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満州開拓女子奉仕隊と豊村分村開拓団

[「県庁前での豊村第一次満州開拓団女子奉仕隊の壮行会」(西野池之端中込家蔵:真ん中に立つ団長であった中込ちか氏は、白根地区西野池之端で喜久屋商店経営中込家の人でした。この画像はそのお孫さんに当たる方からご提供いただいたものです。)]


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 昭和7年から20年の太平洋戦争敗戦までの14年間、国策によって27万人もの日本人が中国大陸に渡りました。 昭和恐慌で疲弊した農民を移民によって救済することが第一目的でしたが、同時に、満州国を維持し、ソ連との国境地帯を防衛する意図もありました。
 そのような情勢に準じ、昭和14年にはじまった豊村分村計画によって、昭和15年2月11日から、満州(浜江省阿城県四道河)に開拓団の入植が開始されました。そして、昭和20年8月17日の最期を迎えるまで、170名ほどの人々が満州に設立された豊村の分村で暮らした過去があります。
 豊村とは、現在の南アルプス市櫛形地区の吉田・十五所・沢登・上今井区にあたる場所に昭和35年まで存在した村名です。
 昭和17年4月に豊村分村本隊が中国東北部(満州国四道河)に渡り本格的な開拓が開始されます。そして最終的に、昭和20年8月17日、149名の豊村分村の人々が浜江省阿城県四道河にあった開拓団本部で非業の死を遂げることとなりました。 匪賊(ひぞく)に囲まれ、逃げ場を失って戦死者を出す中、集団自決という道が選ばれたのです。
[四道河にねむる拓友に捧ぐ」豊村満州開拓団誌編集員会より]
 その満州に設立された豊村分村開拓団に奉仕するための「満州開拓女子奉仕員」の募集が青年学校や青年団を対象に行われました。豊地区からは、青年学校(※1)の先生の説明で20名の女子が奉仕団に応募したそうです。そして、農繁期の春から秋の数か月間を手伝うために満州の分村に派遣されました。

 昭和18年(1943)中込ちか氏を団長として豊村第一次満州開拓団女子奉仕隊は、県会議事堂前での盛大な壮行会のあと、甲府駅から万歳に送られ出発したそうです。

(※1)青年学校は当時の義務教育期間である尋常小学校(のちに国民学校初等科)6年を卒業した後に、中等教育学校(中学校・高等女学校・実業学校)に進学をせずに勤労に従事する青少年に対して社会教育を行っていた。12歳から18歳まで
[「四道河にねむる拓友に捧ぐ」豊村満州開拓団誌編集員会より]
 隊員の服装は「紺の上下の訓練服に地下足袋、腕には満州開拓女子奉仕隊の腕章を」つけたとのこと。
 女子奉仕員たちは、満州のハルピンに着いてからさらに3時間乗って、四道河という小さな駅で下車し、迎えのトラックの荷台に揺られて六里離れた開拓団の村に着きました。奉仕隊の仕事は、炊事と風呂の準備に加え、農作業の手伝いでした。渡満からほぼ一年目に、懐かしいふるさとから若く元気な娘たちが20人も奉仕で訪れたので、開拓団に活気が出たといいます。
 奉仕団は3カ月ずつの期間で昭和20年の終戦の年も派遣されました。そのうち昭和20年5月に送出された第二次勤労奉仕隊員12名は現地で終戦を迎え、開拓団の人たちとともに帰らぬ人となったそうです。
[「四道河にねむる拓友に捧ぐ」豊村満州開拓団誌編集員会より]
 本記事作成時の令和5年(2023)8月17日午後3時を以て、満州の豊村分村にある本部建物でダイナマイトに点火、自決が行われてから78年目を迎えます。豊諏訪神社の境内には、「満州開拓殉難者慰霊碑」と刻まれた石碑が建っており、毎年8月17日には慰霊祭が行われています。
[豊諏訪神社境内の「満州開拓殉難者慰霊碑」]

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