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種別・テーマで選ぶ - 暮らし

野牛島バス停(前御勅使川)

 野牛島バス停の前の道、県道甲斐芦安線は御勅使川の古い流路で、「前御勅使川」、ちょっとなまって「まえみでえ」と呼ばれています。
戦国時代には御勅使川の本流であったと言われますが、明治31年に六科将棋頭の上流が締切られ、前御勅使川の歴史に幕が下ろされました。
昭和に入るとこの河原を利用し四間(約7.2m)道路が敷設され、戦後に開発が進み、現在への街並みへと変わっていきます。
写真は昭和12年頃の野牛島停留所前。旧河川に道路が作られた直後であり、河川の面影を見ることができる。

[画像:個人所有]

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県道甲斐芦安線(前御勅使川)

芦安から信玄橋へ通じる県道甲斐芦安線は御勅使川の古い流路で、「前御勅使川」、ちょっとなまって「まえみでえ」と呼ばれています。戦国時代、御勅使川の本流はこの前御勅使川だったと云われています。江戸時代から明治時代には、本流は現在の御勅使川に移り、増水時のみ水が流れていたようです。明治31年に六科将棋頭の上流が締切られ、前御勅使川の歴史に幕が下ろされました。昭和40年代ごろまでは旧河原の両岸に不連続の堤防、かすみ堤が残されていましたが、現在ほとんどの堤防は削平され、道路として利用されています。
写真は明治29年に起きた大水害後、堤防を復旧している様子が写されたもの。旧運転免許センター(野牛島)付近。

[画像:個人所有」


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矢崎家住宅

江戸時代前期の建物。甲府盆地西部では最も古い民家で、徳島堰を完成させた矢崎又右衛門のゆかりの家でもある。矢崎氏は江戸時代を通じ有力農民として有野村の名主を務めていた。市指定建造物。


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徳島堰

徳島堰は韮崎市上円井(かみつぶらい)で釜無川から取水し、南アルプス市曲輪田新田(くるわだしんでん)まで約17kmを結ぶ灌漑用水路。

江戸時代の寛文5年(1665)江戸深川の徳島兵左衛門(とくしまひょうざえもん)によって開削が始められた。
2年後には曲輪田まで通水に成功するが、大雨によって二度堰が埋没すると兵左衛門は事業から手を引き、その後甲府藩が事業を引き継ぐ。
甲府城代から堰の復旧工事を命じられた有野村の矢崎又衛門(やざきまたえもん)は、私財を投じて工事に取組み、寛文10年に工事が完成し,翌11年に「徳島堰」と命名された。
堰の開削によって耕地が広がり、曲輪田新田や飯野新田、六科新田など新たな村々が開かれるなど、水不足に悩む地域に多大な恩恵がもたらされた。
現在でも徳島堰の水は、水田だけでなくスプリンクラーに導水され、市内の桃やさくらんぼを潤し、フルーツ王国南アルプス市を支えている。


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将棋頭(六科水田)

将棋頭は、その名のとおり将棋の駒に見立てられた石積みの堤防で、国の史跡に指定されている。武田信玄が築堤し、御勅使川の流れを分流したと伝えられてきたが、史料的裏付けがなく初現は不明である。


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不連続堤

途切れることなく一直線に延びる堤防。洪水から人々や町を守る堤防がこうした姿であることは現在では当たり前ですが、少なくとも江戸時代から明治時代の堤防では、途切れ途切れの姿が普通でした。この不連続の堤防は明治時代ごろから「霞堤」と呼ばれるようになります。
御勅使川の堀切橋付近を見てみましょう。前御勅使川に比べると、堤防と堤防の間、つまり遊水地が広く確保されています。増水した時には途切れた部分から水を逆流させ、一時的に水を蓄える機能も果たしていたと考えられます。このように霞堤は、先人の長い経験を踏まえながら「あふれる」ことも考えて造られた堤防でもあるのです。


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能蔵池

湧き出た御勅使川の伏流水をせき止めて造られたため池。池には赤牛の神様が住むといわれ、赤牛が村人に椀や膳を貸してくれる昔話が今に伝えられている。中島には水神でもある弁才天が祀られている。


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アヤメが丘団地(六科丘遺跡)

丘を削平して新たに誕生した住宅街で、昭和58年、開発に伴い発掘調査がおこなわれました。今から約1700年前の弥生時代終末~古墳出現期のムラの跡です。二つの河川に挟まれた舌状台地は先端で丘状に高まり、その丘の南西面に竪穴住居が建てられており、同じ舌状台地上でも長田口遺跡と向き合う位置関係となります。約25,000㎡を対象とした発掘調査ではほぼムラの全貌が調査され、33軒の竪穴住居が発見されました。

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桝形堤防

徳島堰の工事にとって最大の難所は、川幅の広い御勅使川の横断であった。完成当初は溝を掘り板で堰きとめる「板関」と呼ばれる開渠で通水していたが、少なくとも18世紀初頭には木製の埋樋(暗渠)に変更される。幕末頃には暗渠の壁が石積みとなり、明治から大正時代に入ると粗石をアーチ状に積む「眼鏡」と呼ばれる工法に改修される。
六科村や野牛島村は、その立地から御勅使川の河原の中で暗渠となっている徳島堰を一度開口して取水しなければならず、増水時にその取水口を守る将棋の駒の形をした堤防が枡形堤防である。取水された水は後田堰を通して六科将棋頭の中に導水され、水田に利用されてきた。
平成26年10月6日に国指定史跡に追加指定されました。


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芦安堰堤

芦安堰堤アーチ式工事写真。大正14年7月23日撮影。

[画像:個人所有]

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源堰堤

大正9年に竣工。高さ7m、長さ109.1mある大型の堰堤。芦安、藤尾堰堤とともに現在でも大正期の姿をとどめている数少ない堰堤のひとつ。芦安堰堤と並び、「御勅使川治水の双璧」と呼ばれていた。現在でも私たちの生活を支えている。

[画像:個人所有]

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了円寺

徳島堰を作ったの徳島兵左衛門ゆかりのお寺。兵左衛門夫妻のお墓もある。当時このお堂にもロタコ工事で朝鮮人労働者が寝泊りしていた。


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大塚遺跡

(写真は山梨県立考古博物館所蔵)


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石橋北遺跡

野牛島・大塚遺跡、野牛島・西ノ久保遺跡と隣接した遺跡で、奈良・平安時代から中世までの集落跡が発見されている。とくに注目されるのは、中世の遺構である。13世紀の竪穴建物2軒、14世紀代の幅約4mで東西に走る両側に側溝をもつ道路跡やそれに並んで区画溝が発見されており、この時期に計画的な土地開発が行われた可能性が指摘されている。また16世紀後半の土坑墓も発見されており、この地域が墓域へ移り変わった変遷も明らかとなっている。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)

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立石下遺跡

平安時代の集落跡。13軒の住居跡や炭焼窯が発見された。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)

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百々・上八田遺跡

平安時代から中世の集落跡 調査では80個体を超えるウマ・ウシの骨が出土し、「八田牧」の存在を彷彿させ、ウマの存在が甲斐源氏活躍のを裏付ける。
写真は 炉から出土したタイの堆骨(縄文時代後期)


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榎原・天神遺跡

前御勅使川右岸に立地する。平安時代~中世の集落跡。10世紀代の竪穴式住居跡が2軒発見された。またウマの歯が出土した中性の区画溝跡も見つかっている。


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坂ノ上姥神遺跡

御勅使川扇状地上に3遺跡が隣接している。縄文時代後期や古墳時代後期、奈良・平安時代から中世まで複数の時代に渡る遺跡である。特に縄文時代後期の敷石住居跡の炉から鯛の堆骨が発見され、海産魚を食料とした県内最古級の資料として注目された。奈良・平安時代では多数の住居跡や溝跡も発見されており、溝からは馬の歯も出土した。

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野牛島・大塚遺跡

奈良・平安時代から中世までの集落跡。奈良・平安時代の住居跡は現在の甲西バイパスより西側に広がるのに対し、中世の溝跡や土坑墓はより能蔵池に近いバイパスの東側を中心に発見されている。野牛島集落の発祥は能蔵池北側であるとの伝承があるが、遺跡の調査結果からその伝承は中世以降能蔵池周辺に集落が移動した後の状況を伝えていると考えられる。写真は平安時代の住居跡。


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長田口遺跡(西地区多目的広場・広域農道)

漆川と深沢川とに挟まれた舌状台地上、標高約440mに立地しています。
これまで、広域農道建設、ほたるみ館建設、多目的広場駐車場建設の3地点(計約12,600㎡)で発掘調査を実施し、縄文時代中期の竪穴住居跡9軒以上、弥生時代~古墳時代の竪穴住居跡80軒以上が調査されており、この2時期を中心とした複合遺跡といえます。

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鋳物師屋遺跡

 市之瀬台地の縁に近い扇状地にある縄文時代中期中葉(約5000年前)のムラの跡で、直径130メートルの範囲に32軒の竪穴建物跡(隣接する〆木遺跡を含む)が発見されました。
 住居は真中に広場をもってドーナツ状に分布して建てられていきました。
 膨大な量の土器が発見され、日用品から祈り事用とみられるものまであり、205点の出土品が国の重要文化財に指定されています。
なかでも、「円錐形土偶」、「人体文様付有孔鍔付土器」は、当時の精神文化を知る貴重な資料であり、世界中の博物館で紹介されました。

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新居田A遺跡

ほたるみ館(長田口遺跡)とあやめが丘(六科丘遺跡)とを結ぶこの道路周辺は新居田A遺跡と呼ばれ、平成12年の道路拡幅工事の際には発掘調査が実施されています。
道路西端では長田口遺跡の集落と同じ集落とみられる縄文時代中期前半の竪穴建物跡と、弥生時代終わりから古墳時代の竪穴建物跡が発見されました。また、畑の畝とみられる遺構も発見されました。
六科丘遺跡に程近い、調査区中央付近では縄文時代中期の住居跡がポツンと一軒だけ離れて確認されました。
どういった性格の建物なのかは今後の調査で判明できることでしょう。


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新居田B遺跡

 漆川のすぐ上、崖線にそってある遺跡で、平成13年に農道の建設工事に伴って発掘調査が行われ、縄文時代中期から古墳時代初頭の住居跡が発見されています。
 この一帯でも、特に漆川を望む崖線際に縄文時代晩期の営みの跡が発見されます。 


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中畑遺跡

 櫛形西地区多目的広場の建設に伴って平成14年に発掘調査が行われました。
 縄文時代前期前半(約6,000年前)という市内で最も古い住居址群が発見されています。その他、縄文時代中期から後期、晩期、弥生時代中期から古墳時代初頭までの集落など、連綿と人々の暮らしが営まれていたことがわかりました。

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宮沢中村遺跡

 現甲西バイパス・中部横断道の建設に伴って平成6・7年に発掘調査が行われました。
 古代から近世のムラの跡が発見され、鎌倉時代の水田を守るために築かれた護岸用の網代や、洪水の土砂で埋まりながらもそのつど復旧し、水田やムラを守り続けてきた人々の逞しさを知ることができる調査成果となりました。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)


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油田遺跡

平成5・6年発掘調査実施
現甲西バイパス・中部横断道
弥生時代から平安時代のムラの跡
弥生時代中期の地震の痕跡や古墳時代後期の祭祀跡、平安時代の水田跡などが発見され、弥生時代から連綿と生活が営まれていたことがわかります。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)


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向河原遺跡

水の豊かな湧水地帯を利用して営まれた、弥生時代から江戸時代までの水田跡が発見されています。
 水田は、現在と比べ非常に小さく、畦で囲まれた一枚の水田は最大でも6m×5m程度でした。
当時の技術では広大な面積を整地するのが困難だったのです。
わずかな地形の勾配にも苦労しながら、新天地を開墾していった弥生人の姿が垣間見られます。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)


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高尾集落

新コース「8神々が宿る高尾の世界」の「高尾集落」ページはこちらから↓

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 櫛形山中腹の標高約800m~900mに立地する集落です。

かつては「鷹尾」と表記されており、これは、昔、日本武尊が酒折の宮から櫛形山を眺め、鷹が巣に座している姿に見えたことから「鷹座巣山」と呼ばれたという伝承によるもので、尾の北側にある集落を「北鷹尾」、つまり現在の「高尾」地区と呼ぶようになったと言い伝えられています。ちなみに南高尾は平林地区(現富士川町)です。



 集落の西端には式内社に推定される穂見神社が佇み、東南方向に傾斜し眺望が開ける位置に広がります。
 江戸時代を通しておおよそ20戸前後があったとされ、林業が盛んとなった昭和の戦後まもなくにかけては最も戸数が多く、30戸を超えていました。
 写真は昭和33年頃の様子です。静けさの中にも子供たちの声が聞こえてきそうな昔懐かしい「高尾」の風景です。

[画像:個人所有]

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重要文化財 安藤家住宅

安藤家住宅は約300年前の建物で、国の重要文化財に指定さています。江戸時代は西南湖村の名主を務めた旧家で、現在まで一度も火災に合うことなく、往時のまま保存されています。
西南湖の集落の中心にありながら、一歩踏み入れた瞬間、静寂に包まれた癒しの空間です。茅葺屋根の江戸時代の豪農の暮らしを今に伝えます。是非ご体感ください。


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青野集落跡

高尾集落と市之瀬台地とを結ぶ古道、上宮地道・平岡道を下ると、その行程のおおよそ半分で急きょ視界の開ける広い空間が現れる。
ここはかつて青野集落という集落があった場所で、厳密には上宮地(かつての上宮地村)の一部といえる。
現在はその広大な土地を活かし、牧場として活用されている

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山の暮らし

高尾集落は、
穂見神社の神前に広がる集落であるとともに
山と共に生きた集落といえます。

高尾には、魅力ある山の暮らし 魅力ある伝統がありました。
かつては「西を向いて」暮らし、
戦後は「東を向いて」暮らしたと言われるように、
かつては山とともに生き、林業や、炭焼き、天然氷などの生業が行われていました。


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御北穂坂家住宅主屋(国登録文化財)

【国登録文化財】
高尾集落のうちもっとも穂見神社に近い二軒のうちのひとつで、江戸期の絵図に「名主」と記されている家である。
 当家は古くから穂見神社の鍵を保管し、御北(オキタ)と呼ばれ、高尾集落で御の字がついて呼ばれる家は当家とすぐ西に隣接する御西と呼ぶ家だけである。
(画像は県)


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昔の山のくらし

古から現代まで、芦安のくらしは山とともにあった。芦安の主要な生業は昭和30年代頃まで林業で、男性は野呂川などの奥地に入り、泊まり込みで木材の伐採から搬出を行い、冬期には炭焼きなどを行ってきた。女性は日用品を男性に届け、帰りには約40kgもある炭俵などの生産物を里まで運搬した。里近くの山の斜面では明治期まで焼畑が行われていたが、現在では集落名「曽利」にのみその面影を留めている。村田銃を使った熊や鹿、カモシカなどの狩猟も盛んで、カモシカ猟のパートナーとして甲斐犬が活躍した。

[画像:個人所有]

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一つ目小僧

木こりの太郎助は、村の衆と山小屋に泊まり込んで山仕事をしていました。12月のお松節句の頃(13日)になると、仲間はいつものように正月準備のため村へ帰ることにします。しかし働き者の太郎助は、もっと稼ごうと1人残ることにしました。村の衆がいなくなった山の中はうって変わって静かになり、夕闇が深くなるにつれ、太郎助は心細くなりました。仕事もそこそこに山小屋に引き上げてきたところに「オーイ」と呼ぶ声。誰かと思い外に出てみると、そこに立っていたのは満月のような目が一つ、口は耳元まで裂けた一つ目小僧でした。恐ろしくて震え出した太郎助は、勇気を振り絞り、燃えさしを怪物の目玉めがけて投げつけます。すぐに鍵をかけ、布団にもぐり込んで、怖さに震えながら一夜を明かすと、朝、一目散に村へ逃げ帰りました。その後、あまりの怖さから太郎助は亡くなってしまいました。村の人々は欲張りの太郎助を一つ目小僧が懲らしめたのだと言ったそうです。

 太郎助を「欲張り」と決めつけるのはなんだかあわれな感じもします。「働き者」であった太郎助は、なぜ一つ目小僧のために死んでしまうことになったのでしょうか。それを解く鍵は誰もが知っている「一つ目小僧」にあります。
 関東周辺で一つ目小僧が現れる日は実は決まっていて、12月8日と2月8日前後に集中します。沓沢でも師走の他に2月3日節分の日にも一つ目小僧が現れると信じられ、今でもバリバリの木の枝に鰯の頭を刺したものを魔よけとして玄関に飾っています。この信仰は「コト八日」と呼ばれる民間信仰で、古くから日本各地で行われていました。各地でさまざまな言い伝えがあるため、ひとくくりにはできませんが、この日は神様が移動する日とも考えられ、それゆえ人は神の姿を見ないよう家にこもり、物忌みする地域も多いのです。
 12月13日に山仕事をせず、正月支度をする沓沢の風習は「コト八日」の慣習の一つであったのでしょう。太郎助が一つ目小僧と出会ってしまったのは、12月13日には山仕事をしないという古い約束事を破ったからなのです。一つ目小僧の昔話は山とともに生き、山の神を信仰してきた沓沢の人々の伝統を今に伝えています。
 ちなみに、この一つ目小僧、小正月に行われるどんど焼きにも関係しています。沓沢の言い伝えによれば、12月末に悪神がやってきて、病気になる人を帳面に付けます。その帳面を悪神は正月の間、道祖神に預けますが、村人を守る道祖神はそれをどんど焼きで燃やしてしまい、村人の1年間の健康を保証するのです。別の地域では一つ目小僧を悪神とする例が多く、沓沢でも「一つ目小僧=悪神」であったとも考えられます。

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高砂渡し

昭和7年にコンクリート製の旧信玄橋が開通するまでは、上高砂と龍王を隔てる釜無川を渡るには、「高砂渡し」と呼ばれる渡船を利用する必要がありました。ただし、渡しが運航するのは5月頃から12月中旬までで、水の少ない12月から4月までは仮橋がかけられていました。

[画像:八田村誌]


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すむじ街道

八田地区にある高砂の渡しから韮崎方面へとまっすぐ北西に伸びる道をすむじ街道といいます。
甲府市街から武川、信州方面へ通じる甲州街道とは別に南側のルートをとる裏街道でした。


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矢崎家住宅

有野の故矢崎徹之介氏の居宅で、甲府盆地西部では最も古い民家である。建てられたのは、江戸時代初期、寛文以前の建築である。
矢崎氏はもと青木氏の出で、武田信玄公の時代に有野に所領を得て、信州からここに移った地侍であった。その後、江戸時代を通じ有力農民として名主を勤めている。
広い屋敷内には南に長屋門を構え、母屋の西北に文庫蔵が続き、北側にも大きな土蔵がある。
古さの見どころは、13本残っている柱にハマグリ手刃の跡が見られること、屋根裏の小屋組は当初のままで、小屋東に貫が離れて交わっていることなどである。


所在地/南アルプス市有野1204
所有者、管理者/個人
指定年月日/昭和53年2月16日
備考/


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十日市跡

所在地/
所有者、管理者/ 加賀美・法善寺
指定年月日/ 昭和46年1月28日


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八田御牧(はったのみまき)から八田庄(はったのしょう)へ(ふるさとメール2007年8月1日号)

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鎌倉時代の開発集落 大師東丹保遺跡(だいしひがしたんぼいせき)1(ふるさとメール2007年8月15日号)

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鎌倉時代の開発集落 大師東丹保遺跡(だいしひがしたんぼいせき)2(ふるさとメール2007年8月31日号)

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むかし飛行場があった ~ロタコ(御勅使河原飛行場)~ ②八ヶ岳に向かいまっすぐ延びる滑走路(ふるさとメール2008年8月1日号)

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むかし飛行場があった ~ロタコ(御勅使河原飛行場)~③横穴壕(よこあなごう)(ふるさとメール2008年8月15日号)

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むかし飛行場があった ~ロタコ(御勅使河原飛行場)~④町のいたるところに見られるロタコの痕跡(ふるさとメール2008年9月1日号)

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流転の村 ~釜無川の流れに翻弄された浅原村~①(ふるさとメール2008年9月12日号)

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流転の村 ~釜無川の流れに翻弄された浅原村~②(ふるさとメール2008年10月1日号)

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近代水害の記憶 明治29年の大水害と前御勅使川の終焉(ふるさとメール2008年10月15日号)

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御勅使川扇状地の生命線 石積出(いしつみだし)(ふるさとメール2007年12月29日号)

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近代の治水技術 芦安堰堤と源堰提(ふるさとメール2008年10月31日号)

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一つ目小僧がやってくる ~芦安沓沢の昔ばなし~(ふるさとメール2008年12月15日号)

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竹蛇籠 ~現代に残る伝統の治水の技術~(ふるさとメール2009年1月1日号)

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南アルプス市と天井川 (ふるさとメール2009年5月15日号)

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南アルプス市と天井川 その2 (ふるさとメール2009年6月15日号)

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南アルプス市と天井川 その3(ふるさとメール2009年7月15日号)

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学校日誌にみる南アルプス市のアジア太平洋戦争 (ふるさとメール2009年8月14日号)

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能蔵池 赤牛のわん貸し伝説 (ふるさとメール2009年10月15日号)

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小正月に行われる伝統行事-どんど焼き- (ふるさとメール2010年1月15日号)

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西野にあった江戸時代の手習所 ~松声堂~ (ふるさとメール2010年4月15日号)

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御勅使川扇状地の物語 ~1.御勅使川と集落~ (ふるさとメール2010年6月15日号)

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橋は世につれ世は橋につれ(2)(ふるさとメール2012年8月15日号)

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橋は世につれ世は橋につれ(3)(ふるさとメール2012年9月14日号)

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橋は世につれ世は橋につれ(4)(ふるさとメール2012年10月15日 号)

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橋は世につれ世は橋につれ(5)(ふるさとメール2012年11月15日号)

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重要文化財 安藤家住宅の棟札(むなふだ)(ふるさとメール2012年12月14日号)

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近代和風建築に命を吹き込む(2) ~デイサービスセンタースマイル~(ふるさとメール2013年2月15日号)

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ミクロの世界から見た扇状地の食生活 (ふるさとメール2010年7月15日号)

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野呂川話 ~長い長い水を求めた物語 第一幕 江戸時代~(ふるさとメール2013年8月15日号)

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野呂川話~長い長い水を求めた物語ー第二幕明治時代~(ふるさとメール2013年9月15日号)

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野呂川話~長い長い水を求めた物語ー第三幕大正・昭和時代~(ふるさとメール2013年10月16日号)

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野呂川話 ~長い長い水を求めた物語-第四幕 昭和20-40年代~(ふるさとメール2013年11月15日号)

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水を求めた扇状地の人々 ~雨乞いのパワースポット大笹池~ (ふるさとメール2010年11月15日号)

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御勅使川扇状地の物語 ~扇状地で培われた西郡魂~ (ふるさとメール2010年12月15日号)

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水防費分担金訴訟の顛末(てんまつ) ~その1~(ふるさとメール2014年8月15日号)

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水防費分担金訴訟の顛末(てんまつ) ~その2~(ふるさとメール2014年9月16日号)

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水防費分担金訴訟の顛末(てんまつ) ~その3~(ふるさとメール2014年10月14日 号)

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水防費分担金訴訟の顛末(てんまつ)その5~控訴審(ふたたび)から大審院(最高裁判所)へ~(ふるさとメール2014年12月15日号)

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水防費分担金訴訟の顛末(てんまつ)(最終回)(ふるさとメール2015年1月15日号)

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縄文の話をしましょう その1~土器の穴ぼこが教えてくれる縄文の食~(ふるさとメール2015年10月15日号)

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縄文の話をしましょう その2~土器の穴ぼこが縄文の醸造説を後押し!~(ふるさとメール2015年11月16日号)

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「根方」の魅力①~その物語を始める前に~ (ふるさとメール2011年1月13日号)

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根方の魅力②~南アルプス市最初の定住者 (ふるさとメール2011年2月14日号)

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根方の魅力③~中畑遺跡が教えてくれる南アルプス市最初の定住生活 (ふるさとメール2011年4月15日号)

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根方の魅力⑤~自然との共生を祈るムラ「北原C遺跡」(前半) (ふるさとメール2011年6月15日号)

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水防費分担金訴訟の顛末(てんまつ) ~その4~(ふるさとメール2014年11月14日号)

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根方の魅力⑥~自然との共生を祈るムラ「北原C遺跡」(後半) (ふるさとメール2011年7月15日号)

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根方の魅力⑦~絶景の地に王は眠る~ (ふるさとメール2011年9月15日号)

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南アルプス市を訪れた人々(4)東山魁夷(ふるさとメール2016年12月15日号)

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根方の魅力⑧~市之瀬台地の「市之瀬」って? (ふるさとメール2011年10月17日号)

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根方の魅力⑩~高尾穂見神社と村々の祈り(下) (ふるさとメール2011年12月15日号)

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安藤家住宅の玄関から見る歴史 (ふるさとメール2012年3月15日号)

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橋は世につれ世は橋につれ(1) (ふるさとメール2012年7月13日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(1) 櫛形西小学校の取り組みから(ふるさとメール2017年2月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(3) 掘り起こすということ(ふるさとメール2017年4月14日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(4) まちをめぐり建て物も掘り起こす(ふるさとメール2017年5月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(5) 正しい価値を掘り起こし、育むサイクル(ふるさとメール2017年6月15日号)

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飯野若宮神社のお灯籠祭り ~道祖神と境界の祭り~ (ふるさとメール2017年9月15日号)

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古市場若宮八幡神社と神楽 ~弥生時代から続く土地の力~ (ふるさとメール2017年10月14日号)

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俳人「福田甲子雄」にみる南アルプス市の風土(一) (ふるさとメール2018年3月15日号)

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俳人「福田甲子雄」にみる南アルプス市の風土(二) (ふるさとメール2018年4月13日号)

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何気ない街角に歴史あり(その1)隧道(ずいどう)の記憶 (ふるさとメール2018年5月15日号)

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何気ない街角に歴史あり(その3)村落移転の記憶を伝える道祖神 (ふるさとメール2018年7月13日号)

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何気ない街角に歴史あり(その4)道路が、家の敷地より高いところにある源地区の街角 (ふるさとメール2018年8月15日号)

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何気ない街角に歴史あり(その5)旧荊沢宿の「かねんて」 (ふるさとメール2018年9月15日号)

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何気ない街角に歴史あり(その6)御勅使川扇状地東端部の崖線 (ふるさとメール2018年10月15日号)

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つけえば

西地区有名計画のパンフレット(櫛形西小学校6年生作成)

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上市之瀬の道祖神

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平岡公会堂

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野之瀬の郵便局

西地区有名計画のパンフレット(櫛形西小学校6年生作成)

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櫛形西小学校

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塩屋さん

上市之瀬集落は、現在の県道伊奈ヶ湖線に沿って広がっているが、この道は、今から約300年以上前の元禄時代に、集落移転に伴って新たにつくられたもので、道に面して短冊状に敷地が配置された。
その入り口は、妙了寺を避けるようにクランク状の道が配されていた。
この商店はその角に位置しており、現在の店主で3代目になる。
乳牛を飼育したりしながらも、前時代を通して塩を販売しており、「塩屋」と呼ばれる。

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何気ない街角に歴史あり(その2)樋門(ひもん)の記憶(ふるさとメール2018年6月15日号)

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江戸時代、御勅使川扇状地の畑作文化(ふるさとメール2010年8月13日号)

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源の水路に設けられた蚕具洗い場

 有野に遺る蚕具洗い場は、現在は使われていませんが、今も人々が行き交う道脇の水路にあります。白根地区内でも特に養蚕が盛んだった有野では、棚や飼育篭など比較的大きな蚕具でも洗いやすいように、水路から水を引き込む洗い場がコンクリートで広めに区画されています。


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昭和11年の中島商店通帳

これは、昭和11年の通帳(かよいちょう)です。
この通帳は野牛島にある中島商店で発行されたものでした。
現在でも、少量ずつですが、魚やお肉、野菜、果物、お菓子に日用雑貨、子供向けの駄菓子もありますし、電化製品だって売っています。
毎日開いているし、まさに地域に不可欠な商店です。


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上高砂の道標

上高砂集落内の小さな交差点に道標あります。

「左甲府」とわかるのですが、「右???」が読めません。 
道標に和紙をのせ、拓本を取ってみると、「左 甲府」「右 小笠原」と読めました。(「原」の字の半分がアスファルトに埋まっています)
 しかし、今ある位置では方向が違うので、別の場所から移動してきたとわかります。上高砂地区でご存知の方を探して教えていただきましたところ、新しい道標を建てたために不要になったのでこの地に運んできたとわかりました。
その場所とは、龍王から信玄橋をわたって上高砂地域にはいり、左側にあるスーパーオギノの手前を入る道の隅(上高砂の消防小屋の前)でした。
現在建っている道標を読むと、「昭和4年3月17日に御影消防団第三部建」とありますので、その時からこの場を離れ、いまは上高砂集落内にひっそりと佇んでいたのです。
地図で見ると、釜無川を渡って旧道が下高砂方面に曲がる当たりの南側にあたり、位置的にも方向的にも矛盾がないことを確認できました。
長い間路傍にあり、多くの人々の旅の安全を守りながら役に立ってきた道標を、新しいものができたからといってそのまま打ち捨ててしまうことができなかったのでしょう。
当時の上高砂の人々の心情が時を超えて伝わります。


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諏訪神社のハト瓦

野牛島の諏訪神社の屋根には、美しく高く積み上げられた棟にハトが向かい合ってとまっています。
遠目でみると本物に見えます。さらに、曲線の瓦の絶妙な配置が高く美しい棟を形作っています。
 八田の榎原地区には昭和時代に製瓦業を営んでいた中沢瓦店がありましたから、輸送コストがあまりかからない分、ふんだんに瓦を使った贅沢な屋根が多い地域なのかもしれません。
この鳩瓦も中沢瓦店で作られたものかもしれません。


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杉山定平商店

杉山定平商店は、榎原の長谷寺に続くバス通り沿い、榎原上のバス停前にありました。

平成10年ごろに閉店したお店ですが、昭和時代のはじめから終わりまで、地域の多くの人々が、日常的に利用した思い出深い場所です。
 経営者だった杉山定平さんの奥さんの杉山つるこさん(大正8年生)を訪ね、貴重な写真を見せていただきながらお話を伺いました。
こちらの写真の左端で赤ちゃんを抱っこしているのが30代になったばかりのつるこさんです。

[画像:個人所有]


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清水池

ここは南アルプス市榎原660にある清水池(しみずいけ)です。

水神さんも祀ってあります。でんでん山を八雲神社方面に降りていく道の途中の左側竹藪の手前にあります。清水池は榎原地区の重要な湧水ポイントで古くから水の乏しいこの地区の人々に、その貴重な水が利用されてきました。
現在は湧水量が減ってしまったため唯の水たまりのようにみえます。
しかし、この地の先人たちが代々利用してきた重要な場所として、今は地区の方々がこのような囲いを作って、水神さんとともに大切に守っています。


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飯野のそろばん教室

白根地区飯野に、昭和30年代から開塾しているそろばん教室に資料を見せていただきにまいりました。

そろばん教師の相川さんは全国的な和算の研究会にも所属され、そろばんに関するありとあらゆる資料を収集されている有名な方です。
かつて習い事は「お習字かそろばんか」という時代が長く、そろばん教室が各地で盛んに開かれてました。
相川さんのお話によると、明治以降に東京などの都会に出て一旗揚げたいという人も、まずは「読み書きそろばんを身に着けてから」でないと話にならなかったとのこと。
戦後も個人で使える電子計算機のなかった時代、金融機関でも行員がそろばんを使っていた昭和30年代には、複数の場所に教場を持っているような大手のそろばん塾が現在の南アルプス市内に5~6軒ほどもあったそうです。

昭和50年代になり、ピアノや水泳など習い事の選択肢が増えたきたころから、そろばん教室の状況はかなり変化してきたようですが、相川さんが開いていらっしゃる飯野にある珠算学院には、現在も小学生を中心に生徒さんが元気よく通っていらっしゃるとのことでした。


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飯野の雛人形

南アルプス市飯野のあるお宅から90年ほど前の雛人形をご寄贈くださるとの連絡があり、受け取りに伺いました。

奥様が、私たちに見やすいようにと、二十年ぶりに雛たちを箱から出して飾ってくださっていました。
左奥の昭和初期製作と考えられる御殿飾り雛(ごてんかざりびな)は、奥様が韮崎市からお嫁にいらした時に、彼女のお母さまが家にあったお雛様を飯野家への嫁入りに持たせてくれたものだそうです。


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六科の百貨店「だるまや」

八田地区内の、野牛島なら中島商店、徳永は手塚ストアー、下高砂は杉山商店、榎原は杉山定平商店といったように、それぞれの居住地域には日々のお買い物をする店が必ずありました。

さらに、昭和時代を生きた八田・白根地区の人が、口をそろえて買い物にいったことがあると答える店が六科にありました。その名は「だるまや」。
食料品、日用品をはじめ、衣類や薬など何でもそろう、この辺りでは一番規模の大きい商店だったようです。

[画像:個人所有]


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野之瀬大火災

昭和24年4月8日
この日は妙了寺の春祭り
 
午後、催しものの合図で上げた花火の不発花火が竹藪に落下し、
爆発、火災が発生した
強風にあおられ茅葺屋根に引火、
瞬く間に野々瀬集落および近隣地域までに拡大し
大火災となった。

その時の様子を表した野々瀬村火災状況図。
[個人所有]  

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三菱レオ

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中野の棚田

昭和30年代の田植えの様子。

[画像:個人所有]


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石丸銀行

明治以降の産業勃興により、資金調達のための銀行が市内各地に興りました。
明治の中頃、榎原の石丸真吾作も、資本金1万円で、自宅に「有限責任石丸銀行」を創始し、大正時代にわたり営業しました。
しかし繭価の暴落等による農村不況により、昭和初期までに、石丸銀行も含むそのほとんどが倒産しました。

[画像:八田村誌]

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四間道路

明治31年に石縦堤とよばれる堤防が築かれ、ふだんは水のないのに、増水時には暴れ川と化していた前御勅使川は封鎖されました。
 四間道路は、その前御勅廃河川路を昭和5年に主要道路として整備、開設したものです。当初は、河原の真っただ中を広い砂礫の道が延び、両側には月見草が咲き満ちていたそうですが、四間道路の開通により、その両脇にはみるみる桑園や梅園などの耕地が広がっていきました。

[画像:個人所有]

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幻のオート三輪~人と人がつながり50年ぶりに中野を走る~(ふるさとメール2018年12月14日号)

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小正月の風物詩 下市之瀬の獅子舞(上)(ふるさとメール2019年1月15日号)

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ひしけいさんの問屋そろばん

「ヒシケイさん」と呼ばれて地域に愛され、現在も飯野で開業している街の文具屋さんですが、その前身は自転車の販売店でした。

当時を知る斉藤さん、中澤さんにその頃の様子を伺ったところ、昭和20年位(終戦直後)までは地域で一つしかない自転車屋さんだったそうです。
その時、自転車を購入したお客さんに、おまけとして「ゼブラの自転車 ヒシケイ分店 飯野驛北」の名入りの問屋そろばんを配っていました。


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猩々の人形と疱瘡神

 西南湖にある重要文化財安藤家住宅で行われる「安藤家住宅ひなまつり」では、貴重な横沢雛が飾られます。
甲州で明治大正期に多く作られた横沢雛には童子をモデルとした人形が一番多いのですが、他に、成人女性や男性、妊婦、長生きの象徴としての老夫婦、七福神などの神様などモチーフに多くのバリエーションがあります。

 その中でも、ひときわ異質なのが、赤い髪の中国の伝説の妖怪、猩々(しょうじょう)のお人形がです。
猩々は、能の演目にも真っ赤な装束で登場する中国の伝説上の生き物のことで、赤毛で人間のような容姿をしており、酒を好むとされます。
また、赤いものを嫌う疱瘡神を追い払うという伝承もあり、子供の健やかな成長を願って送られたものと思われます。


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ウェブサイト「〇博アーカイブ」の発信~地域の歴史資源を掘り起し伝える仕組み~ (ふるさとメール 2019年4月15日号)

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山梨のお盆と安倍川餅(ふるさとメール2019年8月15日 号)

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南アルプスブルーの歩み~藍色の広がり~(ふるさとメール2019年9月17日号)

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南アルプス市妖怪の世界~風土が培う信仰の足跡~(ふるさとメール2019年10月15日号)

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節分の「鬼の眼」とイワシ

甲州では節分が近くなると、屋根より高いところに、「手すくい」と呼ばれる麺類をすくう竹製の道具や目の粗いザルに、とげとげの葉をもつネズミサシの枝を一緒にくくりつけます。かごの目は鬼の眼であり、今後起こりうる悪いことの「芽」にも見立てています。この目をたくさんつぶすと、一年の災いが減少するという信仰があります。人々はこの「鬼の眼」に向かって「鬼のまなこをぶっつぶせ~」と大声で唱えながら炒った大豆を投げます。


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整然としたまちなみ ~市内にひろがる条里型の地割~(ふるさとメール2020年5月15日号)

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南アルプス市の道祖神さん(ふるさとメール2020年2月15日号)

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花粉採取作業

4月には、さくらんぼの授粉用花粉を集めるための花摘みが行われます。
花を摘んだ後は、農協の施設内にあるにある葯採取機(やくさいしゅき)を使って花から花粉だけを取り出します。
花粉はダチョウの羽を使ってサイドレス(雨除け施設)内に植えられた、高砂・豊錦、佐藤錦、紅秀峰など様々な品種の樹に授粉されます。

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上今井の天神の井

「天神の井」は、豊村誌と櫛形町誌によると、『別名「七ツ池」とも呼ばれ、昔、天神様が七才の童子の夢枕に立ち、その教えに従って之を掘った。後に天神宮を祀って天神の御手洗となった。この水は旱魃にも涸れることがないと言われる。』と記載されています。

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上今井稚蚕飼育所

南アルプス市内を巡っているコミュニティバスの停留所のひとつに「上今井稚蚕飼育所」があります。

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足袋型紙

この足袋型紙は戦時中に、蚕の種紙で作られたものです。
この足袋型紙は戦時中に使われたもので、蚕の種紙が再利用されています。
戦時中は物資不足であることから、足袋は各家庭の手作りであり、その型紙を再利用紙でつくるのは、当然のことだったと思われます。

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榊小学校の運動会プログラム

榊小学校は、現在の南アルプス市櫛形地区上宮地に存在した小学校です。明治12年に榊村誕生とともに創設され、明治33年には榊尋常高等小学校となりましたが、昭和33年に小笠原第二小学校とともに統合されて櫛形北小学校ができ、廃校となりました。

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引札(広告主:横内安平)

引札は、江戸時代から大正・昭和時代の初期まで商店や問屋などが広告を印刷にして配布したもので、 新聞広告などの新たなメディアが定着するまでは、広告の花形として用いられていました。 新年のあいさつを兼ねた引札のデザインは、商売繁盛を願ってえびすや大黒などの七福神や福助、 縁起物とされる富士山や松、鶴などが好まれ、当初は江戸時代の多色刷りの浮世絵版画である「錦絵」の技法を取り入れた華やかで美しいものでした。

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市川酒店の祝樽

小笠原の市川酒店さんで昭和時代に使用されていた、一升(1.8l)入りの角樽と二斗(36l)入りの角樽です。どちらもお祝いの席のために誂えられたものです。

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ボロ電

通称「ボロ電」とは、昭和5年から昭和37年までの32年間、西郡を甲府方面・峡南方面へと結んでいた路面電車のことです。
運行会社は、山梨電気鉄道→峡西電気鉄道→山梨交通へと変遷しました。

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養蚕の錦絵

 江戸時代の浮世絵文化を引き継いだ錦絵は、あでやかな色彩や構図で現代の私たちを美術的に楽しませてくれます。また、それだけでなく、特に養蚕の様子を描いたものは、当時の様々な情報を視覚的に伝えてくれる貴重な資料になります。

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野々瀬郵便局

 現在は営業していませんが、櫛形地区上市之瀬にある、道に面した大きなパステルグリーンの観音扉が印象的なその野々瀬郵便局は、形西小学校の向かいに、県道伊奈ヶ湖公園線を挟んで立っています。

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大井村の茶舗麻野屋

 こちらは大正時代の大井村(現甲西地区古市場)にあった茶舗麻野屋の茶銘柄定価表です。
 日本三大銘茶といわれる宇治茶・狭山茶・静岡茶の各種銘柄が並んでいます。宇治茶と狭山茶は一斤(600グラム)、粉茶の川根茶(静岡茶)は百目(375グラム)の値段が掲載されています。
 この他、このチラシをよくみると、麻野屋では醤油も売っていたことも分かります。

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沢登の齊藤ラジオ店

 多くの人や車が往来する富士川街道沿いで、地域の誰もが見知る街の電気屋さんである「(株)齊藤テレビ」の、昭和20年代末から30年代末までの変遷とアルバム写真データを大まかな年順に整理しました。

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キスカ島で拾った伝単「桐一葉」

 伝単とは、敵の国民や兵士に降伏をうながしたり、戦意を喪失させる意図で、空から撒いたり街に掲示したりする、宣伝謀略用の印刷物(ビラ)のことです。
 この「桐一葉」は、若草地区下今井出身で、太平洋戦争中に陸軍航空本部技手であった志村太郎さんが、太平洋北部のアリューシャン列島にあるキスカ(鳴神)島で拾ったもので、戦場で数多くばらまかれた伝単の中でも、ひときわ芸術性・文学性が高いものです。
 色と形が桐の葉そっくりに作られているだけでなく、当時有名だった歌舞伎の演目「桐一葉」の内容を想起させる格調高い短文を付して、日本兵に軍部の衰退と滅亡を予感させています。

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小笠原の金丸商店

 こちらは、現在整理中の平岡河野家資料にあった、小笠原金丸商店が出した領収書です。
 この領収書を見ると、購入した品名の箇所には、「白土、角又、晒、岩城」などの文字が見えます。

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小笠原の村田屋本舗

 毎年、安藤家住宅のひなまつりで雛人形を展示するたびに、人形が収納されている箱の底に、人形を包んだり、緩衝材としてくしゃくしゃに詰め込まれている包装紙が気になり、ちゃんと広げて記録を取ったところ、その中に、現在も櫛形地区小笠原で営業している和菓子屋さんの、菓子袋と包み紙がありました。

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農間渡世は棉商ひ

 こちらは、在家塚中込茂家所蔵資料の「文献72 鯛兵衛一件」です。
 これは、農業の合間に綿商いを渡世(稼業)としていた在家塚(白根地区)の八百助という人が、仕事で現在の韮崎市方面に出かけた帰り道に、大変なトラブルに巻き込まれてしまった事件に関する、江戸時代(嘉永五年・1852)の文献です。
 この文献は、具体的なトラブルの内容以上に、原七郷で江戸時代に行われた綿産業の実態が、八百助という一人の「農間綿商人」の活動を通して垣間見ることができます。
 原七郷の産業の中で、養蚕以前では、綿は、煙草・藍と並んで根幹をなすものでした。甲州の西郡綿が、江戸時代の終わり頃に、在地の人々によって、どのような仕組みや過程をもって流通され、商売として成り立っていたのかを知ることができるものだと思われます。

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学び人を育む力~天民義塾と綿引健~(ふるさとメール2021年5月15日号)

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江戸時代の南アルプスブルー~村々の藍葉栽培と藍染~(ふるさとメール2021年6月15日号)

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月の魅力~満ち欠ける姿に重ねた想い~(ふるさとメール2021年9月15日号)

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駿信往還(西郡路)、荊沢宿の旅(ふるさとメール 2021年11月15日号)

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駿信往還(西郡路)、荊沢宿の旅2(ふるさとメール2021年12月15日号)

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綿が奏でるにしごおりの暮らし(ふるさとメール2022年1月17日号)

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上宮地のキウイ栽培

 上宮地区内で果樹農家を営む野田家シュンゾウさんにお話を伺い、10月のキウイの収穫中の農園に案内していただきました。目の前に広がる農園を見渡すとたわわに実った、すずなりの「ゴールデンキングキウイ」。「ゴールデンキングキウイ」は黄色い果肉で酸味の少ない最近流行の品種、野田家では今から15年ほど前(平成17年頃)から生産しているそうです。


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原七郷の七種の商物に「塩」?~南アルプス市の名産をたどる~(ふるさとメール2022年2月15日号)

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にしごおりの「糸つむぎ唄」

明治時代に綿産業が盛んだったにしごおりには、「糸つむぎ唄」という労働唄が伝わっています。当時家庭の女性(母親)は日中の家事を終えると、夜な夜な家族が使う衣服などをつくる糸を綿から紡ぐ作業をしていました。そうした夜なべ仕事は、家族団らんのひと時でもあったのではないでしょうか。


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内国勧業博覧会に出品された南湖の綿

山梨県下一のブランド、「奈古白布(なごのはくふ)」。「奈古(胡)」とは、現在の南アルプス市域南部の甲西地区南湖(なんご)のことを指します。
 南アルプス市には、栽培した綿の実から種を取り除く道具である「実繰り(みくり)・綿繰り」などと呼ばれるもの、また種を取った綿から回転する動力を使って糸を紡ぎ出す作業を行う「糸車」、この二つの民具を中心に綿仕事関連の民具が数多く残されています。特に県下一の綿の産地、甲西地区ではどの家にも一台ずつは持っていた道具だったのでしょう。


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縞見本帳から見える明治の女たちの生活

縞見本帳(しまみほんちょう)とは、縞織物の端切れを貼った帳面です。女たちが家族用に作る手織りには、縞の太さや配色の組み合わせにより無数のデザインが可能であるため、着る人の性別・年齢・着用場面に合わせて、様々な縞柄が各家で生みだされました。織った縞は、反故紙を綴じた帳面に貼って見本帳として、次に織る時の覚えにしました。また、良い縞を織った人の縞見本帳は貸し出されたりもしたそうです。


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真っ赤な種痘の接種済証

ひときわ目を引く真っ赤な紙。大正時代初期に行われた種痘(天然痘の)の接種済証です。
2期に分けて行われていた接種のうち、1期目の際に渡された証書はこんなに鮮やかな赤色だったようです。2期目は白い紙だったようですけれど、この1期目接種済証の真っ赤な色づかいが、江戸時代から続く疱瘡除けの習俗を彷彿とさせます。


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西野小学校榊小大正15年の運動会プログラム

大正5年の櫛形地区榊小学校運動会プログラムと大正15年の西野小学校運動会プログラム。昭和50年代くらいまでは10月10日、スポーツの日前後が多かったようです。


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地方病から人々を守った地方病予防溝梁

甲西地区東南湖の横川と西川の間を流れるみぞの側壁についているプレート。これらのプレートは、地方病の予防のために溝梁を自費でコンクリート化した際に寄付者や会社の銘を刻んだものです。
山梨県で地方病終息宣言が出されたのは平成8年のこと。その後、歳月が過ぎ、釜無川流域の人々があれほどまでに苦しめられた地方病の記憶を、実感を持って語る人の数はかなり少なくなってきています。しかし、よく目をこらせば私たちの暮らしのすぐそばに、まだまだかつての地方病との戦いの痕跡が残されていることに気づかされます。


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塚原のおしゃぶきさん

「甲西町の今むかし」という1995年に甲西町文化協会が発行した冊子の中にある、「風邪治しの神様として信仰された大きな岩」で、地域の人たちから「おしゃぶきさん」と呼ばれた岩があります。
『その昔、悪い風邪が流行って塚原村の人々が苦しんでいると、働き者のおじいさんの夢に、お姫様が現れました。そして、「西の山の中腹にある大きな岩の前に葱が植えてあるの。それを持ってきて煎じて飲んでみてごらんなさい。 私の来たしるしに、岩の上に足跡を残しておくから。願い事のある時は、その足跡を小石でたたきながら祈ってね!」というような、お告げがあったそうです。
 翌朝、おじいさんが西の小高い山に登ってみると、はたして、葱の植わった大きな岩があり、足跡もありました。 そこで、夢のお告げにあったように小石でたたいてみると、木履(ポックリ)をやさしくたたいた時のようにぽこぽこと響いたのだとか。
 おじいさんは風邪が治りますようにとお祈りして、葱を持って帰って煎じて飲んでみると、三日ばかりで長く苦しんでいた風邪が良くなったので、葱を倍にしてお返ししたそうな。
 このことがだんだん広まり、お祈りする人が多くなったので、塚原村の人々は相談して岩の上に祠を立て、岩を岩永姫(いわながひめ)の化身と信じ、秋には感謝の祭りを行っていたそうです。(「甲西町の今昔」しゃぶきばあさんの項より〇博調査員の要約)』


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田島搗き屋通りを歩く

甲西地区の江原の浅間神社付近の湧水に発し、鮎沢、田島、和泉へと、旧四ケ村を流れる狐川は、常に水量が一定に豊富で、しかも適当な傾斜があったので、最盛期には20軒以上の水車屋が軒を並べていたそう。特に旧田島村には、「搗き屋通り」と呼ばれるほどの名で賑わっていた場所がありました(甲西町誌より)。米麦蕎麦などの籾摺りや粉ひきに、近在の人々が足繫く通った搗き屋は、大正時代に入ると電気を動力とする「電気搗屋」が現れ、数を減らしていきますが、昭和時代までは田島区に「搗き屋通り」の呼び名が残っていたそうです。(写真「田島搗き屋通り図』 甲西町誌昭和48年より)


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滝沢川を潜る田島・西南湖・和泉の隧道

南アルプス市は市域西部が急峻な山々に占められ、そこから発する河川が市の南東部に集まるため、市の南東部に位置する甲西地区は、上流から流されてきた砂礫の堆積により、いくつもの天井川が連なる土地となりました。年々河床が上がるたびにどんどん高さの増していく堤防は、甲西地区を行き交う人々、特に滝沢川の両岸にある集落(田島・西南湖・和泉)に住む人たちにとって、田畑に往き来したり、駿信往還に出たりするのにも、家の屋根より高い所を流れる川の土手を登ったり降りたりして越えなければならず、たいへん大きな障壁でした。
そこで、昭和時代に入ると、滝沢川の河床の下に、トンネルを掘って道を通す工事が3か所で行われました。かつて「田島隧道(ずいどう)」「南湖隧道」「和泉隧道」という3つのトンネルが、昭和時代に滝沢川の下を通っていました。
その後、これら3つのトンネルは、昭和46年より行われた滝沢川の天井川を完全に解消する大改修事業によって、川の河床がだいぶ低くなったために廃止されました。現在では、滝沢川にトンネルの跡形は何もなく、同じ場所に川の上を渡る「田島橋」「南湖橋」「和泉橋」が設置されています。


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武州入間に出稼ぎした工女ふくの

←「明治31年から39年記武州石川組製糸場女工より葉書表(西野功刀幹弘家資料より南アルプス市文化財課所蔵)
明治時代に、南アルプス市にあった西野村から、埼玉県の製糸場に出稼ぎに行っていた、相川福乃さんという女性がいました。
明治31年ころは、生糸のアメリカ向けの輸出増大で、日本中に大規模製糸場が次々と建設されていた時代。山梨県は、明治7年に県営勧業製糸場が創業(富岡製糸場は明治5年創業)したことで、蚕糸業萌芽期の先進地となり、明治20年代には甲府の製糸家が全国的に台頭するほどまでになっていました。
そのため、地元で器械繰糸技術を習得した山梨県内の女工たちが、次々と県外に新しく建設される製糸場から引き抜かれ、出稼ぎに行きました。


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防火水槽を跨ぐ火の見櫓

日本全国のどこにでも存在する火の見櫓(ひのみやぐら)は、各地域の住民たち自らが建てた防災施設の一つです。
江戸時代以前の古くから見張り台としての目的をもっていました。火災などの災害の早期発見をし、その上部に備え付けられた鐘を鳴らすことで地域に差し迫った危険を知らせたり、消防団員を招集するのに使用されてきたわけです。
地域の持ち物として、コミュニティの中心場にあることの多い火の見櫓は、まち歩きの際の重要なチェックポイントであるとともに、集落を象徴する景観の中に溶け込み一体化していることが多くあります。(甲西地区清水の火の見櫓※防火水槽上)
南アルプス市内にもたくさんの火の見櫓が点在しています。おそらくどれも昭和20~40年代に建てられ、使用されてきた火の見櫓がほとんどかと思われます。


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くん炭を作る籾殻焼き

令和3年12月に、甲西地区東南湖地区、市内最南東部の田方(たがた)で行われていた籾殻焼きの作業。


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上宮地産キウイの選別から箱詰め

キウイは収穫作業後、選別・出荷作業へと入ります。こちらは集荷したばかりのキウイを重さで選別する機械です。収穫したばかりのキウイを一つづつチェックしながら、選別機の皿にのせていきます。


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地方病とたたかうポスター

「地方病とたたかうポスター」をご覧にいただきたいと思います。山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。
山梨県が製作したこの地方病予防広報・啓発ポスターを見出し部分から読んでみますと、『三百余年前から蝕ばまれ悩まされ続けて来た地方病 今こそ完全撲滅の絶好の機会!!県政の重大施策としてとりあげてここに三年、有病地の指定解除、宮入貝の減少、患者の著減等々成果は上々である。 この好期をおいていつの世に根絶することができよう、みんなで力を併せて一挙に駆逐するよう今一段の努力をいたしましょう。』とあります。
このポスターには製作年が記載されていないのですが、見出しの文面と、「現在実施している予防対策」の項にPCBという薬剤によるミヤイリガイの刹貝と、コンクリート溝梁化工事に年間一億のお金をかけている」といった文言があること、当該資料の含まれる資料群全体の年代構成からかんがみて、この地方病対策ポスターは、だいたい昭和30年代中頃に作られたものではないかと考えています。


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西郡の呉服屋さんで買えた雛人形

雛人形が入っている箱に地元の呉服屋さんの名前が記されていることがあります。当時の呉服店は、節句人形の販売代理店としての機能も担っていたようで、西郡地域の人々が飾ったお人形は甲府の雛問屋で作られたものに加え、鰍沢の春木屋などの商家を経由して入ってくる駿河で製作された人形も多く流通していたと考えられます。明治大正期に昭和初期頃の西郡の人々が人形を求めるときには、
① 甲府の雛問屋か鰍沢の商家に買いに行く。
② 甲府の雛問屋から「ひなんどー、ひなんどー」との掛け声で、安価な横沢雛を籠に担いでやってくる売子から買う。
③ 初節句の晴れ着などを購入するのに合わせて、近所の呉服屋で売っている人形を買う。
の3つの購入方法があったのだと思います。


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地方病と溝渠のコンクリート化

山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。この病を克服する作戦が本格的にはじまって、100年以上もかかったのです。


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南アルプス市の縄文人は、いつ、どこに?(ふるさとメール2022年4月15日号)

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徳島堰ウォーク#1 頭首工(取水口)~小水力発電施設

徳島堰は、韮崎市上円井の釜無川から取水し、南アルプス市曲輪田新田まで伸びる役17kmのかんがい用水路です。寛文5年(1665)、江戸深川の町人徳嶋兵左衛門が甲府藩の許可を得て工事に着手し、寛文7年には曲輪田の大輪沢(堰尻川)まで通水したといわれています。
それから昭和40年代に釜無川右岸土地改良事業によってコンクリート化され、「原七郷はお月夜でも焼ける」といわれた御勅使川扇状地扇央部の常襲干ばつ地域にスプリンクラー網が整備されるまで、開削から300年の間に大雨による埋没など度重なる逆境乗り越え、現在の徳島堰の形となりました。
そんな南アルプス市の豊かな田園や果樹園の景観を守り続けてきた徳島堰ですが、実際どのようにして取水され、どんな旅路を経て私たちの暮らす南アルプス市までその水がやってくるのでしょうか!?今回はそんな徳島堰を流れる水の旅路を追ってご紹介していきます!


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徳島堰ウォーク#2 入戸野バス停~旧樋口村八峰

堰沿いにある入戸野バス停
3つの発電所で大役を終えた徳島堰の水たち。そこからもう少し下流、入戸野沢との立体交差地点に差し掛かると丁度辺りは入戸野地区の集落となります。入戸野沢が水路橋で徳島堰を渡っているすぐ先。堰沿いには石造物とバス停、また集落中心地のシンボルである火の見櫓が並んで現れます。入戸野の町並みと徳島堰の変遷を見守ってきたであろう石造物の背面を流れる徳島堰。堰沿いの民家を見てみると、庭から堰の水面まで降りてこられるよう「つけえばた(洗い場)」が造られている箇所も多く、この徳島堰が集落の生活にいかに根ざし、溶け込んでいるかが伺える場所です。


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徳島堰ウォーク#3 竪沢暗渠~甘利沢暗渠

竪沢暗渠
大難所を乗り越えここらでひと息・・・とは行かないのがタフな徳島堰です!清哲町水上に入ってすぐに、また大きなカーブと描きながら竪沢暗渠へと突入していきます!今はほとんど水の流れが見えない竪沢、その上流に向かって大きく湾曲していくこの光景は確か前にもどこかで見たような・・・。そう、戸沢暗渠と同じような手法を駆使して沢を乗り越えていると考えられますね!


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徳島堰ウォーク#4 大門沢暗渠~御勅使川暗渠出口

大門沢暗渠
旭町上条南割まで指しかかった徳島堰。もう少しで南アルプス市!と言うところで韮崎市区間最後の暗渠が現れます。山梨県指定の一級河川大門沢を潜る大門沢暗渠。大門沢はほんの少しだけ水の流れがある程度の水無川で、周辺の民家などと見比べると天井川化しています。この大門沢暗渠を越えた向こう側にはいよいよ私たちの南アルプス市が見えてきます!徳島堰の水たちもラストスパートです!


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徳島堰ウォーク#5 釜無川右岸第一調整池~徳島堰を跨ぐ掛樋

釜無川右岸第一調整池
徳島堰本体から分水された水たちがようやく辿り付くのは「畑地かんがい調整池」の通称第一調整池です。この調整地から南アルプス市扇状地の地下にはり巡らされたパイプラインを通って果樹園のスプリンクラーへと水が送られていきます!開削から約300年、「南アルプス市を潤す」かんがい用水路として悲願の任務達成となったのです!長い旅路を経てここまでたどり着いた徳島堰。でも皆さん、徳島堰はまだ続いているのを忘れてはいけませんよ!


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徳島堰ウォーク#6 釜無川右岸第二調整池~徳島堰流末地点

釜無川右岸第二調整池
南アルプス市飯野新田地区に入った徳島堰は最後の任務に向けて第二調整池へ分水をしていきます!しかしよく見ると調整池といっているのに溜まっている水の姿が見えないどころか、一面綺麗に整地されたグランドになってしまってるのは一体!?・・。実は第二調整地はこのグランドの地下に貯水のタンクが作られており、グランド自体は地域の人たちへ無料で開放しているとのこと。どこまでも地域想いで太っ腹な徳島堰!この調整ここでも貯められた水たちは地下パイプライン網を通ってスプリンクラーへと送られていきます。頭首工からここまで約16kmの旅路の中幾度となく難所を乗り越えながら、髄所で取水の任務を果たしてきた徳島堰。最後の大役を無事勤め上げてそのエンディングへと進んでいきます!


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山梨最古の桃とブドウは南アルプス市から~遺跡から見つかる果実~

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南アルプスブルーの響き~市民が結ぶ藍染新資料との出会い~(ふるさとメール2022年8月12日号)

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にしごおりの人も愛した甲府の雛問屋「松榮斎 松米」

甲府の雛問屋「松米」の引札
甲府の雛問屋「松米」は、江戸時代中期から昭和戦前まで甲府で雛人形や端午の節句飾り、だるまなどを製作して販売した「松城屋」という屋号の雛問屋です。初代から明治の10年代以前は店の通称を「松伝」と名乗っていました。(写真は「松米」の引札『美術 雛人形 ?ニ雛道具各種 甲府八日町 松榮斎松米商店 電話四十六 振替二百三十二番』)
江戸時代から明治、大正・昭和期に存在した甲府の雛問屋は「おかぶと(カナカンブツ)」「横沢びな」「甲州ダルマ」といった独特の在地の節句飾りや雛、玩具を生み出してきました。
 「松伝」・「松米」という通称を持った「松城屋」の店の場所については、江戸中期の初代より甲府横沢町にありましたが、明治期に入って、火事によりいったん柳町一丁目に移転。その後、明治5年から16年の間に代替わりして「松米」と改称し、三日町一丁目九番地に出店。さらに、明治24年頃には八日町一丁目に移転したという経緯が判っています。


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夏りんごの人工着色していた頃

昭和40年代まで市内白根地区の果樹地帯でも多く出荷されていた「りんご」。夏の暑い時期に栽培されることから「夏りんご」と呼ばれ、出荷前には温度と日光の加減を人為的に調節して、収穫した果実を赤く発色させる「人工着色」が行われていました。
人工といっても着色料や科学的な薬品は一切使用されてはいません。
[画像:個人所有(昭和36年撮影)]


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関屋のさくらまつりのチラシ

昭和40年代中頃に、関屋(せきや)という場所でおこなわれた「さくらまつり」のチラシをご覧ください。
関屋のさくらまつりのチラシ[昭和40年代(南アルプス市文化財課蔵)]


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山梨県内の百貨店包装紙(松林軒・中込百貨店・岡島百貨店・山交百貨店)

にしごおりの人々も多く利用した、甲府の百貨店の包紙や紙袋をご紹介します。
松林軒デパートは、昭和12年(1937)に、現在の甲府市櫻町で営業開始しました。昭和20年7月7日の甲府空襲で全焼してしまいましたが、昭和29年に甲府松菱として再開した後、昭和38年に買収されて山交百貨店として甲府南口にその系譜をつなぎますが、残念ながら令和元年に閉店となりました。


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昭和40年代の六科交差点周辺商店の紙袋と包装紙

旧八田村の六科交差点付近に昭和40年代にあったお店の包装紙と紙袋をご紹介します。


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西野果実郷の父・小野要三郎直筆の手紙

西野功刀家より寄贈いただいた文書箪笥の中に、西野果実郷の父・小野要三郎直筆の手紙を発見しました。

「小野要三郎直筆功刀家宛書簡」  
[明治45年1月17日 西野功刀幹浩家資料(南アルプス市文化財課所蔵)]

拝啓 謹言  昨日 上高砂小沢
伊ハ我承 是桃九十七代ト し
テ 委細ヲ入 金四百円ニテ 買
取呉候様申候 又 四五日
内之 又承知候ハ申付 無高
一寸申入候也
 四十五年一月十七日
            清水
             小野要三郎
功刀七右衛門殿

南アルプス市域の果実郷では、その景観を作り上げた父と呼ばれる、小野要三郎という人物がいます。
石ころだらけで水のない不毛な御勅使川扇状地の土壌に、明治時代後半から次々と様々な果樹を県外から大量に取り寄せては植えて試作し、原七郷を多種栽培を基本とする果実郷に生まれ変わらせた中心人物です。


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百々のメロン玉吊りネット

大正14年から白根地区西野ではじまった温室メロン栽培。初期の写真には、この玉吊りネットが写っています。


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木箱プリント型が語る、にしごおり果物を特徴づける多品目栽培の歴史

果実を出荷した木箱にプリントするための金型をご紹介します。
メロン、もも、かき、さくらんぼ、りんご、などの品種名のほか、出荷した家の屋号やかつての村名、出荷組合の名称や記号も見られ、にしごおりでの果物産業が、多品目を組み合わせて栽培することで成り立ってきた、という特徴を物語る資料です。


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野牛島要助さんが日記に書いた天保騒動

8月24日は今から186年前の天保7年(1836年)、山梨県では天保騒動という大規模な騒乱のさ中で、ちょうど現在の南アルプス市域が被害をこうむった日です。
天保騒動は、江戸時代後期の天保7年(1836)8月17日に郡内白野村での百姓一揆からはじまった騒動です。しかし、山梨郡熊野堂村の米穀商打ちこわしという当初の目的を果たした郡内の百姓たちが帰村した8月22日頃になると、騒動に乗じて参加した無宿人らが暴徒化して、大規模な強盗集団となり、国中(甲府盆地内部の村々)を暴れまわって、甲州の人々を恐怖に陥れました。
八田地区野牛島中島家文書の中に、要助さんという当時名主を務めた人物の日記帳があります。
(八田地区野牛島中島家文書「去申用気帳」)


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昭和29 年と30 年の武川村萬休院舞鶴松と蚕雌雄鑑別のお嬢さん

これらのたいそう立派で見事な松の前で撮影された集合写真には、2枚ともに、「山梨県蚕種協同組合武川村分場鑑別記念」とあります。撮影年や撮影方向がちょっと違うようです。[昭和29年6月9日 山梨蚕種協同組合武川村分場鑑別記念(今諏訪手塚正彦家資料より)]


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「イタリア」という名の欧州種葡萄

白根地区西野村功刀家資料の整理で文書箪笥の中から大正初期(大正3年~昭和10年)の果物出荷に関する書簡が多数(130枚)見つかりました。表に打ち込んでみると、特に大正5年と7年に、販売先の問屋とやり取りした葉書(以降、「果実売立葉書」と称す)がまとまっており、その年の出荷の動向を見ることができるものでした。
この地域で、大正5年に甲州中巨摩果実組合は発足していましたが、基本的に大正12年に西野果実組合ができるまでは、販路拡大と出荷は個々の家と問屋との、直接交渉・取引で、なされていたものと考えられます。
[大正期の果実売立葉書の一部(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)]


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桝形堤防史跡整備の歩み その1~水の世紀を生きる道標~(ふるさとメール2022年9月15日号)

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桝形堤防史跡整備への歩み その3 ~水の世紀を生きる道標(ふるさとメール2022年11月15日号)

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柿の野売り籠

「柿の野売り籠」は南アルプス市の果物産業史における重要なキーアイテムです。この資料の大きさは、口径41cm・底径45cm・高さ43cm。にしごおりの人々が、渋抜きした柿を入れ、担いで売り歩いた際に使用しました。籠の内部は、柿の渋が染みて黒くなっています。
 大正時代のはじめまでは、秋になると、渋抜きした柿を籠に入れて担いで、釜無川や笛吹川を渡って行商に出たにしごおりの人々。稲刈りをしているところに行って、柿を売ったり、籾と交換することで、生活を支えていました。
[展示された柿の野売り籠(天秤棒なし)十五所澤登家より寄贈・南アルプス市文化財課所蔵]


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昭和16年 桜桃用保障紙使用許可申請書

昭和16年頃に西野村の果実農家が使用した「出荷用ラベル」。 果物出荷木箱一つ一つに貼られた、生産地や生産者が記名されたラベルは、出荷品の質を保障するもので、当時は「保障紙」と云っていたのですね。工業製品で言えば商標のようなものですから、そのデザインには目を引くような美しさがあります。
[昭和15年 桜桃用保障紙(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)]


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西野村と虚無僧寺明暗寺

江戸時代、顔のすっぽり隠れてしまう、籠を逆さにした様な筒形の深編笠をかぶり、袈裟をかけ、刀を帯びて尺八を吹きつつ托鉢行脚する独特なスタイルを持つ僧たちがあり、虚無僧とよばれました。そして、甲州にもいたそれらの僧たちは、乙黒村(現中央市)にあった普化宗(ふけしゅう)明暗寺(みょうあんじ)に所属していました。
[2013年中央市れんげまつりの際に行われた虚無僧行列]


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戦争と摺り版(果実出荷木箱印字用金型)

南アルプス市文化財課でで20点以上収蔵している「摺り版(すりばん)[果実出荷木箱印字用金型]」。


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大正期の園芸講習会修了証

大正時代に白根地区西野村の若者が、愛知県に温室栽培を学びに行き、手にした園芸講習会の終了証です。
[「大正14年第十七回園芸講習会修了書」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課所蔵)]


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昭和14年の福引き一等商品は何?

昭和14年(1939)のお正月に配られた引札(ひきふだ)をご紹介します。引札とは、明治期に多く作られ、配られた宣伝広告チラシのことです。
ご紹介する資料は、80年以上前に現在の南アルプス市飯野の倉庫町交差点の北にあった、麻野屋呉服店さんの配ったもので、主に旧正月の二日から五日までの四日間に開催する福引きについての引札です。
[「昭和14年倉庫町麻野屋呉服店引札」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課所蔵):このチラシには電話番号が記載されているので 、白根地区で昭和3年4月11日から電話交換事務が開始されたことを勘案して、卯年の昭和14年のチラシと判断した。]


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十五所村に瞽女(ごぜ)がやってきた記録

「瞽女」と書くこの字は、「ごぜ」と読みます。瞽女は、ちょうど手元にあった広辞苑第二版を開くと、『三味線を弾き、唄を歌いなどして銭を乞う盲の女』とあります。「座元」とは元締め、或はまとめ役のことです。この印札はいったい何に使われたのでしょうか?
「瞽女座元印札(横近習町組・飯田新町組)」 慶応4年戊辰9月(1868)(西野功刀幹浩家資料I-13-0-17-15・南アルプス市文化財課蔵)


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昭和37年10月31日野呂川橋渡り初め

なにやら大勢の正装した人々が山奥に造られた橋の上を歩いてくるこの写真。万国旗で飾られた橋の下には、建設作業に従事した人々の宿舎のようなものが何棟か建っており、切り拓かれたばかりの生々しい山肌が見えます。 
[昭和37年10月31日(西野功刀幹浩家資料より)]


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『せんごく』と呼んでいた唐箕(とうみ)

[2023年2月開催の南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「ナニコレ!昔の道具」展における稲作の道具エリアの一部]
鎌(稲刈り) → 扱箸・千歯扱き・足踏み回転脱穀機(脱穀) → 唐箕(地域名:せんごく)(藁くずと選別) → 摺臼(地域名:するす)(もみすり) → 唐箕(地域名:せんごく)・万石通し(籾殻と選別) → 搗臼(精米) → 万石通し・ふるい(糠と選別) → 白米

稲刈りしてから白いお米になるまでに、想像した以上にいくつもの工程と道具が必要であることに驚きます。

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10円切手で声の便りを(昭和の第5種郵便)

こちらは市民の方から寄贈していただいた8ミリ映写機とテープのセット一式です。


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にしごおり果物の軌跡は「柿の野売り」による行商活動からはじまった

022年12月まで開催していた南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「にしごおり果物のキセキ」で展示されていた古文書、『菓もの類野うり免許状』2点、『曝柿直売免許状』1点、『原七郷議定書之事』をご紹介します。これらの古文書を読み解くと、にしごおり果物の軌跡が「柿の野売り」による行商活動からはじまっていることがわかります。
古来より、砂、砂利、礫、粘土に覆われたにしごおりの原七郷では、その恵まれない自然条件下によるギリギリの土地利用のなかで、最大限の効果を挙げようと努力する人々の姿がありました。柿などの作物を加工したり、売る時期をずらすなどして、商品価値を高め、農閑期に村外まで売り歩く行商によって、村の生産力以上の人口を維持してきたのです。南アルプス市域で最も古くから盛んに作られた果物は、この行商用商品として加工するための柿でした。

古文献にも、西郡(にしごおり)の柿についての記述は見られ、

「裏見寒話巻之四」1754年宝暦4年 野田成方 「甲斐志料集成三 地理部2」昭和8年 甲斐志料刊行会・大和屋書店に収録の
甲斐料集成P226には『西郡晒柿 渋柿を藁灰にて晒して売る。此処は田畑なく、柿を売る事を免許されしといふ。』
甲斐料集成P229には『晒柿 渋柿を藁汁にて製して晒す。佳味也。西郡原方より出づ。』とあります。これらの記述から、にしごおりの人々が売り歩いた柿は渋柿を加工したもので、「晒柿(さわしがき・さらしがき)」と称されていたことがわかります。

 行商の商品として「にしごおり果物」を生産したことは、明治以降に当地で勃興するフルーツ産業に、様々なプラス作用を及ぼしました。商機があればどこにでも出かけていく、風の如く機敏なフットワークと開拓心によって磨かれた、にしごおり行商人たちの経済観念の強さは、市場の動向にもまた機敏な果物栽培を初期段階から実現し、現在の南アルプス市における独創的なフルーツ産業の在り方へとつながっています。
[南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「にしごおり果物のキセキ」より、柿売人に関する文献の展示コーナー]


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火の用心!「明治38年南湖村大火災後実況」

文化財課で収蔵している明治時代の写真に、甲西地区で起きた大火災に関するものがありましたので、ご紹介しようと思います。冷たい風を避けるように、子供たちが焼け残った建物の壁に張り付くように立っているのが印象的な写真です。人々がまだ皆、和服を着ています。綿入れの上着を着ていても、二月にこの程度の着衣で屋外にいては、寒いでしょうね。風やほこり対策なのか、ほっかむりをしている大人もいますね。
火災後9日目くらいの撮影ですが、焼け残った木材などが積み上げられて、だいぶ片付けも進んでいるよう状況にみえます。
[「明治三十八年一月二十四日夜 南湖村字東南湖大火災後ノ実況 同二月二日記念撮影」(南アルプス市文化財課所蔵)]


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消防団の古写真

消防団の前身は江戸時代の「町火消」だといわれていますが、明治時代の半ばを過ぎると、消防組織の費用は地域で負担する上で、都道府県知事の管轄下のもとに置かれるようになり、大正時代には地域ごとの消防組の設立が飛躍的に進んでいきました。
[大正9年2月8日豊消防組第四部金馬簾樹立紀念(南アルプス市文化財課所蔵)]

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ごはんに関わる民具あれこれ

ご飯を炊いてから食べるまで入れておく道具のお話をしたいと思います。
[・竈(かまど): 鍋・釜をのせて煮炊きに使用する場所。「くど」「へっつい」ともいいます
・火吹き竹: 息を吹き込んで火力を上げるために使う竹筒
・付木(つけぎ): ヒノキ・スギ・マツなどの薄片の先端に硫黄をぬったもので、火種や囲炉裏の炭火などから薪や灯心などに火を移す時に使いました]
電気やガスが使われていなかった時代は、「かまど」に薪を燃やしてご飯を炊きました。伝承館に展示されているかまどの前には「付け木」と「マッチ」「火吹き竹」もセットしてあります。


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歴史探求は続きます(ふるさとメール2023年03月15日(水)号)

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昭和8年御勅使川砂防工事実況

 昭和8年の御勅使川砂防工事の記念写真をご紹介します。砂防堰堤は流れる土砂を貯めて川の水の流れをゆるくしたり、土砂の流出量をコントロールして、一度に大量の土砂が下流に流れ出て災害を起こさないようにする役目を果たします。
 写真に見える昭和8年施工の第八号砂防堰堤は、『第八号砂防堰堤』という名称で、高さ2.5メートル、長さ96.7メートル、塩沢入口交差点北の南甘利山橋の東側下流に見える砂防堰堤です。ちょうど、御勅使川福祉公園の西端部にあたります。
 出来上がった砂防堰堤の上に座ったりもたれかかったりと、この写真にはざっと数えても150人以上の人々が写っていますね。
 大量の砂や石・セメントを運んだり、手練りでコンクリートを作るなど機械のほとんどなかった昭和初期には、たくさんの人と労力が必要でした。原七郷を含む地元住民の多くが工事労働に従事したそうです。この写真の見つかったお宅のある白根地区飯野でも、大正初期生まれの多数のご先祖様方が、写真の中にいらっしゃることでしょう。
[昭和8年度御勅使川砂防工事実況 (飯野中澤家資料より・南アルプス市文化財課所蔵)]


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山梨県立農民道場機山寮

 白根地区飯野2区のお宅の倉庫から見つかった昭和初期の古写真群中の中から「昭和12年山梨県立農民道場機山寮」というアルバム資料をご紹介します。おそらく、このお宅で生まれ育ったどなたかが、この農民道場1期生の修練生であったと思います。
 このアルバム内の写真が撮影された昭和初期、昭和4年にアメリカで起きた世界恐慌は、昭和5~6年以降の日本経済に深刻な影響を及ぼしていました。繭と米の二本柱で成り立っていた日本経済にとって、生糸の最大輸出国であるアメリカへの輸出量の大幅減による打撃に加え、昭和5年の豊作による米価下落、続く翌昭和6年の大凶作は危機的で、深刻な農村疲弊を招きました。
 このような昭和初期の農業恐慌を契機に農村更生運動の一環として全国各地に設置されたのが、「農民道場」とよばれた修練場です。 農民道場は昭和9年より、当時の農林省が農村中堅人物の養成を目指して設立した教育施設がはじまりで、徹底した心身鍛錬を主目的としていました。
 山梨県においても、まだ念場ケ原と呼ばれていた原野だった清里に、昭和12年5月17日「山梨県立農民学校機山寮」が創立されました。
 アルバムの中の画像にある「山梨県立農民道場機山寮」については、国立国会図書館デジタルコレクションでみられる『昭和14年6月 農山漁村中堅人物養成施設に関する調査 修練農場・漁村修練場・山村修練場 農林省経済更生部』という資料にその実態のわかる記述がありました。その内容と照らし合わせながら、清里村八ヶ岳周辺山麓にあった「山梨県立農民道場機山寮」の画像を見ていきたいと思います。
[昭和12年山梨農民道場機山寮アルバム(飯野中澤家資料より・南アルプス市文化財課所蔵)]


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ハエ捕り棒とハエ捕り瓶とハイトリック

 令和5年6月21日(水)まで開催しておりますテーマ展「ナニコレ!昔の道具」展に展示中の「ハエ捕り瓶」と「ハエ捕り棒」「ハイトリック」について、ご紹介したいと思います。
[展示中のハエ捕り棒とハエ取り瓶]


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野売免許状の龍朱印

 こちらは「菓もの類野うり免許状」とよばれる文書です。信玄が出したものと云われ、天文10年(1541)8月と記され、龍をかたどった印、龍朱印が押されています。
 このような文書の類は、甲州の西郡(にしごおり)と呼ばれる地域(現在の南アルプス市市域)で武田信玄の野売免許状としてたびたび報告されてきた御朱印状です。文献等で報告されたものを数え上げると、これまでに市内で9点ほど見つかっています。しかし、残念ながらこれらの朱印状は信玄の活躍中に出されたものではなく、文化6年(1809)10月以降に作られ流布したものであるとの学術的判断がされています
[「菓もの類野うり免許状 十五所澤登家所蔵」 天文10年8月]


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前御勅使川を封鎖した穴水朝次郎の報徳碑

 八田地区下高砂の広照寺境内に、八田村誌にも掲載されている石碑があります。
[「錦洞翁報徳碑」平成15年八田村誌より]


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今諏訪にあった商店名入りの団扇

 ふるさと○○博物館では、南アルプス市白根地区の商店名が記されている日本手拭いと団扇を多数収蔵しています。
[重要文化財安藤家住宅で展示中の今諏訪の商店名のある団扇]


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昭和37年竣工の櫛形西小プールは、棚田view!盆地view!富士山view?

 昭和37年に櫛形西小に竣工したプールの画像をご覧ください。盆地を見下ろす市之瀬台地上に昭和時代30~40年代に存在したこのプールサイドからは、棚田(畑)をまとった丘(六科山)がヌーッと横たわり、その切れ目から遠くに甲府盆地の市街地を一望することができました。そしてさらに東南の方向には、盆地越しの富士山も見ることができたと思われます。
まさに、棚田view!盆地view!富士山view!!
[「昭和37年6月櫛形西小プール竣工記念」(中野山王家画像資料より)]

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背守り

 生後1カ月を過ぎると、このような祝着を赤ちゃんに着せてお宮参りを行いますが、その後もまだまだ7歳くらいになるまで些細なことで死亡してしまうことの多かった魂の安定しない子供の命は、神の手の内にあるといわれてきました。「七歳までは神のうち」という言葉にあるとおりです。
[「背守りのある子どもの祝着」西野芦澤家資料 南アルプス市文化財課蔵]


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かをりよき千代花香油

こちらは、「昭和初期から40年代位までの女性が使っていたヘアオイルを小売りする際に、店頭に置いていた容器」です。
[「かをりよき 千代花香油 東京千代田香油本舗」 130×395×230(mm)]


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牛と馬の道具

 南アルプス市ふるさと文化伝承館では令和5年7月14日から12月20日まで、テーマ展『南アルプス山麓の古代牧』を開催しました。
 御勅使川扇状地での牧(牧場)の存在は、百々遺跡で発掘された出土資料によって、平安時代にさかのぼる可能性があると考えられていますが、江戸時代以降も牛馬利用の伝統は続いています。さらに、もっと身近な昭和30年代頃まで市内で使われていた民具をみることで、牛馬と市民との関わりを知ることができます。
[南アルプス市ふるさと文化伝承館で令和5年7月14日から12月20日まで開催された、テーマ展『南アルプス山麓の古代牧』における民具コーナー]


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豊村から旅立つ満蒙開拓青少年義勇軍

 昭和時代の戦争時に中国大陸に渡る少年たちを撮影した写真をご紹介します。昭和7年から20年の太平洋戦争敗戦までの14年間に27万人もの日本人が、中国大陸に渡りました。昭和恐慌で疲弊した農民を移民によって救済することが第一目的でしたが、同時に、満州国を維持し、ソ連との国境地帯を防衛する意図もありました。
こちらは、いまから80年ほど前に撮影され満蒙開拓少年義勇軍の壮行写真です。満蒙開拓青少年義勇軍は、中国大陸に日本人を移民させる日本政府の国策が推進される中、成人だけでは足りなくなった満州への移民を補う目的で政府が発足させた制度です。彼らは「鍬(くわ)の戦士」とよばれたそうです。
[古市場杉田家所蔵]


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満州開拓女子奉仕隊と豊村分村開拓団

[「県庁前での豊村第一次満州開拓団女子奉仕隊の壮行会」(西野池之端中込家蔵:真ん中に立つ団長であった中込ちか氏は、白根地区西野池之端で喜久屋商店経営中込家の人でした。この画像はそのお孫さんに当たる方からご提供いただいたものです。)]


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「スパイ御用心」戦争中の燐寸(マッチ)

 昭和時代に生活必需品だったマッチを収蔵資料の中からご覧いただきます。
[「スパイ御用心 書類手紙御用心 職場乗物御用 防諜」 二等品 志摩燐寸製造所(南アルプス市文化財課蔵)]


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奉公袋を持つ出征兵とその家族

 昭和時代の戦争に関する資料のひとつ、奉公袋をご紹介したいと思います。まずは、櫛形地区上今井で今から80年ほど前に撮影された出征の時の家族写真をご覧ください。
[出征記念の写真:中央の出征兵は奉公袋を抱えている。(上今井五味家資料 南アルプス市文化財課蔵)]


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戦時の女性たち(大日本国防婦人会と防火訓練)

 こちらは「大日本国防婦人会」の襷(たすき)やこの白い襷をかけた女性たちの記念写真です。
[「モンペに割烹着、大日本国防婦人会の白襷をかけた西野村功刀の婦人たち(昭和15年頃)」(西野功刀幹浩家・南アルプス市文化財課蔵)]


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荒川船ばし代

にしごおり(現南アルプス市域)の人々が甲府に行くには、釜無川だけでなく、荒川も越えなければなりませんでした。そのため、にしごおりの先人たちの遺した渡船に関する資料の中には、釜無川越えに利用する、高砂の渡し(現信玄橋辺り)・今諏訪の渡し(現開国橋辺り)・押切の渡し(現三郡橋辺り)の他に、荒川越えの資料もあります。

『  覚
一 荒川ばし代
   拾ニ円也
右之通り請取申候
辰十二月
      飯田新町
        文吉
       金右衛門
 西野村
御名主様       』

明治から大正期の、荒川を渡る橋の通行料の領収書です。現在でいうと、国道52号線美術館通りを相生交差点に向かって架かる荒川橋辺りにあった、大正15年以前の仮橋時代のものです。12月にまとめて支払った金額が12円ということなので、一人当たりの橋利用料がいくらだったのかは不明ですが、村費からの公的な交通費として年間支払額の領収書が名主宛に出されているようです。
[I-13-0-17-17 荒川橋代請取覚-1(南アルプス市文化財課蔵・西野功刀幹浩家資料より)]


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信号機上を駆ける甲斐の黒駒

南アルプス市内にはカッコいいお馬さんがデザインされた信号機があります。まずは1ヶ所目、南アルプス市今諏訪にある開国橋西交差点にある信号機です。ここから白根インターチェンジ出入口の交差点に向かって、県道今諏訪北村線沿いに見られる信号機をご紹介していきます。
[開国橋西交差点にある、「御勅使川扇状地を疾走する甲斐の黒駒」デザインの信号機(令和5年11月21日撮影)]


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高砂渡場橋梁渡船賃銭表(たかすなわたしばきょうりょうとせんちんせんひょう)

現在、南アルプス市八田地区に、昭和7年にコンクリート製の旧信玄橋が開通するまで、上高砂と龍王を隔てる釜無川を渡るには、「高砂渡し(たかすなのわたし)」を利用する必要がありました。
[「大正5年頃の高砂の渡しの様子」(南アルプス市文化財課蔵)]


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故郷に届いた出稼ぎ工女の葉書

明治終わりから昭和時代にかけて、県外の製糸場で働きに出ていたにしごおりの女性たち。市内にはそうした出稼ぎ工女たちが故郷に送った葉書が多く残っています。過去に西野村の相川ふくのさんという女性が明治31年から39年の間に武州入間豊岡町にあった石川製糸所から送った葉書をご紹介しましたが、今回は、今諏訪村の手塚家に30名ほどの村出身の女工が明治から昭和時代に掛けて送った80通もの葉書等を新資料として加えて、分析してみよう思います。
[明治41~45年埼玉・長野・山梨(諏訪村:現在の北都留郡上野原町)への出稼ぎ工女から届いた葉書(今諏訪手塚正彦家資料・南アルプス市文化財課蔵)]


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昭和34年災害(伊勢湾台風)の養蚕被害

昭和34年、山梨は大規模な台風災害に見舞われました。まずは、8月13日を中心に大水害を起こした第7号台風が、そして9月26日には強大な暴風雨で県内の藁ぶき屋根の家々をことごとく吹き飛ばし破壊した第15号台風(伊勢湾台風)が立て続けに襲いかかりました。まさにダブルパンチで甚大な被害をもたらしたため、「昭和34年災害」と呼ばれて語り継がれています。
[飯野東条家昭和34年災害資料8「十五号台風による玉穂村の惨状」より(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)]

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昭和34年災害と敷島町(現甲斐市)

昭和34年災害資料より、今回は敷島町(現甲斐市)の被害状況写真をご覧いただきたいと思います。昭和34年災害とは、大水害を起こした第7号台風と強大な暴風雨で県内の藁ぶき屋根の家々をことごとく吹き飛ばし破壊した第15号台風(伊勢湾台風)が立て続けに襲いかかり、昭和34年8月から9月にかけて甚大な被害をもたらした一連の災害のことを言います。
[飯野東条家資料5-1・2「敷島町第15号台風被害状況」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)]

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昭和34年の甲西町水害

南アルプス市教育委員会文化財課所蔵の昭和34年災害資料より、今回は現在南アルプス市南部に位置する甲西地区での被害状況写真をご覧いただきたいと思います。 甲西地区は市内に降った雨や湧き出た水が集中する場所で、西側には崩れやすく急峻な南アルプスの山々がせまることから、釜無川右岸のいくつもの天井川が集まる常習水害地帯でした。台風7号と15号が山梨県内全域に大きな被害をもたらした昭和34年においては、その前に到来した台風6号も甲西地区五明耕地をすでに冠水させていたようです。
[「台風6号甲西町坪川決壊による五明耕地(宮沢前200町歩冠水状況)」(飯野東条家災害資料甲西町10~16南アルプス市教育委員会文化財課蔵)]

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芦安地区西河原における伊勢湾台風の爪痕

南アルプス市教育委員会文化財課所蔵の昭和34年災害資料より、今回は芦安村(現南アルプス市芦安地区)西河原の被害状況写真をご覧いただきたいと思います。
[飯野東条家災害資料18-1「芦安村西河原流失9戸公民館流失」(南アルプス市教育委員会文化財課所蔵)]

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衣替えで洗い張り

昭和40年代の前半までは、日常の生活で着物を着ている人がまだたくさんいました。通常の洗濯では、たらいと洗濯板を使って「丸洗い」していた着物も、春と秋の季節の変わり目に行う衣替えでは、縫い目をほどいて反物の状態にして「解き洗い」をしたそうです。ほどくと縫い目にたまったほこりや汚れが落としやすくなるからです。 
解き洗いの後には、「張り」という独特の干す工程があり、この「解き洗い」から干すまでの一連の作業をまとめて「洗い張り」といいます。
「張り」のやり方は二通りあり、板にぴたっと密着させて張る「板張」と、伸子針(しんしはり)でぴんと張る「伸子張」のいずれかの方法で、糊付けして干しました。
[板張]


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ファンシーな壁掛けフックに記された北岳の標高

芦安地区で収蔵した木製の壁掛けフックです。土産物として売られていたものなのか、何らかのイベントで配布されたものなのか、は不明。バブル時代に流行した、いかにも昭和末期的なキャラクター感が漂うペンギンやキツネ、特徴的な「ファンシーグッズ」ですね。
ファンシーは実用的なことはあまり気にしないので華奢なフックですが、ここで注目していただきたいのは、キャラクターの横に貼られた北岳の数値です。

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山仕事に有効な呪歌(まじないうた)

芦安地区で収蔵した文書資料の中に、3つの「呪歌(まじないうた)」を紙に書き付けたものがありました。
[「呪歌(まじないうた)書き留め(芦安役場資料)年不詳」南アルプス市教育委員会文化財課蔵]

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大正7年の白米廉売券と米騒動

こちらの資料は、大正7年夏に山梨県が発行したお米の安売り券です。表側には、「山梨県中巨摩郡役所」の印が押されています。
この白米廉売券が発行された大正7年の夏は、全国各地で米騒動とよばれる暴動蜂起があった年です。8月2日に政府がシベリア出兵を宣言したため、その後急激に投機目的の米穀の買いや売り惜しみが起こった上に、前年産米の不作などの要因もあり、米価の急高騰が発生する中、日本各地で暴動事件が起きました。
 8月15日夜には、甲府でも舞鶴公園で行われようとしていた米価高騰抗議市民大会に刺激された群衆が、山田町13番地にあった若尾家前に集まり暴徒化し、若尾邸を焼き打ち壊すという事件が起きています。(甲府での米騒動が若尾邸焼き討ちに至るまでの様相は山梨県史通史編5近現代1に詳しくまとめられている)
[「大正7年 白米廉売券」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):大正7年夏に山梨県が発行したお米の安売り券]

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