秋山光朝廟の敷地内にあり、中央の五輪塔が最も古く鎌倉時代初期、父遠光のものと伝わり、向かって左側が光朝、右側が光朝の妻のものと伝わります。市の文化財に指定されています。
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市指定史跡
奈古十郎義行は加賀美遠光の弟にあたり八条院蔵人として知られ、吾妻鏡などの文献には奈古蔵人としてたびたび登場します。墓は地元で「十郎木(樹)」と呼ばれている地に建てられています。
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現甲西バイパス・中部横断道の建設に伴って平成6・7年に発掘調査が行われました。
古代から近世のムラの跡が発見され、鎌倉時代の水田を守るために築かれた護岸用の網代や、洪水の土砂で埋まりながらもそのつど復旧し、水田やムラを守り続けてきた人々の逞しさを知ることができる調査成果となりました。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
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鎌倉時代の杭で護岸された水田跡や水路跡、そして低地の開発を主導した有力者の屋敷と推測される建物跡が発見されています。水田跡からは五芒星「★」を記した呪符木簡(じゅふもっかん)や人形(ひとがた)、斎串(いぐし)などまじないに使われた木製品が多く出土しており、この地に暮らした人々の切実な願いが伝わってきます。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
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平成5・6年発掘調査実施
現甲西バイパス・中部横断道
弥生時代から平安時代のムラの跡
弥生時代中期の地震の痕跡や古墳時代後期の祭祀跡、平安時代の水田跡などが発見され、弥生時代から連綿と生活が営まれていたことがわかります。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
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臨済宗寺院。信玄の母、大井夫人の菩提寺であり、夫人の墓がある。もともと長禅寺と称するが、後に甲府に長禅寺が造られたため古長禅寺と称するようになった。母とともに信玄も、時の住職、岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)に深く帰依し、「信玄」の法号も岐秀が授けたものと言われる。県指定史跡。
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古長禅寺は正和5年(1316年)に夢窓国師が本尊釈迦如来を安置、禅刹を興したことに始まるとされています。
このビャクシン自生地は「お釈迦堂」と呼ばれており、開山当時四天王をかたどり、旧客殿前庭の四隅に約十メートルごとに植樹され、通称「夢窓国師手植えの四つビャクシン」とも呼ばれています。その伝承から、樹齢約700年といわれます。
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跡部大炊助勝資(生年不詳)は、武田家家臣団の中で最も多くの朱印状を奉じ、外交、内政ありとあらゆる分野に関わった官僚でした。
信玄、勝頼の二代にわたり、主君の間近に控える側近として活躍しましたが、天正十年(一五八二)武田家滅亡の際に勝頼に従って討死したとされます。
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東落合の常泉寺は、武田勝頼に従い天目山で自害した河村下野守道雅の屋敷跡と伝わっている。寺は、道雅の妻が亡き夫の菩提を弔うために建立したと言われ、河村家ゆかりの阿弥陀如来なども伝えられている。
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弘法大師が像を安置し創建したと伝えられる寺院。この寺がもとで付近の村の名を北大師と呼ぶようになったと伝えられる。
安政五年正月九日夜の火災のため、すべて堂宇が焼失し、土蔵一棟だけが残った。武田式部大輔信包公の再建、信包の菩提寺となる。
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弘法大師創建の伝説が残る寺院。本尊は地蔵菩薩。武田信武も深く信仰したと伝えられる。八幡寺には次の伝説が残されている。
大師が当寺を建てた時、見なれない童子が毎日来て手伝ってくれた。完成した夜、その童子が夢に現れて言った。「われは若宮八幡の神なり」。これを知った大師は感銘し、本堂の正面に安置し奉った。これによって清水山八幡寺と号することとなったという。
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弘法大師が川の中から現れた金色に輝く大日(不動明王)に導かれ、不動明王を彫刻して開いたと伝えられる真言宗の古刹。大日が現れた不動寺西側の川は明王川といわれている。寺内には空海が功徳ための水を汲んだ池があったと伝えられるなど、数々の弘法大師伝説に彩られている。
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住吉遺跡は南アルプス市南部、甲西地区のほぼ中央にあり、若宮八幡神社を含め、その南側に広がる遺跡で、標高約245mを測ります。周囲は水田地帯ですが、網の目状に流れる小河川によって造られた微高地上に立地し、周囲には村東遺跡や、清水遺跡、西川遺跡など、同じく微高地上の遺跡が分布しています。
住吉遺跡は弥生時代後期、東海地方との関係を示す豊富な土器群に象徴される特徴的な集落遺跡です。
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水の豊かな湧水地帯を利用して営まれた、弥生時代から江戸時代までの水田跡が発見されています。
水田は、現在と比べ非常に小さく、畦で囲まれた一枚の水田は最大でも6m×5m程度でした。
当時の技術では広大な面積を整地するのが困難だったのです。
わずかな地形の勾配にも苦労しながら、新天地を開墾していった弥生人の姿が垣間見られます。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
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清和源氏の一流で、新羅三郎義光を祖とするといわれ、実際には義光の子源義清、その子源清光の頃より甲斐国に入ったとされ、清光の子を甲斐国内各地に配置したことによって甲斐の源氏一族としての地盤を築いたといわれます。
清光の子には武田信義(この流れが武田信玄へと続く)などがおり、信義の弟にあたる加賀美遠光もまた、甲斐源氏を代表する武将といえます。
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甲西地区の西端にそびえる雨鳴山。この尾根上に今から800年ほど前に活躍した甲斐源氏、秋山光朝ゆかりの山城「雨鳴城」はあります。
秋山光朝は、若草地区加賀美に居を構えた加賀美遠光の長男で、同じく遠光の子、小笠原長清の兄にあたります。光朝自身は現在の甲西地区秋山を拠点とし、現在の秋山熊野神社がその館跡だったといわれています。雨鳴城はその館の西側にせまる雨鳴山の尾根上にあり、さらに奥の城山山頂にある「中野城」とともに、有事の際に立て篭もるための城だったといわれています。
実際に、鎌倉幕府ができる過程で、初代将軍となる源頼朝は甲斐源氏の強大な勢力を警戒し、自らの基盤を固めるため、甲斐源氏の有力武将を次々と失脚させますが、光朝もまた平家との関係が深かったことなどを理由に、鎌倉方に攻められ、雨鳴城もしくはその後背に構えた中野城に追い詰められて自害したと伝えられます。
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安藤家住宅は約300年前の建物で、国の重要文化財に指定さています。江戸時代は西南湖村の名主を務めた旧家で、現在まで一度も火災に合うことなく、往時のまま保存されています。
西南湖の集落の中心にありながら、一歩踏み入れた瞬間、静寂に包まれた癒しの空間です。茅葺屋根の江戸時代の豪農の暮らしを今に伝えます。是非ご体感ください。
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小笠原長清と縁の深いとされる下宮地の神部神社。に伝わる「曳舟神事」。古くは「船祭」「舟引祭」とも呼ばれ、水のないところで舟を曳く、それは珍しい神事なのです。
かつては旧暦の2月2日に行われており、現在は3
月2日に近い日曜日に行われています。
※駐車場はありません。地域で受け継がれてきた神事です。ご理解をお願いいたします。
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加賀美遠光の長子としてうまれ、成長して南アルプス市秋山に拠点を構え、「秋山」の姓を名乗ったとされます。
「吾妻鏡」によれば、治承・寿永の内乱以降は、弟の長清と共に京で平清盛の四男に仕えており後世の資料の「甲斐国志」では清盛の嫡男 重盛の娘を娶ったと伝えられるなど、平氏政権の一翼を担っていたと考えられます。
こうした状況からか、治承四年(一一八〇)の頼朝挙兵時に長清が比較的早く京を離れ頼朝と合流したのに対し、光朝は京に留まり、是が後に頼朝から疎まれる要因となったと言われています。
文治元年(一一八五)に頼朝が弟の範頼に出した手紙には「光朝は、平家につき、又木曽に付きて、心不善につかいたりし人にて候えば、所知など奉るべきには及ばぬ人」と厳しく評されています。
この後の光朝の動向や没年などはわかっていません。
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荊沢に所在する松寿軒長崎は明治24年に創業された和菓子の老舗である。
店舗の老朽化に伴い一部改築はされているが、大阪などで見られる土蔵を模した外観は寄せ棟、漆喰仕上げで創業当時の外観をほぼ現在に伝えている。
松寿軒長崎が所在する荊沢はかつて駿信往還の宿場町であり、鰍沢舟運が隆盛の頃、この荊沢宿も多くの物資の流通や交通でにぎわいを見せた。
名称/登録有形文化財「松寿軒長崎」
所在地/南アルプス市荊沢319
所有者、管理者/個人
登録年月日/平成10年2月12日
備考/建築1926年
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古長禅寺は正和5年(1316年)に夢窓国師が本尊釈迦如来を安置、禅刹を興したことに始まる。このビャクシン植生地は「お釈迦堂」と呼ばれており、開山当時四天王をかたどり、旧客殿前庭の四隅に約十メートルごとに植樹され、通称「夢窓国師手植えの四つビャクシン」とも呼ばれている。樹齢約700年。
名称/古長禅寺のビャクシン
所在地/南アルプス市鮎沢505
所有者、管理者/古長禅寺
指定年月日/昭和28年11月14日
備考/4つのビャクシン、樹齢…700年
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加々美次郎遠光像は玉眼挿入、内ぐりのある寄木造。作者は無名でありながらも鎌倉期における肖像彫刻の逸品である。
坐高…48センチメートル
肩張…36センチメートル
肘張…38センチメートル
膝張…52センチメートル
膝高…9.5センチメートル
秋山太郎光朝公座像は彫眼、寄木造で像に彩色が見られる。
台座には享保19年(1734年)の墨書きがあるので江戸時代中期の作であることがわかる。
所在地/南アルプス市秋山567
所有者、管理者/秋山光朝公奉賛会
指定年月日/昭和42年10月1日
備考/
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本像は椅子上に座禅を組む姿勢をとり、法衣を垂下させている。
坐高82.5センチメートル、材質は桧材を用いた寄木造、挿首、玉眼をはめ込み黒漆塗りが施され、頭頂はとがり、細面の容貌やなで肩など国師の特徴をよくふまえている。穏やかな表情でありながら、禅僧としての気構えや峻厳なまなざしに気迫さえ感じる。天保7年(1836年)に加修の銘札が胎内に納められている。
天保七丙申六月日
此尊像経幾百星故漸々破壊
雖奉恐不忍拝見欽奉加修利者也
慎仙庵謹誌之
名称/木造夢窓国師坐像
所在地/南アルプス市鮎沢505
所有者、管理者/古長禅寺
指定年月日/昭和58年6月6日
備考/1357(延文2年)
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江原山隆昌院は寛正3年(1462年)に開基し、本尊は千手観音である。
この涅槃図の伝来は不詳であるが、上方軸芯部に墨書で寛文11年(1671年)との銘記が発見された。四枚の絹を女性の手によって縫い合わせた庶民的な作品であり、仏教の教えが庶民に厚く広がっていた事を示す貴重な作品である。
法量:縦…261センチメートル、横…157.5センチメートル
所在地/南アルプス市江原1550
所有者、管理者/隆昌院
指定年月日/平成元年2月27日
備考/
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飯縄権現信仰は北信州飯縄山に対する山岳信仰として知られている。室町時代武州高尾山に入山した俊源大徳が修行の結果、一夜の霊夢によって飯縄権現を感得し、その像を刻み一山の守護神として山頂に勧請したことにより、関東一円に広がったと言われている。本図は作者、伝承等は不詳であるが、江戸初期の作品だと考えられる。
所在地/南アルプス市江原1550
所有者、管理者/隆昌院
指定年月日/平成元年2月27日
備考/
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当社の祭神は木花之開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)で、古来江原地区は湧水が豊富で稲作が盛んに行われていたことから、稲作の神としてその恩恵に浴し、毎年初穂を献じて五穀豊穣を祈願した。本殿は三間社(さんげんしゃ)流れ造り桧皮葺(ひはだぶき)屋根で桃山時代の作風を残す江戸時代前期の建築である。
所在地/南アルプス市江原1302
所有者、管理者/江原浅間神社
指定年月日/昭和44年11月13日
備考/
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桟唐戸は鎌倉時代に禅宗が渡来した折りにその建築様式とともに伝えられたもので、禅宗様扉とも呼ばれ、その後他宗の寺院や神社等でも広く用いられるようになった。隆昌院の桟唐戸は様式からして桃山時代(1574年から1614年)の頃に製作されたものと考えられる。高さ2.53メートル、幅0.45メートル両折両開で黒漆仕上げ、上部の花狭間や八双金物に打ち抜かれた猪目形など美しく優れた作品である。
所在地/南アルプス市江原1550
所有者、管理者/隆昌院
指定年月日/昭和49年1月29日
備考/
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わが国古来の数学である算額は江戸時代に関孝和らを中心に発達した。和算家が自分で発見した問題や解法を絵馬に書き寺社に奉納したものを「算額」と言った。
神部神社の算額は文化三年(1806年)に上州の和算家清水直次郎央七が奉納したものである。
所在地/南アルプス市下宮地563
所有者、管理者/神部神社
指定年月日/平成5年3月28日
備考/
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懸腰山は文永11年(1274年)日蓮上人が甲斐国内を巡しゃくされこの地を通りかかった折に松に袈裟を懸け、腰を下ろして休まれた霊場として懸腰山と命名したという。眼下に広がる甲府盆地の眺望が素晴らしい。
所在地/南アルプス市湯沢1345
所有者、管理者/本清寺
指定年月日/昭和49年1月29日
備考/
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若宮八幡神社は古市場など周辺の七か村の総鎮守とされている。
文久2年(1862年)に水害を防ぐために神楽を奉納したのが始まりと伝えられており、古来「八朔」といって旧暦の8月1日に祭典が行われた。大正元年に古市場敬神会が発足し大祭を継承している。西郡地域の夜祭として境内は夜を徹して参詣者で賑わいを見せる。毎年、10月第1土、日曜日に奉納される。
所在地/南アルプス市古市場238
所有者、管理者/古市場敬神会
指定年月日/昭和44年11月13日
備考/
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1月14日から16日にかけての小正月には道祖神を奉る多くの民俗行事が行われる。この西南湖の獅子舞は現在でも西南湖獅子舞保存会により区内の新築祝い、結婚などの祝い行事として舞われる。明治20年(1887年)頃、隣の和泉地区の青年が質入れした衣装一式をもらい受け始められたという。
近松門左衛門作「梅川忠兵衛」、紀海作「八百屋お七」などさまざまな浄瑠璃を日本舞踊ふうに舞うことが非常に独特の舞いを見せている。
所在地/南アルプス市西南湖4229
所有者、管理者/西南湖獅子舞保存会
指定年月日/昭和49年1月29日
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神部神社は大物主命を祭神とし、「延喜式神名帳」に記載された巨摩郡五座のなかのひとつである。
毎年3月第1日曜日に(往古は2月2日)に行われる曳舟祭は、大和国からご神体を奉遷した古事にならってその様子を再現している。神主が数本の矢を放ち悪魔を祓い、諸々の贖罪、五穀豊穣、天下奉平を祈願する。神事において、木舟を神主、氏子らが引くというのは、恐らく当時の運搬手段のひとつとして、木舟を用いて内陸まで出入りしていた様子を演出しているものと考えられ、当時の交通運搬や文化流入を知るうえで貴重である。古代における神の遷座の状況を神事として残す祭祀は類例を見ない。
所在地/南アルプス市下宮地563
所有者、管理者/神部神社
指定年月日/平成6年6月28日
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成妙寺の山門をくぐると「笹の葉や今に鶯年よらず」と詠われた句碑がある。
辻嵐外は江戸後期の俳人である。嵐外は明和8年(1771年)敦賀に生まれ、年に甲斐を訪れ若草町藤田の五味可都里を頼り、その後75歳まで落合を中心に甲斐の俳諧文化の向上に努めた。嵐外は俳諧結社安楽林社との交友が深く、弘化2年(1845年)11月26日成妙寺に「嵐外日哉の墓」を建立した。
所在地/南アルプス市落合150
所有者、管理者/成妙寺
指定年月日/昭和49年1月29日
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本尊は至徳2年(1385年)大仏師越後阿闍梨増光の作である。
深向院は天長年間(824年から832年)弘法大師の草創と伝えられている。真言宗に属し、武田五郎信光が再興し信光寺と名付けた。
桧材の寄木造りで、坐高23.5センチメートル、肩張14センチメートル、肘張19センチメートル、膝張24.5センチメートル、膝高5.2センチメートル。
像背面内部に造顕年代が記されている。
至徳二年十一月日
「大仏師越後阿闍梨増光造」
所在地/南アルプス市大師1172
所有者、管理者/深向院
指定年月日/昭和46年2月26日
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この経塚の遺品は慶安年間(1648年から1652年)に秋山熊野神社境内より発見されたと伝えられている。光朝は甲斐源氏加々美遠光の長男、経筒銘にある光経は光朝の弟で、遠光の四男である。本経筒は銘文に建久8年(1198年)の年号があり、鎌倉初期の経塚造営の状況を知るのに貴重な資料となっている。
経筒には次の銘文が刻まれている。
信心大施主…源朝臣光経
芳縁源氏…所生愛子等
現在悲母…禅定此丘尼
建久八年十月十一日
出土品には宝珠型のつまみのついた蓋が2点、短刀3口、陶製の壺1点がある。
所在地/南アルプス市秋山596
所有者、管理者/個人
指定年月日/昭和47年1月27日
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長さ28センチメートル、元幅2.8センチメートル、先幅2.7センチメートル
表面に銘濃州関住兼次、裏面に大永六年(1526年)六月日の銘文が刻まれている。
この刀剣の由緒の中に「武田信虎公大永六丙戌年在銘兼次ノ剣」とある。
地鉄の鍛え、刃文、やすり、銘、年紀、茎の特色から室町時代に活躍した志津兼氏一門の系譜を引く刀工の手によるものと思われ当時の製作手法に基づく作品として貴重である。
所在地/南アルプス市落合1092
所有者、管理者/落合八王子社
指定年月日/平成元年7月19日
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清水八幡神社境内に東西に自生する老木である。西側が夫で、かつては樹高27メートル、根回り20メートル、目通り7.4メートルを誇ったが、近年、強風により根の部分を残し倒壊してしまった。樹齢は約650年である。
東側が婦で樹高25メートル、根回り12.1メートル、目通り4.4メートル、樹齢が約450年である。境内に仲良く並んで自生しているため「夫婦ケヤキ」と呼ばれ地域に親しまれている。
所在地/南アルプス市清水92
所有者、管理者/清水区
指定年月日/昭和42年10月1日
備考/
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根回り2.6メートル、樹高14メートルで時の光昌寺住職がシャム国(タイ)よりこの地に持ち帰ったと言われている。現在秋山富士夫氏の庭園に自生しており雌樹で赤い実をつける。
所在地/南アルプス市秋山596
所有者、管理者/個人
指定年月日/昭和42年10月1日
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湯沢の平野山広誓院は文亀元年(1501年)6月に創建されたと伝えられている。
このカヤの木は根回り13メートル、目通り4.5メートル、樹高は12メートル、樹齢約500年の老木である。
所在地/南アルプス市湯沢1826
所有者、管理者/広誓院
指定年月日/昭和44年11月13日
備考/
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根回り20メートル、目通り3.5メートル、樹高19メートル、樹齢500年
この松は江戸時代前期頃滝沢川左岸の岸辺に自生しており、当時水害の常襲地帯であった滝沢川より村人たちが安藤家に移植したという。
この松には明治末期頃つけられた避雷針が取り付けられており、別名「避雷針の松」と呼ばれクロマツとしては希な巨木である。
所在地/南アルプス市西南湖4302
所有者、管理者/山梨県
指定年月日/昭和44年11月13日
備考/
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古市場の不動寺は弘仁年間(810年から823年)に創建された真言宗の寺院である。
その山門の西側にひっそりと自生しており、根回り1.5メートル、目通り1.2メートル樹高6メートルである。「菩提樹」は中国原産の植物で福岡県に渡り次第に全国に広がったという。
所在地/南アルプス市古市場180
所有者、管理者/不動寺
指定年月日/昭和44年11月13日
備考/
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本樹は雄樹で根回り2.6メートル、樹高14メートル、地上2メートルで二幹に分かれている。葉の縁に鋭い鋸歯があることから「鋸柴」とも言う。モチノキ科に属し樹皮からとりもちを作る。
所在地/南アルプス市江原1587
所有者、管理者/法音寺
指定年月日/昭和44年11月13日
備考/
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宗持山成妙寺に自生する松は垂れクロマツの傾向を持ち、根回り3.6メートル、目通り2.9メートル、樹高17メートル、樹齢約200年で地上約1メートルのところで東西2幹に分岐している。
所在地/南アルプス市落合150
所有者、管理者/成妙寺
指定年月日/昭和49年1月29日
備考/
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鮎沢の御崎稲荷明神にある当木は根回り2.9メートル、目通り2.3メートル、樹高やく7メートル、樹齢約400年と言われている。この御崎ビャクシンは毎年鮎沢1組で祭典を行っている。
所在地/南アルプス市鮎沢754
所有者、管理者/鮎沢区1組
指定年月日/昭和49年1月29日
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本清寺は正保元年(1644年)9月13日に創建されている。
根回り6メートル・目通り3.9メートル・樹高20メートル
カヤの木は音の反響が優れているので、昔から基盤や将棋盤に用いられている。
また木の実は薬用や菓子などに用いられ「カヤアメ」などはよく知られている。
所在地/南アルプス市湯沢913
所有者、管理者/本清寺
指定年月日/昭和44年1月13日
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多羅葉は葉に傷を付けると浮かび上がるので古代インドでは木針で葉に傷を付け経文を写したことからそれにたとえて多羅葉と称している。また、葉に火をつけると黒い環が現れるので紋付柴ともいわれている。
根回り2.36メートル、目通り1.41メートル、樹高12メートルである。
所在地/南アルプス市江原1550
所有者、管理者/隆昌院
指定年月日/平成元年2月27日
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思い沢の北に面した斜面に自生しており、樹齢500年、根回り10メートル、枝張り、東西20メートル、樹高33メートルという大木で2本のスギが接触し癒着している珍しい現象が見ることができる。この事から縁結びの神様として古くから地域に親しまれている。
所在地/南アルプス市湯沢2248
所有者、管理者/
指定年月日/昭和53年11月7日
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マメ科/サイカチ属
サイカチの巨樹として県下において希に見るものである。
根回り4.2メートル、目通り幹囲3メートル、樹高は約6.4メートルで樹齢は300年を有している老木である。塩沢家は「茨の木大尽」と呼ばれ多くのサイカチが植えられた事で知られている。サイカチの実は薬用になり、以前は石けんの代用にしたこともある。
所在地/南アルプス市湯沢113-1
所有者、管理者/個人
指定年月日/昭和39年6月25日
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西南湖にある重要文化財安藤家住宅で行われる「安藤家住宅ひなまつり」では、貴重な横沢雛が飾られます。
甲州で明治大正期に多く作られた横沢雛には童子をモデルとした人形が一番多いのですが、他に、成人女性や男性、妊婦、長生きの象徴としての老夫婦、七福神などの神様などモチーフに多くのバリエーションがあります。
その中でも、ひときわ異質なのが、赤い髪の中国の伝説の妖怪、猩々(しょうじょう)のお人形がです。
猩々は、能の演目にも真っ赤な装束で登場する中国の伝説上の生き物のことで、赤毛で人間のような容姿をしており、酒を好むとされます。
また、赤いものを嫌う疱瘡神を追い払うという伝承もあり、子供の健やかな成長を願って送られたものと思われます。
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甲州では節分が近くなると、屋根より高いところに、「手すくい」と呼ばれる麺類をすくう竹製の道具や目の粗いザルに、とげとげの葉をもつネズミサシの枝を一緒にくくりつけます。かごの目は鬼の眼であり、今後起こりうる悪いことの「芽」にも見立てています。この目をたくさんつぶすと、一年の災いが減少するという信仰があります。人々はこの「鬼の眼」に向かって「鬼のまなこをぶっつぶせ~」と大声で唱えながら炒った大豆を投げます。
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この足袋型紙は戦時中に、蚕の種紙で作られたものです。
この足袋型紙は戦時中に使われたもので、蚕の種紙が再利用されています。
戦時中は物資不足であることから、足袋は各家庭の手作りであり、その型紙を再利用紙でつくるのは、当然のことだったと思われます。
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稚蚕飼育所(ちさんしいくじょ)とは、養蚕における、稚蚕期の飼育のために造られた建物のことです。蚕は孵化直後の稚蚕期の飼育が最も難しいため、昭和20年代以降は集落ごとに24時間管理で稚蚕を飼育するための共同施設が多く建設されました。
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こちらは大正時代の大井村(現甲西地区古市場)にあった茶舗麻野屋の茶銘柄定価表です。
日本三大銘茶といわれる宇治茶・狭山茶・静岡茶の各種銘柄が並んでいます。宇治茶と狭山茶は一斤(600グラム)、粉茶の川根茶(静岡茶)は百目(375グラム)の値段が掲載されています。
この他、このチラシをよくみると、麻野屋では醤油も売っていたことも分かります。
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甲西地区は戸田神明社の東隣、御崎稲荷社には祀られている「石造りの蚕神さま」。
高さは70センチほどの女人像で、手には「桑の葉」を持ち、頭の上には「巻絹(まきぎぬ)」を乗せています。
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明治時代に綿産業が盛んだったにしごおりには、「糸つむぎ唄」という労働唄が伝わっています。当時家庭の女性(母親)は日中の家事を終えると、夜な夜な家族が使う衣服などをつくる糸を綿から紡ぐ作業をしていました。そうした夜なべ仕事は、家族団らんのひと時でもあったのではないでしょうか。
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山梨県下一のブランド、「奈古白布(なごのはくふ)」。「奈古(胡)」とは、現在の南アルプス市域南部の甲西地区南湖(なんご)のことを指します。
南アルプス市には、栽培した綿の実から種を取り除く道具である「実繰り(みくり)・綿繰り」などと呼ばれるもの、また種を取った綿から回転する動力を使って糸を紡ぎ出す作業を行う「糸車」、この二つの民具を中心に綿仕事関連の民具が数多く残されています。特に県下一の綿の産地、甲西地区ではどの家にも一台ずつは持っていた道具だったのでしょう。
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縞見本帳(しまみほんちょう)とは、縞織物の端切れを貼った帳面です。女たちが家族用に作る手織りには、縞の太さや配色の組み合わせにより無数のデザインが可能であるため、着る人の性別・年齢・着用場面に合わせて、様々な縞柄が各家で生みだされました。織った縞は、反故紙を綴じた帳面に貼って見本帳として、次に織る時の覚えにしました。また、良い縞を織った人の縞見本帳は貸し出されたりもしたそうです。
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ひときわ目を引く真っ赤な紙。大正時代初期に行われた種痘(天然痘の)の接種済証です。
2期に分けて行われていた接種のうち、1期目の際に渡された証書はこんなに鮮やかな赤色だったようです。2期目は白い紙だったようですけれど、この1期目接種済証の真っ赤な色づかいが、江戸時代から続く疱瘡除けの習俗を彷彿とさせます。
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甲西地区東南湖の横川と西川の間を流れるみぞの側壁についているプレート。これらのプレートは、地方病の予防のために溝梁を自費でコンクリート化した際に寄付者や会社の銘を刻んだものです。
山梨県で地方病終息宣言が出されたのは平成8年のこと。その後、歳月が過ぎ、釜無川流域の人々があれほどまでに苦しめられた地方病の記憶を、実感を持って語る人の数はかなり少なくなってきています。しかし、よく目をこらせば私たちの暮らしのすぐそばに、まだまだかつての地方病との戦いの痕跡が残されていることに気づかされます。
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「甲西町の今むかし」という1995年に甲西町文化協会が発行した冊子の中にある、「風邪治しの神様として信仰された大きな岩」で、地域の人たちから「おしゃぶきさん」と呼ばれた岩があります。
『その昔、悪い風邪が流行って塚原村の人々が苦しんでいると、働き者のおじいさんの夢に、お姫様が現れました。そして、「西の山の中腹にある大きな岩の前に葱が植えてあるの。それを持ってきて煎じて飲んでみてごらんなさい。 私の来たしるしに、岩の上に足跡を残しておくから。願い事のある時は、その足跡を小石でたたきながら祈ってね!」というような、お告げがあったそうです。
翌朝、おじいさんが西の小高い山に登ってみると、はたして、葱の植わった大きな岩があり、足跡もありました。 そこで、夢のお告げにあったように小石でたたいてみると、木履(ポックリ)をやさしくたたいた時のようにぽこぽこと響いたのだとか。
おじいさんは風邪が治りますようにとお祈りして、葱を持って帰って煎じて飲んでみると、三日ばかりで長く苦しんでいた風邪が良くなったので、葱を倍にしてお返ししたそうな。
このことがだんだん広まり、お祈りする人が多くなったので、塚原村の人々は相談して岩の上に祠を立て、岩を岩永姫(いわながひめ)の化身と信じ、秋には感謝の祭りを行っていたそうです。(「甲西町の今昔」しゃぶきばあさんの項より〇博調査員の要約)』
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甲西地区の江原の浅間神社付近の湧水に発し、鮎沢、田島、和泉へと、旧四ケ村を流れる狐川は、常に水量が一定に豊富で、しかも適当な傾斜があったので、最盛期には20軒以上の水車屋が軒を並べていたそう。特に旧田島村には、「搗き屋通り」と呼ばれるほどの名で賑わっていた場所がありました(甲西町誌より)。米麦蕎麦などの籾摺りや粉ひきに、近在の人々が足繫く通った搗き屋は、大正時代に入ると電気を動力とする「電気搗屋」が現れ、数を減らしていきますが、昭和時代までは田島区に「搗き屋通り」の呼び名が残っていたそうです。(写真「田島搗き屋通り図』 甲西町誌昭和48年より)
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南アルプス市は市域西部が急峻な山々に占められ、そこから発する河川が市の南東部に集まるため、市の南東部に位置する甲西地区は、上流から流されてきた砂礫の堆積により、いくつもの天井川が連なる土地となりました。年々河床が上がるたびにどんどん高さの増していく堤防は、甲西地区を行き交う人々、特に滝沢川の両岸にある集落(田島・西南湖・和泉)に住む人たちにとって、田畑に往き来したり、駿信往還に出たりするのにも、家の屋根より高い所を流れる川の土手を登ったり降りたりして越えなければならず、たいへん大きな障壁でした。
そこで、昭和時代に入ると、滝沢川の河床の下に、トンネルを掘って道を通す工事が3か所で行われました。かつて「田島隧道(ずいどう)」「南湖隧道」「和泉隧道」という3つのトンネルが、昭和時代に滝沢川の下を通っていました。
その後、これら3つのトンネルは、昭和46年より行われた滝沢川の天井川を完全に解消する大改修事業によって、川の河床がだいぶ低くなったために廃止されました。現在では、滝沢川にトンネルの跡形は何もなく、同じ場所に川の上を渡る「田島橋」「南湖橋」「和泉橋」が設置されています。
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南アルプス市甲西地区湯沢にある、お舟に乗ったお地蔵様。
こちらの「湯沢の舟乗り地蔵」については、平成7年に中巨摩郡文化協会連合会郷土研究部が発行した「中巨摩の石造文化財」にも取り上げられていて、そこには『安山岩製で高さ88cm、舟の長さ85cmで、水難守護・諸病平癒と祈願した。昔、旅をする時に、この地蔵にお参りして出発した』と記されています。
造立年は、舟の側面に銘があり、『享保四已亥年中 セ主湯沢村 塚原村』と記されています(岡野秀典氏『山梨県の岩船地蔵』 1999 山梨県考古学論集Ⅳ 山梨県考古学協会より)。このような御舟に乗ったお地蔵様は、「岩船地蔵」と呼ばれることも多く、享保四年(1719)造立のものが大多数です。岩船地蔵の造立は、享保四年に関東地方西部から中部地方東部にかけて流行した岩船地蔵信仰に由来するからです。
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日本全国のどこにでも存在する火の見櫓(ひのみやぐら)は、各地域の住民たち自らが建てた防災施設の一つです。
江戸時代以前の古くから見張り台としての目的をもっていました。火災などの災害の早期発見をし、その上部に備え付けられた鐘を鳴らすことで地域に差し迫った危険を知らせたり、消防団員を招集するのに使用されてきたわけです。
地域の持ち物として、コミュニティの中心場にあることの多い火の見櫓は、まち歩きの際の重要なチェックポイントであるとともに、集落を象徴する景観の中に溶け込み一体化していることが多くあります。(甲西地区清水の火の見櫓※防火水槽上)
南アルプス市内にもたくさんの火の見櫓が点在しています。おそらくどれも昭和20~40年代に建てられ、使用されてきた火の見櫓がほとんどかと思われます。
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「地方病とたたかうポスター」をご覧にいただきたいと思います。山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。
山梨県が製作したこの地方病予防広報・啓発ポスターを見出し部分から読んでみますと、『三百余年前から蝕ばまれ悩まされ続けて来た地方病 今こそ完全撲滅の絶好の機会!!県政の重大施策としてとりあげてここに三年、有病地の指定解除、宮入貝の減少、患者の著減等々成果は上々である。 この好期をおいていつの世に根絶することができよう、みんなで力を併せて一挙に駆逐するよう今一段の努力をいたしましょう。』とあります。
このポスターには製作年が記載されていないのですが、見出しの文面と、「現在実施している予防対策」の項にPCBという薬剤によるミヤイリガイの刹貝と、コンクリート溝梁化工事に年間一億のお金をかけている」といった文言があること、当該資料の含まれる資料群全体の年代構成からかんがみて、この地方病対策ポスターは、だいたい昭和30年代中頃に作られたものではないかと考えています。
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雛人形が入っている箱に地元の呉服屋さんの名前が記されていることがあります。当時の呉服店は、節句人形の販売代理店としての機能も担っていたようで、西郡地域の人々が飾ったお人形は甲府の雛問屋で作られたものに加え、鰍沢の春木屋などの商家を経由して入ってくる駿河で製作された人形も多く流通していたと考えられます。明治大正期に昭和初期頃の西郡の人々が人形を求めるときには、
① 甲府の雛問屋か鰍沢の商家に買いに行く。
② 甲府の雛問屋から「ひなんどー、ひなんどー」との掛け声で、安価な横沢雛を籠に担いでやってくる売子から買う。
③ 初節句の晴れ着などを購入するのに合わせて、近所の呉服屋で売っている人形を買う。
の3つの購入方法があったのだと思います。
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山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。この病を克服する作戦が本格的にはじまって、100年以上もかかったのです。
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七月といえば、 昭和二十年 (一九四五) の七月六日の夜から七日の未明にかけて行われた甲府空襲が思い出されます。 この時は、甲府市街地が大きな被害を受け、 灰燼にきしています。
一方で、 南アルプス市域には、 アジア太平洋戦争による直接の被害はなかったと思われている方も多いと思います。 しかし、 記録をひもといてみると、 もうひとつの空襲が あったことがわかりまsu.
それは、 昭和二十年 (一九四五) 七月三十日。 アメリカ軍の艦載機が、 駿信往還 (旧国道五十二号、 現県道四十二号線) にそって南下し、現在の百々、 上八田、 鏡中条、 甲西地区南部、 そして富士川町の各地域を襲い、 爆撃と機銃掃射による被害をもたらしました。
特に甲西地区の荊沢では、 爆撃により民家二軒が破壊され、 三人の子どもが亡くなる痛ましい被害を出しています。
現在市が保管する、 大明小学校 (旧国民学校) の昭和二十年度の 『学校日誌』 の同日の項にも、
「午前六時半ヨリ三回ニ亘リ空襲アリ午後四時迄デノ空襲ニ於テ 初四 五味倫 爆撃ニ依リ破片ノタメ頭部ヲ粉砕セラレ即死ス 其ノ他 初六 土屋晴男 高二土屋けい子 死亡ス 学校ヨリ即刻見舞ヲナス 県ニ対シ電話及書類ヲ以テ報告ス」と記され、 当時の国民学校初等科四年生の五味倫( 九 )さん、 同六年生の土屋晴男 (十一 ) さん、 高等科二年の土屋けい子 (十五) さんが亡くなったことがわかります。 土屋晴さんとけい子さんは姉弟でした。
戦争による直接の被害がなかったかに見える南アルプス市域でも、 このような痛ましい事件があったことは記憶に残しておかなければなりません。 そしてアジア太平洋戦争全体を見渡せば、 市域出身のじつに千三百人以上の人々が世界各地で戦死したともいわれています。
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8月24日は今から186年前の天保7年(1836年)、山梨県では天保騒動という大規模な騒乱のさ中で、ちょうど現在の南アルプス市域が被害をこうむった日です。
天保騒動は、江戸時代後期の天保7年(1836)8月17日に郡内白野村での百姓一揆からはじまった騒動です。しかし、山梨郡熊野堂村の米穀商打ちこわしという当初の目的を果たした郡内の百姓たちが帰村した8月22日頃になると、騒動に乗じて参加した無宿人らが暴徒化して、大規模な強盗集団となり、国中(甲府盆地内部の村々)を暴れまわって、甲州の人々を恐怖に陥れました。
八田地区野牛島中島家文書の中に、要助さんという当時名主を務めた人物の日記帳があります。
(八田地区野牛島中島家文書「去申用気帳」)
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[2023年2月開催の南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「ナニコレ!昔の道具」展における稲作の道具エリアの一部]
鎌(稲刈り) → 扱箸・千歯扱き・足踏み回転脱穀機(脱穀) → 唐箕(地域名:せんごく)(藁くずと選別) → 摺臼(地域名:するす)(もみすり) → 唐箕(地域名:せんごく)・万石通し(籾殻と選別) → 搗臼(精米) → 万石通し・ふるい(糠と選別) → 白米
稲刈りしてから白いお米になるまでに、想像した以上にいくつもの工程と道具が必要であることに驚きます。
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文化財課で収蔵している明治時代の写真に、甲西地区で起きた大火災に関するものがありましたので、ご紹介しようと思います。冷たい風を避けるように、子供たちが焼け残った建物の壁に張り付くように立っているのが印象的な写真です。人々がまだ皆、和服を着ています。綿入れの上着を着ていても、二月にこの程度の着衣で屋外にいては、寒いでしょうね。風やほこり対策なのか、ほっかむりをしている大人もいますね。
火災後9日目くらいの撮影ですが、焼け残った木材などが積み上げられて、だいぶ片付けも進んでいるよう状況にみえます。
[「明治三十八年一月二十四日夜 南湖村字東南湖大火災後ノ実況 同二月二日記念撮影」(南アルプス市文化財課所蔵)]
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ご飯を炊いてから食べるまで入れておく道具のお話をしたいと思います。
[・竈(かまど): 鍋・釜をのせて煮炊きに使用する場所。「くど」「へっつい」ともいいます
・火吹き竹: 息を吹き込んで火力を上げるために使う竹筒
・付木(つけぎ): ヒノキ・スギ・マツなどの薄片の先端に硫黄をぬったもので、火種や囲炉裏の炭火などから薪や灯心などに火を移す時に使いました]
電気やガスが使われていなかった時代は、「かまど」に薪を燃やしてご飯を炊きました。伝承館に展示されているかまどの前には「付け木」と「マッチ」「火吹き竹」もセットしてあります。
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令和5年6月21日(水)まで開催しておりますテーマ展「ナニコレ!昔の道具」展に展示中の「ハエ捕り瓶」と「ハエ捕り棒」「ハイトリック」について、ご紹介したいと思います。
[展示中のハエ捕り棒とハエ取り瓶]
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昭和時代に生活必需品だったマッチを収蔵資料の中からご覧いただきます。
[「スパイ御用心 書類手紙御用心 職場乗物御用 防諜」 二等品 志摩燐寸製造所(南アルプス市文化財課蔵)]
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昭和時代の戦争に関する資料のひとつ、奉公袋をご紹介したいと思います。まずは、櫛形地区上今井で今から80年ほど前に撮影された出征の時の家族写真をご覧ください。
[出征記念の写真:中央の出征兵は奉公袋を抱えている。(上今井五味家資料 南アルプス市文化財課蔵)]
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こちらは「大日本国防婦人会」の襷(たすき)やこの白い襷をかけた女性たちの記念写真です。
[「モンペに割烹着、大日本国防婦人会の白襷をかけた西野村功刀の婦人たち(昭和15年頃)」(西野功刀幹浩家・南アルプス市文化財課蔵)]
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芦安地区で大切に祀られている「お船地蔵さん」は、立派な木堂の中で他の石造物とともに赤い頭巾と前掛けをつけています。お堂前の急な階段を上って一番右端、前掛けの布の下をよく見ると、一躰だけ御舟の上にある蓮座に立っているので、すぐにわかります。「お船地蔵さん」の脇には丸石も置かれていて、この地蔵堂は甲州伝統の丸石信仰も見ることができます。
[1芦安地区芦倉237「お船地蔵さん」(令和5年12月14日撮影)]
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南アルプス市教育委員会文化財課所蔵の昭和34年災害資料より、今回は現在南アルプス市南部に位置する甲西地区での被害状況写真をご覧いただきたいと思います。 甲西地区は市内に降った雨や湧き出た水が集中する場所で、西側には崩れやすく急峻な南アルプスの山々がせまることから、釜無川右岸のいくつもの天井川が集まる常習水害地帯でした。台風7号と15号が山梨県内全域に大きな被害をもたらした昭和34年においては、その前に到来した台風6号も甲西地区五明耕地をすでに冠水させていたようです。
[「台風6号甲西町坪川決壊による五明耕地(宮沢前200町歩冠水状況)」(飯野東条家災害資料甲西町10~16南アルプス市教育委員会文化財課蔵)]
昭和40年代の前半までは、日常の生活で着物を着ている人がまだたくさんいました。通常の洗濯では、たらいと洗濯板を使って「丸洗い」していた着物も、春と秋の季節の変わり目に行う衣替えでは、縫い目をほどいて反物の状態にして「解き洗い」をしたそうです。ほどくと縫い目にたまったほこりや汚れが落としやすくなるからです。
解き洗いの後には、「張り」という独特の干す工程があり、この「解き洗い」から干すまでの一連の作業をまとめて「洗い張り」といいます。
「張り」のやり方は二通りあり、板にぴたっと密着させて張る「板張」と、伸子針(しんしはり)でぴんと張る「伸子張」のいずれかの方法で、糊付けして干しました。
[板張]
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秋山地区集落上手、櫛形山の山裾から突き出した小丘状のたかまりにあり、眺望が素晴らしく、藤川流域を眼下に一望することができます。
当地は秋山光朝の館の跡といわれ、現在は熊野神社が建っています。
三方を崖に囲まれたこの丘は後背の山地には中野城、雨鳴城といった山城の遺構が山沿いに連なります。
熊野神社は、江戸時代にその境内から建久8年(1197)の銘をもつ経筒が発見されたことでも有名です。
秋山光朝は加賀美遠光の長男として京で実績を積み、平家の棟梁である平重盛の娘と結婚します。しかし、頼朝による平家討伐の機運が高まり、光朝は悲劇への道を歩むとされています。
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