御勅使川扇状地の扇頂部に位置し、扇状地全体の治水の要とも言える有野地区には、水害防護の水宮神社が祀られている。寺記では天長11年(834)に起こった大水害の際、天皇より勅使が遣わされ、水の神である水波能女命(うずはのめのみこと)をこの地に祀ったのが始まりと伝えられている。大正15年水宮神社拝殿を改修する際にも、下流の村々から寄付がよせられた。
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江戸時代前期の建物。甲府盆地西部では最も古い民家で、徳島堰を完成させた矢崎又右衛門のゆかりの家でもある。矢崎氏は江戸時代を通じ有力農民として有野村の名主を務めていた。市指定建造物。
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徳島堰は韮崎市上円井(かみつぶらい)で釜無川から取水し、南アルプス市曲輪田新田(くるわだしんでん)まで約17kmを結ぶ灌漑用水路。
江戸時代の寛文5年(1665)江戸深川の徳島兵左衛門(とくしまひょうざえもん)によって開削が始められた。
2年後には曲輪田まで通水に成功するが、大雨によって二度堰が埋没すると兵左衛門は事業から手を引き、その後甲府藩が事業を引き継ぐ。
甲府城代から堰の復旧工事を命じられた有野村の矢崎又衛門(やざきまたえもん)は、私財を投じて工事に取組み、寛文10年に工事が完成し,翌11年に「徳島堰」と命名された。
堰の開削によって耕地が広がり、曲輪田新田や飯野新田、六科新田など新たな村々が開かれるなど、水不足に悩む地域に多大な恩恵がもたらされた。
現在でも徳島堰の水は、水田だけでなくスプリンクラーに導水され、市内の桃やさくらんぼを潤し、フルーツ王国南アルプス市を支えている。
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将棋頭は、その名のとおり将棋の駒に見立てられた石積みの堤防で、国の史跡に指定されている。武田信玄が築堤し、御勅使川の流れを分流したと伝えられてきたが、史料的裏付けがなく初現は不明である。
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御勅使南公園の中にも、将棋頭から続く御勅使川右岸を守る石積みの堤防があります。
公園の管理事務所の南、駐車場の入り口付近から東西に堤防を見ることができます。この堤防の北側は現在では様々な遊具や、ラグビー場などが広がりますが、昭和初期まで御勅使川の河原が広がっていました。
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途切れることなく一直線に延びる堤防。洪水から人々や町を守る堤防がこうした姿であることは現在では当たり前ですが、少なくとも江戸時代から明治時代の堤防では、途切れ途切れの姿が普通でした。この不連続の堤防は明治時代ごろから「霞堤」と呼ばれるようになります。
御勅使川の堀切橋付近を見てみましょう。前御勅使川に比べると、堤防と堤防の間、つまり遊水地が広く確保されています。増水した時には途切れた部分から水を逆流させ、一時的に水を蓄える機能も果たしていたと考えられます。このように霞堤は、先人の長い経験を踏まえながら「あふれる」ことも考えて造られた堤防でもあるのです。
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石積出の中で、最も上流に築かれた石積みの堤防。現存している長さは約70m。3段構造で、2段目に石の大きさ、積み方の違いが見られ、少なくとも2回修復されていることがわかる。
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二段積みの石積み堤防。現存している長さは約100m。先端部の一部が発掘されており、堤防の基礎を守る根固めに井桁状に丸太を組み合わせ、中に石を詰める「木工沈床」が用いられていることがわかっている。
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大正9年に竣工。高さ7m、長さ109.1mある大型の堰堤。芦安、藤尾堰堤とともに現在でも大正期の姿をとどめている数少ない堰堤のひとつ。芦安堰堤と並び、「御勅使川治水の双璧」と呼ばれていた。現在でも私たちの生活を支えている。
[画像:個人所有]
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平安時代から中世の集落跡 調査では80個体を超えるウマ・ウシの骨が出土し、「八田牧」の存在を彷彿させ、ウマの存在が甲斐源氏活躍のを裏付ける。
写真は 炉から出土したタイの堆骨(縄文時代後期)
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滑走路南端にあり、御勅使川扇状地上の数少ないランドマークとして、建設工事に動員された地域住民や学生の集合場所のひとつとなった。
滑走路の南端付近は、浅い谷状の地形を埋め立てて造成されており、現在でも当時の盛土の様子をよく残しています。
造成工事にはスコップや「ジョレン」などの道具を用いて行い、土の運搬は「パイスケ」と呼ばれる天秤棒状の道具や「チョウセングルマ」と呼ばれた二輪の手押車やトロッコが活用されました。
造成後はローラーによる締め固めが行われていた部分もあったようです。
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冬に吹き下ろす「八ヶ岳颪(やつがたけおろし)を考え、八ヶ岳にむかって設計された幅100m、長さ1500mの滑走路。中央に設けられた誘導路は、今でも農道として利用されている。
現在でも、所々に60数年前動員され人々が造成した滑走路の盛土がそのまま残っている。平成17年度に実施した発掘調査の結果、当時の人々が滑走路両側の土を掘って滑走路に積み上げたたことがわかったほか、土が沈まないように締め固めたような跡も見つかり、当時の人々が行った作業工程を垣間見ることができた。
また、平成23年度には、滑走路北端付近で調査が行われ、滑走路西側を削り、その土を東側に盛って、傾斜をならす工事が行われた痕跡が確認された。
冬季の季節風(八ヶ岳おろし)に対応するため、滑走路はまっすぐ八ヶ岳の方向に向けて造られています。
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ロタコの呼応時に伴って掘られた横穴壕は燃料などを隠して備蓄することや航空部品などの地下工場にすることを目的につくられました。ループ橋から、ここ築山付近まで55基以上が掘られたようです。
横穴壕の工事は、大手ゼネコンが陸軍から受注し、ロタコの工事の中では最も早く、昭和19年あきころ(証言によっては、昭和18年中)から建設が始まったといわれています。
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陥没跡の反対側には横穴壕を掘る際に、掘り出された土の形がそのまま残っています。横穴壕は、戦後すべての壕が崩落などによって閉口し、現状では山肌にその痕跡を辛うじて確認できるといった状況にあります。
横穴壕の痕跡は、円形やU字形の陥没地形です。
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横穴壕の近くにある福王寺の過去帳には、ロタコ工事で亡くなった朝鮮半島出身者の名前ものこっているといいます。横穴壕が掘られた山の斜面は非常に崩れやすい地盤で、横穴の掘削工事は困難を極めました。
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江戸の商人徳島兵左衛門が考案し工事に取りかかり、後に有野の矢崎又右衛門が寛文10年(1670)に完成させた用水路。御勅使川扇状地上の旱魃地帯を潤した。終戦間際には、この徳島堰の堤防に沿って1~3号掩体壕とは異なるこのような形の掩体壕が並んでいた。
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掩体壕(えんたいごう)とは、飛行機を格納し、隠し、爆風から守る施設です。屋根の無いものや、屋根をコンクリートで造るものなど様々な形が知られています。
畑の中に残る掩体壕の跡。
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現在残る3基の掩体壕のうち、平成17年度に最初に発掘調査が行われ、掩体壕の形や大きさ、基礎の作られ方などが正確に記録されました。
3号掩体壕は新興住宅街に隣接する空き地にひっそりと眠っており、その基礎は60年あまりの月日を経て文字通りもう半ば埋まりかけていました。
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先端部の一部で発掘調査が実施されている。調査の結果、石積みの土台として梯子土台が用いられ、根固めには木工沈床が使われ、さらに川表側には鉄線の蛇籠が並べられていた強固な構造であることが明らかとなっている。
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甲府や竜王方面から、上今諏訪、西野などを経て高尾を結ぶ道。
現在でも高尾街道と呼ばれます。
写真の道標は高尾集落から遠く離れた上今諏訪の地にあり、高尾道の旧道沿いに今もひっそりと佇みます。
右あしくら 左たかお と記されています。
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有野の故矢崎徹之介氏の居宅で、甲府盆地西部では最も古い民家である。建てられたのは、江戸時代初期、寛文以前の建築である。
矢崎氏はもと青木氏の出で、武田信玄公の時代に有野に所領を得て、信州からここに移った地侍であった。その後、江戸時代を通じ有力農民として名主を勤めている。
広い屋敷内には南に長屋門を構え、母屋の西北に文庫蔵が続き、北側にも大きな土蔵がある。
古さの見どころは、13本残っている柱にハマグリ手刃の跡が見られること、屋根裏の小屋組は当初のままで、小屋東に貫が離れて交わっていることなどである。
所在地/南アルプス市有野1204
所有者、管理者/個人
指定年月日/昭和53年2月16日
備考/
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建立年代は不明だが、元禄2年(1689年)奉上葺の棟札があるので建立年代はこれより前の寛文期(1662年から)、」ごろと思われ、様式も一致する。
本殿は一間社流造(ながれづくり)で、桁行1.56メートル、梁間1.40メートル、向拝梁間0.83メートル、建坪約3.48平方メートル。
昭和31年に屋根の修理が行われ、ヒノキ皮葺から銅板葺に替えられた。保存状態もよく、すぐれた形姿をもち、本市では第一級の価値のある社寺建築である。
所在地/南アルプス市飯野2175
所有者、管理者/若宮神社
指定年月日/昭和57年11月30日
備考/
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総高1.2メートルの安山岩製で、観音堂の西に接して建てられています。年代は、鎌倉末期のものと推定されます。
塔の各部は別々の石からなり、基礎の上部に径15センチメートル、深さ8センチメートルの円筒形の穴を掘って、経典あるいは舎利奉納の場所が作ってあります。
その形状、形態といい実によく時代の特徴を表わし、風格を持った遺構です。
所在地/南アルプス市大嵐123
所有者、管理者/善応寺
指定年月日/昭和53年3月15日
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百々諏訪神社所蔵の獅子頭は鎌倉期の嘉元3年(1305年)藤原吉宋の手によって作られた日本でも5番目に古い獅子頭である。
この獅子頭は木彫で、上顎、下顎、舌の三部分からなっている。
用材はヒノキで、その上に彩色をほどこしてある。
規模は面幅20センチメートル、面高23センチメートル、面深29センチメートルとなっている。
所在地/南アルプス市百々1537
所有者、管理者/諏訪神社
指定年月日/昭和43年12月12日
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上今諏訪の慈眼寺には、県の文化財に指定された仏像が多くあります。このうち薬師如来坐像は、坐高85センチメートル、材質はヒノキで、頭部と胴体が一つの木で造られている一木造りで、年代は藤原前期のものと推測されている。
慈眼寺は、平安期にさかのぼる真言宗のお寺だったと推定されているが、一時衰退し天文年間(1532年から1554年)に曹洞宗のお寺として再興されている。
所在地/南アルプス市上今諏訪1783
所有者、管理者/慈眼寺
指定年月日/昭和44年11月20日
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飯野の曹洞宗常楽寺の本堂に安置されている鎌倉期の阿弥陀如来像。
像の総高は132センチメートル、材質はヒノキの寄木造りで玉眼がはめ込まれている。
かつては彩色されていたかと思われるが、現在は色は落ち、像全体に木目が表れていて、ひとしお奥床しさが感じられる。
所在地/南アルプス市飯野1065
所有者、管理者/常楽寺
指定年月日/昭和44年11月20日
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上今諏訪の諏訪神社本殿に菩薩形と思われる立像一軀(いっく)が所蔵されている。
作風からも藤原仏で、隣接する慈眼寺の仏像群の一体ではないかといわれている。天冠台などに一部残る漆塗の跡に往昔の秀麗優美さがしのばれる。背部に鎌倉期に加修した跡が残る。
材質は樟(くすのき)材の一木造で頭・胴ともに内刳りが施されている。
所在地/南アルプス市上今諏訪1778
所有者、管理者/諏訪神社
指定年月日/昭和44年11月20日
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松声堂は、江戸時代に創立された西郡地域の勉学の中心となったところである。天保6年(1835年)西野村長百姓幸蔵ら12名は、“勉学によって人倫の道を教え、農民としての自覚を高めたい”として幕府に手習所の創設を出願した。
翌7年に許可され、初代教師に江戸下谷生れの松井喚斉を迎え、西野北村現在の宝珠院で開校した。
天保9年(1838年)には旧西野小学校の地に移り、明治4年(1871年)西野郷学校となるまでの36年間、この地方の庶民教育に果した功績は非常に大きいものがあった。松声堂跡には松井喚斉の碑、松声堂碑などが建立されている。
所在地/南アルプス市西野2783
所有者、管理者/南アルプス市
指定年月日/昭和53年2月16日
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白根町築山に鎮座する神社で、旧社格は村社、祭神は菊理媛神。境内地は150坪と規模は小さいが、一通りの施設が備わっている。
本殿は1間社流造りで、床下に浜床(はまゆか)階段上に母屋床(もやゆか)が張ってある。拝殿は寄棟造り(よせむねづくり)で囲いの壁がなく、吹き抜けになっている。随身門は入母屋造り、鳥居は柱頭に台輪がある稲荷鳥居で、額束(がくづか)に権現社と名記され、元禄11年寅4月1日の年号がある。神燈は鳥居の前にあり、元禄11年寅4月1日の年号がある。境内社として2基の祠があり、1基に寛政5丑巳12月吉日の銘がある。
所在地/南アルプス市築山33
所有者、管理者/白山神社
指定年月日/平成15年2月14日
鰐口は、古くは金鼓(こんく)と呼ばれ、社殿や仏堂前の軒下につるされた金属製の具であり、その形から鰐口といわれるようになった。
久本寺の鰐口は、享徳3年(1454年)のもので、面径13センチメートル、口径15.1センチメートル、縁高3.6センチメートルである。
表面に記された文字から、子孫繁栄を願って観音堂に奉納されたことが分かる。
所在地/南アルプス市下今諏訪556
所有者、管理者/久本寺
指定年月日/昭和35年11月7日
備考/
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鎌倉後半期の大和刀工、保昌の作とされている刀。
長さ73センチメートル、反り2.1センチメートル、形状は鎬(しのぎ)造りで、造り込み格好、その他全て保昌派の特徴をよく示した優作である。
所在地/
所有者、管理者/個人
指定年月日/昭和40年5月15日
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西野北村小路の小野氏宅の前庭に育つ五葉松。松の種類のうち、五枚の葉を持つ種類を五葉松と称し、これはその中のヒメコマツと言う種類の樹木である。
規模は、目通り幹囲1.30メートル、根回り2.95メートル、東へ伸びる枝の長さ15メートル、樹高8.5メートル。手を尽くされ、極めて美しい庭木となっている。
所在地/南アルプス市西野1498
所有者、管理者/
指定年月日/昭和63年7月20日
備考/
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水宮神社は有野部落の北部、御勅使川近く鎮座し、水波能女命(みずはのめのみこと)を祭神とする水害防護の神社である。御勅使川は大扇状地をつくっただけに、有史以来も大氾濫をくりかえし、特に天長11年(834年)の洪水は大惨事をもたらし、救恤のため勅使が派遣された。時の国司藤原貞雄は治水に努力し、当社に配祀されている。江戸時代、有野ほか21ケ村の鎮守として、御勅使川の共同水防が行われてきた。また、当社の森社叢は、マツが主要樹木だが、その他にアサダ2本、クマシデ3本、モミ10本、ケヤキ1本で構成されたいます。この中のアサダはクマシデ科の落葉高木で、本県では珍しい樹種で貴重な存在です。
所在地/南アルプス市有野1298
所有者、管理者/水宮神社
指定年月日/昭和61年9月12日
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臨済宗善応寺の御神木として植栽されたと言われており、樹齢は少なくても500年に達していると思われる。ビャクシンはヒノキ科に入り本県では峡西地方に多く分布している。規模は、根回り幹囲5.8メートル、目通り幹囲3.48メートル、樹高17メートル。翼長は、北へ4.8メートル、南へ5メートル、東へ6メートル、西へ3.5メートル。地上2.5メートルで二つに分岐している。
所在地/ 南アルプス市大嵐123
所有者、管理者/ 善応寺
指定年月日/ 昭和43年2月8日
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ひとくちに桃といっても、7月から9月まで時期によって旬の品種は移っていきます。
現在南アルプス市で栽培されている桃の代表的な品種には、「日川白鳳」「夢みずき」「白鳳」「あかつき」「川中島白桃」等がありますが、どの品種も色つきが良く、糖度が高いのはもちろんで、その上、日持ちが良い硬質の果肉であることが人気栽培品種の条件となっています。
そう、最近の桃はとっても甘いのに、リンゴのように皮をむいてカリカリと食べられるのです。
昔食べた、果汁が滴り落ちるような柔らかい桃は現在の市場では出回りません。
いまどきの流通システムに対応した共同選果が、傷がつきやすく痛みやすい桃に不向きだからです。そのために、かつて水密桃といわれたような、食べると果汁で口の周りがベタベタするような果肉の柔らかい品種の桃は淘汰されていきました。
その淘汰された桃の品種のひとつに「西野白桃(にしのはくとう)」があります。
[画像:個人所有]
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この写真は昭和9年頃に西野で撮影されたメロン栽培用の温室内での一コマです。
立派なメロンにそっと手を添えている少年はその時、2歳6か月だった功刀幹浩さんです。
ちっちゃなあんよに不釣り合いな大きな下駄もかわいらしいですね。
その後ろで、幼い幹浩さんの背中をやさしく支える男性は、当時功刀家で働いていた文貴男さんです。撮影したのは幹浩さんの父で、温室栽培を南アルプス市に初めて導入した功刀七内という人です。
[画像:個人所有]
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かつて、収穫時に雨が降るとどんなに大変だったかを何人もの人から聞きました。
その中のお一人で、サクランボ栽培者の相川泉さん宅に、これまでの雨との闘いの歴史を教えてもらいに行きました。(平成30年9月7日訪問撮影)
色づきはじめた桜桃の実に雨粒が当たったり、降雨で土壌の水分量が急増すると、桜桃の実は瞬く間に破裂して、腐りはじめてしまいます。
相川さんによると、「サクランボはとてもとてもデリケートで微妙な作物。桃やブドウより難しい。」といいます。
しかも、寒いところが適すので、栽培南限の山梨では基本的に気候が合わず、さらにさらに難しくてリスクが大きいのだそうです。
桜桃は夏の間に花芽の分化をしており、猛暑で乾燥と高温だった場合の翌年のさくらんぼは高温障害が出て、出荷できない双子果が多くなりますが、農家にはどうしようもありません。
さらに、サクランボの実をもぐときにも細心の注意をしないと翌年に実がつかなくなってしまうので、サクランボ狩りで素人が収穫するのも大変なリスクがじつはあるそうです。
そして、一般的に「なりどし」と「うらどし」があるといわれています。南アルプス市ではそんなに大変で気難しい桜桃の栽培を、どんな知恵と工夫で乗り超えたのでしょう?
昭和40年代はじめまでの桜桃には、まだ人工授粉や雨除け対策というものはされておらず、自然環境に左右されましたが、当時はまだ殺虫剤をそれほど使用していなかったので、花粉を媒介する虫も数多くおり、自然授粉でも大丈夫だったそうです。
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南アルプス市白根地区西野区内に大正時代初期に、開店したばかりの喜久屋商店。
大正時代から昭和10年代まで営業されていた喜久屋商店は櫛形山の中腹にある高尾の夜祭で有名な穂見神社に向かう通称高尾街道沿いにあります。
甲府方面から釜無川を渡って参詣する主要ルートであったため、西野区内でもこの街道に面する家では喜久屋商店の他、呉服屋や薬屋を営むものが2・3軒ありました。
喜久屋では、創業した芳明氏が甲府一高で同級生だった倉庫町の山梨商会経営者の協力を得て、駿信往還沿いの倉庫町にも進出し、タクシー業務部と臨時支店をもちました。
現在でも11月22日~23日にかけて、高尾穂見神社の夜祭が行われます。
かつては高尾山にある穂見神社を目指して、提灯を持った人々の行列が夜通し街道を多く行き交ったといいます。
[画像:個人所有]
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スピードスプレーヤー、通称エスエス(以下、SS)は薬剤噴霧器を搭載した特殊車両のことです。
果樹地帯である南アルプス市内では、春先から晩秋にかけて、道路ですれ違ったり、交差点で信号待ちしていると前後に挟まれたりなんかして真っ赤なダンゴムシみたいなかわいい車体のSSに、普通に遭遇します。
SSの大手メーカーさんに聞いたのですが、「山梨はSSの年間販売台数が全国一ダントツに多い」というのです!
大手3社合わせて年間約300台も売れる県は他にないのだそうです。
隣県の長野県や静岡県では年間100台にも届かないそうです。
山梨以外の日本の名だたる果樹栽培県では、集約した農地を持つ比較的規模の大きな農家が積載容量1000リットルキャビンタイプ等、大型のものを買う傾向にあるのに比べ、山梨は500リットルタイプの小容量が主流ですが、果樹栽培一家に一台ほぼ存在しているので、販売台数が多くなるようです。
そういえば、この辺の住宅街の車庫には普通乗用車の横にSSが停めてあるのを見るのはフツーです。
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有野に遺る蚕具洗い場は、現在は使われていませんが、今も人々が行き交う道脇の水路にあります。白根地区内でも特に養蚕が盛んだった有野では、棚や飼育篭など比較的大きな蚕具でも洗いやすいように、水路から水を引き込む洗い場がコンクリートで広めに区画されています。
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上八田薬師堂にある那賀都神社(なかとじんじゃ)では、大嶽講(だいたけこう)がいまも行われています。
ろうそくに火をともし、太鼓をたたく音に合わせて「ダーイターケサーンナーカトーノジーンジャー、オーヤーマズーミノーカミー、オーイーカヅチノカミ、タカオーカミノーカミ、ロッコーンショージョー、ツツシミウヤマイテ、キーガーンタテーマツールー」と節をつけて何度も祝詞を唱和します。
講の手順をまとめると、「講の仲間が集まったら堂の中に入り、年長者が太鼓をたたいて音頭をとって、『大嶽山那賀都神社祝詞』を10回皆で唱える。
その際、回数を間違えないように、白い碁石を並べて数える。さいごにもう一度みなでゆっくり同じ祝詞をあげておしまいにする」というものです。
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白根地区の果樹栽培者には、「品種の先取りにより、経営を安定させていく」という伝統的な考え方があります。
ブドウの木の経済寿命は30年だということで、常に、次期はどんな品種が流行るか見据えたうえで木の改植を順次行っていかなければならないのだそうです。
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大正14年に現南アルプス市西野の功刀七内氏によってはじまったガラス温室によるメロン栽培ですが、昭和初期には西野周辺地域(現白根地区)の名産品として、全国的に名をはせるようになりました。
昭和初期以前から当該地域にお住いの家の方に、古いアルバムを見せていただくと、メロン栽培に関わっていたご先祖の姿が写し出されているのをよく目にします。
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昭和10年代撮影と思われる西野巻屋地域の「ちょうまたぎ」。
集合写真の後ろに大きな提灯をたくさん吊るした「ちょうまたぎ」が写っています。
かつては西野の八幡神社参道立てられたそうです。
現在市内では飯野若宮神社の夏の祭礼でのみ見ることができますが、かつては白根地区各地で行われていたといわれています。
この写真の存在により、西野地区の「ちょうまたぎ」の存在と姿が明らかになりました。
昭和30年代にはすでに西野のちょうまたぎは消滅していたようです。
※「ちょうまたぎ」とは屋根を持った組み立て式の大きな門で、たくさんの提灯が下げられたもの。
[画像:個人所有]
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最近は、スーパーに並ぶ果物に「糖度保証」のシールが貼られているものが増えてきました。
少々高めのお値段なのですが、ついついそちらに手が伸びてしまいます。果実を傷つけずに食べる前から甘さを保証できるなんて、ふしぎ~ですよね。
現在では、桃・林檎・梨・蜜柑といった多くの果物の選果に使用されている非破壊式の糖度センサーですが、最初は外見からではわからない食味のバラつきに悩まされていた桃のために開発されました。
昭和62年から山梨県と山梨県果実農業協同組合連合会(果実連)・三井金属鉱業株式会社が協同して開発がはじめられ、一宮と西野の農協で測定実験が行われた後、平成元年にさっそく本格導入したのは、旧白根町にあった西野農協(現南アルプス市)が最初でした。
「人工衛星から電波を発信して地球の鉱物資源探査をしている特殊光線を利用することで,桃を破壊せずに糖度を測定できるのではないか」
という話を三井金属工業の技術者から聞き、これに賛同した山梨県の果樹産業関係者とはじめたプロジェクトだったそうです。
ちょうど桃の出荷中だった8月1日に、世界で初めて平成元年に桃の非破壊式糖度センサーを導入したJA南アルプス市西野支所(導入時:西野農協)へ、現在の稼働状況を取材に行きました。
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現在、南アルプス市域では、あんぽ柿・枯露柿が盛んです.
その原料となる渋柿には、9月終わりから12月にかけて、刀根早生・平核無・勝平・大和百目・甲州百目・武田などの品種が移り変わっていきます。
そのうち、勝平と大和百目の原木は南アルプス市白根地区にあったものです。
とくに大和百目は、甲州百目とならんで、現在山梨を代表する大型の枯露柿の原料として大変人気があり、南アルプス市域で多く生産されている品種の一つです。
大和百目という品種の歩みは、西野に近接する上今諏訪の手塚半氏の竹林の中にあった一本の柿の木からはじまりました。
この木は甲州百目の枝代わりと言われていましたが、果実はそれ以上の大きさで、その上、核(種)が少なく、甲州百目よりも早く熟します。
枯露柿用として用いると、果肉が非常になめらかで食感がよく、色も鮮やかに仕上ります。
この樹の柿に魅せられた西野の手塚光彰氏が、今諏訪の原木から穂木をとって苗木に仕立てて、大正7年3月に、現在の桃ノ丘団地付近に50本の苗木を植え、当時としては珍しい柿の園地を造成しました。
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白根地区飯野に、昭和30年代から開塾しているそろばん教室に資料を見せていただきにまいりました。
そろばん教師の相川さんは全国的な和算の研究会にも所属され、そろばんに関するありとあらゆる資料を収集されている有名な方です。
かつて習い事は「お習字かそろばんか」という時代が長く、そろばん教室が各地で盛んに開かれてました。
相川さんのお話によると、明治以降に東京などの都会に出て一旗揚げたいという人も、まずは「読み書きそろばんを身に着けてから」でないと話にならなかったとのこと。
戦後も個人で使える電子計算機のなかった時代、金融機関でも行員がそろばんを使っていた昭和30年代には、複数の場所に教場を持っているような大手のそろばん塾が現在の南アルプス市内に5~6軒ほどもあったそうです。
昭和50年代になり、ピアノや水泳など習い事の選択肢が増えたきたころから、そろばん教室の状況はかなり変化してきたようですが、相川さんが開いていらっしゃる飯野にある珠算学院には、現在も小学生を中心に生徒さんが元気よく通っていらっしゃるとのことでした。
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南アルプス市飯野のあるお宅から90年ほど前の雛人形をご寄贈くださるとの連絡があり、受け取りに伺いました。
奥様が、私たちに見やすいようにと、二十年ぶりに雛たちを箱から出して飾ってくださっていました。
左奥の昭和初期製作と考えられる御殿飾り雛(ごてんかざりびな)は、奥様が韮崎市からお嫁にいらした時に、彼女のお母さまが家にあったお雛様を飯野家への嫁入りに持たせてくれたものだそうです。
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西野にある保坂呉服店は昭和2年に高尾街道沿いの椚に開店しました。←昭和20年代終わりころから30年代はじめの撮影と思われる保坂呉服店の様子。(保坂和子家アルバムより)
西野区内の高尾街道沿いには、保坂呉服店さんの他に、乾物屋、酒屋、薬屋、日用雑貨店などがありましたが、現在も営業されているのは、保坂呉服店のみです。
甲府から高尾穂見神社に参詣する人々が釜無川を渡って今諏訪の坂を上り、慈眼寺のあたりで戸田街道から離れるように右に曲がって西野へと進む道が、高尾街道です。保坂呉服店はその街道の通り道にある西野の椚(くぬぎ)集落にありました。
和子さんが「11月の半ばに行われる高尾の夜祭に出かける人々向けて、街道沿いに面する商店の前では「茅飴(かやあめ)」を売っていたみたいよ」と教えてくださいました。
かつては茅飴づくり用と伝わるおおきな鉢がお宅に残されていたそうです。
提灯を持ったたくさんの人々がこのお店の前を行き交ったのでしょうね。
[画像:個人所有]
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明治以降、甲州枯露柿は山梨の主要輸出品の生糸や水晶等と並んで重要な輸出品のひとつとして数えられていましたが、
大正時代に入ると輸出先での顕微鏡検査で枯露柿の表面に多数の有害微生物がみられるとして、衛生的見地から天日干しという製法の問題点が指摘されるようになっていました。
この問題解決にいちはやく反応した生産者が、白根地区西野の当時30歳代であった手塚光司氏でした。
昭和5年か6年頃から光司氏が枯露柿の火力乾燥に関する研究を行い,昭和9年に乾燥室の装置、加工法、排気装置、温度、燃料等を開発し、火力乾燥法を完成させます。
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南アルプス市内のあちこちで見かけるSS(スピードスプレーヤー)を使った農作業の様子です。
SSは、潅水や防虫害除けのための薬剤散布をするための作業車ですが、中でも南アルプス市域において最も所有率の高い500リットルタイプの小型SSの使用状況を、上今諏訪の原家所有のサクランボ園で見せていただきました。
山梨県のサクランボ栽培は、通常サイドレスハウス内で行われているので、小回りが利く小型のSSが重宝されています。
SSはサクランボ以外にも果樹全般(モモ、スモモ、ブドウ、カキ、キウイフルーツ)の作業に頻繁に使われます。非常に細かい霧状の水が後方についているノズルから180度放出されるしくみです。
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「ヒシケイさん」と呼ばれて地域に愛され、現在も飯野で開業している街の文具屋さんですが、その前身は自転車の販売店でした。
当時を知る斉藤さん、中澤さんにその頃の様子を伺ったところ、昭和20年位(終戦直後)までは地域で一つしかない自転車屋さんだったそうです。
その時、自転車を購入したお客さんに、おまけとして「ゼブラの自転車 ヒシケイ分店 飯野驛北」の名入りの問屋そろばんを配っていました。
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南アルプス市域の北西部で現在10軒ほどの花卉栽培農家があり、鉢植えの花栽培では県内一の生産量を誇っています。
施設を使っての花卉栽培は季節を問わず一年中仕事ができることと、利益率が良いことが魅力です。
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干し柿作りには硫黄燻蒸が欠かせない工程の一つです。
「ホッタ回し」というへた周りの形状を整える作業後、側面の皮を剥いた柿は、まず硫黄燻蒸されます。大正時代に福島で発明された工程だといわれています。
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白根飯野3地区で行われている、夏の道祖神祭りでは、ちょうど15時位から地域の男性が40人ほど集まり、
「ちょうまたぎ」または「雨屋(あまや)」とよばれる構造物を組み立て始めます。
30分ほどで骨組みが出来上がり、1時間ほどすると、屋根や提灯、風鈴、花などで美しく飾られらた「ちょうまたぎ・あまや」が完成します。
午後5時からは子供たち向けのリクリエーションもその前ではじまり、賑わいます。
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有野の花卉栽培農家。
白根地区の北西部にある有野周辺では、昭和20年代終わりまでは米麦栽培と養蚕が収入の柱でしたが、
昭和30~40年代にかけて、米麦栽培に代わってスモモ栽培や菊花の栽培が行われるようになります。
その後、花卉栽培に関しては、山梨県内屈指の大規模な施設園芸が展開され、切花だけでなく、シクラメンやシンピジウムなどの鉢植えの花の出荷が現在も盛んに行われています。
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果物の出荷用掛け紙
西野の芦澤家のお蔵の戸棚から、メロンを出荷する際に使用された、掛け紙が見つかりました。
富士山とブドウ、一番手前にメロンが描かれています。
メロンは大正から昭和初期にかけて西野の特産品でした。
掛け紙の遺されていた芦澤家には、メロン栽培に当時使用していたガラス温室等の写真も残されていました。
収穫され、生産者の名入りの掛け紙をまとったメロンは、昭和5年に開業した峡西電鉄西野駅の引き込み線にあった果物専用貨物ホームから、東京や関西等の大都市部へ出荷されました。
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築山のどんど焼きでは、御勅使川扇状地の扇頂部分に近い築山の根方に、もみの木を使った巨大な左義長(さぎちょう)型のオコヤがつくられます。
築山区のオコヤを作るために必要なモミは、数日前に神主さんに見立ててもらい、築山区の山方に生えるものの中から選び出されるそうです。
神木となったもみの木はお神酒をかけてお参りした後、チェーンソーで伐採し根方に降ろされて、どんど焼きの前日に行うオコヤづくりに使われます。
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「百々の北新居のどんど焼き」
富士川街道と交差する百々交差点を超えたところ行われています。立派な幟が2本たっていましたが、住宅街なので、火はこじんまりと、コンクリート製のブロックの上に鉄板を敷いて燃していました。
古典的な枝差し型の繭玉をもった小さな子供二人が、大勢の大人たちに見守られながら焼いていました。
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春先に、上八田の果樹地帯を歩くと、スモモの花を枝からもいで集めている上八田の方々に出会います。
花粉を集めるための花摘みは、果樹地帯の春本番を告げる風景です。
上八田では、昭和40年代後半になると、養蚕をやる家はなくなり、西野や在家塚、百々一帯からつづく一面の果樹地帯となりました。その頃から現在まで、上八田も南アルプス市のスモモ生産量日本一を担う地域の一つとです。
この「ハリウッド」という品種のスモモの花粉は、同じスモモの「貴陽」の受粉用として白根地区で多く使われています。
この樹の花が果樹地帯で年度末にいち早く咲き始めると、春の訪れを感じさせます。
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『タガシラセギ』とは、在家塚で現在も使われ続けている利水施設のことです。
江戸時代以降、扇状地のど真ん中に位置する在家塚での新田開発を可能にしたこのタガシラセギは、明治・大正・昭和と水田用の灌漑施設として使われ、その後産業の移り変わりとともに、桑栽培、果樹栽培へと使用されています。
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春先の南アルプス市の果樹地帯では、様々な品種のスモモの花が咲き誇り、農作業に忙しく動き回る人々に多く出会います。
上八田でスモモ「貴陽」を栽培する小野家の授粉作業は、3月中旬に受粉専用樹ハリウッドの花摘みからはじまります。
それらを葯(やく)採取機にかけて、花粉の入っている袋=葯(やく)だけを取り出し、その後、二晩かけて家屋内に広げて開葯させたところで、授粉作業に取り掛かります
貴陽の場合、作業は花が満開になるころまでに、同じ樹に5回に分けて行います。
南アルプス市域では、スモモの花の開花を皮切りに、切れ目なく次々とサクランボ、モモ、カキの花が咲きそろい、いろいろな果樹の花が同時に見られます。果樹地帯ならではのお花見もとても美しいものです。
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葱苗の栽培と販売は、白根地区上八田の伝統的な産業です。
上八田の葱苗売りは、毎年、三月上旬から五月中頃までの間に行われており、昭和30年代から50年代が最盛期でしたが、平成に入り、葱苗栽培をする農家は少なくなりました。
そんな中、上八田西小路の小野さんの栽培する葱苗は、毎年、富士五湖周辺の二つの農協と大口の取引があり、水はけの良い御勅使川扇状地で栽培する上八田の葱苗の質の高さは今も評判がよいそうです。
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西南湖にある重要文化財安藤家住宅で行われる「安藤家住宅ひなまつり」では、貴重な横沢雛が飾られます。
甲州で明治大正期に多く作られた横沢雛には童子をモデルとした人形が一番多いのですが、他に、成人女性や男性、妊婦、長生きの象徴としての老夫婦、七福神などの神様などモチーフに多くのバリエーションがあります。
その中でも、ひときわ異質なのが、赤い髪の中国の伝説の妖怪、猩々(しょうじょう)のお人形がです。
猩々は、能の演目にも真っ赤な装束で登場する中国の伝説上の生き物のことで、赤毛で人間のような容姿をしており、酒を好むとされます。
また、赤いものを嫌う疱瘡神を追い払うという伝承もあり、子供の健やかな成長を願って送られたものと思われます。
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11月から12月、八田・白根地区を歩くと、いたるところで柿剥きが行われている様子が見られます。
そのそばには、剥きあがった鮮やかなオレンジ色の柿が可動式の棚に吊るされて、硫黄燻蒸室に順々に運ばれるのを待っています。
周辺の露地にまで、柿の上品な甘い香りがほのかに漂ってきて、季節感あふれる秋の空気で満たされます。
9月の終わりころから空調管理の整った屋内での乾燥をはじめ、11月に入ってから屋外の干場にようやく柿が吊されます。
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スピードスプレーヤー、通称エスエス(以下、SS)は薬剤噴霧器を搭載した特殊車両のことです。山梨はSSの年間販売台数が全国一ダントツに多いです。そのため、南アルプス市内でも、春先から晩秋にかけて、日常的に町の中でSSに遭遇します。
そして、果樹王国山梨県で一番最初にこのSSを導入したのは、我が南アルプス市の西野農協で、昭和33年(1958年)1月25日に導入されました。この日は、西野農協共選所そばの西野小学校校庭に天野山梨県知事を招いて、入魂式がおこなわれたそうです。
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白根地区飯野にある、富士川街道・倉庫街北交差点の北西部にあたるブロックは、明治時代に当市域の主産業であった煙草産業の中心地であり、その場所には山梨県内の農家で収穫された葉煙草が集められる飯野専売支局が置かれていました。
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通称「ボロ電」とは、昭和5年から昭和37年までの32年間、西郡を甲府方面・峡南方面へと結んでいた路面電車のことです。
運行会社は、山梨電気鉄道→峡西電気鉄道→山梨交通へと変遷しました。
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白根地区今諏訪は、御勅使川扇状地の扇端部が釜無川によって削られてできた浸食崖沿いに、南北に広がる集落です。
この地では浸食崖の上に集落がありましたが、崖直下からは豊富な湧水があり、明治期には、この水力を動力とした水車小屋=搗屋(つきや)が崖下にいくつも並んでいたそうです。すべてが同時期操業であったわけではありませんが、全部数えあげると、昭和30年代までに7カ所もあったようです。
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こちらは、在家塚中込茂家所蔵資料の「文献72 鯛兵衛一件」です。
これは、農業の合間に綿商いを渡世(稼業)としていた在家塚(白根地区)の八百助という人が、仕事で現在の韮崎市方面に出かけた帰り道に、大変なトラブルに巻き込まれてしまった事件に関する、江戸時代(嘉永五年・1852)の文献です。
この文献は、具体的なトラブルの内容以上に、原七郷で江戸時代に行われた綿産業の実態が、八百助という一人の「農間綿商人」の活動を通して垣間見ることができます。
原七郷の産業の中で、養蚕以前では、綿は、煙草・藍と並んで根幹をなすものでした。甲州の西郡綿が、江戸時代の終わり頃に、在地の人々によって、どのような仕組みや過程をもって流通され、商売として成り立っていたのかを知ることができるものだと思われます。
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「ネクタリン」は桃の一種で、分類上はバラ科モモ属のうち果皮にうぶ毛のあるものを「モモ」、うぶ毛のないものを「ネクタリン」と呼ぶそうです。江戸から昭和まで南アルプス市地域原七郷で盛んに栽培されてきました。
昭和18年8月12日に西野功刀家に、伏見宮家から届いた書簡を見ると、西野から献上されたネクタリンが伏見宮殿下の嗜好に適したとして、その思召しに功刀家宛にられてきた郵便小為替証がありました。
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昭和8年のマスクメロン協会の会員費領収書です。南アルプス市にメロン栽培を大正14年に導入した白根地区西野の功刀家の資料の中にありました。この領収書からは、功刀家は昭和8年にマスクメロン協会に入会し、年会費と併せて4円50銭支払ったことがわかります。
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昭和2年6月2日に発行された、竜王駅(現甲斐市)から大阪駅までの小荷物切符です。どうやら功刀家は西瓜(すいか)を29斤(17.4㎏)を大阪の天満市場の「忠佐」という取引先に鉄道便で送りました。
当時は鉄道客車に荷物を載せて目的の駅まで運ぶことを「チッキ便」と云い、国鉄がJRになった際に廃止になった仕組みのようです。
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江戸時代から柿の野売りで知られていた南アルプス市白根地区西野では、明治40年代にはサクランボやモモの栽培も軌道に乗り初め、果実郷といわれるようになっていましたが、大正14年からは全国的にもいち早く温室栽培も導入しました。
南アルプス市の温室栽培史上、昭和16年頃に全盛期であったメロン栽培が最も知られていますが、そもそもメロンを栽培しようとしてガラス温室を大正14年に導入したわけではありません。
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白根地区西野でかつて種屋とよばれた蚕種家で使用されていた検尺器と顕微鏡。
その前に、この道具を使用した蚕種家についてですが、山梨県蚕糸業概史に記載されている大正14年蚕種製造業者調べによると、山梨県には大正14年に370の蚕種製造業者があり、そのうち現南アルプス市域が含まれる中巨摩郡には23の業者があったようです。
これらの道具は当時の白根地区西野村長谷部家の甲蠶館で使用されていたものです。
もっとも、地域の蚕種業者が活躍できたのは昭和初期まで。『昭和11年頃には蚕種の自家製造と配給を随伴した他県大資本製糸会社(郡是・鐘紡・片倉・東英語・昭栄)の特約取引の進出により(山梨県内の蚕種業者は)古くからの得意先を奪われ壊滅的に』なったとのことで、ちょうどこの頃に、西郡で最も大規模で有名な蚕種家でさえも休業したもようです。(昭和5年生まれの若草地区寺部在住者からの聴き取り等による)
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ひときわ目を引く真っ赤な紙。大正時代初期に行われた種痘(天然痘の)の接種済証です。
2期に分けて行われていた接種のうち、1期目の際に渡された証書はこんなに鮮やかな赤色だったようです。2期目は白い紙だったようですけれど、この1期目接種済証の真っ赤な色づかいが、江戸時代から続く疱瘡除けの習俗を彷彿とさせます。
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大正5年の櫛形地区榊小学校運動会プログラムと大正15年の西野小学校運動会プログラム。昭和50年代くらいまでは10月10日、スポーツの日前後が多かったようです。
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現在も生産量が少なく、最高級織物の原料として「繊維のダイヤモンド」と称されている山繭。山繭とは、ヤママユガのつくった鮮やかな緑色の繭のことで、緑色の美しい糸をとることができます。ヤママユガは、人為的に生み出され、桑の葉を食べるカイコとは別の種で、幼虫はブナ科のクヌギやナラの木の葉っぱを食べて育ちます。現在も天蚕(てんさん)と呼ばれ、カイコとは別の飼育方法と技術が日本各地で受け継がれています。天蚕は昨秋に産み付けたヤママユガの卵を、手入れしたクヌギ林内の枝に孵化前に分散して付け(「山付け」という)、幼虫や繭を食べにくる外敵から人間が保護して守り育てます。
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南アルプス市甲西地区湯沢にある、お舟に乗ったお地蔵様。
こちらの「湯沢の舟乗り地蔵」については、平成7年に中巨摩郡文化協会連合会郷土研究部が発行した「中巨摩の石造文化財」にも取り上げられていて、そこには『安山岩製で高さ88cm、舟の長さ85cmで、水難守護・諸病平癒と祈願した。昔、旅をする時に、この地蔵にお参りして出発した』と記されています。
造立年は、舟の側面に銘があり、『享保四已亥年中 セ主湯沢村 塚原村』と記されています(岡野秀典氏『山梨県の岩船地蔵』 1999 山梨県考古学論集Ⅳ 山梨県考古学協会より)。このような御舟に乗ったお地蔵様は、「岩船地蔵」と呼ばれることも多く、享保四年(1719)造立のものが大多数です。岩船地蔵の造立は、享保四年に関東地方西部から中部地方東部にかけて流行した岩船地蔵信仰に由来するからです。
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←「明治31年から39年記武州石川組製糸場女工より葉書表(西野功刀幹弘家資料より南アルプス市文化財課所蔵)
明治時代に、南アルプス市にあった西野村から、埼玉県の製糸場に出稼ぎに行っていた、相川福乃さんという女性がいました。
明治31年ころは、生糸のアメリカ向けの輸出増大で、日本中に大規模製糸場が次々と建設されていた時代。山梨県は、明治7年に県営勧業製糸場が創業(富岡製糸場は明治5年創業)したことで、蚕糸業萌芽期の先進地となり、明治20年代には甲府の製糸家が全国的に台頭するほどまでになっていました。
そのため、地元で器械繰糸技術を習得した山梨県内の女工たちが、次々と県外に新しく建設される製糸場から引き抜かれ、出稼ぎに行きました。
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「地方病とたたかうポスター」をご覧にいただきたいと思います。山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。
山梨県が製作したこの地方病予防広報・啓発ポスターを見出し部分から読んでみますと、『三百余年前から蝕ばまれ悩まされ続けて来た地方病 今こそ完全撲滅の絶好の機会!!県政の重大施策としてとりあげてここに三年、有病地の指定解除、宮入貝の減少、患者の著減等々成果は上々である。 この好期をおいていつの世に根絶することができよう、みんなで力を併せて一挙に駆逐するよう今一段の努力をいたしましょう。』とあります。
このポスターには製作年が記載されていないのですが、見出しの文面と、「現在実施している予防対策」の項にPCBという薬剤によるミヤイリガイの刹貝と、コンクリート溝梁化工事に年間一億のお金をかけている」といった文言があること、当該資料の含まれる資料群全体の年代構成からかんがみて、この地方病対策ポスターは、だいたい昭和30年代中頃に作られたものではないかと考えています。
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雛人形が入っている箱に地元の呉服屋さんの名前が記されていることがあります。当時の呉服店は、節句人形の販売代理店としての機能も担っていたようで、西郡地域の人々が飾ったお人形は甲府の雛問屋で作られたものに加え、鰍沢の春木屋などの商家を経由して入ってくる駿河で製作された人形も多く流通していたと考えられます。明治大正期に昭和初期頃の西郡の人々が人形を求めるときには、
① 甲府の雛問屋か鰍沢の商家に買いに行く。
② 甲府の雛問屋から「ひなんどー、ひなんどー」との掛け声で、安価な横沢雛を籠に担いでやってくる売子から買う。
③ 初節句の晴れ着などを購入するのに合わせて、近所の呉服屋で売っている人形を買う。
の3つの購入方法があったのだと思います。
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山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。この病を克服する作戦が本格的にはじまって、100年以上もかかったのです。
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徳島堰は、韮崎市上円井の釜無川から取水し、南アルプス市曲輪田新田まで伸びる役17kmのかんがい用水路です。寛文5年(1665)、江戸深川の町人徳嶋兵左衛門が甲府藩の許可を得て工事に着手し、寛文7年には曲輪田の大輪沢(堰尻川)まで通水したといわれています。
それから昭和40年代に釜無川右岸土地改良事業によってコンクリート化され、「原七郷はお月夜でも焼ける」といわれた御勅使川扇状地扇央部の常襲干ばつ地域にスプリンクラー網が整備されるまで、開削から300年の間に大雨による埋没など度重なる逆境乗り越え、現在の徳島堰の形となりました。
そんな南アルプス市の豊かな田園や果樹園の景観を守り続けてきた徳島堰ですが、実際どのようにして取水され、どんな旅路を経て私たちの暮らす南アルプス市までその水がやってくるのでしょうか!?今回はそんな徳島堰を流れる水の旅路を追ってご紹介していきます!
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堰沿いにある入戸野バス停
3つの発電所で大役を終えた徳島堰の水たち。そこからもう少し下流、入戸野沢との立体交差地点に差し掛かると丁度辺りは入戸野地区の集落となります。入戸野沢が水路橋で徳島堰を渡っているすぐ先。堰沿いには石造物とバス停、また集落中心地のシンボルである火の見櫓が並んで現れます。入戸野の町並みと徳島堰の変遷を見守ってきたであろう石造物の背面を流れる徳島堰。堰沿いの民家を見てみると、庭から堰の水面まで降りてこられるよう「つけえばた(洗い場)」が造られている箇所も多く、この徳島堰が集落の生活にいかに根ざし、溶け込んでいるかが伺える場所です。
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竪沢暗渠
大難所を乗り越えここらでひと息・・・とは行かないのがタフな徳島堰です!清哲町水上に入ってすぐに、また大きなカーブと描きながら竪沢暗渠へと突入していきます!今はほとんど水の流れが見えない竪沢、その上流に向かって大きく湾曲していくこの光景は確か前にもどこかで見たような・・・。そう、戸沢暗渠と同じような手法を駆使して沢を乗り越えていると考えられますね!
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大門沢暗渠
旭町上条南割まで指しかかった徳島堰。もう少しで南アルプス市!と言うところで韮崎市区間最後の暗渠が現れます。山梨県指定の一級河川大門沢を潜る大門沢暗渠。大門沢はほんの少しだけ水の流れがある程度の水無川で、周辺の民家などと見比べると天井川化しています。この大門沢暗渠を越えた向こう側にはいよいよ私たちの南アルプス市が見えてきます!徳島堰の水たちもラストスパートです!
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釜無川右岸第一調整池
徳島堰本体から分水された水たちがようやく辿り付くのは「畑地かんがい調整池」の通称第一調整池です。この調整地から南アルプス市扇状地の地下にはり巡らされたパイプラインを通って果樹園のスプリンクラーへと水が送られていきます!開削から約300年、「南アルプス市を潤す」かんがい用水路として悲願の任務達成となったのです!長い旅路を経てここまでたどり着いた徳島堰。でも皆さん、徳島堰はまだ続いているのを忘れてはいけませんよ!
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釜無川右岸第二調整池
南アルプス市飯野新田地区に入った徳島堰は最後の任務に向けて第二調整池へ分水をしていきます!しかしよく見ると調整池といっているのに溜まっている水の姿が見えないどころか、一面綺麗に整地されたグランドになってしまってるのは一体!?・・。実は第二調整地はこのグランドの地下に貯水のタンクが作られており、グランド自体は地域の人たちへ無料で開放しているとのこと。どこまでも地域想いで太っ腹な徳島堰!この調整ここでも貯められた水たちは地下パイプライン網を通ってスプリンクラーへと送られていきます。頭首工からここまで約16kmの旅路の中幾度となく難所を乗り越えながら、髄所で取水の任務を果たしてきた徳島堰。最後の大役を無事勤め上げてそのエンディングへと進んでいきます!
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白根地区今諏訪の手塚家に訪問調査に伺い、見せていただいたアルバム12冊を含む、たくさんの写真をお借りしました。いま、その内容の記録・分析を行っています。
写真は、おおむね昭和10年代から平成10年代までもので、三世代にわたる家族、地域、民俗行事の記録などが写し出されていました。
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昭和40年代まで市内白根地区の果樹地帯でも多く出荷されていた「りんご」。夏の暑い時期に栽培されることから「夏りんご」と呼ばれ、出荷前には温度と日光の加減を人為的に調節して、収穫した果実を赤く発色させる「人工着色」が行われていました。
人工といっても着色料や科学的な薬品は一切使用されてはいません。
[画像:個人所有(昭和36年撮影)]
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昭和40年代中頃に、関屋(せきや)という場所でおこなわれた「さくらまつり」のチラシをご覧ください。
関屋のさくらまつりのチラシ[昭和40年代(南アルプス市文化財課蔵)]
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西野功刀家より寄贈いただいた文書箪笥の中に、西野果実郷の父・小野要三郎直筆の手紙を発見しました。
「小野要三郎直筆功刀家宛書簡」
[明治45年1月17日 西野功刀幹浩家資料(南アルプス市文化財課所蔵)]
拝啓 謹言 昨日 上高砂小沢
伊ハ我承 是桃九十七代ト し
テ 委細ヲ入 金四百円ニテ 買
取呉候様申候 又 四五日
内之 又承知候ハ申付 無高
一寸申入候也
四十五年一月十七日
清水
小野要三郎
功刀七右衛門殿
南アルプス市域の果実郷では、その景観を作り上げた父と呼ばれる、小野要三郎という人物がいます。
石ころだらけで水のない不毛な御勅使川扇状地の土壌に、明治時代後半から次々と様々な果樹を県外から大量に取り寄せては植えて試作し、原七郷を多種栽培を基本とする果実郷に生まれ変わらせた中心人物です。
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果実を出荷した木箱にプリントするための金型をご紹介します。
メロン、もも、かき、さくらんぼ、りんご、などの品種名のほか、出荷した家の屋号やかつての村名、出荷組合の名称や記号も見られ、にしごおりでの果物産業が、多品目を組み合わせて栽培することで成り立ってきた、という特徴を物語る資料です。
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8月24日は今から186年前の天保7年(1836年)、山梨県では天保騒動という大規模な騒乱のさ中で、ちょうど現在の南アルプス市域が被害をこうむった日です。
天保騒動は、江戸時代後期の天保7年(1836)8月17日に郡内白野村での百姓一揆からはじまった騒動です。しかし、山梨郡熊野堂村の米穀商打ちこわしという当初の目的を果たした郡内の百姓たちが帰村した8月22日頃になると、騒動に乗じて参加した無宿人らが暴徒化して、大規模な強盗集団となり、国中(甲府盆地内部の村々)を暴れまわって、甲州の人々を恐怖に陥れました。
八田地区野牛島中島家文書の中に、要助さんという当時名主を務めた人物の日記帳があります。
(八田地区野牛島中島家文書「去申用気帳」)
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これらのたいそう立派で見事な松の前で撮影された集合写真には、2枚ともに、「山梨県蚕種協同組合武川村分場鑑別記念」とあります。撮影年や撮影方向がちょっと違うようです。[昭和29年6月9日 山梨蚕種協同組合武川村分場鑑別記念(今諏訪手塚正彦家資料より)]
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白根地区西野村功刀家資料の整理で文書箪笥の中から大正初期(大正3年~昭和10年)の果物出荷に関する書簡が多数(130枚)見つかりました。表に打ち込んでみると、特に大正5年と7年に、販売先の問屋とやり取りした葉書(以降、「果実売立葉書」と称す)がまとまっており、その年の出荷の動向を見ることができるものでした。
この地域で、大正5年に甲州中巨摩果実組合は発足していましたが、基本的に大正12年に西野果実組合ができるまでは、販路拡大と出荷は個々の家と問屋との、直接交渉・取引で、なされていたものと考えられます。
[大正期の果実売立葉書の一部(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)]
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「柿の野売り籠」は南アルプス市の果物産業史における重要なキーアイテムです。この資料の大きさは、口径41cm・底径45cm・高さ43cm。にしごおりの人々が、渋抜きした柿を入れ、担いで売り歩いた際に使用しました。籠の内部は、柿の渋が染みて黒くなっています。
大正時代のはじめまでは、秋になると、渋抜きした柿を籠に入れて担いで、釜無川や笛吹川を渡って行商に出たにしごおりの人々。稲刈りをしているところに行って、柿を売ったり、籾と交換することで、生活を支えていました。
[展示された柿の野売り籠(天秤棒なし)十五所澤登家より寄贈・南アルプス市文化財課所蔵]
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昭和16年頃に西野村の果実農家が使用した「出荷用ラベル」。 果物出荷木箱一つ一つに貼られた、生産地や生産者が記名されたラベルは、出荷品の質を保障するもので、当時は「保障紙」と云っていたのですね。工業製品で言えば商標のようなものですから、そのデザインには目を引くような美しさがあります。
[昭和15年 桜桃用保障紙(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)]
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江戸時代、顔のすっぽり隠れてしまう、籠を逆さにした様な筒形の深編笠をかぶり、袈裟をかけ、刀を帯びて尺八を吹きつつ托鉢行脚する独特なスタイルを持つ僧たちがあり、虚無僧とよばれました。そして、甲州にもいたそれらの僧たちは、乙黒村(現中央市)にあった普化宗(ふけしゅう)明暗寺(みょうあんじ)に所属していました。
[2013年中央市れんげまつりの際に行われた虚無僧行列]
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大正時代に白根地区西野村の若者が、愛知県に温室栽培を学びに行き、手にした園芸講習会の終了証です。
[「大正14年第十七回園芸講習会修了書」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課所蔵)]
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昭和14年(1939)のお正月に配られた引札(ひきふだ)をご紹介します。引札とは、明治期に多く作られ、配られた宣伝広告チラシのことです。
ご紹介する資料は、80年以上前に現在の南アルプス市飯野の倉庫町交差点の北にあった、麻野屋呉服店さんの配ったもので、主に旧正月の二日から五日までの四日間に開催する福引きについての引札です。
[「昭和14年倉庫町麻野屋呉服店引札」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課所蔵):このチラシには電話番号が記載されているので 、白根地区で昭和3年4月11日から電話交換事務が開始されたことを勘案して、卯年の昭和14年のチラシと判断した。]
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「瞽女」と書くこの字は、「ごぜ」と読みます。瞽女は、ちょうど手元にあった広辞苑第二版を開くと、『三味線を弾き、唄を歌いなどして銭を乞う盲の女』とあります。「座元」とは元締め、或はまとめ役のことです。この印札はいったい何に使われたのでしょうか?
「瞽女座元印札(横近習町組・飯田新町組)」 慶応4年戊辰9月(1868)(西野功刀幹浩家資料I-13-0-17-15・南アルプス市文化財課蔵)
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022年12月まで開催していた南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「にしごおり果物のキセキ」で展示されていた古文書、『菓もの類野うり免許状』2点、『曝柿直売免許状』1点、『原七郷議定書之事』をご紹介します。これらの古文書を読み解くと、にしごおり果物の軌跡が「柿の野売り」による行商活動からはじまっていることがわかります。
古来より、砂、砂利、礫、粘土に覆われたにしごおりの原七郷では、その恵まれない自然条件下によるギリギリの土地利用のなかで、最大限の効果を挙げようと努力する人々の姿がありました。柿などの作物を加工したり、売る時期をずらすなどして、商品価値を高め、農閑期に村外まで売り歩く行商によって、村の生産力以上の人口を維持してきたのです。南アルプス市域で最も古くから盛んに作られた果物は、この行商用商品として加工するための柿でした。
古文献にも、西郡(にしごおり)の柿についての記述は見られ、
「裏見寒話巻之四」1754年宝暦4年 野田成方 「甲斐志料集成三 地理部2」昭和8年 甲斐志料刊行会・大和屋書店に収録の
甲斐料集成P226には『西郡晒柿 渋柿を藁灰にて晒して売る。此処は田畑なく、柿を売る事を免許されしといふ。』
甲斐料集成P229には『晒柿 渋柿を藁汁にて製して晒す。佳味也。西郡原方より出づ。』とあります。これらの記述から、にしごおりの人々が売り歩いた柿は渋柿を加工したもので、「晒柿(さわしがき・さらしがき)」と称されていたことがわかります。
行商の商品として「にしごおり果物」を生産したことは、明治以降に当地で勃興するフルーツ産業に、様々なプラス作用を及ぼしました。商機があればどこにでも出かけていく、風の如く機敏なフットワークと開拓心によって磨かれた、にしごおり行商人たちの経済観念の強さは、市場の動向にもまた機敏な果物栽培を初期段階から実現し、現在の南アルプス市における独創的なフルーツ産業の在り方へとつながっています。
[南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「にしごおり果物のキセキ」より、柿売人に関する文献の展示コーナー]
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昭和8年の御勅使川砂防工事の記念写真をご紹介します。砂防堰堤は流れる土砂を貯めて川の水の流れをゆるくしたり、土砂の流出量をコントロールして、一度に大量の土砂が下流に流れ出て災害を起こさないようにする役目を果たします。
写真に見える昭和8年施工の第八号砂防堰堤は、『第八号砂防堰堤』という名称で、高さ2.5メートル、長さ96.7メートル、塩沢入口交差点北の南甘利山橋の東側下流に見える砂防堰堤です。ちょうど、御勅使川福祉公園の西端部にあたります。
出来上がった砂防堰堤の上に座ったりもたれかかったりと、この写真にはざっと数えても150人以上の人々が写っていますね。
大量の砂や石・セメントを運んだり、手練りでコンクリートを作るなど機械のほとんどなかった昭和初期には、たくさんの人と労力が必要でした。原七郷を含む地元住民の多くが工事労働に従事したそうです。この写真の見つかったお宅のある白根地区飯野でも、大正初期生まれの多数のご先祖様方が、写真の中にいらっしゃることでしょう。
[昭和8年度御勅使川砂防工事実況 (飯野中澤家資料より・南アルプス市文化財課所蔵)]
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白根地区飯野2区のお宅の倉庫から見つかった昭和初期の古写真群中の中から「昭和12年山梨県立農民道場機山寮」というアルバム資料をご紹介します。おそらく、このお宅で生まれ育ったどなたかが、この農民道場1期生の修練生であったと思います。
このアルバム内の写真が撮影された昭和初期、昭和4年にアメリカで起きた世界恐慌は、昭和5~6年以降の日本経済に深刻な影響を及ぼしていました。繭と米の二本柱で成り立っていた日本経済にとって、生糸の最大輸出国であるアメリカへの輸出量の大幅減による打撃に加え、昭和5年の豊作による米価下落、続く翌昭和6年の大凶作は危機的で、深刻な農村疲弊を招きました。
このような昭和初期の農業恐慌を契機に農村更生運動の一環として全国各地に設置されたのが、「農民道場」とよばれた修練場です。 農民道場は昭和9年より、当時の農林省が農村中堅人物の養成を目指して設立した教育施設がはじまりで、徹底した心身鍛錬を主目的としていました。
山梨県においても、まだ念場ケ原と呼ばれていた原野だった清里に、昭和12年5月17日「山梨県立農民学校機山寮」が創立されました。
アルバムの中の画像にある「山梨県立農民道場機山寮」については、国立国会図書館デジタルコレクションでみられる『昭和14年6月 農山漁村中堅人物養成施設に関する調査 修練農場・漁村修練場・山村修練場 農林省経済更生部』という資料にその実態のわかる記述がありました。その内容と照らし合わせながら、清里村八ヶ岳周辺山麓にあった「山梨県立農民道場機山寮」の画像を見ていきたいと思います。
[昭和12年山梨農民道場機山寮アルバム(飯野中澤家資料より・南アルプス市文化財課所蔵)]
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令和5年6月21日(水)まで開催しておりますテーマ展「ナニコレ!昔の道具」展に展示中の「ハエ捕り瓶」と「ハエ捕り棒」「ハイトリック」について、ご紹介したいと思います。
[展示中のハエ捕り棒とハエ取り瓶]
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こちらは「菓もの類野うり免許状」とよばれる文書です。信玄が出したものと云われ、天文10年(1541)8月と記され、龍をかたどった印、龍朱印が押されています。
このような文書の類は、甲州の西郡(にしごおり)と呼ばれる地域(現在の南アルプス市市域)で武田信玄の野売免許状としてたびたび報告されてきた御朱印状です。文献等で報告されたものを数え上げると、これまでに市内で9点ほど見つかっています。しかし、残念ながらこれらの朱印状は信玄の活躍中に出されたものではなく、文化6年(1809)10月以降に作られ流布したものであるとの学術的判断がされています
[「菓もの類野うり免許状 十五所澤登家所蔵」 天文10年8月]
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ふるさと○○博物館では、南アルプス市白根地区の商店名が記されている日本手拭いと団扇を多数収蔵しています。
[重要文化財安藤家住宅で展示中の今諏訪の商店名のある団扇]
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南アルプス市ふるさと文化伝承館では令和5年7月14日から12月20日まで、テーマ展『南アルプス山麓の古代牧』を開催しました。
御勅使川扇状地での牧(牧場)の存在は、百々遺跡で発掘された出土資料によって、平安時代にさかのぼる可能性があると考えられていますが、江戸時代以降も牛馬利用の伝統は続いています。さらに、もっと身近な昭和30年代頃まで市内で使われていた民具をみることで、牛馬と市民との関わりを知ることができます。
[南アルプス市ふるさと文化伝承館で令和5年7月14日から12月20日まで開催された、テーマ展『南アルプス山麓の古代牧』における民具コーナー]
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昭和時代に生活必需品だったマッチを収蔵資料の中からご覧いただきます。
[「スパイ御用心 書類手紙御用心 職場乗物御用 防諜」 二等品 志摩燐寸製造所(南アルプス市文化財課蔵)]
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昭和時代の戦争に関する資料のひとつ、奉公袋をご紹介したいと思います。まずは、櫛形地区上今井で今から80年ほど前に撮影された出征の時の家族写真をご覧ください。
[出征記念の写真:中央の出征兵は奉公袋を抱えている。(上今井五味家資料 南アルプス市文化財課蔵)]
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こちらは「大日本国防婦人会」の襷(たすき)やこの白い襷をかけた女性たちの記念写真です。
[「モンペに割烹着、大日本国防婦人会の白襷をかけた西野村功刀の婦人たち(昭和15年頃)」(西野功刀幹浩家・南アルプス市文化財課蔵)]
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にしごおり(現南アルプス市域)の人々が甲府に行くには、釜無川だけでなく、荒川も越えなければなりませんでした。そのため、にしごおりの先人たちの遺した渡船に関する資料の中には、釜無川越えに利用する、高砂の渡し(現信玄橋辺り)・今諏訪の渡し(現開国橋辺り)・押切の渡し(現三郡橋辺り)の他に、荒川越えの資料もあります。
『 覚
一 荒川ばし代
拾ニ円也
右之通り請取申候
辰十二月
飯田新町
文吉
金右衛門
西野村
御名主様 』
明治から大正期の、荒川を渡る橋の通行料の領収書です。現在でいうと、国道52号線美術館通りを相生交差点に向かって架かる荒川橋辺りにあった、大正15年以前の仮橋時代のものです。12月にまとめて支払った金額が12円ということなので、一人当たりの橋利用料がいくらだったのかは不明ですが、村費からの公的な交通費として年間支払額の領収書が名主宛に出されているようです。
[I-13-0-17-17 荒川橋代請取覚-1(南アルプス市文化財課蔵・西野功刀幹浩家資料より)]
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南アルプス市内にはカッコいいお馬さんがデザインされた信号機があります。まずは1ヶ所目、南アルプス市今諏訪にある開国橋西交差点にある信号機です。ここから白根インターチェンジ出入口の交差点に向かって、県道今諏訪北村線沿いに見られる信号機をご紹介していきます。
[開国橋西交差点にある、「御勅使川扇状地を疾走する甲斐の黒駒」デザインの信号機(令和5年11月21日撮影)]
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芦安地区で大切に祀られている「お船地蔵さん」は、立派な木堂の中で他の石造物とともに赤い頭巾と前掛けをつけています。お堂前の急な階段を上って一番右端、前掛けの布の下をよく見ると、一躰だけ御舟の上にある蓮座に立っているので、すぐにわかります。「お船地蔵さん」の脇には丸石も置かれていて、この地蔵堂は甲州伝統の丸石信仰も見ることができます。
[1芦安地区芦倉237「お船地蔵さん」(令和5年12月14日撮影)]
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明治終わりから昭和時代にかけて、県外の製糸場で働きに出ていたにしごおりの女性たち。市内にはそうした出稼ぎ工女たちが故郷に送った葉書が多く残っています。過去に西野村の相川ふくのさんという女性が明治31年から39年の間に武州入間豊岡町にあった石川製糸所から送った葉書をご紹介しましたが、今回は、今諏訪村の手塚家に30名ほどの村出身の女工が明治から昭和時代に掛けて送った80通もの葉書等を新資料として加えて、分析してみよう思います。
[明治41~45年埼玉・長野・山梨(諏訪村:現在の北都留郡上野原町)への出稼ぎ工女から届いた葉書(今諏訪手塚正彦家資料・南アルプス市文化財課蔵)]
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昭和40年代の前半までは、日常の生活で着物を着ている人がまだたくさんいました。通常の洗濯では、たらいと洗濯板を使って「丸洗い」していた着物も、春と秋の季節の変わり目に行う衣替えでは、縫い目をほどいて反物の状態にして「解き洗い」をしたそうです。ほどくと縫い目にたまったほこりや汚れが落としやすくなるからです。
解き洗いの後には、「張り」という独特の干す工程があり、この「解き洗い」から干すまでの一連の作業をまとめて「洗い張り」といいます。
「張り」のやり方は二通りあり、板にぴたっと密着させて張る「板張」と、伸子針(しんしはり)でぴんと張る「伸子張」のいずれかの方法で、糊付けして干しました。
[板張]
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砂礫と石で造られた堤防で、一番堤から五番堤まで残されている。武田信玄の築堤と伝えられるが、史料で裏づけられていない。少なくとも江戸時代には築堤され、有野の田畑や集落、さらに下流の御勅使川扇状地に立地する21ヶ村を守る役割を果たしていた。国指定史跡(一~三番堤)
[県立博物館蔵]
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