金丸氏は代々武田家に仕える家柄で、現在の長盛院の地に館を築いた。東側は崖の要害で、西側には土塁と堀がめぐらされている。四代金丸虎義の次男が武田二十四将にも数えられる土屋右衛門尉昌続、五男が土屋惣蔵。
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真言宗の寺院。武田氏の氏神武田八幡神社の別当を務め、武田氏の戦勝祈願寺でもあった。信玄が自筆し法善寺へ奉納した和歌百首は文化8年(1811)の火災で焼失したが、焼失前に筆写された木版本が残る。
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臨済宗寺院。信玄の母、大井夫人の菩提寺であり、夫人の墓がある。もともと長禅寺と称するが、後に甲府に長禅寺が造られたため古長禅寺と称するようになった。母とともに信玄も、時の住職、岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)に深く帰依し、「信玄」の法号も岐秀が授けたものと言われる。県指定史跡。
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古長禅寺は正和5年(1316年)に夢窓国師が本尊釈迦如来を安置、禅刹を興したことに始まるとされています。
このビャクシン自生地は「お釈迦堂」と呼ばれており、開山当時四天王をかたどり、旧客殿前庭の四隅に約十メートルごとに植樹され、通称「夢窓国師手植えの四つビャクシン」とも呼ばれています。その伝承から、樹齢約700年といわれます。
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跡部大炊助勝資(生年不詳)は、武田家家臣団の中で最も多くの朱印状を奉じ、外交、内政ありとあらゆる分野に関わった官僚でした。
信玄、勝頼の二代にわたり、主君の間近に控える側近として活躍しましたが、天正十年(一五八二)武田家滅亡の際に勝頼に従って討死したとされます。
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東落合の常泉寺は、武田勝頼に従い天目山で自害した河村下野守道雅の屋敷跡と伝わっている。寺は、道雅の妻が亡き夫の菩提を弔うために建立したと言われ、河村家ゆかりの阿弥陀如来なども伝えられている。
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武田信虎に仕えた有力な武将だったが、忠言が疎まれて遠ざけられ、芦安地区に住んだと地元で語り伝えられる。住居があったとされる場所は現在でも「殿屋敷」と呼ばれ、大曽利(おおぞうり)地区大宝寺(たいほうじ)に墓がある。
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韮崎から続く竜岡台地を信玄が掘り抜いたとの伝承が残る水路。近年では御勅使川の水流によって、自然に掘りぬかれたとする説もある。人為的にせよ、自然にせよ、堀切北東に隣接する御座田(みさだ)遺跡の発掘調査によって、すでに13世紀には、堀切が存在していた可能性が指摘されている。
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将棋頭は、その名のとおり将棋の駒に見立てられた石積みの堤防で、国の史跡に指定されている。武田信玄が築堤し、御勅使川の流れを分流したと伝えられてきたが、史料的裏付けがなく初現は不明である。
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西に大塚遺跡、南に野牛島・大塚遺跡、東に石橋北屋敷遺跡に囲まれた遺跡。古墳時代前期や奈良・平安時代、中世の集落跡。遺跡内の小さな谷底から破片どうしが融着し形が歪んだ須恵器の大甕片が出土し、遺跡周辺に須恵器窯が存在する可能性が指摘されている。また注目される遺構として、炭焼の平窯や和鏡が副葬された土坑墓、中世の道路跡なども発見されている。
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奈良・平安時代から中世までの集落跡。奈良・平安時代の住居跡は現在の甲西バイパスより西側に広がるのに対し、中世の溝跡や土坑墓はより能蔵池に近いバイパスの東側を中心に発見されている。野牛島集落の発祥は能蔵池北側であるとの伝承があるが、遺跡の調査結果からその伝承は中世以降能蔵池周辺に集落が移動した後の状況を伝えていると考えられる。写真は平安時代の住居跡。
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法善寺の塔頭(たっちゅう)「福寿院」の西側に位置する。中世の水田とともに溝によって区画された戦国時代の寺院跡が発見され、「福寿院」が東側へ広がることが明らかとなった。寺域内からは火葬骨を埋葬した木棺が出土。木棺には梵字や真言の偈文(げもん)が墨で書かれ、その内容は当時の葬送の手順を書いた元興寺極楽坊所蔵の『入棺作法』の内容とほぼ一致している。こうした状況から、寺院と関係した人物が葬られた可能性が高い。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
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「法善寺境内図」によれば、近世の法善寺の周囲には20を超える塔頭があり、壮大な規模を誇っていた。発掘調査の範囲は、その中でも一番大きな塔頭である「福寿院」の一部で、戦国時代の土器や木製の卒塔婆、五輪塔、石臼などが発見された。土器の中には僧侶の名前と思われる文字が墨書されたものもある。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
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弘法大師創建の伝説が残る寺院。本尊は地蔵菩薩。武田信武も深く信仰したと伝えられる。八幡寺には次の伝説が残されている。
大師が当寺を建てた時、見なれない童子が毎日来て手伝ってくれた。完成した夜、その童子が夢に現れて言った。「われは若宮八幡の神なり」。これを知った大師は感銘し、本堂の正面に安置し奉った。これによって清水山八幡寺と号することとなったという。
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安藤家住宅は約300年前の建物で、国の重要文化財に指定さています。江戸時代は西南湖村の名主を務めた旧家で、現在まで一度も火災に合うことなく、往時のまま保存されています。
西南湖の集落の中心にありながら、一歩踏み入れた瞬間、静寂に包まれた癒しの空間です。茅葺屋根の江戸時代の豪農の暮らしを今に伝えます。是非ご体感ください。
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戦国時代以前から続く伝統の市。
現在も2月の10・11日の両日に開かれ、甲府盆地に春を呼ぶお祭りとして親しまれている。
昔から十日市で売られていないのは「猫の卵と馬の角」と言われるくらい、何でもそろう盛大な市である。
古くは、法憧院の天文3年(1534年)の厨子銘に十日市場の村名が見える。
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大日経は金剛頂経と共に密教の根本経典であり、716年インドから唐に来た名僧善無畏三蔵が翻訳した経典である。三蔵はさらにその経典についての講義を行い、それを弟子の一行禅師が筆録したのが経であり、宗教の理論的説明のさきがけをなすものとして仏教学徒の必読の書とされている。法善寺蔵のこの本は世に高野版といわれる本版本であり、巻末の奥書によれば弘安元年(1278年)頃版刻されたものである。
所在地/南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/法善寺
指定年月日/昭和53年3月30日
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これは信玄が武田八幡宮に奉納したものであるが、明治初年神仏分離の際、法善寺へ移されたものである。「備州長船兼光」と在銘で長さ四尺六寸身幅一寸五分厚さ四分半もある実に堂々とした大薙刀である。兼光は鎌倉時代の長船鍛治を代表する名工で、初代と二代とがあり、二代の頃には武威を誇示するのあまり三、四尺もある豪刀が全国的に流行した。銘の書体から見たのでは初代か二代か決めかねるが、時代相を反映した雄大な姿から見て二代兼光作と思われる。
所在地/南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/法善寺
指定年月日/平成6年11月7日
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土屋惣蔵は武田家滅亡の最後まで勝頼に仕えた武将。織田軍を防ぎ、勝頼に自害の時を与えた「片手千人斬り」の伝説を残す。惣蔵の墓の他、次兄昌続ら金丸氏一族の墓がある。
市指定史跡
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