寺記によれば、奈良時代に華厳宗の寺院として開山されましたがその後荒廃し、16世紀の初めに悦堂和尚が曹洞宗寺院として再興しました。境内には武田信虎に仕えたと伝えられる武将、名取将監の墓があります。
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山への入口に立つ栂の巨木で市指定天然記念物。かつては千年栂とも呼ばれました。根元には山の神を祀る4基の石祠が安置されています。戦国時代名取将監がこの山の神に狩りの成功を祈った伝承も残されています。
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沓沢集落の入口に祀られています。古くは陸神(どうろくじん)とも呼ばれました。祠の中には丸石がいくつも置かれ、無病息災を祈願するためヌルデの木を削って作ったオホンダレサマも見ることができます。
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曽我兄弟と同族であった伊東氏が伊豆権現を勧請し、ほかに曽我十郎、虎御前が祀られたことから、三社神社とも呼ばれていた。大正時代に社殿が倒壊したため、現在ご神体は諏訪神社に合祀されている。
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武田信虎に仕えた有力な武将だったが、忠言が疎まれて遠ざけられ、芦安地区に住んだと地元で語り伝えられる。住居があったとされる場所は現在でも「殿屋敷」と呼ばれ、大曽利(おおぞうり)地区大宝寺(たいほうじ)に墓がある。
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木こりの太郎助は、村の衆と山小屋に泊まり込んで山仕事をしていました。12月のお松節句の頃(13日)になると、仲間はいつものように正月準備のため村へ帰ることにします。しかし働き者の太郎助は、もっと稼ごうと1人残ることにしました。村の衆がいなくなった山の中はうって変わって静かになり、夕闇が深くなるにつれ、太郎助は心細くなりました。仕事もそこそこに山小屋に引き上げてきたところに「オーイ」と呼ぶ声。誰かと思い外に出てみると、そこに立っていたのは満月のような目が一つ、口は耳元まで裂けた一つ目小僧でした。恐ろしくて震え出した太郎助は、勇気を振り絞り、燃えさしを怪物の目玉めがけて投げつけます。すぐに鍵をかけ、布団にもぐり込んで、怖さに震えながら一夜を明かすと、朝、一目散に村へ逃げ帰りました。その後、あまりの怖さから太郎助は亡くなってしまいました。村の人々は欲張りの太郎助を一つ目小僧が懲らしめたのだと言ったそうです。
太郎助を「欲張り」と決めつけるのはなんだかあわれな感じもします。「働き者」であった太郎助は、なぜ一つ目小僧のために死んでしまうことになったのでしょうか。それを解く鍵は誰もが知っている「一つ目小僧」にあります。
関東周辺で一つ目小僧が現れる日は実は決まっていて、12月8日と2月8日前後に集中します。沓沢でも師走の他に2月3日節分の日にも一つ目小僧が現れると信じられ、今でもバリバリの木の枝に鰯の頭を刺したものを魔よけとして玄関に飾っています。この信仰は「コト八日」と呼ばれる民間信仰で、古くから日本各地で行われていました。各地でさまざまな言い伝えがあるため、ひとくくりにはできませんが、この日は神様が移動する日とも考えられ、それゆえ人は神の姿を見ないよう家にこもり、物忌みする地域も多いのです。
12月13日に山仕事をせず、正月支度をする沓沢の風習は「コト八日」の慣習の一つであったのでしょう。太郎助が一つ目小僧と出会ってしまったのは、12月13日には山仕事をしないという古い約束事を破ったからなのです。一つ目小僧の昔話は山とともに生き、山の神を信仰してきた沓沢の人々の伝統を今に伝えています。
ちなみに、この一つ目小僧、小正月に行われるどんど焼きにも関係しています。沓沢の言い伝えによれば、12月末に悪神がやってきて、病気になる人を帳面に付けます。その帳面を悪神は正月の間、道祖神に預けますが、村人を守る道祖神はそれをどんど焼きで燃やしてしまい、村人の1年間の健康を保証するのです。別の地域では一つ目小僧を悪神とする例が多く、沓沢でも「一つ目小僧=悪神」であったとも考えられます。
駐車場のある御勅使川右岸の地域は、江戸時代安通(あんづい)村と呼ばれていました。御勅使川が氾濫しても、隣接した村との通行ができたことから「安通村」と呼ばれたと考えられています。明治8年1月、隣の芦倉村と合併して、両村の一字をとって、芦安村が誕生しました。