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加賀美遠光廟所

法善寺の門の正面を南に歩くと門と対面するように祀られており、今も8月にはお祭りが行われる。


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加賀美遠光館跡(法善寺)

鎌倉幕府創建時に活躍した甲斐源氏加賀美遠光の館跡に建てられた真言宗の寺院です。
平安時代に逸見(北杜市)に創建されたものを、山寺(寺部)を経て、遠光の時に加賀美の地に移し、孫遠経のときに館の地に移したといわれています。
周囲には館を巡るように配されたお堀の名残もあり、武家の棟梁の館であることを彷彿させます。


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二本柳遺跡

平安時代から江戸時代の水田跡、戦国時代から江戸時代の寺院
跡が発見されています。
寺院は、加賀美遠光の館跡とされる法善寺の子院の一つであっ
た「福寿院」の跡です。この寺院は江戸時代末に火災で焼失したとされます。
 遺跡からは16世紀を中心とした木棺墓、井戸、周囲をめぐらした溝、掘立柱建物跡などの施設のほか、陶磁器・かわらけ・内耳土器・すり鉢、石臼、摺臼、漆器、下駄等の生活道具や卒塔婆、五輪塔、銭貨などが見つかっています。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)


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新居道下遺跡

古墳時代後期のムラの跡が発見されました。また弥生時代~
古墳時代前期の溝跡なども発見されており、弥生時代以降、
連綿と人々が暮らしていたことがわかります。

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法善寺

真言宗の寺院。武田氏の氏神武田八幡神社の別当を務め、武田氏の戦勝祈願寺でもあった。信玄が自筆し法善寺へ奉納した和歌百首は文化8年(1811)の火災で焼失したが、焼失前に筆写された木版本が残る。


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妙太寺

牛頭天王の廃祠を天正年間、武田家家臣の原大隈守が本堂を建立し再興したと伝えられる。


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村北第2遺跡

現在の鏡中条地区と下今井地区の間に位置する。50㎡の小規模な調査ながら、平安時代の住居跡1軒と中世の土坑慕が発見された。それぞれの墓には六道銭とよばれる銅銭が6枚ずつ埋められ、片方の墓にはその他に香炉や土器が一緒に副葬されていた。

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二本柳遺跡(甲西バイパス地点)

法善寺の塔頭(たっちゅう)「福寿院」の西側に位置する。中世の水田とともに溝によって区画された戦国時代の寺院跡が発見され、「福寿院」が東側へ広がることが明らかとなった。寺域内からは火葬骨を埋葬した木棺が出土。木棺には梵字や真言の偈文(げもん)が墨で書かれ、その内容は当時の葬送の手順を書いた元興寺極楽坊所蔵の『入棺作法』の内容とほぼ一致している。こうした状況から、寺院と関係した人物が葬られた可能性が高い。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)


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二本柳遺跡(農道地点)

「法善寺境内図」によれば、近世の法善寺の周囲には20を超える塔頭があり、壮大な規模を誇っていた。発掘調査の範囲は、その中でも一番大きな塔頭である「福寿院」の一部で、戦国時代の土器や木製の卒塔婆、五輪塔、石臼などが発見された。土器の中には僧侶の名前と思われる文字が墨書されたものもある。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)


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甲斐源氏って?

 清和源氏の一流で、新羅三郎義光を祖とするといわれ、実際には義光の子源義清、その子源清光の頃より甲斐国に入ったとされ、清光の子を甲斐国内各地に配置したことによって甲斐の源氏一族としての地盤を築いたといわれます。

 清光の子には武田信義(この流れが武田信玄へと続く)などがおり、信義の弟にあたる加賀美遠光もまた、甲斐源氏を代表する武将といえます。


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十日市

戦国時代以前から続く伝統の市。
現在も2月の10・11日の両日に開かれ、甲府盆地に春を呼ぶお祭りとして親しまれている。
昔から十日市で売られていないのは「猫の卵と馬の角」と言われるくらい、何でもそろう盛大な市である。
古くは、法憧院の天文3年(1534年)の厨子銘に十日市場の村名が見える。


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角力場第2遺跡

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加賀美遠光

南アルプス市に初めて足跡を残した甲斐源氏、加賀美遠光は、康治二年(一一四三)源清光の三男として生まれたとされ、現在の南アルプス市加賀美の地を拠点として甲府盆地西部から富士川流域に勢力を持ちました。

遠光の長男光朝、次男長清は共に実際に在京して平家に仕えており、真偽の程はともかく、このような逸話から、遠光自身の上京の可能性や京都とのつながりをうかがい知ることができます。
この時期に併せて「王」の字も勅許され、加賀美一族の紋である
「三階菱」は、この「王」の字を図案化したものと伝えられています。(小笠原家にも同様な伝承が伝わります)

身延町にある大聖寺の本尊「不動明王挫像(重文)は、承安元年(一一七二)に宮中守護の功績により、遠光が高倉天皇から下賜され、京からの帰路、現在の大聖寺の地に安置したものと伝えられます。


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大弐局

大弐局は、文治四年(一一八八)、当時七歳であった頼朝の嫡男万寿(後の2代将軍頼家)の介錯人(養育係)として頼朝に出仕した女性で加賀美遠光の娘。
出仕に際し頼朝に拝謁し「大弐局」の名を与えられました。
その後、建久三年(一一九二)に頼朝の次男千幡(後の三代将軍実朝)が誕生すると、今度は千幡の養育係りに転じています。


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紙本墨書大般若経561巻

大般若経は唐の太宗の命によって玄奘三蔵(602年~664年)が梵本から訳したものです。
「般若」とは、さとりに至るための知恵という意味で、古くから霊験あらたかな経として、しばしば書写・版刻の上、寺社に奉納され、いろいろの祈願のために読誦されてきました。この経典は建長6(1254)年、武田信義の孫信長が願主となって武田八幡社に奉納したものですが、明治初年の神仏分離令により同社の管理寺であった法善寺に移され現在に至ります。
良質の楮紙の折本で各巻頭には「願主源信長」等の署名があります。
奥書によればその頃の甲斐の大寺平塩寺(市川大門)、大善寺(勝沼)等の学僧によって写され校合されたものです。
質実剛健な源氏納経の代表的なものとして全国的にみても誠に貴重な文化財です。

指定年月日/明治38年4月4日
所有者、管理者/加賀美・法善寺蔵


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三恵の大ケヤキ

樹高25メートル、樹齢千年とも言われる。落雷を受けながらも天高く枝を張り、風土を守ってきた。「三恵の大ケヤキのように」と語り伝えられ、人生の手本にも、励ましにもなってきた。


所有者、管理者/南アルプス市
指定年月日/昭和2年11月30日


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木造十一面観音及毘沙門天、不動明王立像

もともと円通院にあり現在は隆円寺で管理している本像は江戸時代の地誌『甲斐国志』に「日不見観音(ひみずかんのん)」と記載されるように、三十三年に一度の開帳の秘仏として祀られてきた。史料がなく造立の次第などは不明だが、元禄4年には近隣の人々が施主となり大規模な修復が施されるなど、古くから人々の信仰を集めてきた尊像である。
中尊十一面観音像と毘沙門天像は、両肘より前及び天衣まで含んで一本の材から彫出し、内刳を施さない古式の構造で、平安時代前半11世紀頃の所産と考えられる。不動明王像は肩で矧ぐ構造がこれら二像と異なり衣文の表現などより簡略化され、二像よりやや遅れた12世紀前半頃の造立かと思われる。
観音像を中尊とし、不動明王像と毘沙門天像を脇侍とする形式は、10世紀末頃に比叡山延暦寺で成立し、以後天台宗の寺院で多く造立されるが、本像はこうした天台形式の三尊像として全国的に見ても早い時期の造立であり、この形式の地方への広がりを考える上で貴重な作例といえる。また、これまで甲斐国への天台宗の伝播を示す資料はすくなかったが、本像は平安時代中期における同宗の存在を確実に伝えており、天台宗伝播の最も古い遺例として甲斐の仏教史の上でも非常に重要な作例である。


所在地/南アルプス市下今井841
所有者、管理者/隆円寺
指定年月日/平成20年4月17日
備考/


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木造阿弥陀如来坐像

隆円寺所蔵本像は、全体のバランスが良くとれ、しかも引き締まった造形をみせる。像の表面が造立当時のまま伝えられていることも貴重で特に衣の全面には多種類の截金(きりかね)文様が残る。制作年代は鎌倉時代半ば頃と考えられ、端正で洗練された作風から作者は京の仏師と考えられる。また、本像頭部には、文書が2通納入され、うち1通が取り出されている。二紙からなるこの文書には仮名文字で浄土往生を願う願文が記され、本像が当時の浄土信仰のなかでの造立であることがわかる。像内に願文や納入品を奉納した阿弥陀如来像は県内では本像が初めての例であり、阿弥陀如来に寄せる当時の人々の篤い信仰を具体的に伝える貴重な作例といえる。


所在地/南アルプス市下今井841
所有者、管理者/隆円寺
指定年月日/平成20年4月17日
備考/


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厨子入り地蔵菩薩坐像 1躯 附厨子

法憧院所蔵の本像は、戦国時代の様式をよく伝えるまとまりのいい作例といえる。
厨子は仏堂を模した宮殿の形で小型ながらどっしりとした趣があり、中世に遡る単独の厨子は県内ではめずらしい。
厨子内面の三つの壁面全体に記される墨書は、天文3年(1534年)に檀家の人々が毎月費用を出しあい、大工加賀美五郎右衛門に依頼して厨子を造立した次第を記したもので、当時の人々の厨子建立に寄せる思いを伝えるとともに、戦国時代前半の歴史を知る上でも重要な史料といえる。
中世に遡る作例で尊像、厨子、銘文が揃って伝わる作例は県内では非常に稀であり、厨子銘文中に十日市場の村名がみえ、甲府盆地に春を呼ぶ祭りとして有名な「十日市(南アルプス市指定史跡)」の起源を考える上でも興味深い作例である。

所在地/南アルプス市
所有者、管理者/法幢院
指定年月日/昭和51年1月1日
備考/


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木造寄木地蔵菩薩立像一軀 附厨子

木造地蔵立像として、このような大形のものは県下に稀有のものである。伝承は空也上人作というが、藤原末期から鎌倉初期へかけての作風のようである。桧材、基盤は二段框座。安阿弥陀様式。尊像は全高123センチメートル。光背は後補のものである。現在塗金泥は一部をのぞいて消えうせ、右足部その他破損などみられるが、写実的で、民衆が商売繁昌、家内安全などの祈願をこめて、十日市の市神として、永い間、この仏の像をたのみにした息吹が強く感じられる。厨子は、後補のもので江戸時代作。大型、黒塗り、高さ234センチメートル。


所在地/南アルプス市十日市場1841
所有者、管理者/安養寺
指定年月日/昭和51年1月1日
備考/


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木造釈迦如来坐像一軀

この仏像は、客殿に安置してあって、寺記によると、24代日侑造立のもので享保年間(1716年から1735年)の作である。全体に江戸時代によくみられる卑俗性がなく、古い時代形式を求めんとした仏師の心境がうかがえる。西郡地方稀有の大金色坐像といえよう。像高 107センチメートル。八陵型須弥山形裳懸座からは171センチメートルある。面長22、面深23、肩張り56、膝高15。

所在地/南アルプス市鏡中条700
所有者、管理者/長遠寺
指定年月日/昭和58年1月1日
備考/


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木造日蓮上人坐像一軀

所在地/南アルプス市鏡中条747
所有者、管理者/妙連寺
指定年月日/平成元年1月19日
備考/

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木造僧形八幡大菩薩像一軀

所在地/南アルプス市鏡中条747
所有者、管理者/妙連寺
指定年月日/平成元年1月19日
備考/

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木造新功皇后坐像一軀

所在地/南アルプス市鏡中条747
所有者、管理者/妙連寺
指定年月日/平成元年1月19日
備考/

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絹本着色釈迦涅槃図一幅

釈迦涅槃図で最古のものは応徳三年(1086年)作画の高野山金剛峯寺所蔵のものであるが、鎌倉時代になるとこれが普及し数多く描かれるようになり、図柄も時代と共に変化してきている。法善寺蔵のこれは寛文四年(1664年)東福寺の自得という僧の作であるが、おそらくは明兆の系譜をつぐ絵仏師であろう。

所在地/南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/法善寺
指定年月日/昭和51年1月1日
備考/


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絹本着色弘法大師像図

この図は高野山の御影堂に祀ってあるものと同一の図柄で、真如法親王が生前の空海のお姿を自ら写されたものとされている。真如法親王は平城天皇第三皇子であるが、出家して東大寺に学び後空海の弟子となった。求法のために唐から印度へ向かう途中、虎害にあい78歳で葬ぜられたといわれる。この図の裏書によれば寛永7年の作であり、出所等も明白で作画もすぐれているので古美術品としても貴重なものである。


所在地/南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/法善寺
指定年月日/昭和51年1月1日


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掛絵六地蔵菩薩像6面付厨子・地蔵菩薩像縁起一巻

桧板に描かれた地蔵、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六道衆生救済の地蔵尊像を岩絵具であらわしたものである。それぞれ元和五巳未正月吉日。野呂瀬主税助とある。長さ41.5センチメートル。幅28センチメートル。画像は平均高35センチメートル、縁起は鼻採地蔵縁起と初めに記されてある軸もの、巻子本である。見返りを除いて長さ362センチメートル。幅34センチメートル。末尾に、寛永17癸未霜月甘四日直自とある。地頭野呂瀬主税助直自(徳川家康臣甲府城代平岩親吉家臣)の筆とされる。

所在地/南アルプス市十日市場
所有者、管理者/安養寺
指定年月日/昭和51年1月1日


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宝筐印塔群

恵光山長遠寺歴代墓域内にある五基を対象とする。北端の東塔は基礎から笠上端まで23センチメートル。正面には横に二祖、縦に日永と刻し、向って右に文和4年(1355年)、左に八月七日とある。西塔は、基礎から相輪まで31.5センチメートル。塔身の正面格狭間のなかに、中央に三世日用と縦刻、向かって右に応安二酉(1365年)左に七月五日とある。東塔年号は、県下在銘塔中屈指のもので、両塔とも北朝紀年号が刻されて、南北朝時代を偲ぶ歴史的価値がある。しかし塔全体が完備してなく、時代的にはおくれた感もある。


所在地/南アルプス市鏡中条700
所有者、管理者/長遠寺
指定年月日/昭和58年1月1日
備考/

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法善寺鐘楼付梵鐘

現在の鐘楼は、室町時代初期の建立という。屋根は入母屋形式。胴張りのない真直な方柱、そのうえの裁断部上の円柱で支えた楼造ながら、古代寺院の鐘楼形式をよく示している。殊に下層の方柱(高さ295センチ)根石は自然礎石で、柱はそのうえに直接立ち、それぞれ面取り(隅切)の割合は大きい。ただし上層構成の円柱(高さ184センチ)、虹梁、三斗(みつど)などの木組は改建立時の補強と思える。付・梵鐘:銘文はなく、制作年代不詳、伝鎌倉時代、龍頭(懸金)は高、幅27センチ、鐘は頂部から基部まで120センチ、口径88センチ。音色重厚の名鐘である。


所在地/南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/法善寺
指定年月日/昭和54年12月28日


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板絵僧形八幡神像一面

神仏は本来同じものであるという思想にもとづく彫刻絵画等を垂迹美術と称するが、これもその一つである。本地仏である阿弥陀如来が人々を救済するために現われたのが八幡神である故、八幡神が大菩薩として僧形をとっている訳である。本地垂迹説は仏教の日本的変容のもっとも著しいあらわれであり、それを表現した美術は日本独自の仏教芸術であると言える。裏面の墨書銘によれば寛正二年(1461年)法善寺第八世の厳延が武田八幡社へ奉納したものである。


所在地/南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/法善寺
指定年月日/昭和52年3月21日


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絹本着色十六善神像一幅

十六善神は般若経の守護神といわれ、大般若経を読誦する折にはこの軸をかけることになっている。墨書銘は「丙申八月十六日対島法眼」とあって制作年代は不明であるが、その画材、画風等からして室町中期の作と推定される。釈迦如来を中心として文殊、普賢、般若等の諸菩薩ならびに大般若経を訳出した玄奨三蔵が侍し、それを囲んで16人の諸神が威風堂々と描かれている。整った像容、おだやかな色彩、写実的で平明な表現の中に荘厳さのただよう一幅である。


所在地/南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/法善寺
指定年月日/平成3年5月30日


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巨摩八幡宮太太神楽

この神楽は里神楽であって笛や太鼓で囃し、仮面を被り無言で演ずる岩戸神楽に属するものである。その起源は詳らかではないが往古よりこの里の伝承され、ある時には高尾山穂見神社の氏子により、また山寺八幡神社の氏子により奉納されてきた。現在は氏子有志(奉楽会)に引き継がれ、毎年大晦日から元旦にかけてと、8月最終日曜日に奉納されている。

所在地/南アルプス市鏡中条469
所有者、管理者/巨摩八幡宮
指定年月日/昭和46年1月28日
備考/

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十日市跡

所在地/
所有者、管理者/ 加賀美・法善寺
指定年月日/ 昭和46年1月28日


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五味国鼎の墓

所在地/
所有者、管理者/ 藤田・泉能寺
指定年月日/ 昭和46年1月28日

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広瀬中庵の墓

所在地/南アルプス市藤田304
所有者、管理者/明行寺
指定年月日/昭和46年1月28日

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五味可都里の墓跡

五味可都里は江戸時代後期、甲州を代表するの俳人ひとり。
名は宗蔵、号は可都里(葛里)。蕪庵(かぶらあん)と称した。
旧巨摩郡藤田村(現南アルプス市藤田)の豪農で、田園風景を素材にした温雅な作品を多く残した。
編著に『農おとこ』、『ななしどり』などがある。
寛保3年(1743)生まれ、文化14年(1817)没。享年75歳。
可都里の没後、「蕪庵」は甥の蟹守が継ぎ、その後の甲州俳壇の指導的役割を担った。
注)なお、現在墓自体は鏡中条の長遠寺境内に移されている。


所在地/南アルプス市藤田410
所有者、管理者/泉能寺
指定年月日/昭和46年1月28日
【参考文献】
池原錬昌編2004『可都里と蟹守』五味企画
清水茂男1963「五味可都里の研究」『山梨大学学芸学部研究報告』14号山梨日日新聞社出版部編2003『可都里と霞外』若草町文化協会

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八幡神本地仏鏡像一面

法善寺が管理していた武田八幡宮の本地仏として尊崇されたもので、全体の構造、手法は鎌倉期の特徴をよく表わしている。技法は必ずしも優れているとはいえないが、素朴の中に烈々たる信仰心がうかがわれ、その深遠な宗教性は拝するものの心にせまるものがある。


所在地/南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/法善寺
指定年月日/昭和54年12月28日


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版本大毘盧遮那成仏経疏16巻

大日経は金剛頂経と共に密教の根本経典であり、716年インドから唐に来た名僧善無畏三蔵が翻訳した経典である。三蔵はさらにその経典についての講義を行い、それを弟子の一行禅師が筆録したのが経であり、宗教の理論的説明のさきがけをなすものとして仏教学徒の必読の書とされている。法善寺蔵のこの本は世に高野版といわれる本版本であり、巻末の奥書によれば弘安元年(1278年)頃版刻されたものである。


所在地/南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/法善寺
指定年月日/昭和53年3月30日


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紙本墨書金光明最勝王経十巻

原典は唐の義浄三蔵が訳出したものである。鎮護国家、万民豊楽を祈る経典として古くから特に為政者によって信奉されてきたが、一般に経典は華美なものが多い。法善寺所蔵のこれは天文八年(1539年)武蔵国藤田郷の聖天宮にその地の領主が奉納したものであり、田舎武士にふさわしい誠に質素な本である。これは加賀美家伝来の経本で慶長12年法善寺18世玄覚が点注を加えている。


所在地/南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/法善寺
指定年月日/昭和61年9月17日


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法善寺伝承本真言宗諸流聖教類769点

聖教類には、仏、菩薩、その他諸等に対する礼拝法、供養法、念踊法など実践的な修行方法が示されている。
得度を終了した出家者が所定の行規にしたがって、修行しながら逐次、伝授や講伝を授けられた、いわゆる師資相承の秘法である。
行者は師から授けられた折紙、冊紙、巻紙を書写し、伝授の権威を保つために伝授日時や師資名、道書名を巻末に誌しているものが多い。
この聖教類は、真言宗学問寺として栄えた法善寺にふさわしく一ヶ寺にこれだけのものが残っていることは県下は勿論、全国的にもきわめてまれである。


所在地/南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/法善寺
指定年月日/昭和62年2月10日


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法善寺のサルスベリ一樹

みそはぎ科の落葉高木で原産地は中国南部。樹皮は褐色でつやがあり、なめらか。夏から秋にかけて白色または紅色の小花をひらく。
さるもすべりそうだという意から「サルスベリ」と云われ、花期の長いことから「百日紅」とも云う。
樹高15メートル、根廻り2.8メートル、枝張り東西13.5メートル、南北10メートル。
樹齢は定ではないが、サルスベリとしては県下で数少ない大木である。


所在地/南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/法善寺
指定年月日/昭和62年7月1日


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大薙刀銘備州長船兼光一振

これは信玄が武田八幡宮に奉納したものであるが、明治初年神仏分離の際、法善寺へ移されたものである。「備州長船兼光」と在銘で長さ四尺六寸身幅一寸五分厚さ四分半もある実に堂々とした大薙刀である。兼光は鎌倉時代の長船鍛治を代表する名工で、初代と二代とがあり、二代の頃には武威を誇示するのあまり三、四尺もある豪刀が全国的に流行した。銘の書体から見たのでは初代か二代か決めかねるが、時代相を反映した雄大な姿から見て二代兼光作と思われる。


所在地/南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/法善寺
指定年月日/平成6年11月7日


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鏡中条のゴヨウマツ

マツ科に属する常緑喬木で、我が国の特産で北海道から九州まで産し、中部以南に産するものをヒメコマツ、中部以北に産するものをキタゴヨウマツとして区別することもある。その材は建築、器具の料に供する。又園芸的変種が多く、庭園樹、盆栽として栽培される。本県では富士山をはじめ、各地の高山に多い。此のゴヨウマツは、根本周囲85センチ、幹囲84センチ、樹高11メートル50、枝張り東西11メートル50センチ、南北4メートル60センチ、東にのびた9メートル20センチの枝は特に見事である。(推定300年経過)


所在地/南アルプス市鏡中条461
所有者、管理者/個人
指定年月日/昭和45年10月26日


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十日市場の大ケヤキ

この大けやきは、樹齢五百年と推測される。樹高22メートル、根廻り11.30メートル、3本の巨枝が大きく四方に延びて、東西、南北とも24メートルに及んでいる。錯綜した根は60センチメートル以上に盛り上がっている。樹勢は極めて旺盛で、壮年期性を持つ地方の崇敬の対象となっている名木である。


所在地/南アルプス市十日市場1959
所有者、管理者/石動神社
指定年月日/昭和61年3月19日


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流転の村 ~釜無川の流れに翻弄された浅原村~①(ふるさとメール2008年9月12日号)

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流転の村 ~釜無川の流れに翻弄された浅原村~②(ふるさとメール2008年10月1日号)

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小正月に行われる伝統行事-どんど焼き- (ふるさとメール2010年1月15日号)

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橋は世につれ世は橋につれ(2)(ふるさとメール2012年8月15日号)

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橋は世につれ世は橋につれ(5)(ふるさとメール2012年11月15日号)

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野呂川話 ~長い長い水を求めた物語 第一幕 江戸時代~(ふるさとメール2013年8月15日号)

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野呂川話~長い長い水を求めた物語ー第二幕明治時代~(ふるさとメール2013年9月15日号)

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野呂川話~長い長い水を求めた物語ー第三幕大正・昭和時代~(ふるさとメール2013年10月16日号)

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野呂川話 ~長い長い水を求めた物語-第四幕 昭和20-40年代~(ふるさとメール2013年11月15日号)

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平安時代の信仰(1) ―御勅使川扇状地の観音信仰―(ふるさとメール2014年4月14日号)

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御勅使川扇状地の物語 ~扇状地で培われた西郡魂~ (ふるさとメール2010年12月15日号)

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水防費分担金訴訟の顛末(てんまつ) ~その1~(ふるさとメール2014年8月15日号)

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水防費分担金訴訟の顛末(てんまつ) ~その2~(ふるさとメール2014年9月16日号)

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水防費分担金訴訟の顛末(てんまつ) ~その3~(ふるさとメール2014年10月14日 号)

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水防費分担金訴訟の顛末(てんまつ)その5~控訴審(ふたたび)から大審院(最高裁判所)へ~(ふるさとメール2014年12月15日号)

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水防費分担金訴訟の顛末(てんまつ)(最終回)(ふるさとメール2015年1月15日号)

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水防費分担金訴訟の顛末(てんまつ) ~その4~(ふるさとメール2014年11月14日号)

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新緑萌える~三恵(みつえ)の大ケヤキ~ (ふるさとメール2012年5月15日号)

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橋は世につれ世は橋につれ(1) (ふるさとメール2012年7月13日号)

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南アルプス市の小正月~道祖神場のお飾りとどんど焼きの風景~(ふるさとメール2017年1月16日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(1) 櫛形西小学校の取り組みから(ふるさとメール2017年2月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(2) 掘り起こし-育み-伝えるプロジェクト(ふるさとメール2017年3月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(3) 掘り起こすということ(ふるさとメール2017年4月14日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(4) まちをめぐり建て物も掘り起こす(ふるさとメール2017年5月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(5) 正しい価値を掘り起こし、育むサイクル(ふるさとメール2017年6月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載 「〇博(まるはく)」への道(6)歴史資源を共感する(ふるさとメール2017年7月14日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(7・最終回)歴史資源を正しく引き継ぎ、市民全員が語り部であるまちを目指して (ふるさとメール2017年8月15日号)

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俳人「福田甲子雄」にみる南アルプス市の風土(一) (ふるさとメール2018年3月15日号)

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俳人「福田甲子雄」にみる南アルプス市の風土(二) (ふるさとメール2018年4月13日号)

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何気ない街角に歴史あり(その6)御勅使川扇状地東端部の崖線 (ふるさとメール2018年10月15日号)

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ウェブサイト「〇博アーカイブ」の発信~地域の歴史資源を掘り起し伝える仕組み~ (ふるさとメール 2019年4月15日号)

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まちの宝箱~「ふるさと文化伝承館」リニューアルオープン~(ふるさとメール5月15日号)

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「相手を思いやる心」を体現するまち~小笠原長清と小笠原流~(ふるさとメール2019年6月14日号)

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市内に広がる祇園信仰(ふるさとメール 2019年7月15日号)

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山梨のお盆と安倍川餅(ふるさとメール2019年8月15日 号)

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南アルプス市妖怪の世界~風土が培う信仰の足跡~(ふるさとメール2019年10月15日号)

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鏡中条迷宮 ~泥棒が捕まらないまち!?~(ふるさとメール2020年4月15日号)

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整然としたまちなみ ~市内にひろがる条里型の地割~(ふるさとメール2020年5月15日号)

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南アルプス市の道祖神さん(ふるさとメール2020年2月15日号)

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時を超えて響く言葉~なにげない日常をつなぐために~(ふるさとメール2021年3月15日号)

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加賀美瓦製造澤登家

加賀美の瓦製造は、江戸時代(天保期1835頃から)甲府城に使用する瓦生産を農閑期に行ったのをはじまりに、昭和50年代初めまで行われました。
最も盛んに行われたのは明治中頃から昭和40年代末くらいまでの100年間ほどですが、作業風景を写した画像や記録は少ないです。

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加賀美最後の瓦窯元であった神山家

若草地区加賀美では昭和50年代まで40箇所以上の瓦製造所がある、瓦の街でした。加賀美地区は瓦作りに適した良質な粘土と豊富な水、焼き上げる際に必要な燃料を採取できる山が近いなど、好条件を備える土地でした。
その中でも、神山家は昭和初め頃から平成2年まで操業を続け、この地で最後まで瓦を焼いていた家です。

←昭和初期から平成2年まで操業した神山家の瓦製造工房内

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信州松本城と南アルプス市をつなぐ二つの物語(ふるさとメール2021年10月15日号)

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綿が奏でるにしごおりの暮らし(ふるさとメール2022年1月17日号)

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原七郷の七種の商物に「塩」?~南アルプス市の名産をたどる~(ふるさとメール2022年2月15日号)

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真っ赤な種痘の接種済証

ひときわ目を引く真っ赤な紙。大正時代初期に行われた種痘(天然痘の)の接種済証です。
2期に分けて行われていた接種のうち、1期目の際に渡された証書はこんなに鮮やかな赤色だったようです。2期目は白い紙だったようですけれど、この1期目接種済証の真っ赤な色づかいが、江戸時代から続く疱瘡除けの習俗を彷彿とさせます。


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防火水槽を跨ぐ火の見櫓

日本全国のどこにでも存在する火の見櫓(ひのみやぐら)は、各地域の住民たち自らが建てた防災施設の一つです。
江戸時代以前の古くから見張り台としての目的をもっていました。火災などの災害の早期発見をし、その上部に備え付けられた鐘を鳴らすことで地域に差し迫った危険を知らせたり、消防団員を招集するのに使用されてきたわけです。
地域の持ち物として、コミュニティの中心場にあることの多い火の見櫓は、まち歩きの際の重要なチェックポイントであるとともに、集落を象徴する景観の中に溶け込み一体化していることが多くあります。(甲西地区清水の火の見櫓※防火水槽上)
南アルプス市内にもたくさんの火の見櫓が点在しています。おそらくどれも昭和20~40年代に建てられ、使用されてきた火の見櫓がほとんどかと思われます。


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地方病とたたかうポスター

「地方病とたたかうポスター」をご覧にいただきたいと思います。山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。
山梨県が製作したこの地方病予防広報・啓発ポスターを見出し部分から読んでみますと、『三百余年前から蝕ばまれ悩まされ続けて来た地方病 今こそ完全撲滅の絶好の機会!!県政の重大施策としてとりあげてここに三年、有病地の指定解除、宮入貝の減少、患者の著減等々成果は上々である。 この好期をおいていつの世に根絶することができよう、みんなで力を併せて一挙に駆逐するよう今一段の努力をいたしましょう。』とあります。
このポスターには製作年が記載されていないのですが、見出しの文面と、「現在実施している予防対策」の項にPCBという薬剤によるミヤイリガイの刹貝と、コンクリート溝梁化工事に年間一億のお金をかけている」といった文言があること、当該資料の含まれる資料群全体の年代構成からかんがみて、この地方病対策ポスターは、だいたい昭和30年代中頃に作られたものではないかと考えています。


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西郡の呉服屋さんで買えた雛人形

雛人形が入っている箱に地元の呉服屋さんの名前が記されていることがあります。当時の呉服店は、節句人形の販売代理店としての機能も担っていたようで、西郡地域の人々が飾ったお人形は甲府の雛問屋で作られたものに加え、鰍沢の春木屋などの商家を経由して入ってくる駿河で製作された人形も多く流通していたと考えられます。明治大正期に昭和初期頃の西郡の人々が人形を求めるときには、
① 甲府の雛問屋か鰍沢の商家に買いに行く。
② 甲府の雛問屋から「ひなんどー、ひなんどー」との掛け声で、安価な横沢雛を籠に担いでやってくる売子から買う。
③ 初節句の晴れ着などを購入するのに合わせて、近所の呉服屋で売っている人形を買う。
の3つの購入方法があったのだと思います。


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地方病と溝渠のコンクリート化

山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。この病を克服する作戦が本格的にはじまって、100年以上もかかったのです。


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鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏(ふるさとメール2022年3月15日号)

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鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏 その2(ふるさとメール2022年5月13日号)

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鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏 その3(ふるさとメール2022年6月15日号)

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山梨最古の桃とブドウは南アルプス市から~遺跡から見つかる果実~

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南アルプスブルーの響き~市民が結ぶ藍染新資料との出会い~(ふるさとメール2022年8月12日号)

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にしごおりの人も愛した甲府の雛問屋「松榮斎 松米」

甲府の雛問屋「松米」の引札
甲府の雛問屋「松米」は、江戸時代中期から昭和戦前まで甲府で雛人形や端午の節句飾り、だるまなどを製作して販売した「松城屋」という屋号の雛問屋です。初代から明治の10年代以前は店の通称を「松伝」と名乗っていました。(写真は「松米」の引札『美術 雛人形 ?ニ雛道具各種 甲府八日町 松榮斎松米商店 電話四十六 振替二百三十二番』)
江戸時代から明治、大正・昭和期に存在した甲府の雛問屋は「おかぶと(カナカンブツ)」「横沢びな」「甲州ダルマ」といった独特の在地の節句飾りや雛、玩具を生み出してきました。
 「松伝」・「松米」という通称を持った「松城屋」の店の場所については、江戸中期の初代より甲府横沢町にありましたが、明治期に入って、火事によりいったん柳町一丁目に移転。その後、明治5年から16年の間に代替わりして「松米」と改称し、三日町一丁目九番地に出店。さらに、明治24年頃には八日町一丁目に移転したという経緯が判っています。


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野牛島要助さんが日記に書いた天保騒動

8月24日は今から186年前の天保7年(1836年)、山梨県では天保騒動という大規模な騒乱のさ中で、ちょうど現在の南アルプス市域が被害をこうむった日です。
天保騒動は、江戸時代後期の天保7年(1836)8月17日に郡内白野村での百姓一揆からはじまった騒動です。しかし、山梨郡熊野堂村の米穀商打ちこわしという当初の目的を果たした郡内の百姓たちが帰村した8月22日頃になると、騒動に乗じて参加した無宿人らが暴徒化して、大規模な強盗集団となり、国中(甲府盆地内部の村々)を暴れまわって、甲州の人々を恐怖に陥れました。
八田地区野牛島中島家文書の中に、要助さんという当時名主を務めた人物の日記帳があります。
(八田地区野牛島中島家文書「去申用気帳」)


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戦争と摺り版(果実出荷木箱印字用金型)

南アルプス市文化財課でで20点以上収蔵している「摺り版(すりばん)[果実出荷木箱印字用金型]」。


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『せんごく』と呼んでいた唐箕(とうみ)

[2023年2月開催の南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「ナニコレ!昔の道具」展における稲作の道具エリアの一部]
鎌(稲刈り) → 扱箸・千歯扱き・足踏み回転脱穀機(脱穀) → 唐箕(地域名:せんごく)(藁くずと選別) → 摺臼(地域名:するす)(もみすり) → 唐箕(地域名:せんごく)・万石通し(籾殻と選別) → 搗臼(精米) → 万石通し・ふるい(糠と選別) → 白米

稲刈りしてから白いお米になるまでに、想像した以上にいくつもの工程と道具が必要であることに驚きます。

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10円切手で声の便りを(昭和の第5種郵便)

こちらは市民の方から寄贈していただいた8ミリ映写機とテープのセット一式です。


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ハエ捕り棒とハエ捕り瓶とハイトリック

 令和5年6月21日(水)まで開催しておりますテーマ展「ナニコレ!昔の道具」展に展示中の「ハエ捕り瓶」と「ハエ捕り棒」「ハイトリック」について、ご紹介したいと思います。
[展示中のハエ捕り棒とハエ取り瓶]


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野売免許状の龍朱印

 こちらは「菓もの類野うり免許状」とよばれる文書です。信玄が出したものと云われ、天文10年(1541)8月と記され、龍をかたどった印、龍朱印が押されています。
 このような文書の類は、甲州の西郡(にしごおり)と呼ばれる地域(現在の南アルプス市市域)で武田信玄の野売免許状としてたびたび報告されてきた御朱印状です。文献等で報告されたものを数え上げると、これまでに市内で9点ほど見つかっています。しかし、残念ながらこれらの朱印状は信玄の活躍中に出されたものではなく、文化6年(1809)10月以降に作られ流布したものであるとの学術的判断がされています
[「菓もの類野うり免許状 十五所澤登家所蔵」 天文10年8月]


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「スパイ御用心」戦争中の燐寸(マッチ)

 昭和時代に生活必需品だったマッチを収蔵資料の中からご覧いただきます。
[「スパイ御用心 書類手紙御用心 職場乗物御用 防諜」 二等品 志摩燐寸製造所(南アルプス市文化財課蔵)]


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奉公袋を持つ出征兵とその家族

 昭和時代の戦争に関する資料のひとつ、奉公袋をご紹介したいと思います。まずは、櫛形地区上今井で今から80年ほど前に撮影された出征の時の家族写真をご覧ください。
[出征記念の写真:中央の出征兵は奉公袋を抱えている。(上今井五味家資料 南アルプス市文化財課蔵)]


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戦時の女性たち(大日本国防婦人会と防火訓練)

 こちらは「大日本国防婦人会」の襷(たすき)やこの白い襷をかけた女性たちの記念写真です。
[「モンペに割烹着、大日本国防婦人会の白襷をかけた西野村功刀の婦人たち(昭和15年頃)」(西野功刀幹浩家・南アルプス市文化財課蔵)]


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信号機上を駆ける甲斐の黒駒

南アルプス市内にはカッコいいお馬さんがデザインされた信号機があります。まずは1ヶ所目、南アルプス市今諏訪にある開国橋西交差点にある信号機です。ここから白根インターチェンジ出入口の交差点に向かって、県道今諏訪北村線沿いに見られる信号機をご紹介していきます。
[開国橋西交差点にある、「御勅使川扇状地を疾走する甲斐の黒駒」デザインの信号機(令和5年11月21日撮影)]


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衣替えで洗い張り

昭和40年代の前半までは、日常の生活で着物を着ている人がまだたくさんいました。通常の洗濯では、たらいと洗濯板を使って「丸洗い」していた着物も、春と秋の季節の変わり目に行う衣替えでは、縫い目をほどいて反物の状態にして「解き洗い」をしたそうです。ほどくと縫い目にたまったほこりや汚れが落としやすくなるからです。 
解き洗いの後には、「張り」という独特の干す工程があり、この「解き洗い」から干すまでの一連の作業をまとめて「洗い張り」といいます。
「張り」のやり方は二通りあり、板にぴたっと密着させて張る「板張」と、伸子針(しんしはり)でぴんと張る「伸子張」のいずれかの方法で、糊付けして干しました。
[板張]


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