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時代で選ぶ - 昭和

明治7年、西郡に共栄医療組合医院できる

こちらは、いまから90年以上前に西郡で発行された診療券です。この券で受診できる病院は、「共栄利用組合医院」といって、昭和7年5月に地域の産業組合が共同出資して建設された病院でした。
[「共栄利用組合診療券」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)]


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この共栄利用組合医院規程を読んでみると、出資している組合員とその家族は、組合の発行した診療券を持っていけば基本的に無料で診察を受けることができました。ただ、処方する薬や手術、注射料、往診料は利用料として別途請求された模様です。

昭和初期は未だ国民健康保険法はなかったので、もちろん健康保険証など無い時代であり、一般的に体の調子が悪くても医療を受けることは、現代とは比べ物にならないほどハードルの高い行動でした。ちょうどこの頃は世界恐慌の影響による生糸の暴落が養蚕に現金収入を頼っていた農村を疲弊・窮乏させ、乳幼児の死亡率の増加や感染症の罹患率を高めていました。政府も兵力の供給源である農村の医療確保策として後押したこともあり、産業組合が共同して病院を建てるという取り組みがこの時期に全国に広まっていました。まさにこれらの流れの中で、件の共栄利用組合医院は一部組合員家庭のみですが、はじめての地域医療体制を昭和7年に西郡に発足させたわけです。
[「共栄利用組合医院規程」昭和7年(1932)5月15日より実施す :『本組合員及その家族の保険に努め疾患の際は之を軽減し以て生存の平安を得しむる為め診察所を付設し左記規程を設置す』」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)]
さらに、、組合医院規程を順にみていきましょう。内科や外科などの専門科に分かれての医師の配置はなかった様子ですが、産婆料に係わる項目が第九条から十一条に明記されていることが判ります。助産の歴史の転換期である昭和初期に、欧米スタイルの教育を受けて国家資格を持った産婆たちがどのように活躍したのか?あるいは、都市部で一部行われていたような入院分娩がこの組合医院でもあったのか?など興味がつきないところです。

「白根町誌」昭和44年刊 p977の記述には、『巨摩共立病院:昭和7年(1932)5月12日、飯野・源・在家塚・小笠原・桃園・豊・曲輪田の7産業組合によって櫛形町桃園地内の白根町境に明穂共栄医療組合病院が設立され、峡西病院と称した。昭和18年10月には、山梨県農業会に移管され、第一厚生病院と改称し経営者も変わり、昭和40年1月における病院の患者の収容力は、一般患者25名、結核患者40名であった。昭和40年9月には、山梨県勤労者医療協会に移管され、巨摩共立病院となる。昭和43年の患者収容能力は、一般患者57名、結果右患者44名であった。目下のところ内科、小児科、外科、整形外科、産婦人科の診療にあたっている。』とあります。

いまから92年前に地域の産業組合主導ではじまった西郡の本格医療体制は、その後、山梨県農業会など経営母体を交代させながら、にしごおりの地域医療を担ってきました。 昭和36年(1961)には国民皆保険となって国民すべてが健康保険証を持つことができるようになったため、組合員だけしか受診できない病院というのではなくなりました。昭和40年からは山梨県勤労者医療協会に経営が移管され、現在もその名称で続く巨摩共立病院となっています。
[「共栄利用組合之章」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)]
巨摩共立病院は西郡地域の地域医療に貢献し続けている当該施設は、令和6年現在、公益財団法人山梨勤労者医療協会巨摩共立病院という正式名でそのHPによると、診療科は一般内科、専門内科、小児科、外科、整形外科、眼科、人工透析科、リハビリテーション科という内訳です。
[巨摩共立病院(「白根町誌」昭和44年刊より)]

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