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時代で選ぶ - 大正

西野のメロン記念碑

大正14年に現南アルプス市西野の功刀七内氏によってはじまったガラス温室によるメロン栽培ですが、昭和初期には西野周辺地域(現白根地区)の名産品として、全国的に名をはせるようになりました。
昭和初期以前から当該地域にお住いの家の方に、古いアルバムを見せていただくと、メロン栽培に関わっていたご先祖の姿が写し出されているのをよく目にします。


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昭和9年には、白根地区西野の功刀家を李王殿下が訪れました。

峡西電鉄西野駅が昭和5年5月に開業すると、駅前に県下初の果実専門法人組合である西野果実組合の事務所が置かれ、地域をあげて大都市圏に向けての組織的な販売戦略が実行されます。

そして、西野のメロンは駅の小荷物扱所から鉄道便で北海道・東京・信州・名古屋・大阪・神戸などへ出荷されてくようになりました。
組合ができてからは、昭和10年に、本家浜松・豊橋産のメロンとの京浜関西市場での競合を避けるために代表者会議を開いて種をまく時期を協定したり、昭和12年には熟度が均一のものを出荷するために、メロンの共同選果を行うなどの先進的な取り組みも行われました。
さらに、昭和13年7月には、大阪市中央卸売市場において、西野の組合代表者等80名を大阪に送り込み、大阪京都神戸の青果会社の仲買人や小売業者、新聞社を招待して大試食会を行っています(白根町誌の功刀七内氏執筆による記録より)。

この活動は、現在のJAでも行っているトップセールスといわれるようなものにあたるのでしょう。昭和初期に、結成された果実組合がすでにこれらの活動をおこなっていたということに驚きます。

昭和18年になると食糧増産政策による果樹生産抑制が行われます。また、戦時対策のため、光に反射して敵機の目印や標的になりやすい温室のガラスは外され、ボイラーは軍需工場に徴発されてしまい、メロン栽培は壊滅的な状況になります。

そして、戦後になっても西野では復活しませんでした。
戦争に翻弄された西野のメロン産業ですが、設備投資を伴う先駆的な栽培、他競合産地との調整や地区をあげての品質の統一、トップセールスを行うなどの成功体験で培った技術や販売戦略や思想は、その後の南アルプス市域の果樹生産者の姿勢や方針に多くの影響を与えています。
 
戦後になり、当地でさまざまな設備や機器が先駆的導入された事実(スプリンクラーやスピードスプレーヤ、桃の非破壊式糖度センサー等)にも、その流れ(影響)を見ることができるのではないでしょうか。

[画像:個人所有]

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