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伏見宮殿下も好んだ西野のネクタリン

「ネクタリン」は桃の一種で、分類上はバラ科モモ属のうち果皮にうぶ毛のあるものを「モモ」、うぶ毛のないものを「ネクタリン」と呼ぶそうです。江戸から昭和まで南アルプス市地域原七郷で盛んに栽培されてきました。
昭和18年8月12日に西野功刀家に、伏見宮家から届いた書簡を見ると、西野から献上されたネクタリンが伏見宮殿下の嗜好に適したとして、その思召しに功刀家宛にられてきた郵便小為替証がありました。


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「昭和18年8月7日の文書で知らせのあった、山梨県中巨摩郡西野村産のネクタリン桃10箱が8月11日に東京の伏見宮に到着しました。『誠に珍果に候』だけれども、輸送に日数を要したため、『多数の腐傷を生じ』てしまい、その中から『完全なる品』を選び出して2箱分に整えて『献上御披露申上候』」とあります。
そうしたところ、「「殿下の御嗜好に適し』ご満足あそばされたことをご報告します。ついては、『思召を以て酒肴料金十五円下され』たので郵便小為替証でお送りしますからお受け取りください。」という内容。
昭和18年という戦時の、しかも8月の初旬といういちばん暑い時期にお送りするのですから、当時の流通事情では大変だったことでしょう。
一方で、ネクタリンを献上した功刀七朗氏は当時西野村の要職(村長)についていましたので、果樹栽培に対しての政策的な何かの思惑があっての、この時期の献上ではなかったかという仮説が浮かび上がってきます。昭和18年といえば、高級メロン栽培で栄えていた西野村にとって、戦時体制がその産業に直接的に影響を与えはじめた年だからです。
戦時対策のため、食料増産政策による秋作付けの果樹生産抑制が行われ、温室のガラス外しとボイラー撤去が行われはじめました。ガラスは軍需工場の補修用や家庭用として、ボイラーは軍需工場に徴発されました。そして、温室跡地に麦が播かれ、甘藷が作られました。明治時代以降、養蚕と果樹産業によって村の財政を豊かにしてきた足跡をもつ西野村は、大変な局面に立たされていたに違いありません。過去(昭和8年)に温室葡萄の献上で成果を得た経験のある功刀七朗には、特別な思惑があったのかもしれません。しかし、残念ながら、翌昭和19年1月24日には、スイカ、メロンなどの不急作物の作付が禁止となってしまいました。
昭和18年ネクタリン献上は、現在の南アルプス市果樹産業においてはあまり成果のなかったものといえるでしょうが、果樹栽培の先駆者たちが、失敗も含めて、過去にどのような模索をしてきたかの一端を知る史実としては注目できると思います。

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