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西野村と虚無僧寺明暗寺

江戸時代、顔のすっぽり隠れてしまう、籠を逆さにした様な筒形の深編笠をかぶり、袈裟をかけ、刀を帯びて尺八を吹きつつ托鉢行脚する独特なスタイルを持つ僧たちがあり、虚無僧とよばれました。そして、甲州にもいたそれらの僧たちは、乙黒村(現中央市)にあった普化宗(ふけしゅう)明暗寺(みょうあんじ)に所属していました。
[2013年中央市れんげまつりの際に行われた虚無僧行列]


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しかし、普化宗は明治4年(1871)に明治政府の官命により廃宗とされたので、乙黒の明暗寺(その本寺であった鈴法寺(現東京都青梅市)も)は廃寺となりました。
[2013年中央市れんげまつりの際に行われた虚無僧行列]
市内に残された資料をみると乙黒の明暗寺と西野村(現南アルプス市)とのかかわりを見て取ることが出来ます。
[現在の中央市乙黒にある明暗寺跡の石碑(2013年4月撮影 甲斐日産自動車玉穂整備センターの東道路に面した敷地内にある)]
市内のお宅から寄贈していただき収蔵した文書箪笥の中から、17点の領収書がみつかりました。江戸時代から明治時代にかけての、西野村と乙黒明暗寺とのやり取りのわかる文字資料です。その内訳は、西野村が乙黒明暗寺に払ったお金の領収書が14点、西野村の名主が明暗寺宛に支払済額の確認と今後の支払いを約束する内容の文書が1点、明暗寺宛の手紙文の控えと下書がそれぞれ1点づつというものです。(※以下、この資料17点を「西野村明暗寺資料」と称します)
[西野村普化宗乙黒明暗寺金納覚17点(I-13-0-17-23西野功刀幹浩家資料より・南アルプス市文化財課所蔵)]
山梨の虚無僧について研究していらっしゃる伊藤久也氏のご協力を得て、まずは、干支と月日しか記されていない資料17点の作られた年特定作業や年順並べの考察を行いました。その結果、これら西野村明暗寺資料は、安政5年(1858)から明治4年(1871)の14年間に書かれたものであると判定できました。
資料年代特定作業においては、まず、資料中に、1点だけ『元治元子年』(1864)という元号の記載のものがあったことにより、その前後の年の資料であるということが推定でき、つづいて、『辰壬』と記された、閏(うるう)年を明治元年(1864)と比定しました。
さらに、伊藤久也氏の研究により判明していた明暗寺の印影の変遷と明暗寺の集金人として記名のある『桑原市郎兵衛』という人物の活躍年代が、年特定の補助となりました。
[西野村普化宗乙黒明暗寺金納覚17点年順整理表(南アルプス市文化財課〇博担当案)]
キャプ6 写真F
『  覚

一金二朱也  来ル丑年分半金此度相渡皆済
一金一分也  来ル寅年分御帳面二は相記候得ども相渡不申候
右の通相違無御座候間来寅年分
来丑年相渡可申候以上
 元治元子年
十月 九日   西野村
         名主
         与市左衛門 ?
      明暗寺
       御役人中   』



[元治元子年10月9日(1864)明暗寺納覚7-2(I-13-0-17-23西野功刀幹浩家資料より・南アルプス市文化財課所蔵)]

ところで、なぜ、村人たちの檀那寺でもない乙黒(現中央市)の明暗寺に、西野村はお金を毎年払う必要があったのでしょうか?
これは、江戸時代中ごろまでに確立された虚無僧の「取締場(留場とめば)契約」というものが、西野村と明暗寺の間で交わされていた結果だと考えられます。
取締場(留場)契約とは、虚無僧が村に入り、托鉢として金品を要求しないこと、止宿しないことを約束する代わりに、虚無僧を統括する寺に、毎年お金を払うことを約束するものです。このような約束を虚無僧寺と交わした村々には「留場証文」と呼ばれるいわゆる契約書が遺されている場合も多く、山梨県内では、市川三郷町立図書館に文化8年の市川大門村留場証文、山梨県立博物館に現南アルプス市域の文化7年下高砂村留場証文・文政4年吉田村留場証文が収蔵されているそうです(伊藤久也氏文献より)。
残念ながら、今回考察している西野村虚無僧資料17点の内に「留場証文」は含まれていませんでしたが、幕末から明治の初めにかけて取締場(留場)契約のもと、明暗寺の集金人が西野村にほぼ毎年、月日を決めずにやって来ては、様々な名目で金を請求していたことがわかりました。また、その明暗寺側の度重なる要求に、抗いながらも、完全に拒むことができずに支払わざるを得ない状況であった西野村の姿も見えてきました。
7ー2 
 『  覚

一金二朱也  来ル丑年分半金此度相渡皆済
一金一分也  来ル寅年分御帳面二は相記候得ども相渡不申候
右の通相違無御座候間来寅年分
来丑年相渡可申候以上
 元治元子年
十月 九日   西野村
         名主
         与市左衛門 ?
      明暗寺
       御役人中   』

明暗寺の請求金名目の種類として、必ず毎年(3年以上の前払いが常時・時には重複して)支払っているものは「見廻り料」ですが、その他に加えて上乗せする形で、毎年のように「穀代」「寄附」「寄進料」などを受け取っており、契約以上の支払いを西野村がさせられていたのは明白です。明暗寺の桑原市郎兵衛という敏腕集金人が巧妙に要求してくる、毎年定額ではない寺への支払いは、西野村と同じように、留場契約を結んでいたほかの甲州の村々の村役たちも悩ませる案件だったに違いありません。 
[元治元子年10月9日(1864)明暗寺納覚7-2(I-13-0-17-23西野功刀幹浩家資料より・南アルプス市文化財課所蔵)]
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 『  覚 
取締印
一金一両也  御寄進料内金一分
       来ル申年分前償返済残金三分此度御済有之候
     金四百文見回り料 来申年分
右は拙寺再建二付書面之通り
御寄付被下厚致寺納候以上
午五月十七日  明暗寺用達役 ? 桑原市郎兵衛
      西野村 御役人中       』

[午5月17日(明治3年(1970)明暗寺納覚11(I-13-0-17-23西野功刀幹浩家資料より・南アルプス市文化財課所蔵)]
今回は、市内白根地区(旧西野村)を訪れた乙黒明暗寺の集金人の遺した領収証などの分析から、西野村と虚無僧寺(明暗寺)の関係を紐解く作業を試みてみました。
 江戸幕府からも認められ、武士身分を持ちながら僧侶という独特の地位を持つ虚無僧の取り扱いは、村々にとって苦慮することも多く、偽物も多く現れて負担も増えたため、どうやら甲州では、江戸時代の文化・文政期頃以降(1800年代~)には、取締場(留場)契約という治安維持の制度が広く村々いきわたっていたようです。ですから、昔の時代劇で見たような、街や村中をミステリアスなスタイルの虚無僧が尺八拭きながら闊歩していたなんて風景は、江戸時代の後期には見られなかったと考えられます。 しかし、結局は、この契約を楯に、村を訪れては、名目のいい加減な筋の通らない金まで徴収していく、村にとって歓迎されない明暗寺の集金人の訪問があったわけで、そう、うまくはいかなかったようです。
[2013年中央市れんげまつりの際に行われた虚無僧行列]
参考文献:
・「虚無僧寺と村が結んだ留場(取締場)契約の実態~乙黒村世話人八左衛門の活躍~」伊藤久也 2021年『一音成佛(第五十号)』虚無僧研究会
・「〈改訂〉甲州の虚無僧 聖と俗の世界」弦間耕一 2013 甲斐郷土史教育研究会
・「府中宿に〇△がやってきた!①浪人・山伏・座頭・虚無僧」花木知子 2010年6月『あるむぜお92』府中市郷土の森博物館だより
・「府中宿に〇△がやってきた!③虚無僧との契約」花木知子 2010年12月『あるむぜお94』府中市郷土の森博物館だより
・「甲州の虚無僧 聖と俗の世界」屋代浩二郎 2003 甲斐郷土史教育研究会
・「虚無僧」保坂裕興 2000年『シリーズ近世の身分的周縁1 民間に生きる宗教者』吉川弘文館
・「明暗寺」1997 『玉穂町誌』 
・「十七世紀における虚無僧の生成:ぼろぼろ・薦僧との異同と「乞う」行為のあり方」保坂裕興 1994『身分的周縁』京都:部落問題研究書出版部
・「虚無僧寺 乙黒の明暗時」内藤正之 1972 玉穂村郷土研究会

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