御勅使川扇状地の扇頂部に位置し、扇状地全体の治水の要とも言える有野地区には、水害防護の水宮神社が祀られている。寺記では天長11年(834)に起こった大水害の際、天皇より勅使が遣わされ、水の神である水波能女命(うずはのめのみこと)をこの地に祀ったのが始まりと伝えられている。大正15年水宮神社拝殿を改修する際にも、下流の村々から寄付がよせられた。
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西に大塚遺跡、南に野牛島・大塚遺跡、東に石橋北屋敷遺跡に囲まれた遺跡。古墳時代前期や奈良・平安時代、中世の集落跡。遺跡内の小さな谷底から破片どうしが融着し形が歪んだ須恵器の大甕片が出土し、遺跡周辺に須恵器窯が存在する可能性が指摘されている。また注目される遺構として、炭焼の平窯や和鏡が副葬された土坑墓、中世の道路跡なども発見されている。
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平安時代から中世の集落跡 調査では80個体を超えるウマ・ウシの骨が出土し、「八田牧」の存在を彷彿させ、ウマの存在が甲斐源氏活躍のを裏付ける。
写真は 炉から出土したタイの堆骨(縄文時代後期)
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奈良・平安時代から中世までの集落跡。奈良・平安時代の住居跡は現在の甲西バイパスより西側に広がるのに対し、中世の溝跡や土坑墓はより能蔵池に近いバイパスの東側を中心に発見されている。野牛島集落の発祥は能蔵池北側であるとの伝承があるが、遺跡の調査結果からその伝承は中世以降能蔵池周辺に集落が移動した後の状況を伝えていると考えられる。写真は平安時代の住居跡。
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平安時代から江戸時代の水田跡、戦国時代から江戸時代の寺院
跡が発見されています。
寺院は、加賀美遠光の館跡とされる法善寺の子院の一つであっ
た「福寿院」の跡です。この寺院は江戸時代末に火災で焼失したとされます。
遺跡からは16世紀を中心とした木棺墓、井戸、周囲をめぐらした溝、掘立柱建物跡などの施設のほか、陶磁器・かわらけ・内耳土器・すり鉢、石臼、摺臼、漆器、下駄等の生活道具や卒塔婆、五輪塔、銭貨などが見つかっています。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
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土屋惣蔵は武田家滅亡の最後まで勝頼に仕えた武将。織田軍を防ぎ、勝頼に自害の時を与えた「片手千人斬り」の伝説を残す。惣蔵の墓の他、次兄昌続ら金丸氏一族の墓がある。
市指定史跡
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金丸氏は代々武田家に仕える家柄で、現在の長盛院の地に館を築いた。東側は崖の要害で、西側には土塁と堀がめぐらされている。四代金丸虎義の次男が武田二十四将にも数えられる土屋右衛門尉昌続、五男が土屋惣蔵。
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武田信虎に仕えた有力な武将だったが、忠言が疎まれて遠ざけられ、芦安地区に住んだと地元で語り伝えられる。住居があったとされる場所は現在でも「殿屋敷」と呼ばれ、大曽利(おおぞうり)地区大宝寺(たいほうじ)に墓がある。
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法善寺の塔頭(たっちゅう)「福寿院」の西側に位置する。中世の水田とともに溝によって区画された戦国時代の寺院跡が発見され、「福寿院」が東側へ広がることが明らかとなった。寺域内からは火葬骨を埋葬した木棺が出土。木棺には梵字や真言の偈文(げもん)が墨で書かれ、その内容は当時の葬送の手順を書いた元興寺極楽坊所蔵の『入棺作法』の内容とほぼ一致している。こうした状況から、寺院と関係した人物が葬られた可能性が高い。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
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「法善寺境内図」によれば、近世の法善寺の周囲には20を超える塔頭があり、壮大な規模を誇っていた。発掘調査の範囲は、その中でも一番大きな塔頭である「福寿院」の一部で、戦国時代の土器や木製の卒塔婆、五輪塔、石臼などが発見された。土器の中には僧侶の名前と思われる文字が墨書されたものもある。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
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水の豊かな湧水地帯を利用して営まれた、弥生時代から江戸時代までの水田跡が発見されています。
水田は、現在と比べ非常に小さく、畦で囲まれた一枚の水田は最大でも6m×5m程度でした。
当時の技術では広大な面積を整地するのが困難だったのです。
わずかな地形の勾配にも苦労しながら、新天地を開墾していった弥生人の姿が垣間見られます。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
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野牛島集落の西はずれの小高い塚上に、「西の神地蔵」と呼ばれる板碑が南面して建てられている。高さ65センチメートル、幅27センチメートル、厚さ14センチメートルの安山岩製である。
頂部は三角形に造られ、その中央に阿弥陀如来を意味する梵字「キリーク」の文字が陰刻されている。頭部と下部を区画した3本の条線の下には、造立主旨が刻まれている。それによるとこの板碑は天文13年(1544)に、多くの信者が円明に入る(悟りに至る)ことを阿弥陀如来に祈願してたてられたものであるという。
すなわち、「西の神地蔵」と呼ばれているこの板碑の本尊は、実は地蔵菩薩ではなく阿弥陀如来なのである。銘文下の方形の龕部(がんぶ)に陽刻された像は、顔の形や衣などがいかにも地蔵風であるが、それは阿弥陀如来に地蔵菩薩が集合したためである。
さらに、この板碑には「西の神」も習合されている。「西の神」とは、村へ入ろうとする悪霊を防ぐ「塞の神」のことであり、道辻に立つ道祖神がそれである。この板碑には庶民の生活に浸透していたさまざまな信仰が幾重にも重なり合っているのである。
なお、造立主旨には八田村の語源となった「八田庄」の文字が見える。「八田庄」は中世に八田から白根、櫛形まで広がっていた荘園といわれるが、それに関する史料は少なく不明な点が多い。その中で「西の神地蔵」は、「八田庄」を記す最も古い史料であり、歴史史料としての価値も高い。
所在地/南アルプス市野牛島2616
所有者、管理者/野牛島区
指定年月日/昭和51年3月1日
備考/
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法憧院所蔵の本像は、戦国時代の様式をよく伝えるまとまりのいい作例といえる。
厨子は仏堂を模した宮殿の形で小型ながらどっしりとした趣があり、中世に遡る単独の厨子は県内ではめずらしい。
厨子内面の三つの壁面全体に記される墨書は、天文3年(1534年)に檀家の人々が毎月費用を出しあい、大工加賀美五郎右衛門に依頼して厨子を造立した次第を記したもので、当時の人々の厨子建立に寄せる思いを伝えるとともに、戦国時代前半の歴史を知る上でも重要な史料といえる。
中世に遡る作例で尊像、厨子、銘文が揃って伝わる作例は県内では非常に稀であり、厨子銘文中に十日市場の村名がみえ、甲府盆地に春を呼ぶ祭りとして有名な「十日市(南アルプス市指定史跡)」の起源を考える上でも興味深い作例である。
所在地/南アルプス市
所有者、管理者/法幢院
指定年月日/昭和51年1月1日
備考/
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山寺野中一族の仏神。内刳りのある寄木造で、胡粉地彩色、下地に紙を用いた室町時代の手法で造られ、永正十5年(1517年)開眼後再度補修彩色が施される。像高82センチメートル。胎内に梵字による光明真言等の墨書がある。
所在地/南アルプス市山寺92
所有者、管理者/
指定年月日/昭和52年11月22日
備考/
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長さ28センチメートル、元幅2.8センチメートル、先幅2.7センチメートル
表面に銘濃州関住兼次、裏面に大永六年(1526年)六月日の銘文が刻まれている。
この刀剣の由緒の中に「武田信虎公大永六丙戌年在銘兼次ノ剣」とある。
地鉄の鍛え、刃文、やすり、銘、年紀、茎の特色から室町時代に活躍した志津兼氏一門の系譜を引く刀工の手によるものと思われ当時の製作手法に基づく作品として貴重である。
所在地/南アルプス市落合1092
所有者、管理者/落合八王子社
指定年月日/平成元年7月19日
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各帖縦28.8センチメートル、横10.6センチメートルの折本。大檀那今沢重貞によって奉納されたもので明応十年・文亀元年(共に1501年)の書き付けがのこる。経巻600巻に欠失なく多くの奥書があり、戦国時代の史料としても貴重なものである。
所在地/南アルプス市上宮地1424
所有地、管理者/伝嗣院
指定年月日/昭和40年8月19日
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聖教類には、仏、菩薩、その他諸等に対する礼拝法、供養法、念踊法など実践的な修行方法が示されている。
得度を終了した出家者が所定の行規にしたがって、修行しながら逐次、伝授や講伝を授けられた、いわゆる師資相承の秘法である。
行者は師から授けられた折紙、冊紙、巻紙を書写し、伝授の権威を保つために伝授日時や師資名、道書名を巻末に誌しているものが多い。
この聖教類は、真言宗学問寺として栄えた法善寺にふさわしく一ヶ寺にこれだけのものが残っていることは県下は勿論、全国的にもきわめてまれである。
所在地/南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/法善寺
指定年月日/昭和62年2月10日
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022年12月まで開催していた南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「にしごおり果物のキセキ」で展示されていた古文書、『菓もの類野うり免許状』2点、『曝柿直売免許状』1点、『原七郷議定書之事』をご紹介します。これらの古文書を読み解くと、にしごおり果物の軌跡が「柿の野売り」による行商活動からはじまっていることがわかります。
古来より、砂、砂利、礫、粘土に覆われたにしごおりの原七郷では、その恵まれない自然条件下によるギリギリの土地利用のなかで、最大限の効果を挙げようと努力する人々の姿がありました。柿などの作物を加工したり、売る時期をずらすなどして、商品価値を高め、農閑期に村外まで売り歩く行商によって、村の生産力以上の人口を維持してきたのです。南アルプス市域で最も古くから盛んに作られた果物は、この行商用商品として加工するための柿でした。
古文献にも、西郡(にしごおり)の柿についての記述は見られ、
「裏見寒話巻之四」1754年宝暦4年 野田成方 「甲斐志料集成三 地理部2」昭和8年 甲斐志料刊行会・大和屋書店に収録の
甲斐料集成P226には『西郡晒柿 渋柿を藁灰にて晒して売る。此処は田畑なく、柿を売る事を免許されしといふ。』
甲斐料集成P229には『晒柿 渋柿を藁汁にて製して晒す。佳味也。西郡原方より出づ。』とあります。これらの記述から、にしごおりの人々が売り歩いた柿は渋柿を加工したもので、「晒柿(さわしがき・さらしがき)」と称されていたことがわかります。
行商の商品として「にしごおり果物」を生産したことは、明治以降に当地で勃興するフルーツ産業に、様々なプラス作用を及ぼしました。商機があればどこにでも出かけていく、風の如く機敏なフットワークと開拓心によって磨かれた、にしごおり行商人たちの経済観念の強さは、市場の動向にもまた機敏な果物栽培を初期段階から実現し、現在の南アルプス市における独創的なフルーツ産業の在り方へとつながっています。
[南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「にしごおり果物のキセキ」より、柿売人に関する文献の展示コーナー]
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こちらは「菓もの類野うり免許状」とよばれる文書です。信玄が出したものと云われ、天文10年(1541)8月と記され、龍をかたどった印、龍朱印が押されています。
このような文書の類は、甲州の西郡(にしごおり)と呼ばれる地域(現在の南アルプス市市域)で武田信玄の野売免許状としてたびたび報告されてきた御朱印状です。文献等で報告されたものを数え上げると、これまでに市内で9点ほど見つかっています。しかし、残念ながらこれらの朱印状は信玄の活躍中に出されたものではなく、文化6年(1809)10月以降に作られ流布したものであるとの学術的判断がされています
[「菓もの類野うり免許状 十五所澤登家所蔵」 天文10年8月]
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「ふるさと文化伝承館」が新しく生まれ変わって平成21年6月にリニューアルオープンしました。
愛称は「みなでん」
これからも皆さんとともに作り上げたい!という願いもこめて
「み・ん・な・で、み・な・で・ん」
って覚えてください!
世界的に知られる国重要文化財の「鋳物師屋遺跡出土品」をはじめ、市内の遺跡から出土した土器や石器、昔懐かしい民具などを展示しています。
当館では展示パネルを少なくし、スタッフによる展示案内などお客様とのコミュニケーションを大切にしています。不必要な場合にはお申し付けいただき、また、ご質問などはお気軽にお問い合わせいただければと思います。
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