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加賀美遠光

南アルプス市に初めて足跡を残した甲斐源氏、加賀美遠光は、康治二年(一一四三)源清光の三男として生まれたとされ、現在の南アルプス市加賀美の地を拠点として甲府盆地西部から富士川流域に勢力を持ちました。

遠光の長男光朝、次男長清は共に実際に在京して平家に仕えており、真偽の程はともかく、このような逸話から、遠光自身の上京の可能性や京都とのつながりをうかがい知ることができます。
この時期に併せて「王」の字も勅許され、加賀美一族の紋である
「三階菱」は、この「王」の字を図案化したものと伝えられています。(小笠原家にも同様な伝承が伝わります)

身延町にある大聖寺の本尊「不動明王挫像(重文)は、承安元年(一一七二)に宮中守護の功績により、遠光が高倉天皇から下賜され、京からの帰路、現在の大聖寺の地に安置したものと伝えられます。


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遠光は武田信義や安田義定と同様に、甲斐国内に確固たる基盤と勢力を維持しながらも、同時期に活躍した彼ら他の甲斐源氏に比して、治承・寿永の内乱期に目立った活躍は伝えられていません。
しかし平家滅亡後の文治元年(一一八五)、頼朝の推挙により信濃守に任じられていることなどから、鎌倉の頼朝と良好な関係を築くことで、その基盤を確かなものとしていったものと見られます。
「吾妻鏡」に頼朝の近侍者として度々登場し、娘を頼朝の嫡男の養育者として出仕させるなど、一時期鎌倉幕府中枢の一角を占めていたことがわかります。

(写真は開善寺所蔵)
没年は寛喜二年(一二三〇)または、元仁元年(一二二四)といわれ、墓所、供養塔として、館跡と伝えられる加賀美の法善寺の南に廟所(通称:遠光大明神)があるほか、光朝、同夫人と共に祀られた秋山の光昌寺の五輪塔、遠光開基と伝えられる甲府市遠光寺の五輪塔などが知られています。

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