滑走路南端にあり、御勅使川扇状地上の数少ないランドマークとして、建設工事に動員された地域住民や学生の集合場所のひとつとなった。
滑走路の南端付近は、浅い谷状の地形を埋め立てて造成されており、現在でも当時の盛土の様子をよく残しています。
造成工事にはスコップや「ジョレン」などの道具を用いて行い、土の運搬は「パイスケ」と呼ばれる天秤棒状の道具や「チョウセングルマ」と呼ばれた二輪の手押車やトロッコが活用されました。
造成後はローラーによる締め固めが行われていた部分もあったようです。
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冬に吹き下ろす「八ヶ岳颪(やつがたけおろし)を考え、八ヶ岳にむかって設計された幅100m、長さ1500mの滑走路。中央に設けられた誘導路は、今でも農道として利用されている。
現在でも、所々に60数年前動員され人々が造成した滑走路の盛土がそのまま残っている。平成17年度に実施した発掘調査の結果、当時の人々が滑走路両側の土を掘って滑走路に積み上げたたことがわかったほか、土が沈まないように締め固めたような跡も見つかり、当時の人々が行った作業工程を垣間見ることができた。
また、平成23年度には、滑走路北端付近で調査が行われ、滑走路西側を削り、その土を東側に盛って、傾斜をならす工事が行われた痕跡が確認された。
冬季の季節風(八ヶ岳おろし)に対応するため、滑走路はまっすぐ八ヶ岳の方向に向けて造られています。
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ロタコの呼応時に伴って掘られた横穴壕は燃料などを隠して備蓄することや航空部品などの地下工場にすることを目的につくられました。ループ橋から、ここ築山付近まで55基以上が掘られたようです。
横穴壕の工事は、大手ゼネコンが陸軍から受注し、ロタコの工事の中では最も早く、昭和19年あきころ(証言によっては、昭和18年中)から建設が始まったといわれています。
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陥没跡の反対側には横穴壕を掘る際に、掘り出された土の形がそのまま残っています。横穴壕は、戦後すべての壕が崩落などによって閉口し、現状では山肌にその痕跡を辛うじて確認できるといった状況にあります。
横穴壕の痕跡は、円形やU字形の陥没地形です。
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横穴壕の近くにある福王寺の過去帳には、ロタコ工事で亡くなった朝鮮半島出身者の名前ものこっているといいます。横穴壕が掘られた山の斜面は非常に崩れやすい地盤で、横穴の掘削工事は困難を極めました。
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江戸の商人徳島兵左衛門が考案し工事に取りかかり、後に有野の矢崎又右衛門が寛文10年(1670)に完成させた用水路。御勅使川扇状地上の旱魃地帯を潤した。終戦間際には、この徳島堰の堤防に沿って1~3号掩体壕とは異なるこのような形の掩体壕が並んでいた。
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掩体壕(えんたいごう)とは、飛行機を格納し、隠し、爆風から守る施設です。屋根の無いものや、屋根をコンクリートで造るものなど様々な形が知られています。
畑の中に残る掩体壕の跡。
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現在残る3基の掩体壕のうち、平成17年度に最初に発掘調査が行われ、掩体壕の形や大きさ、基礎の作られ方などが正確に記録されました。
3号掩体壕は新興住宅街に隣接する空き地にひっそりと眠っており、その基礎は60年あまりの月日を経て文字通りもう半ば埋まりかけていました。
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上高砂集落センターにて枯露柿生産農家のノリコさんとお話しました。
その時に「わたし、女子挺身隊だったのよ。終戦の時に愛知にいたのよ」と教えてくれました。
女子挺身隊とは、戦争中に軍需工場へ勤労動員された14歳以上の未婚女性の団体のことです。
高砂名物枯露柿のお話を伺おうとしていたので、突然現れた「女子挺身隊(じょしていしんたい)」という聞きなれない単語に一瞬とまどいながらも、またとない機会に遭遇できたことに感謝しました。
冷戦後しばらく安定していた世界情勢ですが、その変化を実感するいま、戦争を知らない私たちにとって、戦争経験者の証言を直に聞くことができるのは貴重な体験です。
大東亜戦争が終結してもう70年以上経っていますから。
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伝単とは、敵の国民や兵士に降伏をうながしたり、戦意を喪失させる意図で、空から撒いたり街に掲示したりする、宣伝謀略用の印刷物(ビラ)のことです。
この「桐一葉」は、若草地区下今井出身で、太平洋戦争中に陸軍航空本部技手であった志村太郎さんが、太平洋北部のアリューシャン列島にあるキスカ(鳴神)島で拾ったもので、戦場で数多くばらまかれた伝単の中でも、ひときわ芸術性・文学性が高いものです。
色と形が桐の葉そっくりに作られているだけでなく、当時有名だった歌舞伎の演目「桐一葉」の内容を想起させる格調高い短文を付して、日本兵に軍部の衰退と滅亡を予感させています。
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昭和二十年 (一九四五) 八月十七日、 豊村満州開拓団本部で開拓団幹部ら百四十人あまりが爆死した悲劇がありました。
かつて原七郷と呼ばれた干ばつ地帯にあって、 養蚕と畑作を主な生業とする零細な農村であった豊村 (現在の南アルプス市上今井、 沢登、 十五所、 吉田) が、 新天地を求め国の政策によって、 旧満州国 (現在の中国東北部) の四道河 (しどうが、 スードーホー)と呼ばれる場所に、 分村入植した歴史があります。
昭和十五年 (一九四〇) 二月に先遣隊が出発し、昭和十七年 (一九四二)四月に本隊が入植、 記録によれば、 その規模は、 開戦時五十五戸、 百六十五人だったと伝えられています。 その後も入植は続き、 終戦時には、 より多くの人が豊村開拓団に暮らしていたことでしょう。
事件は、 終戦直後に起こりました。 昭和二十年には戦局は悪化の一途をたどり、 八月十五日、 ついに日本は無条件降伏をすることになります。 このころには、 旧ソ連も満州に侵攻してきており、 開拓団にも終戦の報は届いていましたが、 他との通信連絡は途絶し、 周辺の治安は極度に悪化していたといわれます。
このような中、 開拓団は度重なる 「土匪」の襲来を受けたといわれ、 応戦しましたが、戦死者もでていました。 弾薬が尽き、 負傷者も増え、 戦力も著しく低下し、 これ以上の交戦は無謀であるし、 重軽傷者を同道しての脱出は不可能であるとして、 追い詰められ孤立した人々は、 自決することに決したのです。 八月十七日、 村人の大部分にあたる百四十名あまりが、 本部建物に集合して防戦用に支給されていたダイナマイトに火をつけ爆死したと伝えられています。 その中には、 一歳に満たない乳児から、 七十歳を超える老人までいたそうです
集団自決の報は、 大やけどを負いながら生き延びた方が、 同胞のいる収容所にたどり着き、 悲劇を伝えて息絶えたことにより、今日に伝えられることになりました。 また自決からのただひとりの生存者であった女児は、 中国人の養父母に引き取られ、 いわゆる中国残留日本人孤児となって、 戦後長く故郷の土を踏むことができませんでした。
昭和三十二年 (一九五七) には、 この事件の慰霊碑が吉田の諏訪神社境内に建立され、その悲劇を今に伝えています。 そして現在も、 事件のあった八月十七日には、 毎年ここで慰霊祭が行われています。
アジア太平洋戦争では、 戦場で亡くなった方以外にも、 このように民間人も数多く亡くなっていることを忘れてはいけません。 この事件は、 民間人も戦争になれば否応なく巻き込まれていくことを我々に教えてくれています。
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七月といえば、 昭和二十年 (一九四五) の七月六日の夜から七日の未明にかけて行われた甲府空襲が思い出されます。 この時は、甲府市街地が大きな被害を受け、 灰燼にきしています。
一方で、 南アルプス市域には、 アジア太平洋戦争による直接の被害はなかったと思われている方も多いと思います。 しかし、 記録をひもといてみると、 もうひとつの空襲が あったことがわかりまsu.
それは、 昭和二十年 (一九四五) 七月三十日。 アメリカ軍の艦載機が、 駿信往還 (旧国道五十二号、 現県道四十二号線) にそって南下し、現在の百々、 上八田、 鏡中条、 甲西地区南部、 そして富士川町の各地域を襲い、 爆撃と機銃掃射による被害をもたらしました。
特に甲西地区の荊沢では、 爆撃により民家二軒が破壊され、 三人の子どもが亡くなる痛ましい被害を出しています。
現在市が保管する、 大明小学校 (旧国民学校) の昭和二十年度の 『学校日誌』 の同日の項にも、
「午前六時半ヨリ三回ニ亘リ空襲アリ午後四時迄デノ空襲ニ於テ 初四 五味倫 爆撃ニ依リ破片ノタメ頭部ヲ粉砕セラレ即死ス 其ノ他 初六 土屋晴男 高二土屋けい子 死亡ス 学校ヨリ即刻見舞ヲナス 県ニ対シ電話及書類ヲ以テ報告ス」と記され、 当時の国民学校初等科四年生の五味倫( 九 )さん、 同六年生の土屋晴男 (十一 ) さん、 高等科二年の土屋けい子 (十五) さんが亡くなったことがわかります。 土屋晴さんとけい子さんは姉弟でした。
戦争による直接の被害がなかったかに見える南アルプス市域でも、 このような痛ましい事件があったことは記憶に残しておかなければなりません。 そしてアジア太平洋戦争全体を見渡せば、 市域出身のじつに千三百人以上の人々が世界各地で戦死したともいわれています。
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昭和時代の戦争時に中国大陸に渡る少年たちを撮影した写真をご紹介します。昭和7年から20年の太平洋戦争敗戦までの14年間に27万人もの日本人が、中国大陸に渡りました。昭和恐慌で疲弊した農民を移民によって救済することが第一目的でしたが、同時に、満州国を維持し、ソ連との国境地帯を防衛する意図もありました。
こちらは、いまから80年ほど前に撮影され満蒙開拓少年義勇軍の壮行写真です。満蒙開拓青少年義勇軍は、中国大陸に日本人を移民させる日本政府の国策が推進される中、成人だけでは足りなくなった満州への移民を補う目的で政府が発足させた制度です。彼らは「鍬(くわ)の戦士」とよばれたそうです。
[古市場杉田家所蔵]
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[「県庁前での豊村第一次満州開拓団女子奉仕隊の壮行会」(西野池之端中込家蔵:真ん中に立つ団長であった中込ちか氏は、白根地区西野池之端で喜久屋商店経営中込家の人でした。この画像はそのお孫さんに当たる方からご提供いただいたものです。)]
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昭和時代に生活必需品だったマッチを収蔵資料の中からご覧いただきます。
[「スパイ御用心 書類手紙御用心 職場乗物御用 防諜」 二等品 志摩燐寸製造所(南アルプス市文化財課蔵)]
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昭和時代の戦争に関する資料のひとつ、奉公袋をご紹介したいと思います。まずは、櫛形地区上今井で今から80年ほど前に撮影された出征の時の家族写真をご覧ください。
[出征記念の写真:中央の出征兵は奉公袋を抱えている。(上今井五味家資料 南アルプス市文化財課蔵)]
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こちらは「大日本国防婦人会」の襷(たすき)やこの白い襷をかけた女性たちの記念写真です。
[「モンペに割烹着、大日本国防婦人会の白襷をかけた西野村功刀の婦人たち(昭和15年頃)」(西野功刀幹浩家・南アルプス市文化財課蔵)]
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こちらの資料は、大正7年夏に山梨県が発行したお米の安売り券です。表側には、「山梨県中巨摩郡役所」の印が押されています。
この白米廉売券が発行された大正7年の夏は、全国各地で米騒動とよばれる暴動蜂起があった年です。8月2日に政府がシベリア出兵を宣言したため、その後急激に投機目的の米穀の買いや売り惜しみが起こった上に、前年産米の不作などの要因もあり、米価の急高騰が発生する中、日本各地で暴動事件が起きました。
8月15日夜には、甲府でも舞鶴公園で行われようとしていた米価高騰抗議市民大会に刺激された群衆が、山田町13番地にあった若尾家前に集まり暴徒化し、若尾邸を焼き打ち壊すという事件が起きています。(甲府での米騒動が若尾邸焼き討ちに至るまでの様相は山梨県史通史編5近現代1に詳しくまとめられている)
[「大正7年 白米廉売券」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):大正7年夏に山梨県が発行したお米の安売り券]
「ふるさと文化伝承館」が新しく生まれ変わって平成21年6月にリニューアルオープンしました。
愛称は「みなでん」
これからも皆さんとともに作り上げたい!という願いもこめて
「み・ん・な・で、み・な・で・ん」
って覚えてください!
世界的に知られる国重要文化財の「鋳物師屋遺跡出土品」をはじめ、市内の遺跡から出土した土器や石器、昔懐かしい民具などを展示しています。
当館では展示パネルを少なくし、スタッフによる展示案内などお客様とのコミュニケーションを大切にしています。不必要な場合にはお申し付けいただき、また、ご質問などはお気軽にお問い合わせいただければと思います。
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