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時代で選ぶ - 昭和

「イタリア」という名の欧州種葡萄

白根地区西野村功刀家資料の整理で文書箪笥の中から大正初期(大正3年~昭和10年)の果物出荷に関する書簡が多数(130枚)見つかりました。表に打ち込んでみると、特に大正5年と7年に、販売先の問屋とやり取りした葉書(以降、「果実売立葉書」と称す)がまとまっており、その年の出荷の動向を見ることができるものでした。
この地域で、大正5年に甲州中巨摩果実組合は発足していましたが、基本的に大正12年に西野果実組合ができるまでは、販路拡大と出荷は個々の家と問屋との、直接交渉・取引で、なされていたものと考えられます。
[大正期の果実売立葉書の一部(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)]


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果実売立葉書を表にしてみると、大正時代も現在の南アルプス市域の農家と同じく多種栽培で、春から秋まで期間を開けずに次々と出荷している様子がわかります。山梨県外の市場へと、5月から6月の半ばくらいまではさくらんぼ、7月に入るとモモが8月の半ばまで毎日のように出荷され、8月のお盆過ぎ頃からブドウの品種を変えて9月下旬まで1日か2日おきに次々と出荷しています。
[西野功刀家宛果実売立書簡リスト(南アルプス市文化財課作成)①]
今回は、大正期に西野村から出荷されたブドウの品種に注目して、見ていきたいと思ます。
というのも、多数の売立葉書に記されている「イタリア」という名のぶどうの存在が気になったからです。
大正5年と7年における西野功刀家が出荷したブドウの品種の記載を見てみると、明らかに「デラ」と「イタリア」が二大看板であったことがわかります。
[西野功刀家宛果実売立書簡リスト(南アルプス市文化財課作成)②]
「デラ」とは、デラウェアという現在も日本で多く食されている紫で小粒の、人気のブドウのことです。
昭和50年に書かれた、『山梨の果樹』という冊子を読むと、『日本へは、明治15年にアメリカから導入され、山梨へは明治18年に山梨郡奥野田村(現在の甲州市塩山)の雨宮竹輔氏が試作をはじめた』とあります。同じ冊子の中に「イタリア」のことは書いていないかと探しましたが記載はなく、『生食用としては、昭和前期まで、「甲州」と「デラウェア」が主力であった(「山梨の園芸」より)』と書かれていました。
一体、それでは、功刀家が「デラ」の収穫時期と入れ替わりにたいへん多く出荷している、山梨県内で主力でなかった「イタリア」という名のブドウは、どんなブドウなのでしょうか?
以前調査した、功刀家と同じ西野村の、芦澤家資料の、大正11年と12年の売立葉書もリスト化してあるのですが、そこにも「イタリア」というぶどうを出荷した記録がありました。
ですから、大正期の西野村では、ある程度まとまった量の「イタリア」を生産していたのではないかと思うのです。
[西野功刀家宛果実売立書簡リスト(南アルプス市文化財課作成)③]
「イタリア」というぶどうの名を探して、次は、白根町誌における果樹栽培の導入期の項を読み返してみましたが、『明治から大正初期に作られたぶどうは、甲州、デラウェア、アジロンダック、コンコード、ダルマ』といったいずれも米国種の名がばかりが記されていました。「イタリア」の名はここでも登場しません。
米国種ではなく、いかにも欧州種であろう名の「イタリア」とは、どんな葡萄なのか?山梨のワイン史の第一人者でもある甲州市の文化財課、小野正文先生にお聴きすると、『生食で江戸時代から出荷されているのは「甲州」という葡萄だが、外国種が入ってきた明治以降の出荷時には、「日本ぶどう」とか「本ぶどう」と言って外国種と区別していた』。そして、『甲州市では、大正期に「イタリア」という葡萄を生産や出荷をしていた記録はない』こと、『明治以降に海外から導入され、日本で実際に栽培された苗木のほとんどは、米国種ばかりで、欧州種は湿気の多い日本では根付きにくかったたようだ』とも教えてくださいました。
その後、小野先生を通して、甲州市塩山の機山洋酒工業株式会社の土屋幸三さんにも訊いていただき、「イタリア」という品種のブドウについての情報を教えていただくことができました。
しかも、この「イタリア」というぶどう、現在でも甲府の苗木屋さんで販売中(株式会社植原葡萄研究所HP)とのこと。その情報を得て、急いで、その甲府の苗木屋さんのHP(株式会社植原葡萄研究所 品種リスト 令和4年8月現在)をみると、黄緑色で大粒の房の画像が載っており、解説にも、『欧州種としては栽培容易で、露地栽培も可能』とあります。
[大正7年9月「イタリア」の売立葉書(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)]
機山洋酒工業の土屋さんの送ってくださった文献(「実験 葡萄栽培新説 増補版」昭和55年1月 土屋長男 山梨県果樹園芸会)には、「イタリア」の項目があり詳しく解説がありました。『1911年に交配し1927年に伊太利の国名をとってイタリアと命名』『この品種はピローヴァノの品種中最も優れたもので、イタリー政府専門委員会において政府奨励の輸出用生食葡萄に採用した有名な品種である。』とあり、樹勢はとても丈夫で、薬害や病害に強く、温室栽培すると果房がとても大きくなる、とも書かれています。巨大な粒は黄白色で食味が良好なのだそうです。しかし、この文献では、現在販売中の上記苗木屋さんの解説に反して、『露地については栽培が困難である。』と記しています。いまとむかし(昭和50年代)とは意見が違うようです。
ここで、大正期に西野村で、上記の文献に載る欧州種の「イタリア」が生産・出荷されていたとして、気になる論点がいくつか出て来たので整理しておこうと思います。
①日本で根付きにくかった湿気に弱い欧州種がなぜ西野村では栽培できたのか?
②明治44年(1911)に交配、昭和2年(1927)に命名された(文献「実験 葡萄栽培新説 増補版」)という、誕生したばかりの品種の苗木を日本で購入することができたのか?
③「イタリア」を温室栽培した可能性はあるのか?
以上3点について、周辺史料も交えて、以下に考察し、今後の調査方針を考えてみます。

論点①日本で根付きにくかった湿気に弱い欧州種がなぜ西野村では栽培できたのか?
西野村は、水の乏しい御勅使川扇状地上にあって、さらに扇状地の末端に位置する、もっとも砂礫が厚く堆積した場所です。そのため、湿気の多い日本にあっては特異なほど、水はけの良い乾燥土壌ですので、、山梨県東部では無理であった欧州種の露地栽培が成功したのではないか?という仮説が思いつきます。

論点②明治44年(1911)に交配、昭和2年(1927)に正式命名されたという、誕生したばかりの品種の苗木を日本で購入することができたのか?
功刀家資料にある、大正1年(1912)10月28日付、現甲府市の甲運村横根にあった若林国松商店からのはがきに「和洋葡萄苗木の2・3年生のもの400本から500本、ご注文の品届きました』(文化財課蔵)というのがあり、品種名の記載はないのですが、この時に「イタリア」の苗木を購入した可能性が考えられます。
[「イタリア」の画像 「「実験 葡萄栽培新説 増補版」 昭和55年1月 土屋長男 山梨県果樹園芸会」より]
ちなみに、同家ではその前年の明治44(1911)年12月13日にも、同じ甲府市横根から「甲州150本、デラ(デラウェア)600本」の苗木を買ったことを日記に記しています(「白根町誌」)が、「イタリア」を購入した記載はありません。
しかしながら、まだ名前も正式に決定していなかったイタリア産の新品種のブドウ苗を、母国で誕生した翌年に、日本で(しかも甲府で)500本も手に入れることが可能だったのか?という疑問はつきまといます。でも、やはり、大正4年には「イタリア」の名で功刀家で出荷している売立葉書があるのですから、「イタリア」の苗木を大正元年頃ににしごおりの地に植えつけたことは間違いないのです。インターネットもなく、海外での園芸情報の伝達速度など、現代とは比べ物にならないと思う明治時代末期に、優良新品種の苗をすぐに何百本も取り寄せ買い求めた西野村の先人たちの行動力には尊敬しかありません。

論点③「イタリア」を温室栽培した可能性はあるのか?
西野村でガラス温室がつくられるようになったのは大正14年からです。温室栽培用品種のマスカットオブアレキサンドリアを作りたくて、功刀家が前年の秋に愛知県の清州試験場に温室栽培を学びに行き、大正14年3月に30坪のガラス温室を建てたのがはじまりです(「白根町誌」より)。ですから、この「イタリア」という葡萄を盛んに出荷している昭和7年頃にはまだ、功刀家はガラス温室は持っていなかったことになります。
しかし、この珍しい緑色のヨーロッパ系大粒のぶどうが市場競争に強いことを大正初期に実感した功刀家が、より高品質な緑色系の欧州種を育てたいがために、大正末期に設備投資の必要なガラス温室栽培を目指した可能性も考えられます。
その後、功刀家が当地に導入したガラス温室栽培は、葡萄だけでなく、メロン、スイカの栽培にも成功して、昭和時代のにしごおりの果樹栽培を支えていくことになりました。

以上、今回の調べで、ブドウ栽培の導入期(明治から大正期まで)に、南アルプス市で生食用に栽培された葡萄の品種のうち、日本産の「甲州」、米国種の「デラウェア」、欧州種の「イタリア」の3品種を確定できました。
[大正元年10月28日付、苗木屋若林國松店からのはがき(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課所蔵)]
いままで山梨県に於ける外国産葡萄の導入期は、米国種のみだと考えられ記載されてきたようですが、西野村の大正期の売立葉書の分析から、「イタリア」という欧州種も栽培・出荷されていた事実を知ることができました。ちなみに、機山洋酒工業株式会社の土屋さんが送ってくださった文献「Wine Grapes 2013」にもイタリアは載っていて、ワイン醸造に使用されることもあるようです。
[大正7年9月「イタリア」の売立葉書(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)]
現在も南アルプス市西野徳でイタリアの栽培をしている農家さんいわく「シャインマスカットより味は薄い」殿ことでしたが、実際に試食をしてみるとさっぱりとしていながらも十分に甘みがあり、マスカット系の香りもする美味しいぶどうでした。
これだけ大粒で、緑色で、見栄えもして甘いぶどうであれば、大正初期においては市場でも珍しく、好評だったのではないでしょうか。

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