芦安から信玄橋へ通じる県道甲斐芦安線は御勅使川の古い流路で、「前御勅使川」、ちょっとなまって「まえみでえ」と呼ばれています。戦国時代、御勅使川の本流はこの前御勅使川だったと云われています。江戸時代から明治時代には、本流は現在の御勅使川に移り、増水時のみ水が流れていたようです。明治31年に六科将棋頭の上流が締切られ、前御勅使川の歴史に幕が下ろされました。昭和40年代ごろまでは旧河原の両岸に不連続の堤防、かすみ堤が残されていましたが、現在ほとんどの堤防は削平され、道路として利用されています。
写真は明治29年に起きた大水害後、堤防を復旧している様子が写されたもの。旧運転免許センター(野牛島)付近。
[画像:個人所有」
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御勅使川扇状地の扇頂部に位置し、扇状地全体の治水の要とも言える有野地区には、水害防護の水宮神社が祀られている。寺記では天長11年(834)に起こった大水害の際、天皇より勅使が遣わされ、水の神である水波能女命(うずはのめのみこと)をこの地に祀ったのが始まりと伝えられている。大正15年水宮神社拝殿を改修する際にも、下流の村々から寄付がよせられた。
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江戸時代前期の建物。甲府盆地西部では最も古い民家で、徳島堰を完成させた矢崎又右衛門のゆかりの家でもある。矢崎氏は江戸時代を通じ有力農民として有野村の名主を務めていた。市指定建造物。
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徳島堰は韮崎市上円井(かみつぶらい)で釜無川から取水し、南アルプス市曲輪田新田(くるわだしんでん)まで約17kmを結ぶ灌漑用水路。
江戸時代の寛文5年(1665)江戸深川の徳島兵左衛門(とくしまひょうざえもん)によって開削が始められた。
2年後には曲輪田まで通水に成功するが、大雨によって二度堰が埋没すると兵左衛門は事業から手を引き、その後甲府藩が事業を引き継ぐ。
甲府城代から堰の復旧工事を命じられた有野村の矢崎又衛門(やざきまたえもん)は、私財を投じて工事に取組み、寛文10年に工事が完成し,翌11年に「徳島堰」と命名された。
堰の開削によって耕地が広がり、曲輪田新田や飯野新田、六科新田など新たな村々が開かれるなど、水不足に悩む地域に多大な恩恵がもたらされた。
現在でも徳島堰の水は、水田だけでなくスプリンクラーに導水され、市内の桃やさくらんぼを潤し、フルーツ王国南アルプス市を支えている。
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途切れることなく一直線に延びる堤防。洪水から人々や町を守る堤防がこうした姿であることは現在では当たり前ですが、少なくとも江戸時代から明治時代の堤防では、途切れ途切れの姿が普通でした。この不連続の堤防は明治時代ごろから「霞堤」と呼ばれるようになります。
御勅使川の堀切橋付近を見てみましょう。前御勅使川に比べると、堤防と堤防の間、つまり遊水地が広く確保されています。増水した時には途切れた部分から水を逆流させ、一時的に水を蓄える機能も果たしていたと考えられます。このように霞堤は、先人の長い経験を踏まえながら「あふれる」ことも考えて造られた堤防でもあるのです。
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湧き出た御勅使川の伏流水をせき止めて造られたため池。池には赤牛の神様が住むといわれ、赤牛が村人に椀や膳を貸してくれる昔話が今に伝えられている。中島には水神でもある弁才天が祀られている。
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大正9年に竣工。高さ7m、長さ109.1mある大型の堰堤。芦安、藤尾堰堤とともに現在でも大正期の姿をとどめている数少ない堰堤のひとつ。芦安堰堤と並び、「御勅使川治水の双璧」と呼ばれていた。現在でも私たちの生活を支えている。
[画像:個人所有]
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櫛形山中腹の標高約800m~900mに立地する集落です。
かつては「鷹尾」と表記されており、これは、昔、日本武尊が酒折の宮から櫛形山を眺め、鷹が巣に座している姿に見えたことから「鷹座巣山」と呼ばれたという伝承によるもので、尾の北側にある集落を「北鷹尾」、つまり現在の「高尾」地区と呼ぶようになったと言い伝えられています。ちなみに南高尾は平林地区(現富士川町)です。
集落の西端には式内社に推定される穂見神社が佇み、東南方向に傾斜し眺望が開ける位置に広がります。
江戸時代を通しておおよそ20戸前後があったとされ、林業が盛んとなった昭和の戦後まもなくにかけては最も戸数が多く、30戸を超えていました。
写真は昭和33年頃の様子です。静けさの中にも子供たちの声が聞こえてきそうな昔懐かしい「高尾」の風景です。
[画像:個人所有]
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甲府や竜王方面から、上今諏訪、西野などを経て高尾を結ぶ道。
現在でも高尾街道と呼ばれます。
写真の道標は高尾集落から遠く離れた上今諏訪の地にあり、高尾道の旧道沿いに今もひっそりと佇みます。
右あしくら 左たかお と記されています。
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昭和7年にコンクリート製の旧信玄橋が開通するまでは、上高砂と龍王を隔てる釜無川を渡るには、「高砂渡し」と呼ばれる渡船を利用する必要がありました。ただし、渡しが運航するのは5月頃から12月中旬までで、水の少ない12月から4月までは仮橋がかけられていました。
[画像:八田村誌]
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本州中部のアルプスなど標高およそ2,500メートル以上の高山帯に生息している。ライチョウははじめ北方に広く棲んでいたが、氷河期とともに南下し、再び地球が暖かくなったときには大陸から独立してしまったので高山に残されたものである。昭和30年に「国の特別天然記念物」に指定されている。
生活史は、まず4月につがい形成がおこなわれ、5月から繁殖期に入ります。やがて交尾が行われ、雄が見張りをする間に雌は巣作りと産卵を行い、7月上旬にふ化し、雛はすぐに歩いて餌をついばむようになる。雄は家族と離れて雄同士で群れをつくる。したがって雌のみが雛を育てることとなる。やがて、10月には雛は一人前に成長し、ここで家族は離散する。
南アルプス北部では北岳、間の岳、農鳥岳などいわゆる白根三山をはじめ、仙丈ヶ岳、駒ヶ岳、鳳凰三山などに分布している。
学名/ライチョウ(Lagopus mutus・ライチョウ科・Tetraonidae)
指定年月日/大正12年3月7日
写真撮影/森本聖治氏
樹高25メートル、樹齢千年とも言われる。落雷を受けながらも天高く枝を張り、風土を守ってきた。「三恵の大ケヤキのように」と語り伝えられ、人生の手本にも、励ましにもなってきた。
所有者、管理者/南アルプス市
指定年月日/昭和2年11月30日
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以前は伊豆神社のご神体であったが、荒廃したので大正十年諏訪神社に遷祀された。これまで、曽我兄弟木造とされてきたが、平成十二年に行った鑑定結果と、合併前の芦安村文化財審議会及び諏訪神社の氏子により、この木造が曽我十郎と虎御前であるとの見解が出され、名称変更されることとなった。
曽我十郎と恋人同士であった芦安出身の虎御前を祀った木像であると思われる。
所在地/南アルプス市芦安芦倉960-11142
所有者、管理者/諏訪神社
指定年月日/昭和59年11月26日
備考/
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道祖神と並んで立つ榎原の蚕神。
現在は果樹の広がる耕地が、昭和40年代初めまではいちめんの桑畑でした。
蚕神の碑は、病気に弱く、当たりはずれの多い蚕の健やかな成長を願って日本各地に建てられました。
大正から昭和にかけて建てられた養蚕繁盛を願う蚕神(蚕大神)の石造物は、他に上高砂と下高砂、徳永にもありますが、榎原二組観音小路に建立の蚕神が一番古く、大正七年戌午二月十日と刻まれています。
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南アルプス市白根地区西野区内に大正時代初期に、開店したばかりの喜久屋商店。
大正時代から昭和10年代まで営業されていた喜久屋商店は櫛形山の中腹にある高尾の夜祭で有名な穂見神社に向かう通称高尾街道沿いにあります。
甲府方面から釜無川を渡って参詣する主要ルートであったため、西野区内でもこの街道に面する家では喜久屋商店の他、呉服屋や薬屋を営むものが2・3軒ありました。
喜久屋では、創業した芳明氏が甲府一高で同級生だった倉庫町の山梨商会経営者の協力を得て、駿信往還沿いの倉庫町にも進出し、タクシー業務部と臨時支店をもちました。
現在でも11月22日~23日にかけて、高尾穂見神社の夜祭が行われます。
かつては高尾山にある穂見神社を目指して、提灯を持った人々の行列が夜通し街道を多く行き交ったといいます。
[画像:個人所有]
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南アルプス市八田地区上高砂区には、洪水除けの神様として勧進された九頭龍神の祠が神明川沿いに3箇所あります。
7月の最終日曜日に、これらの場所で夕方からお祭りが行われています。
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これは、昭和11年の通帳(かよいちょう)です。
この通帳は野牛島にある中島商店で発行されたものでした。
現在でも、少量ずつですが、魚やお肉、野菜、果物、お菓子に日用雑貨、子供向けの駄菓子もありますし、電化製品だって売っています。
毎日開いているし、まさに地域に不可欠な商店です。
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上八田薬師堂にある那賀都神社(なかとじんじゃ)では、大嶽講(だいたけこう)がいまも行われています。
ろうそくに火をともし、太鼓をたたく音に合わせて「ダーイターケサーンナーカトーノジーンジャー、オーヤーマズーミノーカミー、オーイーカヅチノカミ、タカオーカミノーカミ、ロッコーンショージョー、ツツシミウヤマイテ、キーガーンタテーマツールー」と節をつけて何度も祝詞を唱和します。
講の手順をまとめると、「講の仲間が集まったら堂の中に入り、年長者が太鼓をたたいて音頭をとって、『大嶽山那賀都神社祝詞』を10回皆で唱える。
その際、回数を間違えないように、白い碁石を並べて数える。さいごにもう一度みなでゆっくり同じ祝詞をあげておしまいにする」というものです。
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大正14年に現南アルプス市西野の功刀七内氏によってはじまったガラス温室によるメロン栽培ですが、昭和初期には西野周辺地域(現白根地区)の名産品として、全国的に名をはせるようになりました。
昭和初期以前から当該地域にお住いの家の方に、古いアルバムを見せていただくと、メロン栽培に関わっていたご先祖の姿が写し出されているのをよく目にします。
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現在、南アルプス市域では、あんぽ柿・枯露柿が盛んです.
その原料となる渋柿には、9月終わりから12月にかけて、刀根早生・平核無・勝平・大和百目・甲州百目・武田などの品種が移り変わっていきます。
そのうち、勝平と大和百目の原木は南アルプス市白根地区にあったものです。
とくに大和百目は、甲州百目とならんで、現在山梨を代表する大型の枯露柿の原料として大変人気があり、南アルプス市域で多く生産されている品種の一つです。
大和百目という品種の歩みは、西野に近接する上今諏訪の手塚半氏の竹林の中にあった一本の柿の木からはじまりました。
この木は甲州百目の枝代わりと言われていましたが、果実はそれ以上の大きさで、その上、核(種)が少なく、甲州百目よりも早く熟します。
枯露柿用として用いると、果肉が非常になめらかで食感がよく、色も鮮やかに仕上ります。
この樹の柿に魅せられた西野の手塚光彰氏が、今諏訪の原木から穂木をとって苗木に仕立てて、大正7年3月に、現在の桃ノ丘団地付近に50本の苗木を植え、当時としては珍しい柿の園地を造成しました。
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明治以降、甲州枯露柿は山梨の主要輸出品の生糸や水晶等と並んで重要な輸出品のひとつとして数えられていましたが、
大正時代に入ると輸出先での顕微鏡検査で枯露柿の表面に多数の有害微生物がみられるとして、衛生的見地から天日干しという製法の問題点が指摘されるようになっていました。
この問題解決にいちはやく反応した生産者が、白根地区西野の当時30歳代であった手塚光司氏でした。
昭和5年か6年頃から光司氏が枯露柿の火力乾燥に関する研究を行い,昭和9年に乾燥室の装置、加工法、排気装置、温度、燃料等を開発し、火力乾燥法を完成させます。
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干し柿作りには硫黄燻蒸が欠かせない工程の一つです。
「ホッタ回し」というへた周りの形状を整える作業後、側面の皮を剥いた柿は、まず硫黄燻蒸されます。大正時代に福島で発明された工程だといわれています。
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白根飯野3地区で行われている、夏の道祖神祭りでは、ちょうど15時位から地域の男性が40人ほど集まり、
「ちょうまたぎ」または「雨屋(あまや)」とよばれる構造物を組み立て始めます。
30分ほどで骨組みが出来上がり、1時間ほどすると、屋根や提灯、風鈴、花などで美しく飾られらた「ちょうまたぎ・あまや」が完成します。
午後5時からは子供たち向けのリクリエーションもその前ではじまり、賑わいます。
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果物の出荷用掛け紙
西野の芦澤家のお蔵の戸棚から、メロンを出荷する際に使用された、掛け紙が見つかりました。
富士山とブドウ、一番手前にメロンが描かれています。
メロンは大正から昭和初期にかけて西野の特産品でした。
掛け紙の遺されていた芦澤家には、メロン栽培に当時使用していたガラス温室等の写真も残されていました。
収穫され、生産者の名入りの掛け紙をまとったメロンは、昭和5年に開業した峡西電鉄西野駅の引き込み線にあった果物専用貨物ホームから、東京や関西等の大都市部へ出荷されました。
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写真は、高砂枯露柿組合作業所前での集合写真です。
枯露柿が出荷用の木箱に詰められ、積み上げられています。
残念ながら高砂枯露柿組合作業所のあった場所は、いまのところわかっていませんが、この写真の存在は、八田地区高砂の枯露柿が昭和初期にアメリカに向けて輸出されていたことを物語る貴重な資料です。
[画像:個人所有]
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築山のどんど焼きでは、御勅使川扇状地の扇頂部分に近い築山の根方に、もみの木を使った巨大な左義長(さぎちょう)型のオコヤがつくられます。
築山区のオコヤを作るために必要なモミは、数日前に神主さんに見立ててもらい、築山区の山方に生えるものの中から選び出されるそうです。
神木となったもみの木はお神酒をかけてお参りした後、チェーンソーで伐採し根方に降ろされて、どんど焼きの前日に行うオコヤづくりに使われます。
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『タガシラセギ』とは、在家塚で現在も使われ続けている利水施設のことです。
江戸時代以降、扇状地のど真ん中に位置する在家塚での新田開発を可能にしたこのタガシラセギは、明治・大正・昭和と水田用の灌漑施設として使われ、その後産業の移り変わりとともに、桑栽培、果樹栽培へと使用されています。
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西南湖にある重要文化財安藤家住宅で行われる「安藤家住宅ひなまつり」では、貴重な横沢雛が飾られます。
甲州で明治大正期に多く作られた横沢雛には童子をモデルとした人形が一番多いのですが、他に、成人女性や男性、妊婦、長生きの象徴としての老夫婦、七福神などの神様などモチーフに多くのバリエーションがあります。
その中でも、ひときわ異質なのが、赤い髪の中国の伝説の妖怪、猩々(しょうじょう)のお人形がです。
猩々は、能の演目にも真っ赤な装束で登場する中国の伝説上の生き物のことで、赤毛で人間のような容姿をしており、酒を好むとされます。
また、赤いものを嫌う疱瘡神を追い払うという伝承もあり、子供の健やかな成長を願って送られたものと思われます。
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11月から12月、八田・白根地区を歩くと、いたるところで柿剥きが行われている様子が見られます。
そのそばには、剥きあがった鮮やかなオレンジ色の柿が可動式の棚に吊るされて、硫黄燻蒸室に順々に運ばれるのを待っています。
周辺の露地にまで、柿の上品な甘い香りがほのかに漂ってきて、季節感あふれる秋の空気で満たされます。
9月の終わりころから空調管理の整った屋内での乾燥をはじめ、11月に入ってから屋外の干場にようやく柿が吊されます。
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甲州では節分が近くなると、屋根より高いところに、「手すくい」と呼ばれる麺類をすくう竹製の道具や目の粗いザルに、とげとげの葉をもつネズミサシの枝を一緒にくくりつけます。かごの目は鬼の眼であり、今後起こりうる悪いことの「芽」にも見立てています。この目をたくさんつぶすと、一年の災いが減少するという信仰があります。人々はこの「鬼の眼」に向かって「鬼のまなこをぶっつぶせ~」と大声で唱えながら炒った大豆を投げます。
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白根地区飯野にある、富士川街道・倉庫街北交差点の北西部にあたるブロックは、明治時代に当市域の主産業であった煙草産業の中心地であり、その場所には山梨県内の農家で収穫された葉煙草が集められる飯野専売支局が置かれていました。
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「天神の井」は、豊村誌と櫛形町誌によると、『別名「七ツ池」とも呼ばれ、昔、天神様が七才の童子の夢枕に立ち、その教えに従って之を掘った。後に天神宮を祀って天神の御手洗となった。この水は旱魃にも涸れることがないと言われる。』と記載されています。
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榊小学校は、現在の南アルプス市櫛形地区上宮地に存在した小学校です。明治12年に榊村誕生とともに創設され、明治33年には榊尋常高等小学校となりましたが、昭和33年に小笠原第二小学校とともに統合されて櫛形北小学校ができ、廃校となりました。
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加賀美の瓦製造は、江戸時代(天保期1835頃から)甲府城に使用する瓦生産を農閑期に行ったのをはじまりに、昭和50年代初めまで行われました。
最も盛んに行われたのは明治中頃から昭和40年代末くらいまでの100年間ほどですが、作業風景を写した画像や記録は少ないです。
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沢登の龍沢寺には、伝説の男「せとじゅうさん」が瀬戸地蔵として祀られています。
←櫛形町誌(昭和41年刊)の瀬戸地蔵画像。この地蔵は昭和24年12月6日に建立したという。
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白根地区今諏訪は、御勅使川扇状地の扇端部が釜無川によって削られてできた浸食崖沿いに、南北に広がる集落です。
この地では浸食崖の上に集落がありましたが、崖直下からは豊富な湧水があり、明治期には、この水力を動力とした水車小屋=搗屋(つきや)が崖下にいくつも並んでいたそうです。すべてが同時期操業であったわけではありませんが、全部数えあげると、昭和30年代までに7カ所もあったようです。
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こちらは大正時代の大井村(現甲西地区古市場)にあった茶舗麻野屋の茶銘柄定価表です。
日本三大銘茶といわれる宇治茶・狭山茶・静岡茶の各種銘柄が並んでいます。宇治茶と狭山茶は一斤(600グラム)、粉茶の川根茶(静岡茶)は百目(375グラム)の値段が掲載されています。
この他、このチラシをよくみると、麻野屋では醤油も売っていたことも分かります。
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八田地区榎原の中沢製瓦店跡には、瓦を焼くために、大正時代に造られただるま窯が現存しています。
製瓦業が大正から昭和時代にかけて盛んであった南アルプス市域ですが、大正時代に造られただるま窯が、原型をとどめたまま現存しているのはここだけです。
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江戸時代から柿の野売りで知られていた南アルプス市白根地区西野では、明治40年代にはサクランボやモモの栽培も軌道に乗り初め、果実郷といわれるようになっていましたが、大正14年からは全国的にもいち早く温室栽培も導入しました。
南アルプス市の温室栽培史上、昭和16年頃に全盛期であったメロン栽培が最も知られていますが、そもそもメロンを栽培しようとしてガラス温室を大正14年に導入したわけではありません。
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白根地区西野でかつて種屋とよばれた蚕種家で使用されていた検尺器と顕微鏡。
その前に、この道具を使用した蚕種家についてですが、山梨県蚕糸業概史に記載されている大正14年蚕種製造業者調べによると、山梨県には大正14年に370の蚕種製造業者があり、そのうち現南アルプス市域が含まれる中巨摩郡には23の業者があったようです。
これらの道具は当時の白根地区西野村長谷部家の甲蠶館で使用されていたものです。
もっとも、地域の蚕種業者が活躍できたのは昭和初期まで。『昭和11年頃には蚕種の自家製造と配給を随伴した他県大資本製糸会社(郡是・鐘紡・片倉・東英語・昭栄)の特約取引の進出により(山梨県内の蚕種業者は)古くからの得意先を奪われ壊滅的に』なったとのことで、ちょうどこの頃に、西郡で最も大規模で有名な蚕種家でさえも休業したもようです。(昭和5年生まれの若草地区寺部在住者からの聴き取り等による)
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ひときわ目を引く真っ赤な紙。大正時代初期に行われた種痘(天然痘の)の接種済証です。
2期に分けて行われていた接種のうち、1期目の際に渡された証書はこんなに鮮やかな赤色だったようです。2期目は白い紙だったようですけれど、この1期目接種済証の真っ赤な色づかいが、江戸時代から続く疱瘡除けの習俗を彷彿とさせます。
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大正5年の櫛形地区榊小学校運動会プログラムと大正15年の西野小学校運動会プログラム。昭和50年代くらいまでは10月10日、スポーツの日前後が多かったようです。
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甲西地区東南湖の横川と西川の間を流れるみぞの側壁についているプレート。これらのプレートは、地方病の予防のために溝梁を自費でコンクリート化した際に寄付者や会社の銘を刻んだものです。
山梨県で地方病終息宣言が出されたのは平成8年のこと。その後、歳月が過ぎ、釜無川流域の人々があれほどまでに苦しめられた地方病の記憶を、実感を持って語る人の数はかなり少なくなってきています。しかし、よく目をこらせば私たちの暮らしのすぐそばに、まだまだかつての地方病との戦いの痕跡が残されていることに気づかされます。
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甲西地区の江原の浅間神社付近の湧水に発し、鮎沢、田島、和泉へと、旧四ケ村を流れる狐川は、常に水量が一定に豊富で、しかも適当な傾斜があったので、最盛期には20軒以上の水車屋が軒を並べていたそう。特に旧田島村には、「搗き屋通り」と呼ばれるほどの名で賑わっていた場所がありました(甲西町誌より)。米麦蕎麦などの籾摺りや粉ひきに、近在の人々が足繫く通った搗き屋は、大正時代に入ると電気を動力とする「電気搗屋」が現れ、数を減らしていきますが、昭和時代までは田島区に「搗き屋通り」の呼び名が残っていたそうです。(写真「田島搗き屋通り図』 甲西町誌昭和48年より)
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「地方病とたたかうポスター」をご覧にいただきたいと思います。山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。
山梨県が製作したこの地方病予防広報・啓発ポスターを見出し部分から読んでみますと、『三百余年前から蝕ばまれ悩まされ続けて来た地方病 今こそ完全撲滅の絶好の機会!!県政の重大施策としてとりあげてここに三年、有病地の指定解除、宮入貝の減少、患者の著減等々成果は上々である。 この好期をおいていつの世に根絶することができよう、みんなで力を併せて一挙に駆逐するよう今一段の努力をいたしましょう。』とあります。
このポスターには製作年が記載されていないのですが、見出しの文面と、「現在実施している予防対策」の項にPCBという薬剤によるミヤイリガイの刹貝と、コンクリート溝梁化工事に年間一億のお金をかけている」といった文言があること、当該資料の含まれる資料群全体の年代構成からかんがみて、この地方病対策ポスターは、だいたい昭和30年代中頃に作られたものではないかと考えています。
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徳島堰は、韮崎市上円井の釜無川から取水し、南アルプス市曲輪田新田まで伸びる役17kmのかんがい用水路です。寛文5年(1665)、江戸深川の町人徳嶋兵左衛門が甲府藩の許可を得て工事に着手し、寛文7年には曲輪田の大輪沢(堰尻川)まで通水したといわれています。
それから昭和40年代に釜無川右岸土地改良事業によってコンクリート化され、「原七郷はお月夜でも焼ける」といわれた御勅使川扇状地扇央部の常襲干ばつ地域にスプリンクラー網が整備されるまで、開削から300年の間に大雨による埋没など度重なる逆境乗り越え、現在の徳島堰の形となりました。
そんな南アルプス市の豊かな田園や果樹園の景観を守り続けてきた徳島堰ですが、実際どのようにして取水され、どんな旅路を経て私たちの暮らす南アルプス市までその水がやってくるのでしょうか!?今回はそんな徳島堰を流れる水の旅路を追ってご紹介していきます!
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堰沿いにある入戸野バス停
3つの発電所で大役を終えた徳島堰の水たち。そこからもう少し下流、入戸野沢との立体交差地点に差し掛かると丁度辺りは入戸野地区の集落となります。入戸野沢が水路橋で徳島堰を渡っているすぐ先。堰沿いには石造物とバス停、また集落中心地のシンボルである火の見櫓が並んで現れます。入戸野の町並みと徳島堰の変遷を見守ってきたであろう石造物の背面を流れる徳島堰。堰沿いの民家を見てみると、庭から堰の水面まで降りてこられるよう「つけえばた(洗い場)」が造られている箇所も多く、この徳島堰が集落の生活にいかに根ざし、溶け込んでいるかが伺える場所です。
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竪沢暗渠
大難所を乗り越えここらでひと息・・・とは行かないのがタフな徳島堰です!清哲町水上に入ってすぐに、また大きなカーブと描きながら竪沢暗渠へと突入していきます!今はほとんど水の流れが見えない竪沢、その上流に向かって大きく湾曲していくこの光景は確か前にもどこかで見たような・・・。そう、戸沢暗渠と同じような手法を駆使して沢を乗り越えていると考えられますね!
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大門沢暗渠
旭町上条南割まで指しかかった徳島堰。もう少しで南アルプス市!と言うところで韮崎市区間最後の暗渠が現れます。山梨県指定の一級河川大門沢を潜る大門沢暗渠。大門沢はほんの少しだけ水の流れがある程度の水無川で、周辺の民家などと見比べると天井川化しています。この大門沢暗渠を越えた向こう側にはいよいよ私たちの南アルプス市が見えてきます!徳島堰の水たちもラストスパートです!
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釜無川右岸第一調整池
徳島堰本体から分水された水たちがようやく辿り付くのは「畑地かんがい調整池」の通称第一調整池です。この調整地から南アルプス市扇状地の地下にはり巡らされたパイプラインを通って果樹園のスプリンクラーへと水が送られていきます!開削から約300年、「南アルプス市を潤す」かんがい用水路として悲願の任務達成となったのです!長い旅路を経てここまでたどり着いた徳島堰。でも皆さん、徳島堰はまだ続いているのを忘れてはいけませんよ!
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釜無川右岸第二調整池
南アルプス市飯野新田地区に入った徳島堰は最後の任務に向けて第二調整池へ分水をしていきます!しかしよく見ると調整池といっているのに溜まっている水の姿が見えないどころか、一面綺麗に整地されたグランドになってしまってるのは一体!?・・。実は第二調整地はこのグランドの地下に貯水のタンクが作られており、グランド自体は地域の人たちへ無料で開放しているとのこと。どこまでも地域想いで太っ腹な徳島堰!この調整ここでも貯められた水たちは地下パイプライン網を通ってスプリンクラーへと送られていきます。頭首工からここまで約16kmの旅路の中幾度となく難所を乗り越えながら、髄所で取水の任務を果たしてきた徳島堰。最後の大役を無事勤め上げてそのエンディングへと進んでいきます!
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白根地区今諏訪の手塚家に訪問調査に伺い、見せていただいたアルバム12冊を含む、たくさんの写真をお借りしました。いま、その内容の記録・分析を行っています。
写真は、おおむね昭和10年代から平成10年代までもので、三世代にわたる家族、地域、民俗行事の記録などが写し出されていました。
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甲府の雛問屋「松米」の引札
甲府の雛問屋「松米」は、江戸時代中期から昭和戦前まで甲府で雛人形や端午の節句飾り、だるまなどを製作して販売した「松城屋」という屋号の雛問屋です。初代から明治の10年代以前は店の通称を「松伝」と名乗っていました。(写真は「松米」の引札『美術 雛人形 ?ニ雛道具各種 甲府八日町 松榮斎松米商店 電話四十六 振替二百三十二番』)
江戸時代から明治、大正・昭和期に存在した甲府の雛問屋は「おかぶと(カナカンブツ)」「横沢びな」「甲州ダルマ」といった独特の在地の節句飾りや雛、玩具を生み出してきました。
「松伝」・「松米」という通称を持った「松城屋」の店の場所については、江戸中期の初代より甲府横沢町にありましたが、明治期に入って、火事によりいったん柳町一丁目に移転。その後、明治5年から16年の間に代替わりして「松米」と改称し、三日町一丁目九番地に出店。さらに、明治24年頃には八日町一丁目に移転したという経緯が判っています。
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西野功刀家より寄贈いただいた文書箪笥の中に、西野果実郷の父・小野要三郎直筆の手紙を発見しました。
「小野要三郎直筆功刀家宛書簡」
[明治45年1月17日 西野功刀幹浩家資料(南アルプス市文化財課所蔵)]
拝啓 謹言 昨日 上高砂小沢
伊ハ我承 是桃九十七代ト し
テ 委細ヲ入 金四百円ニテ 買
取呉候様申候 又 四五日
内之 又承知候ハ申付 無高
一寸申入候也
四十五年一月十七日
清水
小野要三郎
功刀七右衛門殿
南アルプス市域の果実郷では、その景観を作り上げた父と呼ばれる、小野要三郎という人物がいます。
石ころだらけで水のない不毛な御勅使川扇状地の土壌に、明治時代後半から次々と様々な果樹を県外から大量に取り寄せては植えて試作し、原七郷を多種栽培を基本とする果実郷に生まれ変わらせた中心人物です。
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白根地区西野村功刀家資料の整理で文書箪笥の中から大正初期(大正3年~昭和10年)の果物出荷に関する書簡が多数(130枚)見つかりました。表に打ち込んでみると、特に大正5年と7年に、販売先の問屋とやり取りした葉書(以降、「果実売立葉書」と称す)がまとまっており、その年の出荷の動向を見ることができるものでした。
この地域で、大正5年に甲州中巨摩果実組合は発足していましたが、基本的に大正12年に西野果実組合ができるまでは、販路拡大と出荷は個々の家と問屋との、直接交渉・取引で、なされていたものと考えられます。
[大正期の果実売立葉書の一部(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)]
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「柿の野売り籠」は南アルプス市の果物産業史における重要なキーアイテムです。この資料の大きさは、口径41cm・底径45cm・高さ43cm。にしごおりの人々が、渋抜きした柿を入れ、担いで売り歩いた際に使用しました。籠の内部は、柿の渋が染みて黒くなっています。
大正時代のはじめまでは、秋になると、渋抜きした柿を籠に入れて担いで、釜無川や笛吹川を渡って行商に出たにしごおりの人々。稲刈りをしているところに行って、柿を売ったり、籾と交換することで、生活を支えていました。
[展示された柿の野売り籠(天秤棒なし)十五所澤登家より寄贈・南アルプス市文化財課所蔵]
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大正時代に白根地区西野村の若者が、愛知県に温室栽培を学びに行き、手にした園芸講習会の終了証です。
[「大正14年第十七回園芸講習会修了書」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課所蔵)]
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[2023年2月開催の南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「ナニコレ!昔の道具」展における稲作の道具エリアの一部]
鎌(稲刈り) → 扱箸・千歯扱き・足踏み回転脱穀機(脱穀) → 唐箕(地域名:せんごく)(藁くずと選別) → 摺臼(地域名:するす)(もみすり) → 唐箕(地域名:せんごく)・万石通し(籾殻と選別) → 搗臼(精米) → 万石通し・ふるい(糠と選別) → 白米
稲刈りしてから白いお米になるまでに、想像した以上にいくつもの工程と道具が必要であることに驚きます。
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文化財課で収蔵している明治時代の写真に、甲西地区で起きた大火災に関するものがありましたので、ご紹介しようと思います。冷たい風を避けるように、子供たちが焼け残った建物の壁に張り付くように立っているのが印象的な写真です。人々がまだ皆、和服を着ています。綿入れの上着を着ていても、二月にこの程度の着衣で屋外にいては、寒いでしょうね。風やほこり対策なのか、ほっかむりをしている大人もいますね。
火災後9日目くらいの撮影ですが、焼け残った木材などが積み上げられて、だいぶ片付けも進んでいるよう状況にみえます。
[「明治三十八年一月二十四日夜 南湖村字東南湖大火災後ノ実況 同二月二日記念撮影」(南アルプス市文化財課所蔵)]
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ご飯を炊いてから食べるまで入れておく道具のお話をしたいと思います。
[・竈(かまど): 鍋・釜をのせて煮炊きに使用する場所。「くど」「へっつい」ともいいます
・火吹き竹: 息を吹き込んで火力を上げるために使う竹筒
・付木(つけぎ): ヒノキ・スギ・マツなどの薄片の先端に硫黄をぬったもので、火種や囲炉裏の炭火などから薪や灯心などに火を移す時に使いました]
電気やガスが使われていなかった時代は、「かまど」に薪を燃やしてご飯を炊きました。伝承館に展示されているかまどの前には「付け木」と「マッチ」「火吹き竹」もセットしてあります。
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昭和時代に生活必需品だったマッチを収蔵資料の中からご覧いただきます。
[「スパイ御用心 書類手紙御用心 職場乗物御用 防諜」 二等品 志摩燐寸製造所(南アルプス市文化財課蔵)]
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にしごおり(現南アルプス市域)の人々が甲府に行くには、釜無川だけでなく、荒川も越えなければなりませんでした。そのため、にしごおりの先人たちの遺した渡船に関する資料の中には、釜無川越えに利用する、高砂の渡し(現信玄橋辺り)・今諏訪の渡し(現開国橋辺り)・押切の渡し(現三郡橋辺り)の他に、荒川越えの資料もあります。
『 覚
一 荒川ばし代
拾ニ円也
右之通り請取申候
辰十二月
飯田新町
文吉
金右衛門
西野村
御名主様 』
明治から大正期の、荒川を渡る橋の通行料の領収書です。現在でいうと、国道52号線美術館通りを相生交差点に向かって架かる荒川橋辺りにあった、大正15年以前の仮橋時代のものです。12月にまとめて支払った金額が12円ということなので、一人当たりの橋利用料がいくらだったのかは不明ですが、村費からの公的な交通費として年間支払額の領収書が名主宛に出されているようです。
[I-13-0-17-17 荒川橋代請取覚-1(南アルプス市文化財課蔵・西野功刀幹浩家資料より)]
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現在、南アルプス市八田地区に、昭和7年にコンクリート製の旧信玄橋が開通するまで、上高砂と龍王を隔てる釜無川を渡るには、「高砂渡し(たかすなのわたし)」を利用する必要がありました。
[「大正5年頃の高砂の渡しの様子」(南アルプス市文化財課蔵)]
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明治終わりから昭和時代にかけて、県外の製糸場で働きに出ていたにしごおりの女性たち。市内にはそうした出稼ぎ工女たちが故郷に送った葉書が多く残っています。過去に西野村の相川ふくのさんという女性が明治31年から39年の間に武州入間豊岡町にあった石川製糸所から送った葉書をご紹介しましたが、今回は、今諏訪村の手塚家に30名ほどの村出身の女工が明治から昭和時代に掛けて送った80通もの葉書等を新資料として加えて、分析してみよう思います。
[明治41~45年埼玉・長野・山梨(諏訪村:現在の北都留郡上野原町)への出稼ぎ工女から届いた葉書(今諏訪手塚正彦家資料・南アルプス市文化財課蔵)]
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「ふるさと文化伝承館」が新しく生まれ変わって平成21年6月にリニューアルオープンしました。
愛称は「みなでん」
これからも皆さんとともに作り上げたい!という願いもこめて
「み・ん・な・で、み・な・で・ん」
って覚えてください!
世界的に知られる国重要文化財の「鋳物師屋遺跡出土品」をはじめ、市内の遺跡から出土した土器や石器、昔懐かしい民具などを展示しています。
当館では展示パネルを少なくし、スタッフによる展示案内などお客様とのコミュニケーションを大切にしています。不必要な場合にはお申し付けいただき、また、ご質問などはお気軽にお問い合わせいただければと思います。
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