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11.原方

暮らし・産業・文化

荒川船ばし代

にしごおり(現南アルプス市域)の人々が甲府に行くには、釜無川だけでなく、荒川も越えなければなりませんでした。そのため、にしごおりの先人たちの遺した渡船に関する資料の中には、釜無川越えに利用する、高砂の渡し(現信玄橋辺り)・今諏訪の渡し(現開国橋辺り)・押切の渡し(現三郡橋辺り)の他に、荒川越えの資料もあります。

『  覚
一 荒川ばし代
   拾ニ円也
右之通り請取申候
辰十二月
      飯田新町
        文吉
       金右衛門
 西野村
御名主様       』

明治から大正期の、荒川を渡る橋の通行料の領収書です。現在でいうと、国道52号線美術館通りを相生交差点に向かって架かる荒川橋辺りにあった、大正15年以前の仮橋時代のものです。12月にまとめて支払った金額が12円ということなので、一人当たりの橋利用料がいくらだったのかは不明ですが、村費からの公的な交通費として年間支払額の領収書が名主宛に出されているようです。
[I-13-0-17-17 荒川橋代請取覚-1(南アルプス市文化財課蔵・西野功刀幹浩家資料より)]


○博アーカイブはこちら
西野村
御名主様       』

こちらの領収書には、「荒川船ばし代」とあり、18円を払っています。
川の中に並べた船の上に板を敷いて作る橋を「船橋(ふなばし)」といいますが、明治大正期の荒川橋がそのような形態だった可能性があるのか?と、期待して調べてみましたが、どうやらそうではなく、コンクリート製の永久橋が大正15年に完成するまでは、普段は木製の仮橋で、出水時は渡舟であったようです。
[I-13-0-17-17 荒川橋代請取覚-1(南アルプス市文化財課蔵・西野功刀幹浩家資料より)]

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