芦安から信玄橋へ通じる県道甲斐芦安線は御勅使川の古い流路で、「前御勅使川」、ちょっとなまって「まえみでえ」と呼ばれています。戦国時代、御勅使川の本流はこの前御勅使川だったと云われています。江戸時代から明治時代には、本流は現在の御勅使川に移り、増水時のみ水が流れていたようです。明治31年に六科将棋頭の上流が締切られ、前御勅使川の歴史に幕が下ろされました。昭和40年代ごろまでは旧河原の両岸に不連続の堤防、かすみ堤が残されていましたが、現在ほとんどの堤防は削平され、道路として利用されています。
写真は明治29年に起きた大水害後、堤防を復旧している様子が写されたもの。旧運転免許センター(野牛島)付近。
[画像:個人所有」
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砂礫と石で造られた堤防で、一番堤から五番堤まで残されている。武田信玄の築堤と伝えられるが、史料で裏づけられていない。少なくとも江戸時代には築堤され、有野の田畑や集落、さらに下流の御勅使川扇状地に立地する21ヶ村を守る役割を果たしていた。国指定史跡(一~三番堤)
[県立博物館蔵]
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将棋頭は、その名のとおり将棋の駒に見立てられた石積みの堤防で、国の史跡に指定されている。武田信玄が築堤し、御勅使川の流れを分流したと伝えられてきたが、史料的裏付けがなく初現は不明である。
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御勅使南公園の中にも、将棋頭から続く御勅使川右岸を守る石積みの堤防があります。
公園の管理事務所の南、駐車場の入り口付近から東西に堤防を見ることができます。この堤防の北側は現在では様々な遊具や、ラグビー場などが広がりますが、昭和初期まで御勅使川の河原が広がっていました。
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途切れることなく一直線に延びる堤防。洪水から人々や町を守る堤防がこうした姿であることは現在では当たり前ですが、少なくとも江戸時代から明治時代の堤防では、途切れ途切れの姿が普通でした。この不連続の堤防は明治時代ごろから「霞堤」と呼ばれるようになります。
御勅使川の堀切橋付近を見てみましょう。前御勅使川に比べると、堤防と堤防の間、つまり遊水地が広く確保されています。増水した時には途切れた部分から水を逆流させ、一時的に水を蓄える機能も果たしていたと考えられます。このように霞堤は、先人の長い経験を踏まえながら「あふれる」ことも考えて造られた堤防でもあるのです。
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韮崎から続く竜岡台地を信玄が掘り抜いたとの伝承が残る水路。近年では御勅使川の水流によって、自然に掘りぬかれたとする説もある。人為的にせよ、自然にせよ、堀切北東に隣接する御座田(みさだ)遺跡の発掘調査によって、すでに13世紀には、堀切が存在していた可能性が指摘されている。
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湧き出た御勅使川の伏流水をせき止めて造られたため池。池には赤牛の神様が住むといわれ、赤牛が村人に椀や膳を貸してくれる昔話が今に伝えられている。中島には水神でもある弁才天が祀られている。
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西に大塚遺跡、南に野牛島・大塚遺跡、東に石橋北屋敷遺跡に囲まれた遺跡。古墳時代前期や奈良・平安時代、中世の集落跡。遺跡内の小さな谷底から破片どうしが融着し形が歪んだ須恵器の大甕片が出土し、遺跡周辺に須恵器窯が存在する可能性が指摘されている。また注目される遺構として、炭焼の平窯や和鏡が副葬された土坑墓、中世の道路跡なども発見されている。
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奈良・平安時代から中世までの集落跡。奈良・平安時代の住居跡は現在の甲西バイパスより西側に広がるのに対し、中世の溝跡や土坑墓はより能蔵池に近いバイパスの東側を中心に発見されている。野牛島集落の発祥は能蔵池北側であるとの伝承があるが、遺跡の調査結果からその伝承は中世以降能蔵池周辺に集落が移動した後の状況を伝えていると考えられる。写真は平安時代の住居跡。
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土屋惣蔵は武田家滅亡の最後まで勝頼に仕えた武将。織田軍を防ぎ、勝頼に自害の時を与えた「片手千人斬り」の伝説を残す。惣蔵の墓の他、次兄昌続ら金丸氏一族の墓がある。
市指定史跡
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金丸氏は代々武田家に仕える家柄で、現在の長盛院の地に館を築いた。東側は崖の要害で、西側には土塁と堀がめぐらされている。四代金丸虎義の次男が武田二十四将にも数えられる土屋右衛門尉昌続、五男が土屋惣蔵。
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南アルプス市八田地区上高砂区には、洪水除けの神様として勧進された九頭龍神の祠が神明川沿いに3箇所あります。そのうち、一番北に位置する江戸時代に勧進された上組講中の九頭龍さん(北端の庚申塔のそば)では、現在も九頭竜神の石造物を覆うオコヤを新調する行事が受け継がれています。ここのオコヤは、骨組みは木で、側壁や屋根は麦わらで作られます。
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昭和7年にコンクリート製の旧信玄橋が開通するまでは、上高砂と龍王を隔てる釜無川を渡るには、「高砂渡し」と呼ばれる渡船を利用する必要がありました。ただし、渡しが運航するのは5月頃から12月中旬までで、水の少ない12月から4月までは仮橋がかけられていました。
[画像:八田村誌]
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野牛島集落の西はずれの小高い塚上に、「西の神地蔵」と呼ばれる板碑が南面して建てられている。高さ65センチメートル、幅27センチメートル、厚さ14センチメートルの安山岩製である。
頂部は三角形に造られ、その中央に阿弥陀如来を意味する梵字「キリーク」の文字が陰刻されている。頭部と下部を区画した3本の条線の下には、造立主旨が刻まれている。それによるとこの板碑は天文13年(1544)に、多くの信者が円明に入る(悟りに至る)ことを阿弥陀如来に祈願してたてられたものであるという。
すなわち、「西の神地蔵」と呼ばれているこの板碑の本尊は、実は地蔵菩薩ではなく阿弥陀如来なのである。銘文下の方形の龕部(がんぶ)に陽刻された像は、顔の形や衣などがいかにも地蔵風であるが、それは阿弥陀如来に地蔵菩薩が集合したためである。
さらに、この板碑には「西の神」も習合されている。「西の神」とは、村へ入ろうとする悪霊を防ぐ「塞の神」のことであり、道辻に立つ道祖神がそれである。この板碑には庶民の生活に浸透していたさまざまな信仰が幾重にも重なり合っているのである。
なお、造立主旨には八田村の語源となった「八田庄」の文字が見える。「八田庄」は中世に八田から白根、櫛形まで広がっていた荘園といわれるが、それに関する史料は少なく不明な点が多い。その中で「西の神地蔵」は、「八田庄」を記す最も古い史料であり、歴史史料としての価値も高い。
所在地/南アルプス市野牛島2616
所有者、管理者/野牛島区
指定年月日/昭和51年3月1日
備考/
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八田地区にある高砂の渡しから韮崎方面へとまっすぐ北西に伸びる道をすむじ街道といいます。
甲府市街から武川、信州方面へ通じる甲州街道とは別に南側のルートをとる裏街道でした。
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加賀美遠光や小笠原長清などの南アルプス市の甲斐源氏が活躍していた時代に、曽我兄弟の仇討ち事件が富士山麓で起こります。この仇討ちをまとめた「曽我物語」の中には、南アルプス市と深いかかわりのある人物が重要な脇役として登場します。芦安地区の「虎御前」と野牛島地区の「御所五郎丸」。地元に伝えられる歴史上の人物は、歌舞伎の演目でも有名な『曾我物語』の主要キャストです。
『曾我物語』とは曾我兄弟が父親の仇を討つ物語です。皆さんご存知の赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つに挙げられます。仇討ちは『吾妻鏡』にも記録されていますが、物語の成立時期ははっきりしていません。鎌倉時代の終わり頃に物語としてまとめられ、時代とともに様々なエピソードが加えられながら、江戸時代に現在の形に落ち着いていったようです。(写真は、祐経を討ち取る曽我兄弟 歌川広重「曽我物語図絵」)
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ふれあい情報館を右手に見ながら南へ進み、指定文化財の標柱の角を曲がって細い農道を西に進むと果樹畑の中にひっそりと石丸地蔵が立っている。
高さ120センチメートル、幅37センチメートル、奥行27センチメートル、安山岩製の石仏である。頭部は剃髪を表す円頭で、耳朶が大きい。衲衣を着ており、背面には刻線で衲衣が表現されている。
左手に宝珠、右手には失われているが錫杖を持っていたと思われ、一般的な地蔵苔薩立像の姿を表している。
長年の風雨によって像全体が摩滅しているが、それがかえって柔和な表情を作り出し、親しみやすい雰囲気をかもし出している。
銘文は見られないが、形状から室町時代末期のものと推測される。
伝承によると、榎原に住む石丸一族の守護仏として信仰され、大正年間まで提灯を吊した祭りが行われていたとされる。
所在地/南アルプス市榎原521
所有者、管理者/榎原区
指定年月日/昭和51年3月1日
備考/
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長谷寺は新義真言宗智山派の古寺である。大和国(現在の奈良県)長谷寺に倣って豊山長谷寺と名付けられたが、その後この土地が八田の庄であることから「八田山長谷寺」と改称し現在に至っている。
本尊には十一面観音菩薩が祀られ、「原七郷の守り観音」として古くから篤く信仰されてきた。
原七郷(上八田・西野・在家塚・上今井・吉田・小笠原・桃園)は御勅使川扇状地の中央に位置するため、旱魃に悩まされてきた一帯で、長谷寺では古くから雨ごいの祈祷が行われてきた。
開創は、寺記によれば天平年間で、僧行基が甲斐国の治水事業のため留錫した際、当地で十一面観音を彫刻したのがはじまりと伝えられている。現在の本堂は昭和24年の解体修理の際に発見された旧材によって、大永4年(1524)に再興されたことが明らかとなっている。
所在地/南アルプス市榎原442
所有者、管理者/長谷寺
指定年月日/昭和25年8月29日
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涅槃図は釈迦が入滅する情景を描いたもので、仏教絵画の代表的主題のひとつである。
本図中央には、北を枕にし西を向いて横たわる釈迦が配置され、その周囲には菩薩や諸天、仏弟子、さらに雉や象、獅子などの鳥獣までもが嘆き悲しむ様が描かれている。
右上方には、仏母摩耶夫人(まやぶにん)が悲報を聞いて天上界から飛来した姿が描かれている。上方中央の満月や背後に描かれた跋堤河(ばっでいが)(釈迦が人滅した場所を流れる川)、釈迦を取り囲む8本の沙羅樹は釈迦入滅を表す一連のモチーフである。本図は、豪放さと緻密さを兼ねあわせた優品である。
本図の左下に「維時元禄十三年庚辰七月大吉祥日、山城国愛宕郡平安城万寿寺通高倉西入ル、絵所中西氏家信拝書之」と書かれており、製作年代や作者を知ることができる。
所在地/南アルプス市徳永1683
所有者、管理者/長盛院
指定年月日/昭和59年3月1日
備考/
年代…江戸時代元禄13年(1700年)
作者…中西氏家信
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下高砂地区で染色捺染業(型染)を営み、平成4年3月21日、旧八田村教育委員会より江戸小紋染師として無形文化財保持者に認定指定された。
内田氏は、父であり師でもあった内田秀一氏(山梨県指定無形文化財保持者)の後継者として引杢(ひきもく)等の染めの技術を継承し、日本の伝統工芸である江戸小紋型染に専念従事するようになる。
小紋とは型紙などを用いて染め出したがらの細かな模様、そしてその模様が染め上げられた着物を意味する。江戸時代、武士の礼装である裃(かみしも)に小紋が用いられ、各藩が独自の小紋を競い合うことで、技術的に大きな発展を遂げた。
昭和29年、こうした柄の細かな小紋を他の小紋と区別するため、江戸時代の代表的な染めであることから「江戸小紋」という名称がつけられた。
江戸小紋は、縮緬(ちりめん)を代表する絹地織物に繊細な柄模様を単調な色彩で染め抜く伝統技術である。江戸小紋の特徴はこの柄の細繊さにあり、遠くで見ると無地に見えるが、近くで見ると柄が現れるのが上品あるいは「粋」とされた。
染めに使われる型紙は「伊勢型紙」といわれ、現在の三重県鈴鹿市白子で製作されてきた。型彫りには「引き彫り」、「錐彫り」、「突き彫り」、「道具彫り」等の高度な技術が必要であり、染め師と同様に無形文化財に指定されている彫り師もいる。
所在地/南アルプス市
所有者、管理者/
指定年月日/平成4年3月21日
備考/
長谷寺十一面観音立像は、長谷寺の本尊として大永4年(1524年)再建の本堂厨子の中に秘仏として祀られている。この十一面観音像は、古くから原七郷の守り観音として多くの人々の信仰を集めており、江戸時代には、甲斐国札所第4番の観音であったという。
本像は、頭頂に仏面、その下に1列に化仏(けぶつ)十面を表す十一面観音である。現在、左右の手は失われているが、造られた当初は、左手には蓮花を挿した水瓶を持っていたと思われる。右手の形ははっきりしない。また、本像の台座が通常の蓮華座ではなく、岩の形を模した岩座であることからは、本像が木の霊性を尊ぶ立木仏として造られたと考えられる。
本像は、像高169.3センチメートル。長身ですんなりとした姿に表される。お顔は優しい中にも厳しさがあり、威厳を感じさせる。天衣(てんね)や下半身に身につける衣の表現は控えめながら柔らかい布の質感を伝えている。
本像の材質はカツラで、左右の手以外のすべてを1本の木から彫り出す一木造という技法で造られている。この一木造のうち、臂を曲げる左手までも同じ木から彫り出すのは、平安時代前期頃に多くみられ、本像もこうした平安前期から中期にかけての造立と考えられる。地域の古い歴史を今に伝える貴重な尊像である。
所在地/南アルプス市榎原442
所有者、管理者/長谷寺
指定年月日/平成16年11月29日
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上高砂地区、豊光院本堂裏手の墓地に国学者、五百住巨川の墓がある。
五百住巨川は、文政12年(1829年)に江戸藩邸で五百住元卓の次男として生まれた。幼名を栄三郎または丑松といい成長した後巨川と号した。昌平坂学問所で学び、著名な国学者であった平田篤胤に師事して国学を修めた。
巨川は地方の名士と国事を論じるために諸国を巡歴し、安政4年(1857年)に巨麻郡西郡を訪れた。その際、有野村に住む名取理平に引き留められ、上高砂の地に私塾「螺廼舎(しのしゃ)」を開き、算術や漢字、書道などを教えた。塾舎は、明治5年(1872)まで現上高砂バス停留所の隣にあり、最盛期には教師5名、塾生138名を数えた。巨川の影響を強く受けた塾生も多く、彼らは明治維新後の地域名士として、郷土の発展に尽力した。
明治4年、巨川は本県最初の新聞である「峡中新聞」の主筆となる。明治7年には藤村県令の命を受け、県神社局長となり寺社の整理統一に手腕を奮うが、明治8年3月7日47歳で夭逝した。
著書には「なまよみの甲斐」2巻、「私輯大日本史系図」、「大日本史解説」など地方に根差した視点から日本を俯瞰した多数の大著がある。
所在地/南アルプス市上高砂986
所有者、管理者/豊光院
指定年月日/昭和51年3月1日
時代…享保13年(1728年)4月17日から元文4年(1739年)5月17日
作者…嶽恩和尚・玄嶺和尚
長盛院境内の「経蔵」に嶽恩筆紙本墨書大般若経600巻が収められている。この般若経は亨保年間、長盛院の末寺、正重院の住職であった嶽恩和尚とその意志を継いだ本山玄嶺和尚によって写経されたものである。
嶽恩和尚は本寺の繁栄や天下の泰平、国土の安穏、子孫繁栄、村里の豊饒を祈願し、享保13年(1728年)4月17日、大般若経の筆写をはじめた。長年にわたる写経は心身をさいなむ辛苦を与え、時には天井から吊した縄で筆を持つ腕をささえていたといわれる。
500巻を書き終え、その完成を目前にしながら元文2年(1737年)2月9日、59才で他界した。本山玄嶺和尚はその志を継いで写経を進め、2年後の元文4年(1739年)5月17日、大般若経600巻の写経を完成させた。複数の僧侶によって書かれた大般若経は多数あるが、ほぼ1人の手によって書かれたものは県内でも類例が少ない。
所在地/南アルプス市徳永1678
所有者、管理者/長盛院
指定年月日/昭和51年3月1日
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本樹は能蔵池の北西隅にある。江戸彼岸桜という名称は、「東国(関東)の彼岸桜」という意味で、ゆえに「東(あづま)彼岸桜」ともいう。
根回り4.5メートル、目通り1m、樹高8メートルの大樹である。樹勢は旺盛で、毎年4月上旬に薄紅色の美しい花を咲かせる。
所在地/南アルプス市野牛島2704
所有者、管理者/野牛島区
指定年月日/昭和51年3月1日
備考/
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ビャクシンはヒノキ科の高木であるイブキの一品種で、本州、四国、九州の海岸地方に分布する常緑の針葉樹である。
樹形が美しいため庭園や寺社境内に植えられていることが多く、本樹も野牛島地区、御所五郎丸の墓前にある観音堂の庭先に立っている。
幹は地上より10メートルの地点で折れているが、現在も樹勢は極めて旺盛で、枝葉もよく繁り、円錐形の見事な樹形をとっている。
規模は、根廻り4.85メートル、目通り3.25メートル、樹高11.5メートル、樹齢は約400年とも言われる、県下有数の巨木である。
鎌倉時代に野牛島に流罪となったといわれる御所五郎丸が、杖をこの地にさしたところ、それが根づいて現在の大きなビャクシンになったという伝承が残されている。
所在地/南アルプス市野牛島2076
所有者、管理者/野牛島区
指定年月日/昭和35年11月7日
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野牛島地区の北西部に能蔵池がある。能蔵池は御勅使川の伏流水が崖下から湧きだした湧水池で、古くから周辺諸村の灌概用水として重宝されていた。この池のほとりに、碑は建てられている。
高さ189センチメートル、底辺幅98センチメートル、安山岩を用いた大きな石碑である。
安政4年(1857年)、ときの市川代官森田行が文章を考案し(撰文)、前任の代官荒井顕道が書をしたため(書)、徽典館(きてんかん)の学頭であった久貝岱(くがいたい)が「能蔵池の碑」という額の文字を書いて(篆額)、完成に至った。その内容を要約すると以下の通りである。
「野牛島に能蔵池という池がある。水は清らかで、どんなに乾燥しても枯れることはない。野牛島をはじめ高砂、榎原、徳永を灌漑してきた。池の中に天女、池の側に蔵王が祀られ、神竜のすむところである。
村人たちもよく農事に励み、この水の如く怠ることがないようにしなさい、そうすれば倉はいつも満ち官も民も乏しいことがなく、不作の年も飢えをまぬがれるであろう。これは村人の幸福である。」
所在地/南アルプス市野牛島2704
所有者、管理者/野牛島区
指定年月日/昭和51年3月1日
備考/
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野牛島のお浅間さんは現在は民家の間にひっそりと存在していますが、この場所は、かつては見晴らしのよかったであろう前御勅使川(御勅使川の旧流路)の野牛島側堤防上です。富士山の眺望も楽しめたことでしょう。
野牛島のお浅間さんには、富士塚も造られており、地域の富士信仰の拠点でした。
野牛島の中島家に残されていた日記には、江戸時代の1835年(天保6)6月29日~31日にかけて大風が吹いて川々が大荒となり「前御勅使川通富士塚弐番三番堤急破いたし・・・」と記されており、当時より堤防上に富士塚が存在していたことがわかります。
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高さ200cmの丸彫りのお地蔵様です。台座も含めれば、全高は330㎝あります。右手に錫杖、左手に赤子をのせており、子安地蔵のお姿です。地域の守り神として住民が安全を願う対象でもあり、毎年、8月15日に盛大な夜祭りが行われています。
かつて、祭りの日の晩には毎年雨が降ったことから、からかさ地蔵と名づけられたといわれています。また、建立した太郎兵衛という人物が祭りに来た人に傘を貸したからだとも伝えられています。
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道祖神と並んで立つ榎原の蚕神。
現在は果樹の広がる耕地が、昭和40年代初めまではいちめんの桑畑でした。
蚕神の碑は、病気に弱く、当たりはずれの多い蚕の健やかな成長を願って日本各地に建てられました。
大正から昭和にかけて建てられた養蚕繁盛を願う蚕神(蚕大神)の石造物は、他に上高砂と下高砂、徳永にもありますが、榎原二組観音小路に建立の蚕神が一番古く、大正七年戌午二月十日と刻まれています。
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南アルプス市といえばいまは果樹栽培地として有名ですが、
水はけの良過ぎる御勅使川扇状地で生き抜いてきた先人たちがいままでに栽培した代表的な作物には、小麦・藍・煙草・綿花などがあり、明治以降、昭和40年代くらいまでは養蚕が盛んに行われていました。
しかし、全国的に昭和50年代に入ると、化学繊維の台頭によって海外生糸輸出は停止し、和装離れによって国内需要も著しく低下しましたので、現在は蚕糸業(養蚕業から製糸業という一連の流れをまとめて呼んだ業種名)という産業そのものが実質的に消滅したといわれています。
南アルプス市では、水の豊富な中南部を中心に明治20年頃には、大規模な製糸場2社がすでにあり、大正、昭和初期には規模の大きなもの(50釜以上)だけでも20社ほど存在しました。
戦後も市内には中小15社以上ありました。
それに伴う製糸場の原料を供給する力=繭の生産力も大きかったということです。
しかし、蚕糸業が終焉を迎えてから50年ほど経ち、市内各地どこもかしこも桑畑の風景は一掃され、あれほど身近だった養蚕風景も、製糸場から漂うあの独特なにおいも、経験できないものになってしまいました。
それでも、八田地区内にまだ養蚕の痕跡を見つけることができました。
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南アルプス市八田地区上高砂区には、洪水除けの神様として勧進された九頭龍神の祠が神明川沿いに3箇所あります。
7月の最終日曜日に、これらの場所で夕方からお祭りが行われています。
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八田の高砂地区は、「まるたか(○に高)印の枯露柿」というブランドで、干し柿を生産し、年末のお歳暮用として東京や関西へ、
また戦前はクリスマス向けの贈答品としてアメリカへも出荷しました。
「山梨県中巨摩郡御影村 小澤徳蔵 枯露柿製造工場」と記されたポストカードが遺されています。
画像は昭和初期の様子だと考えられます。
場所は釜無川沿いということですが、柿の後ろに前御勅使川堤防跡である「お熊んどい」の松並木が写りこんでいることを考慮すると、上高砂と下高砂の境に近い地点でしょうか?
[画像:個人所有]
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上高砂集落センターにて枯露柿生産農家のノリコさんとお話しました。
その時に「わたし、女子挺身隊だったのよ。終戦の時に愛知にいたのよ」と教えてくれました。
女子挺身隊とは、戦争中に軍需工場へ勤労動員された14歳以上の未婚女性の団体のことです。
高砂名物枯露柿のお話を伺おうとしていたので、突然現れた「女子挺身隊(じょしていしんたい)」という聞きなれない単語に一瞬とまどいながらも、またとない機会に遭遇できたことに感謝しました。
冷戦後しばらく安定していた世界情勢ですが、その変化を実感するいま、戦争を知らない私たちにとって、戦争経験者の証言を直に聞くことができるのは貴重な体験です。
大東亜戦争が終結してもう70年以上経っていますから。
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これは、昭和11年の通帳(かよいちょう)です。
この通帳は野牛島にある中島商店で発行されたものでした。
現在でも、少量ずつですが、魚やお肉、野菜、果物、お菓子に日用雑貨、子供向けの駄菓子もありますし、電化製品だって売っています。
毎日開いているし、まさに地域に不可欠な商店です。
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上高砂集落内の小さな交差点に道標あります。
「左甲府」とわかるのですが、「右???」が読めません。
道標に和紙をのせ、拓本を取ってみると、「左 甲府」「右 小笠原」と読めました。(「原」の字の半分がアスファルトに埋まっています)
しかし、今ある位置では方向が違うので、別の場所から移動してきたとわかります。上高砂地区でご存知の方を探して教えていただきましたところ、新しい道標を建てたために不要になったのでこの地に運んできたとわかりました。
その場所とは、龍王から信玄橋をわたって上高砂地域にはいり、左側にあるスーパーオギノの手前を入る道の隅(上高砂の消防小屋の前)でした。
現在建っている道標を読むと、「昭和4年3月17日に御影消防団第三部建」とありますので、その時からこの場を離れ、いまは上高砂集落内にひっそりと佇んでいたのです。
地図で見ると、釜無川を渡って旧道が下高砂方面に曲がる当たりの南側にあたり、位置的にも方向的にも矛盾がないことを確認できました。
長い間路傍にあり、多くの人々の旅の安全を守りながら役に立ってきた道標を、新しいものができたからといってそのまま打ち捨ててしまうことができなかったのでしょう。
当時の上高砂の人々の心情が時を超えて伝わります。
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野牛島の諏訪神社の屋根には、美しく高く積み上げられた棟にハトが向かい合ってとまっています。
遠目でみると本物に見えます。さらに、曲線の瓦の絶妙な配置が高く美しい棟を形作っています。
八田の榎原地区には昭和時代に製瓦業を営んでいた中沢瓦店がありましたから、輸送コストがあまりかからない分、ふんだんに瓦を使った贅沢な屋根が多い地域なのかもしれません。
この鳩瓦も中沢瓦店で作られたものかもしれません。
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杉山定平商店は、榎原の長谷寺に続くバス通り沿い、榎原上のバス停前にありました。
平成10年ごろに閉店したお店ですが、昭和時代のはじめから終わりまで、地域の多くの人々が、日常的に利用した思い出深い場所です。
経営者だった杉山定平さんの奥さんの杉山つるこさん(大正8年生)を訪ね、貴重な写真を見せていただきながらお話を伺いました。
こちらの写真の左端で赤ちゃんを抱っこしているのが30代になったばかりのつるこさんです。
[画像:個人所有]
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ここは南アルプス市榎原660にある清水池(しみずいけ)です。
水神さんも祀ってあります。でんでん山を八雲神社方面に降りていく道の途中の左側竹藪の手前にあります。清水池は榎原地区の重要な湧水ポイントで古くから水の乏しいこの地区の人々に、その貴重な水が利用されてきました。
現在は湧水量が減ってしまったため唯の水たまりのようにみえます。
しかし、この地の先人たちが代々利用してきた重要な場所として、今は地区の方々がこのような囲いを作って、水神さんとともに大切に守っています。
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榎原二組観音小路蚕神のすぐそばの石丸家は、当家の親戚であった建築家内藤多仲がかつて甲府中学に通う際に下宿していたというお宅です。石丸家には古い井戸があり、深さ6.5mほどのところで水が溜まっています。水の乏しい榎原地区でも枯れることのない貴重な水源だったそうです。
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県道甲斐芦安線を挟んで六科の八幡神社の向かい側にある清水油店タンク奥をよく見ると、レトロな倉庫があります。
もとは現在の下高砂集落センター隣の徳永地区に建っていました。その前には所有者の 現在は倉庫として使われています。
実はこの建物、昭和4年に若尾逸平の娘婿若尾金造がキリスト教伝道等を目的として建てた講堂(青年道場)でした。
南に富岳を朝夕仰ぐその名も「南岳荘(なんがくそう)」。
甲斐山岳会の会長もつとめた若尾金造は外国人を引き連れて南アルプスの山々を開発する際、若尾銀行の番頭で田之岡村徳永出身であった清水謹一の縁でこの地を事前宿泊地とし、南岳荘と呼んだのがはじまりです。
清水謹一氏の息子で、現在この南岳荘を六科に移転して所有し、徳永のかつての所在地であった場所にお住いの清水禎次郎さんから、いろいろと教えていただきました。
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八田地区内の、野牛島なら中島商店、徳永は手塚ストアー、下高砂は杉山商店、榎原は杉山定平商店といったように、それぞれの居住地域には日々のお買い物をする店が必ずありました。
さらに、昭和時代を生きた八田・白根地区の人が、口をそろえて買い物にいったことがあると答える店が六科にありました。その名は「だるまや」。
食料品、日用品をはじめ、衣類や薬など何でもそろう、この辺りでは一番規模の大きい商店だったようです。
[画像:個人所有]
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八田地区下高砂の柿のホッタ回しの名人、穴水さん。
こちらの名人は機械を使わず、愛用の小刀一つで、シーズン中は毎日、何百個もの渋柿のホッタ回しをなさっています。
穴水さんは昭和30年代前半に下高砂にお嫁に来てから、かれこれ60年もの間、11月には柿仕事をしているそうです。
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写真は、高砂枯露柿組合作業所前での集合写真です。
枯露柿が出荷用の木箱に詰められ、積み上げられています。
残念ながら高砂枯露柿組合作業所のあった場所は、いまのところわかっていませんが、この写真の存在は、八田地区高砂の枯露柿が昭和初期にアメリカに向けて輸出されていたことを物語る貴重な資料です。
[画像:個人所有]
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上高砂・下高砂地区では、枯露柿やあんぽ柿を作るために、戸外で柿干しが行われている光景がよくみられます。
今では、専用の火力乾燥施設によって乾燥させる農家が多くなっていますが、上高砂・下高砂地区ではいまだ、天日干しが行われており、11月~12月初めにかけて、各家の干し台に揺れる美しい柿の暖簾を愉しむことができます。
戸外干しの場合(特に上高砂区に多い)には、ブーンという大きな音とともに吊るし柿の傍らに置かれた大型扇風機が大活躍している姿にも驚かれることでしょう。
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11月から12月、八田・白根地区を歩くと、いたるところで柿剥きが行われている様子が見られます。
そのそばには、剥きあがった鮮やかなオレンジ色の柿が可動式の棚に吊るされて、硫黄燻蒸室に順々に運ばれるのを待っています。
周辺の露地にまで、柿の上品な甘い香りがほのかに漂ってきて、季節感あふれる秋の空気で満たされます。
9月の終わりころから空調管理の整った屋内での乾燥をはじめ、11月に入ってから屋外の干場にようやく柿が吊されます。
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八田地区榎原の中沢製瓦店跡には、瓦を焼くために、大正時代に造られただるま窯が現存しています。
製瓦業が大正から昭和時代にかけて盛んであった南アルプス市域ですが、大正時代に造られただるま窯が、原型をとどめたまま現存しているのはここだけです。
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ひときわ目を引く真っ赤な紙。大正時代初期に行われた種痘(天然痘の)の接種済証です。
2期に分けて行われていた接種のうち、1期目の際に渡された証書はこんなに鮮やかな赤色だったようです。2期目は白い紙だったようですけれど、この1期目接種済証の真っ赤な色づかいが、江戸時代から続く疱瘡除けの習俗を彷彿とさせます。
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「地方病とたたかうポスター」をご覧にいただきたいと思います。山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。
山梨県が製作したこの地方病予防広報・啓発ポスターを見出し部分から読んでみますと、『三百余年前から蝕ばまれ悩まされ続けて来た地方病 今こそ完全撲滅の絶好の機会!!県政の重大施策としてとりあげてここに三年、有病地の指定解除、宮入貝の減少、患者の著減等々成果は上々である。 この好期をおいていつの世に根絶することができよう、みんなで力を併せて一挙に駆逐するよう今一段の努力をいたしましょう。』とあります。
このポスターには製作年が記載されていないのですが、見出しの文面と、「現在実施している予防対策」の項にPCBという薬剤によるミヤイリガイの刹貝と、コンクリート溝梁化工事に年間一億のお金をかけている」といった文言があること、当該資料の含まれる資料群全体の年代構成からかんがみて、この地方病対策ポスターは、だいたい昭和30年代中頃に作られたものではないかと考えています。
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雛人形が入っている箱に地元の呉服屋さんの名前が記されていることがあります。当時の呉服店は、節句人形の販売代理店としての機能も担っていたようで、西郡地域の人々が飾ったお人形は甲府の雛問屋で作られたものに加え、鰍沢の春木屋などの商家を経由して入ってくる駿河で製作された人形も多く流通していたと考えられます。明治大正期に昭和初期頃の西郡の人々が人形を求めるときには、
① 甲府の雛問屋か鰍沢の商家に買いに行く。
② 甲府の雛問屋から「ひなんどー、ひなんどー」との掛け声で、安価な横沢雛を籠に担いでやってくる売子から買う。
③ 初節句の晴れ着などを購入するのに合わせて、近所の呉服屋で売っている人形を買う。
の3つの購入方法があったのだと思います。
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山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。この病を克服する作戦が本格的にはじまって、100年以上もかかったのです。
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徳島堰は、韮崎市上円井の釜無川から取水し、南アルプス市曲輪田新田まで伸びる役17kmのかんがい用水路です。寛文5年(1665)、江戸深川の町人徳嶋兵左衛門が甲府藩の許可を得て工事に着手し、寛文7年には曲輪田の大輪沢(堰尻川)まで通水したといわれています。
それから昭和40年代に釜無川右岸土地改良事業によってコンクリート化され、「原七郷はお月夜でも焼ける」といわれた御勅使川扇状地扇央部の常襲干ばつ地域にスプリンクラー網が整備されるまで、開削から300年の間に大雨による埋没など度重なる逆境乗り越え、現在の徳島堰の形となりました。
そんな南アルプス市の豊かな田園や果樹園の景観を守り続けてきた徳島堰ですが、実際どのようにして取水され、どんな旅路を経て私たちの暮らす南アルプス市までその水がやってくるのでしょうか!?今回はそんな徳島堰を流れる水の旅路を追ってご紹介していきます!
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堰沿いにある入戸野バス停
3つの発電所で大役を終えた徳島堰の水たち。そこからもう少し下流、入戸野沢との立体交差地点に差し掛かると丁度辺りは入戸野地区の集落となります。入戸野沢が水路橋で徳島堰を渡っているすぐ先。堰沿いには石造物とバス停、また集落中心地のシンボルである火の見櫓が並んで現れます。入戸野の町並みと徳島堰の変遷を見守ってきたであろう石造物の背面を流れる徳島堰。堰沿いの民家を見てみると、庭から堰の水面まで降りてこられるよう「つけえばた(洗い場)」が造られている箇所も多く、この徳島堰が集落の生活にいかに根ざし、溶け込んでいるかが伺える場所です。
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竪沢暗渠
大難所を乗り越えここらでひと息・・・とは行かないのがタフな徳島堰です!清哲町水上に入ってすぐに、また大きなカーブと描きながら竪沢暗渠へと突入していきます!今はほとんど水の流れが見えない竪沢、その上流に向かって大きく湾曲していくこの光景は確か前にもどこかで見たような・・・。そう、戸沢暗渠と同じような手法を駆使して沢を乗り越えていると考えられますね!
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大門沢暗渠
旭町上条南割まで指しかかった徳島堰。もう少しで南アルプス市!と言うところで韮崎市区間最後の暗渠が現れます。山梨県指定の一級河川大門沢を潜る大門沢暗渠。大門沢はほんの少しだけ水の流れがある程度の水無川で、周辺の民家などと見比べると天井川化しています。この大門沢暗渠を越えた向こう側にはいよいよ私たちの南アルプス市が見えてきます!徳島堰の水たちもラストスパートです!
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釜無川右岸第一調整池
徳島堰本体から分水された水たちがようやく辿り付くのは「畑地かんがい調整池」の通称第一調整池です。この調整地から南アルプス市扇状地の地下にはり巡らされたパイプラインを通って果樹園のスプリンクラーへと水が送られていきます!開削から約300年、「南アルプス市を潤す」かんがい用水路として悲願の任務達成となったのです!長い旅路を経てここまでたどり着いた徳島堰。でも皆さん、徳島堰はまだ続いているのを忘れてはいけませんよ!
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釜無川右岸第二調整池
南アルプス市飯野新田地区に入った徳島堰は最後の任務に向けて第二調整池へ分水をしていきます!しかしよく見ると調整池といっているのに溜まっている水の姿が見えないどころか、一面綺麗に整地されたグランドになってしまってるのは一体!?・・。実は第二調整地はこのグランドの地下に貯水のタンクが作られており、グランド自体は地域の人たちへ無料で開放しているとのこと。どこまでも地域想いで太っ腹な徳島堰!この調整ここでも貯められた水たちは地下パイプライン網を通ってスプリンクラーへと送られていきます。頭首工からここまで約16kmの旅路の中幾度となく難所を乗り越えながら、髄所で取水の任務を果たしてきた徳島堰。最後の大役を無事勤め上げてそのエンディングへと進んでいきます!
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果実を出荷した木箱にプリントするための金型をご紹介します。
メロン、もも、かき、さくらんぼ、りんご、などの品種名のほか、出荷した家の屋号やかつての村名、出荷組合の名称や記号も見られ、にしごおりでの果物産業が、多品目を組み合わせて栽培することで成り立ってきた、という特徴を物語る資料です。
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8月24日は今から186年前の天保7年(1836年)、山梨県では天保騒動という大規模な騒乱のさ中で、ちょうど現在の南アルプス市域が被害をこうむった日です。
天保騒動は、江戸時代後期の天保7年(1836)8月17日に郡内白野村での百姓一揆からはじまった騒動です。しかし、山梨郡熊野堂村の米穀商打ちこわしという当初の目的を果たした郡内の百姓たちが帰村した8月22日頃になると、騒動に乗じて参加した無宿人らが暴徒化して、大規模な強盗集団となり、国中(甲府盆地内部の村々)を暴れまわって、甲州の人々を恐怖に陥れました。
八田地区野牛島中島家文書の中に、要助さんという当時名主を務めた人物の日記帳があります。
(八田地区野牛島中島家文書「去申用気帳」)
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「柿の野売り籠」は南アルプス市の果物産業史における重要なキーアイテムです。この資料の大きさは、口径41cm・底径45cm・高さ43cm。にしごおりの人々が、渋抜きした柿を入れ、担いで売り歩いた際に使用しました。籠の内部は、柿の渋が染みて黒くなっています。
大正時代のはじめまでは、秋になると、渋抜きした柿を籠に入れて担いで、釜無川や笛吹川を渡って行商に出たにしごおりの人々。稲刈りをしているところに行って、柿を売ったり、籾と交換することで、生活を支えていました。
[展示された柿の野売り籠(天秤棒なし)十五所澤登家より寄贈・南アルプス市文化財課所蔵]
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022年12月まで開催していた南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「にしごおり果物のキセキ」で展示されていた古文書、『菓もの類野うり免許状』2点、『曝柿直売免許状』1点、『原七郷議定書之事』をご紹介します。これらの古文書を読み解くと、にしごおり果物の軌跡が「柿の野売り」による行商活動からはじまっていることがわかります。
古来より、砂、砂利、礫、粘土に覆われたにしごおりの原七郷では、その恵まれない自然条件下によるギリギリの土地利用のなかで、最大限の効果を挙げようと努力する人々の姿がありました。柿などの作物を加工したり、売る時期をずらすなどして、商品価値を高め、農閑期に村外まで売り歩く行商によって、村の生産力以上の人口を維持してきたのです。南アルプス市域で最も古くから盛んに作られた果物は、この行商用商品として加工するための柿でした。
古文献にも、西郡(にしごおり)の柿についての記述は見られ、
「裏見寒話巻之四」1754年宝暦4年 野田成方 「甲斐志料集成三 地理部2」昭和8年 甲斐志料刊行会・大和屋書店に収録の
甲斐料集成P226には『西郡晒柿 渋柿を藁灰にて晒して売る。此処は田畑なく、柿を売る事を免許されしといふ。』
甲斐料集成P229には『晒柿 渋柿を藁汁にて製して晒す。佳味也。西郡原方より出づ。』とあります。これらの記述から、にしごおりの人々が売り歩いた柿は渋柿を加工したもので、「晒柿(さわしがき・さらしがき)」と称されていたことがわかります。
行商の商品として「にしごおり果物」を生産したことは、明治以降に当地で勃興するフルーツ産業に、様々なプラス作用を及ぼしました。商機があればどこにでも出かけていく、風の如く機敏なフットワークと開拓心によって磨かれた、にしごおり行商人たちの経済観念の強さは、市場の動向にもまた機敏な果物栽培を初期段階から実現し、現在の南アルプス市における独創的なフルーツ産業の在り方へとつながっています。
[南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「にしごおり果物のキセキ」より、柿売人に関する文献の展示コーナー]
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令和5年6月21日(水)まで開催しておりますテーマ展「ナニコレ!昔の道具」展に展示中の「ハエ捕り瓶」と「ハエ捕り棒」「ハイトリック」について、ご紹介したいと思います。
[展示中のハエ捕り棒とハエ取り瓶]
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こちらは「菓もの類野うり免許状」とよばれる文書です。信玄が出したものと云われ、天文10年(1541)8月と記され、龍をかたどった印、龍朱印が押されています。
このような文書の類は、甲州の西郡(にしごおり)と呼ばれる地域(現在の南アルプス市市域)で武田信玄の野売免許状としてたびたび報告されてきた御朱印状です。文献等で報告されたものを数え上げると、これまでに市内で9点ほど見つかっています。しかし、残念ながらこれらの朱印状は信玄の活躍中に出されたものではなく、文化6年(1809)10月以降に作られ流布したものであるとの学術的判断がされています
[「菓もの類野うり免許状 十五所澤登家所蔵」 天文10年8月]
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南アルプス市ふるさと文化伝承館では令和5年7月14日から12月20日まで、テーマ展『南アルプス山麓の古代牧』を開催しました。
御勅使川扇状地での牧(牧場)の存在は、百々遺跡で発掘された出土資料によって、平安時代にさかのぼる可能性があると考えられていますが、江戸時代以降も牛馬利用の伝統は続いています。さらに、もっと身近な昭和30年代頃まで市内で使われていた民具をみることで、牛馬と市民との関わりを知ることができます。
[南アルプス市ふるさと文化伝承館で令和5年7月14日から12月20日まで開催された、テーマ展『南アルプス山麓の古代牧』における民具コーナー]
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昭和時代に生活必需品だったマッチを収蔵資料の中からご覧いただきます。
[「スパイ御用心 書類手紙御用心 職場乗物御用 防諜」 二等品 志摩燐寸製造所(南アルプス市文化財課蔵)]
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昭和時代の戦争に関する資料のひとつ、奉公袋をご紹介したいと思います。まずは、櫛形地区上今井で今から80年ほど前に撮影された出征の時の家族写真をご覧ください。
[出征記念の写真:中央の出征兵は奉公袋を抱えている。(上今井五味家資料 南アルプス市文化財課蔵)]
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こちらは「大日本国防婦人会」の襷(たすき)やこの白い襷をかけた女性たちの記念写真です。
[「モンペに割烹着、大日本国防婦人会の白襷をかけた西野村功刀の婦人たち(昭和15年頃)」(西野功刀幹浩家・南アルプス市文化財課蔵)]
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にしごおり(現南アルプス市域)の人々が甲府に行くには、釜無川だけでなく、荒川も越えなければなりませんでした。そのため、にしごおりの先人たちの遺した渡船に関する資料の中には、釜無川越えに利用する、高砂の渡し(現信玄橋辺り)・今諏訪の渡し(現開国橋辺り)・押切の渡し(現三郡橋辺り)の他に、荒川越えの資料もあります。
『 覚
一 荒川ばし代
拾ニ円也
右之通り請取申候
辰十二月
飯田新町
文吉
金右衛門
西野村
御名主様 』
明治から大正期の、荒川を渡る橋の通行料の領収書です。現在でいうと、国道52号線美術館通りを相生交差点に向かって架かる荒川橋辺りにあった、大正15年以前の仮橋時代のものです。12月にまとめて支払った金額が12円ということなので、一人当たりの橋利用料がいくらだったのかは不明ですが、村費からの公的な交通費として年間支払額の領収書が名主宛に出されているようです。
[I-13-0-17-17 荒川橋代請取覚-1(南アルプス市文化財課蔵・西野功刀幹浩家資料より)]
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現在、南アルプス市八田地区に、昭和7年にコンクリート製の旧信玄橋が開通するまで、上高砂と龍王を隔てる釜無川を渡るには、「高砂渡し(たかすなのわたし)」を利用する必要がありました。
[「大正5年頃の高砂の渡しの様子」(南アルプス市文化財課蔵)]
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明治終わりから昭和時代にかけて、県外の製糸場で働きに出ていたにしごおりの女性たち。市内にはそうした出稼ぎ工女たちが故郷に送った葉書が多く残っています。過去に西野村の相川ふくのさんという女性が明治31年から39年の間に武州入間豊岡町にあった石川製糸所から送った葉書をご紹介しましたが、今回は、今諏訪村の手塚家に30名ほどの村出身の女工が明治から昭和時代に掛けて送った80通もの葉書等を新資料として加えて、分析してみよう思います。
[明治41~45年埼玉・長野・山梨(諏訪村:現在の北都留郡上野原町)への出稼ぎ工女から届いた葉書(今諏訪手塚正彦家資料・南アルプス市文化財課蔵)]
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昭和40年代の前半までは、日常の生活で着物を着ている人がまだたくさんいました。通常の洗濯では、たらいと洗濯板を使って「丸洗い」していた着物も、春と秋の季節の変わり目に行う衣替えでは、縫い目をほどいて反物の状態にして「解き洗い」をしたそうです。ほどくと縫い目にたまったほこりや汚れが落としやすくなるからです。
解き洗いの後には、「張り」という独特の干す工程があり、この「解き洗い」から干すまでの一連の作業をまとめて「洗い張り」といいます。
「張り」のやり方は二通りあり、板にぴたっと密着させて張る「板張」と、伸子針(しんしはり)でぴんと張る「伸子張」のいずれかの方法で、糊付けして干しました。
[板張]
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「ふるさと文化伝承館」が新しく生まれ変わって平成21年6月にリニューアルオープンしました。
愛称は「みなでん」
これからも皆さんとともに作り上げたい!という願いもこめて
「み・ん・な・で、み・な・で・ん」
って覚えてください!
世界的に知られる国重要文化財の「鋳物師屋遺跡出土品」をはじめ、市内の遺跡から出土した土器や石器、昔懐かしい民具などを展示しています。
当館では展示パネルを少なくし、スタッフによる展示案内などお客様とのコミュニケーションを大切にしています。不必要な場合にはお申し付けいただき、また、ご質問などはお気軽にお問い合わせいただければと思います。
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