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10.根方

暮らし・産業・文化
アヤメが丘団地(六科丘遺跡)

丘を削平して新たに誕生した住宅街で、昭和58年、開発に伴い発掘調査がおこなわれました。今から約1700年前の弥生時代終末~古墳出現期のムラの跡です。二つの河川に挟まれた舌状台地は先端で丘状に高まり、その丘の南西面に竪穴住居が建てられており、同じ舌状台地上でも長田口遺跡と向き合う位置関係となります。約25,000㎡を対象とした発掘調査ではほぼムラの全貌が調査され、33軒の竪穴住居が発見されました。

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六科丘古墳

市之瀬(イチノセ)台地の先端部、標高435mに造られた古墳で、調査の後に古墳公園として保存整備されています。
古墳は、造出しのついた径24mの円墳で、その周りを幅約2mの礫帯が巡っています。旧地表面を整地した後に土を盛って築き、表面に葺石を施したとみられます。埴輪は確認されませんでした。

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長田口遺跡(ほたるみ館)

漆川と深沢川とに挟まれた舌状台地上、標高約440mに立地し、平岡集落の南の端にあたります。
これまで、広域農道建設、ほたるみ館建設、多目的広場駐車場建設の3地点(計約12,600㎡)で発掘調査を実施しています。ほたるみ館建設に伴う発掘調査は平成10年に行われました。

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長田口遺跡(西地区多目的広場・広域農道)

漆川と深沢川とに挟まれた舌状台地上、標高約440mに立地しています。
これまで、広域農道建設、ほたるみ館建設、多目的広場駐車場建設の3地点(計約12,600㎡)で発掘調査を実施し、縄文時代中期の竪穴住居跡9軒以上、弥生時代~古墳時代の竪穴住居跡80軒以上が調査されており、この2時期を中心とした複合遺跡といえます。

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棚田の景観(ほたるみ橋公園)

漆川によって解析された谷地形を利用し、棚田が作られています。市之瀬台地上ではここ上市之瀬や平岡の棚田以外にも中野の棚田も良くその姿を伝えています。
上市之瀬、平岡の棚田は石積みが特徴で人気がありますが、これにも理由があり、かつて市之瀬川の土石流によって何度も砂礫が堆積した地だったことをあらわしているのです。困難を乗り越えた姿が石積みに現れていると思うとまた印象が変わりますよね。
また、新居田B遺跡のページもご参照いただきたいのですが、棚田のすぐ崖上に当たる遺跡からは、弥生時代のはじめの土器に籾の痕跡が残っている例があり、2000年を通して米作りに挑んできた歴史の厚みを感じることも出来ます。


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妙了寺

高峯山妙了寺もまた山梨を代表する寺院の一つです。日蓮宗の触頭(ふれがしら)を勤め、山梨県内では身延山久遠寺に次ぐ位置付けといえ、又の名を「うらみのぶ」とも呼ばれています。昭和24年の火災により伽藍(がらん)の多くが焼けてしまいましたが、かつては塔頭(たっちゅう)も六坊あるなど広大な境内を有し、25カ寺の末寺がありました。
妙了寺はもともと中野地区にあった妙竜寺という真言宗の寺院でしたが、鎌倉時代に日了によって新たに日蓮宗として再興されたものです。その日了の母・日仏は中野地区の出身ですが日蓮宗の開祖日蓮の直弟子です。


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椿城跡(上野城跡)

上野の地に小笠原長清の孫盛長によって築かれた城で上野城といい、周りに椿の花が多かったことから別名椿城とも呼ばれています。
 鎌倉時代のもので、細長い台地の上に堀や土塁で各スペースが区切られていたもので、石垣や天守閣があるようなものとは違います。堀や土塁の位置はレーダー探査によっておおよその位置が把握されています(写真)。
 周辺には地下式坑といって地下室が転々と造られており、時々陥没することから椿城には秘密の抜け穴があると伝えられてきました。市指定史跡。

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椿城跡(本重寺)

朱色に光る屋根が特徴の本重寺。もともとは本覚寺といい、鎌倉時代、秋山光朝の子とされる光定によって建てられた日蓮宗のお寺です。
 光定が日興上人から譲り受けた板本尊(いたほんぞん)は市の文化財に指定されています。武田晴信の母大井夫人の父親でもある大井信達(のぶさと)の法名が「本秀院」とあることから、寺院名を変える際に本重寺としたと伝わります。

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椿城跡(五輪塔群)

小笠原長清の孫盛長が城を構えたといわれ、上野盛長と称するようになります。上野家は3代で途絶え、その後は養子を取った秋山家へと移ります。道の北側には代々秋山家が守る五輪等群があります。

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上ノ東古墳

椿城跡から物見塚古墳へと続く道の途中にひっそりと佇む古墳。市之瀬台地は山から離れるほどに徐々に下ってゆきますが、台地の先端付近で再び盛り上がって一気に下ってゆきます。その盛り上がった頂上にこの古墳は築かれます。台地上に存在することから5世紀台とみられますが詳細は不明です。

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物見塚古墳

 甲府盆地を一望する市之瀬台地の先端部、標高375mの地点に造られた全長48mほどの前方後円墳で、前方部がやや短く、葺石が施されていました。このちいきで現存する前方後円墳は唯一です。
 周溝・埴輪は確認されず、内部主体は粘土槨とみられます。調査では鉄剣3口、直刀1振、玉類、土師器片などが出土しました。過去に捩文鏡1面、玉類の出土が伝えられています。

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塚原上村古墳

 今から約1400年前の古墳で、墳丘はほぼ削平され、横穴式石室の周囲で東西4.5m、南北8.9m、高さ2.3mのみが遺されています。
 円墳とみられ、石室は露出しており、古くから「大西のおかま」と呼ばれていました。(「大西」というのは現在古墳の真正面にある個人宅の屋号です)
 現存する石室規模は玄室の長軸が4.5m、幅は奥壁で1.58m、開口部で1.55mを測り、羨道部はほとんど遺されていません。遺物も過去に乱掘を受けており不明です。


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鋳物師屋遺跡

 市之瀬台地の縁に近い扇状地にある縄文時代中期中葉(約5000年前)のムラの跡で、直径130メートルの範囲に32軒の竪穴建物跡(隣接する〆木遺跡を含む)が発見されました。
 住居は真中に広場をもってドーナツ状に分布して建てられていきました。
 膨大な量の土器が発見され、日用品から祈り事用とみられるものまであり、205点の出土品が国の重要文化財に指定されています。
なかでも、「円錐形土偶」、「人体文様付有孔鍔付土器」は、当時の精神文化を知る貴重な資料であり、世界中の博物館で紹介されました。

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伝嗣院大日如来坐像

「おでいにっちゃん」との愛称で親しまれている石造仏で宝永年間を示す銘が刻まれている。また、この石造仏が鎮座する高まりは古墳とみられています。

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伝嗣院

中世からの由緒を誇り、サクラの美しさでも有名な古刹。台地の上から人々の暮らしを見守り続けてきました。
下宮地にある神部神社の 山宮にあたる場所でこのことから上宮地の地名となったようです。


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ほたるみ館

アヤメの里活性化施設「ほたるみ館」は農業の活性化や地産地消の拠点施設として平成11年に誕生しました。
もともと地域の農家の方々が集まり、地産地消やさくらんぼジャムなどの加工品をまちの特産品にしようとあやめの里特産品加工組合を設立したころから継続した活動を続けています。現在は南アルプス特産品企業組合となりほたるみ館の運営を始め、特産品の普及、地域農業活性化の中心として活躍しています。
ほたるみ館の毎週土曜日朝8時にはじまる「朝市」は人気で、県外からも地の野菜やジャム、よもぎ饅頭などを求めに大勢のお客様が集まります。


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ほたるみ橋公園

漆川によって解析された谷地形を利用し、棚田が作られています。石積みが特徴で、市之瀬台地上ではここの他にも中野区の棚田も良くその姿を伝えています。ほたるみ橋の下には近年ほたるが復活したようですが、これら環境整備も含めて整備されたほたるみ橋公園は全米ランドスケープアーキテクト協会により、2002年全米優秀賞を受賞している。


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中野のカキ

市之瀬台地の最上段、中野の個人宅の庭にあつカキの木 
 根元の周囲5.3メートル、目通り幹囲3.5メートル。幹は空洞となり南西部を欠くが復元すれば、4メートル以上の巨木となる。この地方で「エブク」という在来種で、昔の栽培種を知る好資料です。


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市之瀬川の石堤

市之瀬川に沿って、県道伊奈ケ湖公園線を伊奈ケ湖に向かって上っていくと、上市之瀬の集落を抜けた左手に「県営砂防事業発祥之地」という石碑が現れ、川の対岸には歴史の厚みを感じさせる苔むした石積みを見ることができます。

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宝珠寺

山寺区にある名刹。
境内に入るとまず目を引くのは県指定文化財のマツ。古木ですので現在は支柱などの様々な保護措置を施していますが枝を広げた姿は優美そのものです。
また、奥左手のお堂にある国重要文化財「木造大日如来及四波羅蜜菩薩坐像」は普段は非公開ですが、平安時代終わりごろの作で、甲斐源氏加賀美遠光ゆかりのものと考えられています。
また、毘沙門天立像はその子、当地周辺を本拠としていた武将小笠原長清により作られたものと考えられています。
 長清は源頼朝の命により奈良東大寺の毘沙門天(多聞天)を作らせており、本拠である小笠原の地と縁を結んだものが当寺毘沙門天立像だろうと考えられています。制作年代も鎌倉期初頭と合致しています。


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新居田A遺跡

ほたるみ館(長田口遺跡)とあやめが丘(六科丘遺跡)とを結ぶこの道路周辺は新居田A遺跡と呼ばれ、平成12年の道路拡幅工事の際には発掘調査が実施されています。
道路西端では長田口遺跡の集落と同じ集落とみられる縄文時代中期前半の竪穴建物跡と、弥生時代終わりから古墳時代の竪穴建物跡が発見されました。また、畑の畝とみられる遺構も発見されました。
六科丘遺跡に程近い、調査区中央付近では縄文時代中期の住居跡がポツンと一軒だけ離れて確認されました。
どういった性格の建物なのかは今後の調査で判明できることでしょう。


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新居田B遺跡

 漆川のすぐ上、崖線にそってある遺跡で、平成13年に農道の建設工事に伴って発掘調査が行われ、縄文時代中期から古墳時代初頭の住居跡が発見されています。
 この一帯でも、特に漆川を望む崖線際に縄文時代晩期の営みの跡が発見されます。 


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中畑遺跡

 櫛形西地区多目的広場の建設に伴って平成14年に発掘調査が行われました。
 縄文時代前期前半(約6,000年前)という市内で最も古い住居址群が発見されています。その他、縄文時代中期から後期、晩期、弥生時代中期から古墳時代初頭までの集落など、連綿と人々の暮らしが営まれていたことがわかりました。

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上の山遺跡

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古屋敷遺跡

市之瀬台地の上、中野にある遺跡で、縄文時代中期後半の集落跡が発見されています。写真は平成5年に建設された広域農道の範囲で住居跡が2軒発見されました。また、近年ではクラインガルテン(滞在型農園)の建設に関しても行われ、クラインガルテンの敷地内に保存されています。

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鋳物師屋古墳

市道建設すの際に発掘調査が行われた古墳で、古墳の東側半分が道路部分にで調査され、西側半分はまだ畑の中に埋まっているようです。
 昭和29年に削られたため 古墳の高まりはありませんでしたが、石で作られた横穴式石室(よこあなしきせきしつ)の基礎の部分や、 古墳の周溝が発見されました。周溝の形から方墳(ほうふん)といった四角い形をした古墳ということが判明しました。およそ6世紀後半のものです。ちょうど遺跡情報発信オブジェの真下に古墳があったのです。

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曽根遺跡

市之瀬台地の裾、傾斜地から扇状地にかけて広がる遺跡で、旧石器から縄文時代の全ての時期、さらに弥生時代、古墳時代にいたるまでの資料が出土する遺跡です。
中心となるのは主に二つの時期で、縄文時代中期後半の環状に広がるとみられる集落と、弥生時代から古墳出現期にかけての集落です。
縄文時代中期の集落には平面形六角形で五本柱の住居跡が特徴的で山梨県内でもまだ数例しか見つかっていない発見例となりました。


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北原C遺跡

市之瀬台地の北側縁辺部の下、扇状地に立地する約4,500年前の縄文時代中期のムラ跡です。
直径100mを越す大規模な環状集落になるとみられ、その一部が道路建設により発掘調査が実施されました。
その結果18軒の竪穴建物跡などが発見されました。

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椿城跡

上野の地に小笠原長清の孫盛長によって築かれた城で上野城といい、周りに椿の花が多かったことから別名椿城とも呼ばれています。
 鎌倉時代のもので、細長い台地の上に堀や土塁で各スペースが区切られていたもので、石垣や天守閣があるようなものとは違います。堀や土塁の位置はレーダー探査によっておおよその位置が把握されています(写真)。
 周辺には地下式坑といって地下室が転々と造られており、時々陥没することから椿城には秘密の抜け穴があると伝えられてきました。市指定史跡。


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遠光・光朝及び夫人の墓

秋山光朝廟の敷地内にあり、中央の五輪塔が最も古く鎌倉時代初期、父遠光のものと伝わり、向かって左側が光朝、右側が光朝の妻のものと伝わります。市の文化財に指定されています。


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本重寺

朱色に光る屋根が特徴の本重寺。もともとは本覚寺といい、鎌倉時代、秋山光朝の子、光定によって建てられた日蓮宗のお寺です。光定が日興上人から譲り受けた板本尊(いたほんぞん)は市の文化財に指定されています。武田晴信の母大井夫人の父親でもある大井信達(のぶさと)の法名が「本秀院」とありここ本重寺のことを示すとされています


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築山の横穴壕跡1

ロタコの呼応時に伴って掘られた横穴壕は燃料などを隠して備蓄することや航空部品などの地下工場にすることを目的につくられました。ループ橋から、ここ築山付近まで55基以上が掘られたようです。
横穴壕の工事は、大手ゼネコンが陸軍から受注し、ロタコの工事の中では最も早く、昭和19年あきころ(証言によっては、昭和18年中)から建設が始まったといわれています。


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築山の横穴壕跡2

陥没跡の反対側には横穴壕を掘る際に、掘り出された土の形がそのまま残っています。横穴壕は、戦後すべての壕が崩落などによって閉口し、現状では山肌にその痕跡を辛うじて確認できるといった状況にあります。
横穴壕の痕跡は、円形やU字形の陥没地形です。


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御崎古墳・御崎神社

市之瀬台地の先端にある御崎神社。
正面には富士を、眼下には甲府盆地を見渡せる絶景の地に佇む神社です。

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高尾道

甲府や竜王方面から、上今諏訪、西野などを経て高尾を結ぶ道。
現在でも高尾街道と呼ばれます。
写真の道標は高尾集落から遠く離れた上今諏訪の地にあり、高尾道の旧道沿いに今もひっそりと佇みます。
右あしくら 左たかお と記されています。


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平岡の柚子

山梨で柚子というと、現在は富士川町の柚子が有名ですが、
かつては、南アルプス市(旧櫛形町)の平岡の柚子が有名だったのです。
甲州盆唄にはこんな歌詞があります

「なんたる江戸の絵描きでも 平岡のゆずのきゃ 絵には描けめぇ」

「ゆずのきゃ」については「木や」もしくは「香」と解釈されていて、柚子の香りに包まれた様子が伺えますね。

今では柚子畑はほとんど見られなくなりましたが、それでも平岡のむらなかを歩くの多くの柚子の木に出会うことができますよ。


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鋳物師屋遺跡のサル形土製品

鋳物師屋遺跡出土の縄文時代中期(およそ今から5000年ほど前)のサルの顔をした土製品で、国の重要文化財に指定されています。
全国の遺跡(主に本州)から縄文時代のサルの骨などは出土しており、その存在は証明されていますが、サルを模した土製品はそれほど多くはありません。
 また、サルの土製品とされているものでも、サル似の人?のようなものが多く、ここまでリアルにサルを表現しているものは全国でも大変珍しいです。
ほほの下の鳴き袋まで表現されているのです。
右耳は欠損しており、後で復元修復しています。


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上市之瀬のイトザクラ

市之瀬台地の最上部、山地との境付近にあり市之瀬台地全体を見渡すことのできる場所に根を張るイトザクラです。
一名シダレザクラともいいます。
根元の周囲4.4メートル、目通り幹囲3.6メートル、樹高10メートル。枝張りは四方に広がり、特に枝垂れは長く優美です。


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つけえば

西地区有名計画のパンフレット(櫛形西小学校6年生作成)

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上市之瀬の道祖神

西地区有名計画のパンフレット(櫛形西小学校6年生作成)

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平岡の諏訪神社

西地区有名計画のパンフレット(櫛形西小学校6年生作成)

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平岡公会堂

西地区有名計画のパンフレット(櫛形西小学校6年生作成)

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下市之瀬の獅子舞

西地区有名計画のパンフレット(櫛形西小学校6年生作成)

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野之瀬の郵便局

西地区有名計画のパンフレット(櫛形西小学校6年生作成)

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西地区の道祖神

西地区有名計画のパンフレット(櫛形西小学校6年生作成)

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櫛形西小学校

西地区有名計画のパンフレット(櫛形西小学校6年生作成)

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上市之瀬 三組道祖神

上市之瀬にある、商店ますやさんの斜め向かいにある
道祖神さん


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塩屋さん

上市之瀬集落は、現在の県道伊奈ヶ湖線に沿って広がっているが、この道は、今から約300年以上前の元禄時代に、集落移転に伴って新たにつくられたもので、道に面して短冊状に敷地が配置された。
その入り口は、妙了寺を避けるようにクランク状の道が配されていた。
この商店はその角に位置しており、現在の店主で3代目になる。
乳牛を飼育したりしながらも、前時代を通して塩を販売しており、「塩屋」と呼ばれる。

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中野の棚田の魅力を発信

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ますや

上市之瀬の集落に60年ほど前からあるお店屋さんで
一番最初に小麦粉のお菓子「ねじりんぼう」と
「よもぎまんじゅう」をつくり今では、お店の看板商品
になっています。

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野之瀬大火災

昭和24年4月8日
この日は妙了寺の春祭り
 
午後、催しものの合図で上げた花火の不発花火が竹藪に落下し、
爆発、火災が発生した
強風にあおられ茅葺屋根に引火、
瞬く間に野々瀬集落および近隣地域までに拡大し
大火災となった。

その時の様子を表した野々瀬村火災状況図。
[個人所有]  

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三菱レオ

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中野の棚田

昭和30年代の田植えの様子。

[画像:個人所有]


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築山のどんど焼き

 築山のどんど焼きでは、御勅使川扇状地の扇頂部分に近い築山の根方に、もみの木を使った巨大な左義長(さぎちょう)型のオコヤがつくられます。

 築山区のオコヤを作るために必要なモミは、数日前に神主さんに見立ててもらい、築山区の山方に生えるものの中から選び出されるそうです。
神木となったもみの木はお神酒をかけてお参りした後、チェーンソーで伐採し根方に降ろされて、どんど焼きの前日に行うオコヤづくりに使われます。


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花卉栽培の歴史

南アルプス市域の北西部で現在10軒ほどの花卉栽培農家があり、鉢植えの花栽培では県内一の生産量を誇っています。

施設を使っての花卉栽培は季節を問わず一年中仕事ができることと、利益率が良いことが魅力です。


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信玄伝承の治水事業 ~暴れ川御勅使川を治める~(ふるさとメール2007年12月14日号)

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御勅使川扇状地の生命線 石積出(いしつみだし)(ふるさとメール2007年12月29日号)

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近代の治水技術 芦安堰堤と源堰提(ふるさとメール2008年10月31日号)

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小正月に行われる伝統行事-どんど焼き- (ふるさとメール2010年1月15日号)

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野呂川話 ~長い長い水を求めた物語 第一幕 江戸時代~(ふるさとメール2013年8月15日号)

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野呂川話~長い長い水を求めた物語ー第二幕明治時代~(ふるさとメール2013年9月15日号)

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野呂川話~長い長い水を求めた物語ー第三幕大正・昭和時代~(ふるさとメール2013年10月16日号)

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野呂川話 ~長い長い水を求めた物語-第四幕 昭和20-40年代~(ふるさとメール2013年11月15日号)

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南アルプス市の城館跡(1)椿城の伝説1 ~二人の城主~(ふるさとメール2015年2月16日号)

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南アルプスブルーの足跡 ~市内を彩った藍染めの歴史~(ふるさとメール2015年4月15日 号)

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南アルプスブルーの足跡その2 ~市内を彩った藍染めの歴史~(ふるさとメール2015年5月15日号)

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南アルプスブルーの足跡 その3 ~市内を彩った藍染めの歴史~(ふるさとメール2015年6月15日号)

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南アルプスブルーの足跡 その4 ~市内を彩った藍染めの歴史~(ふるさとメール2015年7月15日号)

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南アルプスブルーの足跡その5 ~市内を彩った藍染めの歴史~(ふるさとメール2015年8月14日号)

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南アルプスブルーの足跡その6 ~市内を彩った藍染めの歴史~(ふるさとメール2015年9月15日号)

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縄文の話をしましょう その1~土器の穴ぼこが教えてくれる縄文の食~(ふるさとメール2015年10月15日号)

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縄文の話をしましょう その2~土器の穴ぼこが縄文の醸造説を後押し!~(ふるさとメール2015年11月16日号)

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縄文の話をしましょう その3~来年の干支はサルです 日本を代表する縄文時代のサルのお人形~(ふるさとメール2015年12月15日号)

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縄文の話をしましょう その4~全国の土偶ファンに愛される「子宝の女神 ラヴィ」~縄文ブームふたたび(ふるさとメール2016年1月15日号)

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「根方」の魅力①~その物語を始める前に~ (ふるさとメール2011年1月13日号)

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根方の魅力②~南アルプス市最初の定住者 (ふるさとメール2011年2月14日号)

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根方の魅力③~中畑遺跡が教えてくれる南アルプス市最初の定住生活 (ふるさとメール2011年4月15日号)

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根方の魅力④~根方を彩る春の風景 (ふるさとメール2011年5月13日号)

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根方の魅力⑤~自然との共生を祈るムラ「北原C遺跡」(前半) (ふるさとメール2011年6月15日号)

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根方の魅力⑥~自然との共生を祈るムラ「北原C遺跡」(後半) (ふるさとメール2011年7月15日号)

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根方の魅力⑦~絶景の地に王は眠る~ (ふるさとメール2011年9月15日号)

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根方の魅力⑧~市之瀬台地の「市之瀬」って? (ふるさとメール2011年10月17日号)

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根方の魅力⑨~高尾穂見神社と村々の祈り(上)(ふるさとメール2011年11月15日号)

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根方の魅力⑩~高尾穂見神社と村々の祈り(下) (ふるさとメール2011年12月15日号)

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根方の魅力⑪~語りつくせぬ魅力の数々 (ふるさとメール2012年1月16日号)

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南アルプス市の小正月~道祖神場のお飾りとどんど焼きの風景~(ふるさとメール2017年1月16日号)

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南アルプス市を訪れた人々(1)伊能忠敬 その1(ふるさとメール2016年8月15日号)

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南アルプス市を訪れた人々(2)伊能忠敬 その2(ふるさとメール2016年9月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(1) 櫛形西小学校の取り組みから(ふるさとメール2017年2月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(2) 掘り起こし-育み-伝えるプロジェクト(ふるさとメール2017年3月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(3) 掘り起こすということ(ふるさとメール2017年4月14日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(4) まちをめぐり建て物も掘り起こす(ふるさとメール2017年5月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(5) 正しい価値を掘り起こし、育むサイクル(ふるさとメール2017年6月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載 「〇博(まるはく)」への道(6)歴史資源を共感する(ふるさとメール2017年7月14日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(7・最終回)歴史資源を正しく引き継ぎ、市民全員が語り部であるまちを目指して (ふるさとメール2017年8月15日号)

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俳人「福田甲子雄」にみる南アルプス市の風土(一) (ふるさとメール2018年3月15日号)

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俳人「福田甲子雄」にみる南アルプス市の風土(二) (ふるさとメール2018年4月13日号)

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観応の擾乱(かんのうのじょうらん)の舞台 須沢城(すさわじょう)(ふるさとメール2007年9月14日号)

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幻のオート三輪~人と人がつながり50年ぶりに中野を走る~(ふるさとメール2018年12月14日号)

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小正月の風物詩 下市之瀬の獅子舞(上)(ふるさとメール2019年1月15日号)

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小正月の風物詩 下市之瀬の獅子舞(下)(ふるさとメール2019年2月15日号)

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ウェブサイト「〇博アーカイブ」の発信~地域の歴史資源を掘り起し伝える仕組み~ (ふるさとメール 2019年4月15日号)

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まちの宝箱~「ふるさと文化伝承館」リニューアルオープン~(ふるさとメール5月15日号)

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「相手を思いやる心」を体現するまち~小笠原長清と小笠原流~(ふるさとメール2019年6月14日号)

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市内に広がる祇園信仰(ふるさとメール 2019年7月15日号)

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山梨のお盆と安倍川餅(ふるさとメール2019年8月15日 号)

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秋山 光朝

加賀美遠光の長子としてうまれ、成長して南アルプス市秋山に拠点を構え、「秋山」の姓を名乗ったとされます。
「吾妻鏡」によれば、治承・寿永の内乱以降は、弟の長清と共に京で平清盛の四男に仕えており後世の資料の「甲斐国志」では清盛の嫡男 重盛の娘を娶ったと伝えられるなど、平氏政権の一翼を担っていたと考えられます。
こうした状況からか、治承四年(一一八〇)の頼朝挙兵時に長清が比較的早く京を離れ頼朝と合流したのに対し、光朝は京に留まり、是が後に頼朝から疎まれる要因となったと言われています。
文治元年(一一八五)に頼朝が弟の範頼に出した手紙には「光朝は、平家につき、又木曽に付きて、心不善につかいたりし人にて候えば、所知など奉るべきには及ばぬ人」と厳しく評されています。
この後の光朝の動向や没年などはわかっていません。


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本重寺板本尊

縦78.3センチメートル、幅41.1センチメートルで用材は桂である。弘安5年(1282年)に日蓮が日興に与えたものと同じ様式で、正中2年(1325年)に秋山与一光定に日興が与えたものといわれている。


所在地/ 南アルプス市上野347
所有者、管理者/ 本重寺
指定年月日/ 昭和52年11月22日
備考/


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遠光・光朝の木造

加々美次郎遠光像は玉眼挿入、内ぐりのある寄木造。作者は無名でありながらも鎌倉期における肖像彫刻の逸品である。
坐高…48センチメートル
肩張…36センチメートル
肘張…38センチメートル
膝張…52センチメートル
膝高…9.5センチメートル
秋山太郎光朝公座像は彫眼、寄木造で像に彩色が見られる。
台座には享保19年(1734年)の墨書きがあるので江戸時代中期の作であることがわかる。

所在地/南アルプス市秋山567
所有者、管理者/秋山光朝公奉賛会
指定年月日/昭和42年10月1日
備考/


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宗林寺七面明神社本殿

鋳物師屋(いもじや)村の鎮守と言い伝えられ、一間社流造、桁行0.91センチメートル、梁間0.82センチメートル、棟高2.88センチメートルである。各部に濃厚な桃山風の特色の残る江戸初期の建物である。


所在地/南アルプス市下市之瀬240
所有者、管理者/宗林寺
指定年月日/昭和52年11月22日
備考/


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上宮地伝嗣院の大日如来座像

伝嗣院の旧寺領内にあり、御幸道の脇に富士山に向いて建てられている。高さ1.6メートル、幅1.2メートル程である。髪は螺髪で智挙印を結ぶ。右膝部に「寅山代」、像背に「寶永歳」の刻印がある。


所在地/南アルプス市上宮地1408-1
所有者、管理者/伝嗣院
指定年月日/平成元年5月31日
備考/


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上市之瀬八幡神社本殿 1棟 附棟札及び古材

一間社流造の建物で、江戸初期のものとみられる。宝殿地内(上市之瀬1315地先)から現在地に遷されたものといわれ、平成元年原形に忠実な解体修理が行われた。


所在地/南アルプス市上市之瀬1029
所有者、管理者/上市之瀬区
指定年月日/平成2年2月28日
備考/


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諏訪神社の石鳥居

石段の中程にあり、宝永五年(1708年)の銘がある。笠木の上面に一対の竜が彫り出されあり、願い事を呑み込んでくれるとお詣りする人が多かったと言われている。


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所在地/南アルプス市平岡1611
所有者、管理者/平岡区
指定年月日/昭和61年9月1日
備考/

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曲輪田峰村小路の獅子舞

起源は天明年間といわれ、家庭の和と社会平和の護り神として毎年正月14日、15日の道祖神祭の日に舞が行われる。また、娯楽の一つとして道化万才等の余興も演じられる。


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所在地/南アルプス市曲輪田峰村小路
所有者、管理者/曲輪田峰村小路獅子舞保存会
指定年月日/平成3年12月25日

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木造諏訪神社神像

室町時代の特色をよく具えた衣冠束帯姿の簡素な像である。応永十六年(1409年)に本殿建て替えとともに奉納されたもので、「信心大施主藤原吉光与四郎敬白(略)」の墨書がある。


所在地/南アルプス市曲輪田1077
所有者、管理者/諏訪神社
指定年月日/昭和40年5月13日


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桜田家鰐口1口

銅製。直径17.2センチメートル、縁厚5.6センチメートル。外帯に「永正二年(1505年)から願主為清敬白。奉主~信州伊那飯嶋郷田切村」の銘がある。桜田家に伝来の由来は不明である。


所在地/南アルプス市下市之瀬872
所有者、管理者/
指定年月日/昭和42年5月29日


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秋山太郎光朝供養の経筒及び付属品

この経塚の遺品は慶安年間(1648年から1652年)に秋山熊野神社境内より発見されたと伝えられている。光朝は甲斐源氏加々美遠光の長男、経筒銘にある光経は光朝の弟で、遠光の四男である。本経筒は銘文に建久8年(1198年)の年号があり、鎌倉初期の経塚造営の状況を知るのに貴重な資料となっている。
経筒には次の銘文が刻まれている。

信心大施主…源朝臣光経

芳縁源氏…所生愛子等

現在悲母…禅定此丘尼

建久八年十月十一日

出土品には宝珠型のつまみのついた蓋が2点、短刀3口、陶製の壺1点がある。


所在地/南アルプス市秋山596
所有者、管理者/個人
指定年月日/昭和47年1月27日


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伝嗣院紙本墨書大般若経

各帖縦28.8センチメートル、横10.6センチメートルの折本。大檀那今沢重貞によって奉納されたもので明応十年・文亀元年(共に1501年)の書き付けがのこる。経巻600巻に欠失なく多くの奥書があり、戦国時代の史料としても貴重なものである。


所在地/南アルプス市上宮地1424
所有地、管理者/伝嗣院
指定年月日/昭和40年8月19日


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上市之瀬のイトザクラ

一名シダレザクラともいう。根元の周囲4.4メートル、目通り幹囲3.6メートル、樹高10メートル。枝張りは四方に広がり、特に枝垂れは長く、花色は濃い方で、樹齢約200年。

所在地/南アルプス市上市之瀬1436
所有者、管理者/上市之瀬イトザクラ保存会
指定年月日/昭和51年3月2日


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下市之瀬の獅子舞

享保年間、若者の風紀の乱れを防ぐため、敬神と娯楽を兼ね正月14日の道祖神祭の奉納神楽として始まった。火伏・厄除・悪魔払として舞われ、幕の舞・梵天舞等七種類、女性的な優雅な舞である。


所在地/南アルプス市下市之瀬
所有者、管理者/下市之瀬獅子舞保存会
指定年月日/平成19年4月27日


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宗林寺のイロハモミジ

樹齢300年余。根元の周囲4.9メートル、目通り幹囲2.6メートル、樹高約12メートル。枝張りもよく東西は12メートル以上、秋の紅葉は見事である。


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所在地/南アルプス市下市之瀬240
所有者、管理者/宗林寺
指定年月日/昭和62年12月1日

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平岡のヤシャブシ

標高610メートルの山上に、御神木として保存されている。球果にタンニンを多く含み、この地域では五倍子(フシ)の木と呼ぶ。目通り幹囲3.1メートル、樹高15メートル。枝張りは四方に8メートルあまりの県下まれな巨樹。


所在地/南アルプス市平岡2910
所有者、管理者/平岡区
指定年月日/昭和61年9月1日

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曲輪田諏訪神社のエドヒガン

神社西方の境内樹。地域ではヒガンザクラで通っている。東のモミジと共に農作業の目安として親しまれ、早春の開花は、淡紅色で見事。目通り幹囲2.8メートル、樹高15メートル、枝張りは東西16メートルに及ぶ。

所在地/南アルプス市曲輪田1077-2
所有者、管理者/曲輪田諏訪神社
指定年月日/昭和62年12月1日


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広誓院のカヤの木

湯沢の平野山広誓院は文亀元年(1501年)6月に創建されたと伝えられている。
このカヤの木は根回り13メートル、目通り4.5メートル、樹高は12メートル、樹齢約500年の老木である。


所在地/南アルプス市湯沢1826
所有者、管理者/広誓院
指定年月日/昭和44年11月13日
備考/


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中野のカキ

樹齢500年。根元の周囲5.3メートル、目通り幹囲3.5メートル。幹は空洞となり南西部を欠くが復元すれば、4メートル以上の巨木となる。この地方で「エブク」という在来種で、昔の栽培種を知る好資料である。


所在地/南アルプス市中野207
所有者、管理者/
指定年月日/昭和35年11月7日


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宝珠寺のマツ

樹種はクロマツ。根元の周囲4.8メートル、目通り幹囲3.6メートル、地上2メートルの幹囲3.8メートル、枝張りは東へ3メートル、西へ6メートル、北へ7.5メートル、南へ9メートル、樹高15.5メートル。その間、幹枝の屈曲著しく美しい樹形を呈する県下まれな名木。


所在地/南アルプス市山寺950
所有者、管理者/宝珠寺
指定年月日/昭和35年11月7日


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南アルプス市妖怪の世界~風土が培う信仰の足跡~(ふるさとメール2019年10月15日号)

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国重要文化財 鋳物師屋遺跡の土偶 「子宝の女神 ラヴィ」(ふるさとメール2020.11月16日号)

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国重要文化財 鋳物師屋遺跡の土偶「子宝の女神 ラヴィ」(2)(ふるさとメール2020年12月15日号)

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国重要文化財 鋳物師屋遺跡の土偶「子宝の女神 ラヴィ」(3)(ふるさとメール2020年1月15日号)

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南アルプス市の道祖神さん(ふるさとメール2020年2月15日号)

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時を超えて響く言葉~なにげない日常をつなぐために~(ふるさとメール2021年3月15日号)

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野々瀬郵便局

 現在は営業していませんが、櫛形地区上市之瀬にある、道に面した大きなパステルグリーンの観音扉が印象的なその野々瀬郵便局は、形西小学校の向かいに、県道伊奈ヶ湖公園線を挟んで立っています。

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風来りて土と成る~綿引健の生涯と西郡の人々~(ふるさとメール2021年4月15日号)

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明治29年大水害の記録 その1~水害タイムライン~(ふるさとメール2021年7月15日号)

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明治29年大水害の記録 その2(ふるさとメール2021年8月16日号)

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月の魅力~満ち欠ける姿に重ねた想い~(ふるさとメール2021年9月15日号)

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上宮地のキウイ栽培

 上宮地区内で果樹農家を営む野田家シュンゾウさんにお話を伺い、10月のキウイの収穫中の農園に案内していただきました。目の前に広がる農園を見渡すとたわわに実った、すずなりの「ゴールデンキングキウイ」。「ゴールデンキングキウイ」は黄色い果肉で酸味の少ない最近流行の品種、野田家では今から15年ほど前(平成17年頃)から生産しているそうです。


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原七郷の七種の商物に「塩」?~南アルプス市の名産をたどる~(ふるさとメール2022年2月15日号)

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真っ赤な種痘の接種済証

ひときわ目を引く真っ赤な紙。大正時代初期に行われた種痘(天然痘の)の接種済証です。
2期に分けて行われていた接種のうち、1期目の際に渡された証書はこんなに鮮やかな赤色だったようです。2期目は白い紙だったようですけれど、この1期目接種済証の真っ赤な色づかいが、江戸時代から続く疱瘡除けの習俗を彷彿とさせます。


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西野小学校榊小大正15年の運動会プログラム

大正5年の櫛形地区榊小学校運動会プログラムと大正15年の西野小学校運動会プログラム。昭和50年代くらいまでは10月10日、スポーツの日前後が多かったようです。


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塚原のおしゃぶきさん

「甲西町の今むかし」という1995年に甲西町文化協会が発行した冊子の中にある、「風邪治しの神様として信仰された大きな岩」で、地域の人たちから「おしゃぶきさん」と呼ばれた岩があります。
『その昔、悪い風邪が流行って塚原村の人々が苦しんでいると、働き者のおじいさんの夢に、お姫様が現れました。そして、「西の山の中腹にある大きな岩の前に葱が植えてあるの。それを持ってきて煎じて飲んでみてごらんなさい。 私の来たしるしに、岩の上に足跡を残しておくから。願い事のある時は、その足跡を小石でたたきながら祈ってね!」というような、お告げがあったそうです。
 翌朝、おじいさんが西の小高い山に登ってみると、はたして、葱の植わった大きな岩があり、足跡もありました。 そこで、夢のお告げにあったように小石でたたいてみると、木履(ポックリ)をやさしくたたいた時のようにぽこぽこと響いたのだとか。
 おじいさんは風邪が治りますようにとお祈りして、葱を持って帰って煎じて飲んでみると、三日ばかりで長く苦しんでいた風邪が良くなったので、葱を倍にしてお返ししたそうな。
 このことがだんだん広まり、お祈りする人が多くなったので、塚原村の人々は相談して岩の上に祠を立て、岩を岩永姫(いわながひめ)の化身と信じ、秋には感謝の祭りを行っていたそうです。(「甲西町の今昔」しゃぶきばあさんの項より〇博調査員の要約)』


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湯沢のおんとうじんさん

甲西地区湯沢の北沢川のほとりに、ひとつぽつんと、石造物(甲西町誌には載っていない)が立っています。


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各地を旅する舟乗り地蔵さん

南アルプス市甲西地区湯沢にある、お舟に乗ったお地蔵様。
こちらの「湯沢の舟乗り地蔵」については、平成7年に中巨摩郡文化協会連合会郷土研究部が発行した「中巨摩の石造文化財」にも取り上げられていて、そこには『安山岩製で高さ88cm、舟の長さ85cmで、水難守護・諸病平癒と祈願した。昔、旅をする時に、この地蔵にお参りして出発した』と記されています。
造立年は、舟の側面に銘があり、『享保四已亥年中 セ主湯沢村 塚原村』と記されています(岡野秀典氏『山梨県の岩船地蔵』 1999  山梨県考古学論集Ⅳ 山梨県考古学協会より)。このような御舟に乗ったお地蔵様は、「岩船地蔵」と呼ばれることも多く、享保四年(1719)造立のものが大多数です。岩船地蔵の造立は、享保四年に関東地方西部から中部地方東部にかけて流行した岩船地蔵信仰に由来するからです。


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防火水槽を跨ぐ火の見櫓

日本全国のどこにでも存在する火の見櫓(ひのみやぐら)は、各地域の住民たち自らが建てた防災施設の一つです。
江戸時代以前の古くから見張り台としての目的をもっていました。火災などの災害の早期発見をし、その上部に備え付けられた鐘を鳴らすことで地域に差し迫った危険を知らせたり、消防団員を招集するのに使用されてきたわけです。
地域の持ち物として、コミュニティの中心場にあることの多い火の見櫓は、まち歩きの際の重要なチェックポイントであるとともに、集落を象徴する景観の中に溶け込み一体化していることが多くあります。(甲西地区清水の火の見櫓※防火水槽上)
南アルプス市内にもたくさんの火の見櫓が点在しています。おそらくどれも昭和20~40年代に建てられ、使用されてきた火の見櫓がほとんどかと思われます。


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上宮地産キウイの選別から箱詰め

キウイは収穫作業後、選別・出荷作業へと入ります。こちらは集荷したばかりのキウイを重さで選別する機械です。収穫したばかりのキウイを一つづつチェックしながら、選別機の皿にのせていきます。


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地方病とたたかうポスター

「地方病とたたかうポスター」をご覧にいただきたいと思います。山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。
山梨県が製作したこの地方病予防広報・啓発ポスターを見出し部分から読んでみますと、『三百余年前から蝕ばまれ悩まされ続けて来た地方病 今こそ完全撲滅の絶好の機会!!県政の重大施策としてとりあげてここに三年、有病地の指定解除、宮入貝の減少、患者の著減等々成果は上々である。 この好期をおいていつの世に根絶することができよう、みんなで力を併せて一挙に駆逐するよう今一段の努力をいたしましょう。』とあります。
このポスターには製作年が記載されていないのですが、見出しの文面と、「現在実施している予防対策」の項にPCBという薬剤によるミヤイリガイの刹貝と、コンクリート溝梁化工事に年間一億のお金をかけている」といった文言があること、当該資料の含まれる資料群全体の年代構成からかんがみて、この地方病対策ポスターは、だいたい昭和30年代中頃に作られたものではないかと考えています。


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西郡の呉服屋さんで買えた雛人形

雛人形が入っている箱に地元の呉服屋さんの名前が記されていることがあります。当時の呉服店は、節句人形の販売代理店としての機能も担っていたようで、西郡地域の人々が飾ったお人形は甲府の雛問屋で作られたものに加え、鰍沢の春木屋などの商家を経由して入ってくる駿河で製作された人形も多く流通していたと考えられます。明治大正期に昭和初期頃の西郡の人々が人形を求めるときには、
① 甲府の雛問屋か鰍沢の商家に買いに行く。
② 甲府の雛問屋から「ひなんどー、ひなんどー」との掛け声で、安価な横沢雛を籠に担いでやってくる売子から買う。
③ 初節句の晴れ着などを購入するのに合わせて、近所の呉服屋で売っている人形を買う。
の3つの購入方法があったのだと思います。


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地方病と溝渠のコンクリート化

山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。この病を克服する作戦が本格的にはじまって、100年以上もかかったのです。


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南アルプス市の縄文人は、いつ、どこに?(ふるさとメール2022年4月15日号)

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山梨最古の桃とブドウは南アルプス市から~遺跡から見つかる果実~

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野牛島要助さんが日記に書いた天保騒動

8月24日は今から186年前の天保7年(1836年)、山梨県では天保騒動という大規模な騒乱のさ中で、ちょうど現在の南アルプス市域が被害をこうむった日です。
天保騒動は、江戸時代後期の天保7年(1836)8月17日に郡内白野村での百姓一揆からはじまった騒動です。しかし、山梨郡熊野堂村の米穀商打ちこわしという当初の目的を果たした郡内の百姓たちが帰村した8月22日頃になると、騒動に乗じて参加した無宿人らが暴徒化して、大規模な強盗集団となり、国中(甲府盆地内部の村々)を暴れまわって、甲州の人々を恐怖に陥れました。
八田地区野牛島中島家文書の中に、要助さんという当時名主を務めた人物の日記帳があります。
(八田地区野牛島中島家文書「去申用気帳」)


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昭和29 年と30 年の武川村萬休院舞鶴松と蚕雌雄鑑別のお嬢さん

これらのたいそう立派で見事な松の前で撮影された集合写真には、2枚ともに、「山梨県蚕種協同組合武川村分場鑑別記念」とあります。撮影年や撮影方向がちょっと違うようです。[昭和29年6月9日 山梨蚕種協同組合武川村分場鑑別記念(今諏訪手塚正彦家資料より)]


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桝形堤防史跡整備の歩み その5 ~水の世紀を生きる道標~(ふるさとメール2023年1月16日号)

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昭和8年御勅使川砂防工事実況

 昭和8年の御勅使川砂防工事の記念写真をご紹介します。砂防堰堤は流れる土砂を貯めて川の水の流れをゆるくしたり、土砂の流出量をコントロールして、一度に大量の土砂が下流に流れ出て災害を起こさないようにする役目を果たします。
 写真に見える昭和8年施工の第八号砂防堰堤は、『第八号砂防堰堤』という名称で、高さ2.5メートル、長さ96.7メートル、塩沢入口交差点北の南甘利山橋の東側下流に見える砂防堰堤です。ちょうど、御勅使川福祉公園の西端部にあたります。
 出来上がった砂防堰堤の上に座ったりもたれかかったりと、この写真にはざっと数えても150人以上の人々が写っていますね。
 大量の砂や石・セメントを運んだり、手練りでコンクリートを作るなど機械のほとんどなかった昭和初期には、たくさんの人と労力が必要でした。原七郷を含む地元住民の多くが工事労働に従事したそうです。この写真の見つかったお宅のある白根地区飯野でも、大正初期生まれの多数のご先祖様方が、写真の中にいらっしゃることでしょう。
[昭和8年度御勅使川砂防工事実況 (飯野中澤家資料より・南アルプス市文化財課所蔵)]


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南プスの岩船地蔵さんめぐり

芦安地区で大切に祀られている「お船地蔵さん」は、立派な木堂の中で他の石造物とともに赤い頭巾と前掛けをつけています。お堂前の急な階段を上って一番右端、前掛けの布の下をよく見ると、一躰だけ御舟の上にある蓮座に立っているので、すぐにわかります。「お船地蔵さん」の脇には丸石も置かれていて、この地蔵堂は甲州伝統の丸石信仰も見ることができます。
[1芦安地区芦倉237「お船地蔵さん」(令和5年12月14日撮影)]


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故郷に届いた出稼ぎ工女の葉書

明治終わりから昭和時代にかけて、県外の製糸場で働きに出ていたにしごおりの女性たち。市内にはそうした出稼ぎ工女たちが故郷に送った葉書が多く残っています。過去に西野村の相川ふくのさんという女性が明治31年から39年の間に武州入間豊岡町にあった石川製糸所から送った葉書をご紹介しましたが、今回は、今諏訪村の手塚家に30名ほどの村出身の女工が明治から昭和時代に掛けて送った80通もの葉書等を新資料として加えて、分析してみよう思います。
[明治41~45年埼玉・長野・山梨(諏訪村:現在の北都留郡上野原町)への出稼ぎ工女から届いた葉書(今諏訪手塚正彦家資料・南アルプス市文化財課蔵)]


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