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枯露柿の火力乾燥法の完成

明治以降、甲州枯露柿は山梨の主要輸出品の生糸や水晶等と並んで重要な輸出品のひとつとして数えられていましたが、
大正時代に入ると輸出先での顕微鏡検査で枯露柿の表面に多数の有害微生物がみられるとして、衛生的見地から天日干しという製法の問題点が指摘されるようになっていました。

この問題解決にいちはやく反応した生産者が、白根地区西野の当時30歳代であった手塚光司氏でした。
昭和5年か6年頃から光司氏が枯露柿の火力乾燥に関する研究を行い,昭和9年に乾燥室の装置、加工法、排気装置、温度、燃料等を開発し、火力乾燥法を完成させます。


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昭和11年と14年の東京朝日山梨版記事(手塚家所蔵)には、
『衛生好きのアメリカ人』に大好評で、ロサンゼルス及びサンフランシスコ方面から『クリスマス用に大量送れ』の注文が殺到したと書かれています。
同時期(昭和初期)には、従来通り天日干しであった八田地区高砂の枯露柿もシアトルやサンフランシスコに輸出されていましたが、白根地区西野の手塚家で開発された火力乾燥法による枯露柿生産は、品質の向上とあわせて、何よりも「衛生的」という点において評価されるものでした。

その後の、戦時下の南方への軍用供出や戦後のアメリカ向け輸出再開への販路を開拓するものとなっただけでなく、現代の室内機械乾燥法の先駆けであったことは間違いありません。

[画像:個人所有]

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