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時代で選ぶ - 昭和

南岳荘

県道甲斐芦安線を挟んで六科の八幡神社の向かい側にある清水油店タンク奥をよく見ると、レトロな倉庫があります。
もとは現在の下高砂集落センター隣の徳永地区に建っていました。その前には所有者の 現在は倉庫として使われています。
実はこの建物、昭和4年に若尾逸平の娘婿若尾金造がキリスト教伝道等を目的として建てた講堂(青年道場)でした。

南に富岳を朝夕仰ぐその名も「南岳荘(なんがくそう)」。

甲斐山岳会の会長もつとめた若尾金造は外国人を引き連れて南アルプスの山々を開発する際、若尾銀行の番頭で田之岡村徳永出身であった清水謹一の縁でこの地を事前宿泊地とし、南岳荘と呼んだのがはじまりです。
清水謹一氏の息子で、現在この南岳荘を六科に移転して所有し、徳永のかつての所在地であった場所にお住いの清水禎次郎さんから、いろいろと教えていただきました。


○博アーカイブはこちら
そのお話によると、謹一氏は甲府の若尾銀行で戦前まで番頭として働き、特に若尾逸平の娘婿の若尾金造に仕えていました。 
若尾金造は昭和4年にキリスト教精神に基づく農村の理想郷を目指し、徳永に「南岳荘」を建設します。
その際、謹一も運営メンバーとして、東京より諸名士を講演に招いたり、聖書研究会、日曜学校、農繁期共同風呂、農繁期託児、養鶏業を行い、クリスマス会等の行事も盛大に行ったといいます(昭和47年刊『八田村誌』より)。
← 南岳荘清水製糸場から出荷した生糸に付された商標

その後、大東亜戦争を経て、若尾家から建物を譲り受けた清水謹一氏は、昭和20年~43年位まで、『南岳荘清水製糸場』を操業し、製糸機械を設置して、当時盛んだった蚕の繭から糸を繰る製糸業を行いました。
原料繭は近所のものを買い取り、工女として雇われた近在の婦女子にとっては、自宅近くで現金収入を得ることのできる貴重な職場となりました。

昭和40年頃、謹一氏の息子の清水禎次郎氏の代に、ガソリンやプロパンガスなどの販売会社を経営するようになりました。製糸場として使用していた南岳荘建物は、六科にある清水油店の敷地に移設し、倉庫として使用され現在に至っています。
しかし、八田地区にお住いの皆さんは今でも「南岳荘」という名称を身近に見聞きしたおぼえがあるでしょう?よく思い出してください。
徳永のハッピーパークのあたりに大きな看板が立っていますよね 。
そう、謹一さんの息子である禎次郎さんは、現在運営している老人介護施設・グループホームの名称に、この歴史ある「南岳荘」という名を残してくださっているのです。
南岳荘の存在は、南アルプスの山々の開発史、キリスト教伝道と外来文化受容、公共福祉の歴史、日本の基幹産業であった蚕糸業がここ八田でも行われていた歴史的事実等、八田地区の人々の生活に様々な影響を与えてきました。

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