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11.原方

暮らし・産業・文化

沢登の河野商店

 こちらは、豊村にあったタバコ製造所である河野商店の看板です。
 櫛形地区豊は明治後期から昭和40年代まで蚕糸業が盛んな場所でしたが、明治37年以前は煙草製造と販売が主要な産業でした。
 豊村誌(昭和35年刊)をみると、明治30年代に煙草製造と煙草草・製造煙草の仲買を含む会社が7社記載されており、その中に、明治27年1月創業 職工男女60人を抱えた河野商会の名がありました。当時の代表者名は看板と同じ河野伴右衛門さんですので、資料の看板も明治時代に作られたものであることが判ります。
 また、「河野商店」の名は、同じく豊村誌の昭和33年7月の商業調査においても、煙草小売業リストに記載されています。しかし、この店が、明治27年創業の河野伴右衛門商店の流れを汲む商店であるのかは不明です。

←「KAWANO-SHOTEN 葉煙草売買兼製造業 山梨県中巨摩郡豊村 河野伴右衛門商店」看板

○博アーカイブはこちら
さて、現在の南アルプス市域で生産された西郡煙草は、江戸時代から明治・大正時代までの、豊村が含まれる原七郷(御勅使川扇状地上の水の乏しい地域)における重要な特産物でしたが、明治30年4月に葉煙草専売所官制が公布(葉煙草専売法は明治31年1月実施)され、「飯野葉煙草専売所」が山梨県全体を管轄として飯野周辺に設置されました。
 専売制とは、国が財政収入の増加や品質保証などを目的として、生産・流通・販売を全面的に管理下に置く制度のことで、国はそこから発生する利益を独占することができるようになります。

 その頃にあった豊地区の煙草産業を以下に見ると、豊村誌に7社が記載されています。

 豊村誌(昭和35年刊)記載の、明治30年代初期に存在した「煙草製造と煙草草・製造煙草の仲買を含む会社」(7社)
   ・煙草製造場一:明治15年創業 職工男10女29 斉藤才次郎
   ・煙草製造場二:明治17年5月創業 職工男11女20 保坂勇太郎
   ・豊保商会:明治20年1月創業 職工男10女18 保坂勇太郎
   ・煙草製造場三:明治20年6月創業 職工男12女40 中島勘七
   ・河野商会:明治27年1月創業 職工男10女50 河野伴右衛門
   ・竜王煙草合資会社:明治32年1月創業 職工男8女32 竜王煙草合資会社
   ・煙草製造場四:明治32年12月創業 職工男15女30 合名会社斉藤兄弟商会

明治32年5月には、「飯野専売支局」に昇格しました。

←「刻み煙草の製造道具」豊村誌より
 明治35年10月には官制改正となり、飯野専売支局の建物が現白根地区飯野村に建設され、葉煙草収納倉庫が建てられたために、倉庫町と呼ばれる場所ができました。
山梨の煙草産業の中心地となった倉庫町は明治37年をピークに人が集まり、栄えました。
 ちなみに、飯野専売支局の敷地境を示す境界石は今もひっそりと白根地区の倉庫町北交差点西の個人敷地内に残っています。

←「明治32年年末に飯野専売支局を管轄する山梨県から、工場雇の小野元二郎氏に支給された勉励手当金(二円五十銭)の証書」 上八田小野家資料より
 しかし、明治37年になると、日露戦争戦費調達の目的で、国が葉煙草の収穫から製品の輸入移入に至るまでのことごとくに専売の対象を広げたため、煙草製造工場がすべて国営に集約されてしまいました。
以来、豊村では委託製造という形で存続した工場もあったようですが急激にたばこ産業は衰退しました。

豊村村誌の、「明治44年末豊村内煙草製造会社調べ」によると、委託製造を請け負う会社のみの3社に減っています。
・合名会社竜王煙草:上今井 明治33年1月設立 煙草製造(委託製造)
・中島河野合名会社:上今井 明治41年4月設立 煙草製造(委託製造)
・斉藤花輪合名会社:沢登 明治41年4月設立 煙草製造(委託製造)

さらに、大正5年には政府が個人の煙草耕作までも禁止したので、倉庫町の出張所も大正6年には廃止となってしまいました。

←「明治36年3月に専売局から小野元二郎氏に支給された月俸十二円の証書」 上八田小野家資料より 小野元二郎氏は旧百田村に明治三年生まれと記録がある人物です。
 以上のような経緯で、たばこ産業は明治37年を境に衰退・消滅の一途をたどりますが、厳しい自然環境のもと、原七郷の先人たちが育んできた西郡魂は、そこでへこたれるようなモノではありませんでした。ちゃんと次の手(蚕糸業への参入・切り替え)を計画的に進めていたのです。
 それまで利水の面で難ありとされていた製糸場を設立することにはじまる、新たな基幹産業の創出を、明治37年から次々と行っていきます。
 さらに、大正5年までに耕作の禁止される煙草に代わって、ものすごい勢いで桑が植えられていきました。煙草耕作から養蚕業への転換です。
 明治37年以降の原七郷を、先人たちは、原料を供給するための養蚕業と、製品を生み出す製糸業のを両立させた産業(蚕糸業)を地域内で発達させることで、煙草産業に代わる雇用を生み出し、昭和40年代まで生き抜いていくのです。

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