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徳島堰ウォーク#4 大門沢暗渠~御勅使川暗渠出口

大門沢暗渠
旭町上条南割まで指しかかった徳島堰。もう少しで南アルプス市!と言うところで韮崎市区間最後の暗渠が現れます。山梨県指定の一級河川大門沢を潜る大門沢暗渠。大門沢はほんの少しだけ水の流れがある程度の水無川で、周辺の民家などと見比べると天井川化しています。この大門沢暗渠を越えた向こう側にはいよいよ私たちの南アルプス市が見えてきます!徳島堰の水たちもラストスパートです!


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徳島堰と「つけえばた」
堰沿いにある家には堰の水を生活に利用するための「ツケエバタ(使い端・洗場)」が設けられています。家の敷地から階段で堰の水面に降りられるようになっており、農機具を洗う他、洗濯や風呂の水として日々の生活に利用しました。しかし、水量の多い4月から9月頃までは危険なので、多く利用するのは、釜無川からの取水が行われない農閑期に、堰に流れ込んだ山からの沢水で、米を研いだり、野菜を洗ったりすることが多かったそうです。
また昔は子供たちの遊び場にもなっており、近隣の人たちからは「つけえばた」での思い出をたくさん聞くことができます!(以下エピソード)
【韮崎市山寺山本倉次さん 89歳 「徳島堰で夏は水泳、冬はスケート」】
「夏はツケエバタで男の子は皆フリチンで泳いだね。下流の石積みの掴まるのにちょうどいい石があるところまで流れに乗って泳いでいって、堰から上がってはまた上流から飛び込んだ。結構流れが速いから面白れぇだ。だけど、韮崎の水泳大会ではじめてここら辺の子供がプールで泳いだ時は、みんな、いっさら前に進まんくてびっくりしただぁ。その時初めて、堰では泳ぐふりはしてただけど、泳いでたじゃぁなくて、流れに乗っかっていただけだっちゅうこんを思い知っただよ」「冬は凍った堰でスケートをしただ。下駄に刃の付いた下駄スケートを履いて、脱げんように足首にも紐で縛り付けるだ。下駄スケートは韮崎の街のムラタ屋さんというはきものやで買ってもらっただ。」
御勅使川暗渠入口
旭町上条南割の南端、いよいよ我らが南アルプス市に突入しんと意気揚々と旅路を行く徳島堰の水たち!韮崎市円野町から遥々といくつもの難所を乗り越えて、ようやくもう少しで使命を果たせるのです・・・が!そんな徳島堰の目の前にこの旅路最大の難所が現れてしまいます。そう、古くからこの地域に幾度となく水害をもたらしてきた天下の暴れ川、「御勅使川」が目の前を遮っているではありませんか・・・。今でこそかなり水量が減ってしまっていますが、開削当時、洪水の時などはこの六〇〇メートルもの川幅いっぱいに勢いよく水が流れていました。
この難所越えの歴史を辿ると、開削者の兵左衛門が御勅使川を横断する最初の方法として当初採用したのが「板せき」と呼ばれる工法で、御勅使川の水を板を並べてせき止め、徳島堰の水と合流させて堰に流すという方法でした。板せきが採用されたのは、徳島堰と御勅使川の河床が同じ高さであったからと予想されますが、度重なる洪水の度に板が破壊されてしまったり、またそれから四十年あまりの間に御勅使川の河床が上がったりしたため、埋樋に変えられ現在のような暗渠として川の下を横断させたのだと考えられています。現在は大きな除塵機の先にその頑丈な御勅使川暗渠の入口があり、安定して徳島堰は先へ進むことが出来ますが、その苦労の歴史は相当なものだったという想像は難くありませんね。この旅路最長の暗渠へと進んでいく徳島堰の水たち。その距離約840m!少しの間だけお別れです。再会の場所はいよいよ南アルプス市です!
御勅使川の下を進む徳島堰
御勅使川暗渠に入り長いトンネルを進んでいく徳島堰。その間の水たちが一体どんな様子なのか、ここまでずっと見守ってきただけに気になるところですよね・・・。と、そこに朗報!実はその姿までは見ることは出来ませんが、徳島堰が進んでいる経路を辿れるよう、地上には目印があるのを知っていますか!?まず暗渠入口から御勅使川左岸に指しかかる手前の土手や、右岸土手から御勅使南公園内を注意深く見てみると、「農林省」の文字が刻まれた杭がいくつも打たれているのを確認できます。この杭に挟まれている下を徳島堰が通っているという目印で、地上でもこの範囲だけは農林省の所有する土地であるということを表しています。また御勅使川本体をよく見てみると、川を挟んだ両岸に明らかに人工的に造られたコンクリート四角い塊があるのを確認できます。これも先ほどの杭同様に、河床の真下を通る徳島堰の道筋を表しているものなのです。この目印があることで今後何か工事などが行われる際に懸念する区域として目安がつくわけです。地上からも大切に見守られている徳島堰も水たち、それらがどれだけ貴重な水源かということがわかりますね。この暗渠の間、御勅使川を越えていよいよ南アルプス市に突入です!
桝形堤防
地下のトンネルで南アルプス市有野地区へ越境した徳島堰たち。その姿は御勅使川暗渠の出口まで見られないのかと言うと、実はそうではありません!御勅使南公園を過ぎてすぐの地点にくると何やら将棋の駒のような形をした石積みの堤防が現れます。これは「桝形堤防」といい、徳島堰から六科地区将棋頭へ分水する後田水門をかつて暴れ川であった御勅使川の洪水から守るために作られた石積みの堤防。江戸時代から昭和7年に御勅使川が現在の川幅に固定されるまで役目を全うした桝形堤防。Vの字に伸びる北堤と南堤の内側にはほんの数メートルだけ徳島堰が姿を現し、そこに現状1か所の水門が設けられています。近隣住民の方に話を聞くと、昭和初期には水の取り入れ口は大中小3か所あって、ワラを束ねて作られた「ボッチョ」という栓を使いながら引水する水の量を調節していたのだそう。また徳島堰取水口の破損などによる水不足の際には上下流の集落同士で水争いが絶えず、わざわざ堤防に蚊帳を吊って水番をしていたと言うエピソードもあります。その当時はいかに水が大切な時代だったかがわかりますね!
御勅使川暗渠出口
最大の難所である御勅使川暗渠を抜けて再び姿を現す徳島堰の水たち。なんとその距離は約840mというから驚き!現代ならまだしも江戸時代などにはとても困難な工事だったでしょう。御勅使川暗渠を出た徳島堰の水たちは下流に向かって左手にある大きな水門にすぐ分水されていきます。いよいよ「南アルプス市を潤す」という任務を果たせる時が近付いてきました!

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