐箕(とうみ)

[2023年2月開催の南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「ナニコレ!昔の道具」展における稲作の道具エリアの一部]
鎌(稲刈り) → 扱箸・千歯扱き・足踏み回転脱穀機(脱穀) → 唐箕(地域名:せんごく)(藁くずと選別) → 摺臼(地域名:するす)(もみすり) → 唐箕(地域名:せんごく)・万石通し(籾殻と選別) → 搗臼(精米) → 万石通し・ふるい(糠と選別) → 白米

稲刈りしてから白いお米になるまでに、想像した以上にいくつもの工程と道具が必要であることに驚きます。

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10円切手で声の便りを(昭和の第5種郵便)

こちらは市民の方から寄贈していただいた8ミリ映写機とテープのセット一式です。


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ごはんに関わる民具あれこれ

ご飯を炊いてから食べるまで入れておく道具のお話をしたいと思います。
[・竈(かまど): 鍋・釜をのせて煮炊きに使用する場所。「くど」「へっつい」ともいいます
・火吹き竹: 息を吹き込んで火力を上げるために使う竹筒
・付木(つけぎ): ヒノキ・スギ・マツなどの薄片の先端に硫黄をぬったもので、火種や囲炉裏の炭火などから薪や灯心などに火を移す時に使いました]
電気やガスが使われていなかった時代は、「かまど」に薪を燃やしてご飯を炊きました。伝承館に展示されているかまどの前には「付け木」と「マッチ」「火吹き竹」もセットしてあります。


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ハエ捕り棒とハエ捕り瓶とハイトリック

 令和5年6月21日(水)まで開催しておりますテーマ展「ナニコレ!昔の道具」展に展示中の「ハエ捕り瓶」と「ハエ捕り棒」「ハイトリック」について、ご紹介したいと思います。
[展示中のハエ捕り棒とハエ取り瓶]


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今諏訪にあった商店名入りの団扇

 ふるさと○○博物館では、南アルプス市白根地区の商店名が記されている日本手拭いと団扇を多数収蔵しています。
[重要文化財安藤家住宅で展示中の今諏訪の商店名のある団扇]


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背守り

 生後1カ月を過ぎると、このような祝着を赤ちゃんに着せてお宮参りを行いますが、その後もまだまだ7歳くらいになるまで些細なことで死亡してしまうことの多かった魂の安定しない子供の命は、神の手の内にあるといわれてきました。「七歳までは神のうち」という言葉にあるとおりです。
[「背守りのある子どもの祝着」西野芦澤家資料 南アルプス市文化財課蔵]


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かをりよき千代花香油

こちらは、「昭和初期から40年代位までの女性が使っていたヘアオイルを小売りする際に、店頭に置いていた容器」です。
[「かをりよき 千代花香油 東京千代田香油本舗」 130×395×230(mm)]


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牛と馬の道具

 南アルプス市ふるさと文化伝承館では令和5年7月14日から12月20日まで、テーマ展『南アルプス山麓の古代牧』を開催しました。
 御勅使川扇状地での牧(牧場)の存在は、百々遺跡で発掘された出土資料によって、平安時代にさかのぼる可能性があると考えられていますが、江戸時代以降も牛馬利用の伝統は続いています。さらに、もっと身近な昭和30年代頃まで市内で使われていた民具をみることで、牛馬と市民との関わりを知ることができます。
[南アルプス市ふるさと文化伝承館で令和5年7月14日から12月20日まで開催された、テーマ展『南アルプス山麓の古代牧』における民具コーナー]


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「スパイ御用心」戦争中の燐寸(マッチ)

 昭和時代に生活必需品だったマッチを収蔵資料の中からご覧いただきます。
[「スパイ御用心 書類手紙御用心 職場乗物御用 防諜」 二等品 志摩燐寸製造所(南アルプス市文化財課蔵)]


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奉公袋を持つ出征兵とその家族

 昭和時代の戦争に関する資料のひとつ、奉公袋をご紹介したいと思います。まずは、櫛形地区上今井で今から80年ほど前に撮影された出征の時の家族写真をご覧ください。
[出征記念の写真:中央の出征兵は奉公袋を抱えている。(上今井五味家資料 南アルプス市文化財課蔵)]


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衣替えで洗い張り

昭和40年代の前半までは、日常の生活で着物を着ている人がまだたくさんいました。通常の洗濯では、たらいと洗濯板を使って「丸洗い」していた着物も、春と秋の季節の変わり目に行う衣替えでは、縫い目をほどいて反物の状態にして「解き洗い」をしたそうです。ほどくと縫い目にたまったほこりや汚れが落としやすくなるからです。 
解き洗いの後には、「張り」という独特の干す工程があり、この「解き洗い」から干すまでの一連の作業をまとめて「洗い張り」といいます。
「張り」のやり方は二通りあり、板にぴたっと密着させて張る「板張」と、伸子針(しんしはり)でぴんと張る「伸子張」のいずれかの方法で、糊付けして干しました。
[板張]


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ファンシーな壁掛けフックに記された北岳の標高

芦安地区で収蔵した木製の壁掛けフックです。土産物として売られていたものなのか、何らかのイベントで配布されたものなのか、は不明。バブル時代に流行した、いかにも昭和末期的なキャラクター感が漂うペンギンやキツネ、特徴的な「ファンシーグッズ」ですね。
ファンシーは実用的なことはあまり気にしないので華奢なフックですが、ここで注目していただきたいのは、キャラクターの横に貼られた北岳の数値です。


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大正7年の白米廉売券と米騒動

こちらの資料は、大正7年夏に山梨県が発行したお米の安売り券です。表側には、「山梨県中巨摩郡役所」の印が押されています。
この白米廉売券が発行された大正7年の夏は、全国各地で米騒動とよばれる暴動蜂起があった年です。8月2日に政府がシベリア出兵を宣言したため、その後急激に投機目的の米穀の買いや売り惜しみが起こった上に、前年産米の不作などの要因もあり、米価の急高騰が発生する中、日本各地で暴動事件が起きました。
 8月15日夜には、甲府でも舞鶴公園で行われようとしていた米価高騰抗議市民大会に刺激された群衆が、山田町13番地にあった若尾家前に集まり暴徒化し、若尾邸を焼き打ち壊すという事件が起きています。(甲府での米騒動が若尾邸焼き討ちに至るまでの様相は山梨県史通史編5近現代1に詳しくまとめられている)
[「大正7年 白米廉売券」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):大正7年夏に山梨県が発行したお米の安売り券]


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明治7年、西郡に共栄医療組合医院できる

こちらは、いまから90年以上前に西郡で発行された診療券です。この券で受診できる病院は、「共栄利用組合医院」といって、昭和7年5月に地域の産業組合が共同出資して建設された病院でした。
[「共栄利用組合診療券」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)]


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大正時代の労働契約書

大正時代に交わされた、大工に関する労働契約書を2通ご紹介したいと思います。
ご紹介する契約書は2通とも大正時代のもので、百田村に住む14歳と竜王村に住む15歳の少年が現在の白根地区上八田で大工を営む小野牛五郎に大工業(だいくぎょう)を教授してもらう4年間ほどの修養期間についての取り決めが記されています。
[「弟子トシテ大工業修養セシムル契約書(大正13年竜王村花形富士吉)」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)]


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荊沢にあった商店の大正時代の包装紙

南アルプス市甲西地区荊沢にあった商店の包装紙をご紹介いたします。
松寿軒長崎は明治から平成時代まで駿信往還の宿場町である荊沢において営業した菓子商です。ちょうど道が鍵の手のようにクランクする「かねんて」と呼ばれる箇所の西側に、現在も登録有形文化財として、その建物が遺されています。
松の意匠の帯デザインの中に、店名と電話番号が記されており、この包装紙がいつごろから使用されていたかが判ります。甲西地区では大正9年11月26日に電話が個人宅や商店に開通し、1から41番の荊沢局電話加入者がいました。ですから、この包装紙は大正9年以降に使用されたものだと判断できます。また、その電話加入者一覧を甲西町誌(昭和48年刊)で見ることができますが、20番は『内藤伝吉 菓子商』とありました。
[「松寿軒長崎包装紙(電話荊沢二十番」(湯沢依田家資料)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵」]


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大正時代の牛乳瓶の姿(保壽社牛乳店)

大正9年から10年にかけての牛乳屋さんの領収書9点をご紹介します。どうやら甲西地区に住んでいた人が大正9年から10年にかけて甲府市錦町(現平和通り沿いの中央1丁目11辺り)にあった山梨県病院に入院していた際に、保壽社牛乳店から受け取った領収書のようです。
「保壽社」という牛乳屋について文献で調べてみると、昭和初期から40年代にかけて山梨県酪農の指導的立場にあったし秋山作太郎氏が著した書籍の中に、昭和45年に調査し「(明治中期以降の)搾乳業者一覧表」としてまとめたものがあり大変参考になりましたので、そちらの内容を引用しながらご紹介したいと思います。
保壽社は明治20年12月に土屋忠平が西山梨郡稲門村(現甲府市)の千秋橋南方に開業し、のちに甲府市伊勢町に移転して昭和15年までの50年以上営業していた、県内酪農における草分け的業者のひとつだったようです。文献にも『甲府市の三大搾乳業者』と記されています。
[「保壽社牛乳店 甲府市伊勢町二千四百九十五番 (電話二〇八番) Dairy.C.Tsuchiya.Isecho.Kofu.Japan. HOJUSHA & Co」の発行した領収書と冊子」]


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保寿社牛乳タイムス大正14年掲載のケーキレシピ

保壽社牛乳店が毎月一回発行していた冊子「保壽社牛乳タイムス」をご覧いただきます。
保寿社は明治20年12月に土屋忠平が西山梨郡稲門村(現甲府市)の千秋橋南方に開業した搾乳業者で、のちに甲府市伊勢町に移転して昭和15年までの50年以上営業していた、県内酪農における草分け的業者のひとつだったようです。文献にも『甲府市の三大搾乳業者』と記されています。
[保寿社タイムス10月号 大正14年10月1日(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)]


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曽我物語の引札

明治大正期の引札(ひきふだ)です。引札は明治大正期の商店の広告チラシのようなものですが、色鮮やかでデザイン性に富み美しいので、お正月の初売りなどにおまけとして客に配られました。文化財としても、明治大正期に存在した地域商店の名前や販売品、所在地などを知る手掛かりとなり、当時の人々の生活を復元する上で価値の高いものです。今日はその中から曽我物語をデザインした一点をご覧いただきたいと思います。
[「雑貨商上今井大和屋商店引札38×52㎝(明治・大正時代)」(上今井津久井家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)]


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月賦商店の通帳

こちらの資料は、櫛形地区上今井の功刀松太郎商店が大正時代に顧客向けに発行した帳簿です。「通帳(かよいちょう)」といって、江戸時代から昭和40年代初期くらいまで、日常の買い物の際によく使っていた帳簿です。近所にある馴染みの店で日用品や食料を買う時は、その店が発行したこの通帳を持って行けば、キャッシュレスで品物を購入することができました。買ったものの日付や商品名、値段を記入してもらい、その代金は、月末や盆暮れ、コメや繭の収穫時などのまとまったお金が入る時期に支払います。
[「功刀松太郎商店通帳(大正)表」(上今井津久井家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)]


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明治大正期の商店の引札

明治大正期の引札(ひきふだ)をご紹介したいと思います。 引札は明治大正期の商店の広告チラシのようなものですが、色鮮やかでデザイン性に富み美しいので、お正月の初売りなどにおまけとして客に配られました。
こちらは、明治大正昭和初期には西郡地区一の繁華街であった小笠原にあった金丸商店の引札です。金のなる木に登って小判をザクザク集めている男女に日の出、鶴亀というような、いかにも縁起と羽振りのよい図柄です。この商店で売っているものは「米穀食塩石油荒物和洋酒罐詰諸帳簿その他雑貨」とかいてあります。屋号は「ヤマに〇」。
[「米穀食塩石油荒物和洋酒罐詰諸帳簿其他雑貨 小笠原金丸商店 引札26×37.2㎝(上今井津久井家資料明治・大正時代)」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)]


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大正9年落合小学校秋季運動会次プログラム

大正9年10月24日午前7時から行われた、落合尋常高等小学校の第三十七回秋季大運動会のプログラムをご紹介いたします。
裏表紙の記載から、このプログラムの作成・配布については、小笠原にある山扇印刷所の寄付によって行われたようです。しかしながら、現在も市内小笠原で営業している株式会社山扇印刷さんのHPによると、大正14年10月に創業とありますから、その前身の印刷所だったのかどうかについては不明です。
[大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会次第(表紙・裏表紙)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)]


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腸チフス予防唱歌とコレラ注意報!!

大正10年頃に山梨県衛生課が高等小学校に配った「チブス予防唱歌」のリーフレットと、コレラ注意報として配布された「虎軍隣県を襲ふ!!本県は危険状態にあり!!」のチラシをご紹介したいと思います。
大正10年頃に山梨県衛生課は「チブス予防唱歌」というものを作成して小学生に配ったようです。小学校の生徒に毎日見てもらえるように、二つ折りにして時間割を記入できるような欄も設ける工夫がされています。
まず表紙では『チブス?』の項でこの病気の原因と感染経路、病状などを説明し、感染予防対策の方法や罹患した場合の対処について簡潔に記しています。 一般的には「チフス」という呼び名の方が聞き慣れているのですが、かつては「窒扶斯」という漢字を当てたようなので大正時代には「チブス」と濁音にして読んでいたこともよくあったのかもしれません。 記載内容を読んでみると、紹介されているチブスという病気が現代日本で言うところの「腸チフス」であることがわかります。
また、この面を山折りに二つ折りにすると裏になる部分に、名前や時間割を書く欄があったり、ギリシャとイギリス、日本の俚諺(りげん)が3つ記され、健康の大切さを表したことわざも教えてくれています。
[山梨県衛生課チブス予防唱歌(表)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)]


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