芦安から信玄橋へ通じる県道甲斐芦安線は御勅使川の古い流路で、「前御勅使川」、ちょっとなまって「まえみでえ」と呼ばれています。戦国時代、御勅使川の本流はこの前御勅使川だったと云われています。江戸時代から明治時代には、本流は現在の御勅使川に移り、増水時のみ水が流れていたようです。明治31年に六科将棋頭の上流が締切られ、前御勅使川の歴史に幕が下ろされました。昭和40年代ごろまでは旧河原の両岸に不連続の堤防、かすみ堤が残されていましたが、現在ほとんどの堤防は削平され、道路として利用されています。
写真は明治29年に起きた大水害後、堤防を復旧している様子が写されたもの。旧運転免許センター(野牛島)付近。
[画像:個人所有」
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御勅使川扇状地の扇頂部に位置し、扇状地全体の治水の要とも言える有野地区には、水害防護の水宮神社が祀られている。寺記では天長11年(834)に起こった大水害の際、天皇より勅使が遣わされ、水の神である水波能女命(うずはのめのみこと)をこの地に祀ったのが始まりと伝えられている。大正15年水宮神社拝殿を改修する際にも、下流の村々から寄付がよせられた。
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江戸時代前期の建物。甲府盆地西部では最も古い民家で、徳島堰を完成させた矢崎又右衛門のゆかりの家でもある。矢崎氏は江戸時代を通じ有力農民として有野村の名主を務めていた。市指定建造物。
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徳島堰は韮崎市上円井(かみつぶらい)で釜無川から取水し、南アルプス市曲輪田新田(くるわだしんでん)まで約17kmを結ぶ灌漑用水路。
江戸時代の寛文5年(1665)江戸深川の徳島兵左衛門(とくしまひょうざえもん)によって開削が始められた。
2年後には曲輪田まで通水に成功するが、大雨によって二度堰が埋没すると兵左衛門は事業から手を引き、その後甲府藩が事業を引き継ぐ。
甲府城代から堰の復旧工事を命じられた有野村の矢崎又衛門(やざきまたえもん)は、私財を投じて工事に取組み、寛文10年に工事が完成し,翌11年に「徳島堰」と命名された。
堰の開削によって耕地が広がり、曲輪田新田や飯野新田、六科新田など新たな村々が開かれるなど、水不足に悩む地域に多大な恩恵がもたらされた。
現在でも徳島堰の水は、水田だけでなくスプリンクラーに導水され、市内の桃やさくらんぼを潤し、フルーツ王国南アルプス市を支えている。
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御勅使南公園の中にも、将棋頭から続く御勅使川右岸を守る石積みの堤防があります。
公園の管理事務所の南、駐車場の入り口付近から東西に堤防を見ることができます。この堤防の北側は現在では様々な遊具や、ラグビー場などが広がりますが、昭和初期まで御勅使川の河原が広がっていました。
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途切れることなく一直線に延びる堤防。洪水から人々や町を守る堤防がこうした姿であることは現在では当たり前ですが、少なくとも江戸時代から明治時代の堤防では、途切れ途切れの姿が普通でした。この不連続の堤防は明治時代ごろから「霞堤」と呼ばれるようになります。
御勅使川の堀切橋付近を見てみましょう。前御勅使川に比べると、堤防と堤防の間、つまり遊水地が広く確保されています。増水した時には途切れた部分から水を逆流させ、一時的に水を蓄える機能も果たしていたと考えられます。このように霞堤は、先人の長い経験を踏まえながら「あふれる」ことも考えて造られた堤防でもあるのです。
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湧き出た御勅使川の伏流水をせき止めて造られたため池。池には赤牛の神様が住むといわれ、赤牛が村人に椀や膳を貸してくれる昔話が今に伝えられている。中島には水神でもある弁才天が祀られている。
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大正9年に竣工。高さ7m、長さ109.1mある大型の堰堤。芦安、藤尾堰堤とともに現在でも大正期の姿をとどめている数少ない堰堤のひとつ。芦安堰堤と並び、「御勅使川治水の双璧」と呼ばれていた。現在でも私たちの生活を支えている。
[画像:個人所有]
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冬に吹き下ろす「八ヶ岳颪(やつがたけおろし)を考え、八ヶ岳にむかって設計された幅100m、長さ1500mの滑走路。中央に設けられた誘導路は、今でも農道として利用されている。
現在でも、所々に60数年前動員され人々が造成した滑走路の盛土がそのまま残っている。平成17年度に実施した発掘調査の結果、当時の人々が滑走路両側の土を掘って滑走路に積み上げたたことがわかったほか、土が沈まないように締め固めたような跡も見つかり、当時の人々が行った作業工程を垣間見ることができた。
また、平成23年度には、滑走路北端付近で調査が行われ、滑走路西側を削り、その土を東側に盛って、傾斜をならす工事が行われた痕跡が確認された。
冬季の季節風(八ヶ岳おろし)に対応するため、滑走路はまっすぐ八ヶ岳の方向に向けて造られています。
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ロタコの呼応時に伴って掘られた横穴壕は燃料などを隠して備蓄することや航空部品などの地下工場にすることを目的につくられました。ループ橋から、ここ築山付近まで55基以上が掘られたようです。
横穴壕の工事は、大手ゼネコンが陸軍から受注し、ロタコの工事の中では最も早く、昭和19年あきころ(証言によっては、昭和18年中)から建設が始まったといわれています。
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陥没跡の反対側には横穴壕を掘る際に、掘り出された土の形がそのまま残っています。横穴壕は、戦後すべての壕が崩落などによって閉口し、現状では山肌にその痕跡を辛うじて確認できるといった状況にあります。
横穴壕の痕跡は、円形やU字形の陥没地形です。
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横穴壕の近くにある福王寺の過去帳には、ロタコ工事で亡くなった朝鮮半島出身者の名前ものこっているといいます。横穴壕が掘られた山の斜面は非常に崩れやすい地盤で、横穴の掘削工事は困難を極めました。
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江戸の商人徳島兵左衛門が考案し工事に取りかかり、後に有野の矢崎又右衛門が寛文10年(1670)に完成させた用水路。御勅使川扇状地上の旱魃地帯を潤した。終戦間際には、この徳島堰の堤防に沿って1~3号掩体壕とは異なるこのような形の掩体壕が並んでいた。
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現在残る3基の掩体壕のうち、平成17年度に最初に発掘調査が行われ、掩体壕の形や大きさ、基礎の作られ方などが正確に記録されました。
3号掩体壕は新興住宅街に隣接する空き地にひっそりと眠っており、その基礎は60年あまりの月日を経て文字通りもう半ば埋まりかけていました。
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新コース「8神々が宿る高尾の世界」の「高尾集落」ページはこちらから↓
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櫛形山中腹の標高約800m~900mに立地する集落です。
かつては「鷹尾」と表記されており、これは、昔、日本武尊が酒折の宮から櫛形山を眺め、鷹が巣に座している姿に見えたことから「鷹座巣山」と呼ばれたという伝承によるもので、尾の北側にある集落を「北鷹尾」、つまり現在の「高尾」地区と呼ぶようになったと言い伝えられています。ちなみに南高尾は平林地区(現富士川町)です。
集落の西端には式内社に推定される穂見神社が佇み、東南方向に傾斜し眺望が開ける位置に広がります。
江戸時代を通しておおよそ20戸前後があったとされ、林業が盛んとなった昭和の戦後まもなくにかけては最も戸数が多く、30戸を超えていました。
写真は昭和33年頃の様子です。静けさの中にも子供たちの声が聞こえてきそうな昔懐かしい「高尾」の風景です。
[画像:個人所有]
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甲府や竜王方面から、上今諏訪、西野などを経て高尾を結ぶ道。
現在でも高尾街道と呼ばれます。
写真の道標は高尾集落から遠く離れた上今諏訪の地にあり、高尾道の旧道沿いに今もひっそりと佇みます。
右あしくら 左たかお と記されています。
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古道である高尾道から高尾山林道までを結ぶ作業道を下ると、林道上の崖上にたどり着く。見晴らしが良く、正面に富士山を望めることから、この場所を富士見平(ふじみでえら)と呼ぶ。
丁度、富士山の手前にみえる谷地形が逆さ富士のように見えることから
「高尾の逆さ富士」として一部に人気のスポットである
高尾古道再生プロジェクトでは、この付近の林道沿いに石標を設置しているのでこれを目安にしてください。石標横のはしごを上り、道なりに数十mの地点で、鋭角に古道が折れ曲がる角の地点です。眺望をお楽しみください。
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昭和7年にコンクリート製の旧信玄橋が開通するまでは、上高砂と龍王を隔てる釜無川を渡るには、「高砂渡し」と呼ばれる渡船を利用する必要がありました。ただし、渡しが運航するのは5月頃から12月中旬までで、水の少ない12月から4月までは仮橋がかけられていました。
[画像:八田村誌]
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本州中部のアルプスなど標高およそ2,500メートル以上の高山帯に生息している。ライチョウははじめ北方に広く棲んでいたが、氷河期とともに南下し、再び地球が暖かくなったときには大陸から独立してしまったので高山に残されたものである。昭和30年に「国の特別天然記念物」に指定されている。
生活史は、まず4月につがい形成がおこなわれ、5月から繁殖期に入ります。やがて交尾が行われ、雄が見張りをする間に雌は巣作りと産卵を行い、7月上旬にふ化し、雛はすぐに歩いて餌をついばむようになる。雄は家族と離れて雄同士で群れをつくる。したがって雌のみが雛を育てることとなる。やがて、10月には雛は一人前に成長し、ここで家族は離散する。
南アルプス北部では北岳、間の岳、農鳥岳などいわゆる白根三山をはじめ、仙丈ヶ岳、駒ヶ岳、鳳凰三山などに分布している。
学名/ライチョウ(Lagopus mutus・ライチョウ科・Tetraonidae)
指定年月日/大正12年3月7日
写真撮影/森本聖治氏
甲斐犬は大正の末期頃、虎毛の日本犬として発見された。甲斐犬の特徴として体高は32センチメートルから51センチメートル、体重は12キログラムから24キログラム、耳はやや長く、四肢は強健で飛節が発達し、尾は差尾又は巻尾、毛は虎模様で粗剛。血統が山野にクマ、イノシシ、シカなどを追う山犬だけに、猟にかけては特に優れており、また警察犬や番犬としても物覚えのよさ、主人への服従の点からも優れていると云われている。
甲斐犬の原産地は山梨県南アルプス市、早川町、上九一色村、牧丘町、甲府市宮元などの山間僻地にのみ限られているが、中でも南アルプス市のものが最も勝れていると云われている。
昭和9年1月22日、甲斐犬の優れている性質を認めて、「生きた天然記念物」に指定され、その繁殖と保護に力をいれている。
名称/ 甲斐犬
指定年月日/昭和9年1月22日
備考/「生きた天然記念物」
写真撮影/三井孝司氏
樹高25メートル、樹齢千年とも言われる。落雷を受けながらも天高く枝を張り、風土を守ってきた。「三恵の大ケヤキのように」と語り伝えられ、人生の手本にも、励ましにもなってきた。
所有者、管理者/南アルプス市
指定年月日/昭和2年11月30日
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古長禅寺は正和5年(1316年)に夢窓国師が本尊釈迦如来を安置、禅刹を興したことに始まる。このビャクシン植生地は「お釈迦堂」と呼ばれており、開山当時四天王をかたどり、旧客殿前庭の四隅に約十メートルごとに植樹され、通称「夢窓国師手植えの四つビャクシン」とも呼ばれている。樹齢約700年。
名称/古長禅寺のビャクシン
所在地/南アルプス市鮎沢505
所有者、管理者/古長禅寺
指定年月日/昭和28年11月14日
備考/4つのビャクシン、樹齢…700年
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長谷寺は新義真言宗智山派の古寺である。大和国(現在の奈良県)長谷寺に倣って豊山長谷寺と名付けられたが、その後この土地が八田の庄であることから「八田山長谷寺」と改称し現在に至っている。
本尊には十一面観音菩薩が祀られ、「原七郷の守り観音」として古くから篤く信仰されてきた。
原七郷(上八田・西野・在家塚・上今井・吉田・小笠原・桃園)は御勅使川扇状地の中央に位置するため、旱魃に悩まされてきた一帯で、長谷寺では古くから雨ごいの祈祷が行われてきた。
開創は、寺記によれば天平年間で、僧行基が甲斐国の治水事業のため留錫した際、当地で十一面観音を彫刻したのがはじまりと伝えられている。現在の本堂は昭和24年の解体修理の際に発見された旧材によって、大永4年(1524)に再興されたことが明らかとなっている。
所在地/南アルプス市榎原442
所有者、管理者/長谷寺
指定年月日/昭和25年8月29日
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下高砂地区で染色捺染業(型染)を営み、平成4年3月21日、旧八田村教育委員会より江戸小紋染師として無形文化財保持者に認定指定された。
内田氏は、父であり師でもあった内田秀一氏(山梨県指定無形文化財保持者)の後継者として引杢(ひきもく)等の染めの技術を継承し、日本の伝統工芸である江戸小紋型染に専念従事するようになる。
小紋とは型紙などを用いて染め出したがらの細かな模様、そしてその模様が染め上げられた着物を意味する。江戸時代、武士の礼装である裃(かみしも)に小紋が用いられ、各藩が独自の小紋を競い合うことで、技術的に大きな発展を遂げた。
昭和29年、こうした柄の細かな小紋を他の小紋と区別するため、江戸時代の代表的な染めであることから「江戸小紋」という名称がつけられた。
江戸小紋は、縮緬(ちりめん)を代表する絹地織物に繊細な柄模様を単調な色彩で染め抜く伝統技術である。江戸小紋の特徴はこの柄の細繊さにあり、遠くで見ると無地に見えるが、近くで見ると柄が現れるのが上品あるいは「粋」とされた。
染めに使われる型紙は「伊勢型紙」といわれ、現在の三重県鈴鹿市白子で製作されてきた。型彫りには「引き彫り」、「錐彫り」、「突き彫り」、「道具彫り」等の高度な技術が必要であり、染め師と同様に無形文化財に指定されている彫り師もいる。
所在地/南アルプス市
所有者、管理者/
指定年月日/平成4年3月21日
備考/
本樹は能蔵池の北西隅にある。江戸彼岸桜という名称は、「東国(関東)の彼岸桜」という意味で、ゆえに「東(あづま)彼岸桜」ともいう。
根回り4.5メートル、目通り1m、樹高8メートルの大樹である。樹勢は旺盛で、毎年4月上旬に薄紅色の美しい花を咲かせる。
所在地/南アルプス市野牛島2704
所有者、管理者/野牛島区
指定年月日/昭和51年3月1日
備考/
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水宮神社は有野部落の北部、御勅使川近く鎮座し、水波能女命(みずはのめのみこと)を祭神とする水害防護の神社である。御勅使川は大扇状地をつくっただけに、有史以来も大氾濫をくりかえし、特に天長11年(834年)の洪水は大惨事をもたらし、救恤のため勅使が派遣された。時の国司藤原貞雄は治水に努力し、当社に配祀されている。江戸時代、有野ほか21ケ村の鎮守として、御勅使川の共同水防が行われてきた。また、当社の森社叢は、マツが主要樹木だが、その他にアサダ2本、クマシデ3本、モミ10本、ケヤキ1本で構成されたいます。この中のアサダはクマシデ科の落葉高木で、本県では珍しい樹種で貴重な存在です。
所在地/南アルプス市有野1298
所有者、管理者/水宮神社
指定年月日/昭和61年9月12日
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ひとくちに桃といっても、7月から9月まで時期によって旬の品種は移っていきます。
現在南アルプス市で栽培されている桃の代表的な品種には、「日川白鳳」「夢みずき」「白鳳」「あかつき」「川中島白桃」等がありますが、どの品種も色つきが良く、糖度が高いのはもちろんで、その上、日持ちが良い硬質の果肉であることが人気栽培品種の条件となっています。
そう、最近の桃はとっても甘いのに、リンゴのように皮をむいてカリカリと食べられるのです。
昔食べた、果汁が滴り落ちるような柔らかい桃は現在の市場では出回りません。
いまどきの流通システムに対応した共同選果が、傷がつきやすく痛みやすい桃に不向きだからです。そのために、かつて水密桃といわれたような、食べると果汁で口の周りがベタベタするような果肉の柔らかい品種の桃は淘汰されていきました。
その淘汰された桃の品種のひとつに「西野白桃(にしのはくとう)」があります。
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この写真は昭和9年頃に西野で撮影されたメロン栽培用の温室内での一コマです。
立派なメロンにそっと手を添えている少年はその時、2歳6か月だった功刀幹浩さんです。
ちっちゃなあんよに不釣り合いな大きな下駄もかわいらしいですね。
その後ろで、幼い幹浩さんの背中をやさしく支える男性は、当時功刀家で働いていた文貴男さんです。撮影したのは幹浩さんの父で、温室栽培を南アルプス市に初めて導入した功刀七内という人です。
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かつて、収穫時に雨が降るとどんなに大変だったかを何人もの人から聞きました。
その中のお一人で、サクランボ栽培者の相川泉さん宅に、これまでの雨との闘いの歴史を教えてもらいに行きました。(平成30年9月7日訪問撮影)
色づきはじめた桜桃の実に雨粒が当たったり、降雨で土壌の水分量が急増すると、桜桃の実は瞬く間に破裂して、腐りはじめてしまいます。
相川さんによると、「サクランボはとてもとてもデリケートで微妙な作物。桃やブドウより難しい。」といいます。
しかも、寒いところが適すので、栽培南限の山梨では基本的に気候が合わず、さらにさらに難しくてリスクが大きいのだそうです。
桜桃は夏の間に花芽の分化をしており、猛暑で乾燥と高温だった場合の翌年のさくらんぼは高温障害が出て、出荷できない双子果が多くなりますが、農家にはどうしようもありません。
さらに、サクランボの実をもぐときにも細心の注意をしないと翌年に実がつかなくなってしまうので、サクランボ狩りで素人が収穫するのも大変なリスクがじつはあるそうです。
そして、一般的に「なりどし」と「うらどし」があるといわれています。南アルプス市ではそんなに大変で気難しい桜桃の栽培を、どんな知恵と工夫で乗り超えたのでしょう?
昭和40年代はじめまでの桜桃には、まだ人工授粉や雨除け対策というものはされておらず、自然環境に左右されましたが、当時はまだ殺虫剤をそれほど使用していなかったので、花粉を媒介する虫も数多くおり、自然授粉でも大丈夫だったそうです。
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道祖神と並んで立つ榎原の蚕神。
現在は果樹の広がる耕地が、昭和40年代初めまではいちめんの桑畑でした。
蚕神の碑は、病気に弱く、当たりはずれの多い蚕の健やかな成長を願って日本各地に建てられました。
大正から昭和にかけて建てられた養蚕繁盛を願う蚕神(蚕大神)の石造物は、他に上高砂と下高砂、徳永にもありますが、榎原二組観音小路に建立の蚕神が一番古く、大正七年戌午二月十日と刻まれています。
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南アルプス市白根地区西野区内に大正時代初期に、開店したばかりの喜久屋商店。
大正時代から昭和10年代まで営業されていた喜久屋商店は櫛形山の中腹にある高尾の夜祭で有名な穂見神社に向かう通称高尾街道沿いにあります。
甲府方面から釜無川を渡って参詣する主要ルートであったため、西野区内でもこの街道に面する家では喜久屋商店の他、呉服屋や薬屋を営むものが2・3軒ありました。
喜久屋では、創業した芳明氏が甲府一高で同級生だった倉庫町の山梨商会経営者の協力を得て、駿信往還沿いの倉庫町にも進出し、タクシー業務部と臨時支店をもちました。
現在でも11月22日~23日にかけて、高尾穂見神社の夜祭が行われます。
かつては高尾山にある穂見神社を目指して、提灯を持った人々の行列が夜通し街道を多く行き交ったといいます。
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南アルプス市といえばいまは果樹栽培地として有名ですが、
水はけの良過ぎる御勅使川扇状地で生き抜いてきた先人たちがいままでに栽培した代表的な作物には、小麦・藍・煙草・綿花などがあり、明治以降、昭和40年代くらいまでは養蚕が盛んに行われていました。
しかし、全国的に昭和50年代に入ると、化学繊維の台頭によって海外生糸輸出は停止し、和装離れによって国内需要も著しく低下しましたので、現在は蚕糸業(養蚕業から製糸業という一連の流れをまとめて呼んだ業種名)という産業そのものが実質的に消滅したといわれています。
南アルプス市では、水の豊富な中南部を中心に明治20年頃には、大規模な製糸場2社がすでにあり、大正、昭和初期には規模の大きなもの(50釜以上)だけでも20社ほど存在しました。
戦後も市内には中小15社以上ありました。
それに伴う製糸場の原料を供給する力=繭の生産力も大きかったということです。
しかし、蚕糸業が終焉を迎えてから50年ほど経ち、市内各地どこもかしこも桑畑の風景は一掃され、あれほど身近だった養蚕風景も、製糸場から漂うあの独特なにおいも、経験できないものになってしまいました。
それでも、八田地区内にまだ養蚕の痕跡を見つけることができました。
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南アルプス市八田地区上高砂区には、洪水除けの神様として勧進された九頭龍神の祠が神明川沿いに3箇所あります。
7月の最終日曜日に、これらの場所で夕方からお祭りが行われています。
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スピードスプレーヤー、通称エスエス(以下、SS)は薬剤噴霧器を搭載した特殊車両のことです。
果樹地帯である南アルプス市内では、春先から晩秋にかけて、道路ですれ違ったり、交差点で信号待ちしていると前後に挟まれたりなんかして真っ赤なダンゴムシみたいなかわいい車体のSSに、普通に遭遇します。
SSの大手メーカーさんに聞いたのですが、「山梨はSSの年間販売台数が全国一ダントツに多い」というのです!
大手3社合わせて年間約300台も売れる県は他にないのだそうです。
隣県の長野県や静岡県では年間100台にも届かないそうです。
山梨以外の日本の名だたる果樹栽培県では、集約した農地を持つ比較的規模の大きな農家が積載容量1000リットルキャビンタイプ等、大型のものを買う傾向にあるのに比べ、山梨は500リットルタイプの小容量が主流ですが、果樹栽培一家に一台ほぼ存在しているので、販売台数が多くなるようです。
そういえば、この辺の住宅街の車庫には普通乗用車の横にSSが停めてあるのを見るのはフツーです。
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有野に遺る蚕具洗い場は、現在は使われていませんが、今も人々が行き交う道脇の水路にあります。白根地区内でも特に養蚕が盛んだった有野では、棚や飼育篭など比較的大きな蚕具でも洗いやすいように、水路から水を引き込む洗い場がコンクリートで広めに区画されています。
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八田の高砂地区は、「まるたか(○に高)印の枯露柿」というブランドで、干し柿を生産し、年末のお歳暮用として東京や関西へ、
また戦前はクリスマス向けの贈答品としてアメリカへも出荷しました。
「山梨県中巨摩郡御影村 小澤徳蔵 枯露柿製造工場」と記されたポストカードが遺されています。
画像は昭和初期の様子だと考えられます。
場所は釜無川沿いということですが、柿の後ろに前御勅使川堤防跡である「お熊んどい」の松並木が写りこんでいることを考慮すると、上高砂と下高砂の境に近い地点でしょうか?
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上高砂集落センターにて枯露柿生産農家のノリコさんとお話しました。
その時に「わたし、女子挺身隊だったのよ。終戦の時に愛知にいたのよ」と教えてくれました。
女子挺身隊とは、戦争中に軍需工場へ勤労動員された14歳以上の未婚女性の団体のことです。
高砂名物枯露柿のお話を伺おうとしていたので、突然現れた「女子挺身隊(じょしていしんたい)」という聞きなれない単語に一瞬とまどいながらも、またとない機会に遭遇できたことに感謝しました。
冷戦後しばらく安定していた世界情勢ですが、その変化を実感するいま、戦争を知らない私たちにとって、戦争経験者の証言を直に聞くことができるのは貴重な体験です。
大東亜戦争が終結してもう70年以上経っていますから。
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これは、昭和11年の通帳(かよいちょう)です。
この通帳は野牛島にある中島商店で発行されたものでした。
現在でも、少量ずつですが、魚やお肉、野菜、果物、お菓子に日用雑貨、子供向けの駄菓子もありますし、電化製品だって売っています。
毎日開いているし、まさに地域に不可欠な商店です。
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上高砂集落内の小さな交差点に道標あります。
「左甲府」とわかるのですが、「右???」が読めません。
道標に和紙をのせ、拓本を取ってみると、「左 甲府」「右 小笠原」と読めました。(「原」の字の半分がアスファルトに埋まっています)
しかし、今ある位置では方向が違うので、別の場所から移動してきたとわかります。上高砂地区でご存知の方を探して教えていただきましたところ、新しい道標を建てたために不要になったのでこの地に運んできたとわかりました。
その場所とは、龍王から信玄橋をわたって上高砂地域にはいり、左側にあるスーパーオギノの手前を入る道の隅(上高砂の消防小屋の前)でした。
現在建っている道標を読むと、「昭和4年3月17日に御影消防団第三部建」とありますので、その時からこの場を離れ、いまは上高砂集落内にひっそりと佇んでいたのです。
地図で見ると、釜無川を渡って旧道が下高砂方面に曲がる当たりの南側にあたり、位置的にも方向的にも矛盾がないことを確認できました。
長い間路傍にあり、多くの人々の旅の安全を守りながら役に立ってきた道標を、新しいものができたからといってそのまま打ち捨ててしまうことができなかったのでしょう。
当時の上高砂の人々の心情が時を超えて伝わります。
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上八田薬師堂にある那賀都神社(なかとじんじゃ)では、大嶽講(だいたけこう)がいまも行われています。
ろうそくに火をともし、太鼓をたたく音に合わせて「ダーイターケサーンナーカトーノジーンジャー、オーヤーマズーミノーカミー、オーイーカヅチノカミ、タカオーカミノーカミ、ロッコーンショージョー、ツツシミウヤマイテ、キーガーンタテーマツールー」と節をつけて何度も祝詞を唱和します。
講の手順をまとめると、「講の仲間が集まったら堂の中に入り、年長者が太鼓をたたいて音頭をとって、『大嶽山那賀都神社祝詞』を10回皆で唱える。
その際、回数を間違えないように、白い碁石を並べて数える。さいごにもう一度みなでゆっくり同じ祝詞をあげておしまいにする」というものです。
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野牛島の諏訪神社の屋根には、美しく高く積み上げられた棟にハトが向かい合ってとまっています。
遠目でみると本物に見えます。さらに、曲線の瓦の絶妙な配置が高く美しい棟を形作っています。
八田の榎原地区には昭和時代に製瓦業を営んでいた中沢瓦店がありましたから、輸送コストがあまりかからない分、ふんだんに瓦を使った贅沢な屋根が多い地域なのかもしれません。
この鳩瓦も中沢瓦店で作られたものかもしれません。
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杉山定平商店は、榎原の長谷寺に続くバス通り沿い、榎原上のバス停前にありました。
平成10年ごろに閉店したお店ですが、昭和時代のはじめから終わりまで、地域の多くの人々が、日常的に利用した思い出深い場所です。
経営者だった杉山定平さんの奥さんの杉山つるこさん(大正8年生)を訪ね、貴重な写真を見せていただきながらお話を伺いました。
こちらの写真の左端で赤ちゃんを抱っこしているのが30代になったばかりのつるこさんです。
[画像:個人所有]
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ここは南アルプス市榎原660にある清水池(しみずいけ)です。
水神さんも祀ってあります。でんでん山を八雲神社方面に降りていく道の途中の左側竹藪の手前にあります。清水池は榎原地区の重要な湧水ポイントで古くから水の乏しいこの地区の人々に、その貴重な水が利用されてきました。
現在は湧水量が減ってしまったため唯の水たまりのようにみえます。
しかし、この地の先人たちが代々利用してきた重要な場所として、今は地区の方々がこのような囲いを作って、水神さんとともに大切に守っています。
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白根地区の果樹栽培者には、「品種の先取りにより、経営を安定させていく」という伝統的な考え方があります。
ブドウの木の経済寿命は30年だということで、常に、次期はどんな品種が流行るか見据えたうえで木の改植を順次行っていかなければならないのだそうです。
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大正14年に現南アルプス市西野の功刀七内氏によってはじまったガラス温室によるメロン栽培ですが、昭和初期には西野周辺地域(現白根地区)の名産品として、全国的に名をはせるようになりました。
昭和初期以前から当該地域にお住いの家の方に、古いアルバムを見せていただくと、メロン栽培に関わっていたご先祖の姿が写し出されているのをよく目にします。
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昭和10年代撮影と思われる西野巻屋地域の「ちょうまたぎ」。
集合写真の後ろに大きな提灯をたくさん吊るした「ちょうまたぎ」が写っています。
かつては西野の八幡神社参道立てられたそうです。
現在市内では飯野若宮神社の夏の祭礼でのみ見ることができますが、かつては白根地区各地で行われていたといわれています。
この写真の存在により、西野地区の「ちょうまたぎ」の存在と姿が明らかになりました。
昭和30年代にはすでに西野のちょうまたぎは消滅していたようです。
※「ちょうまたぎ」とは屋根を持った組み立て式の大きな門で、たくさんの提灯が下げられたもの。
[画像:個人所有]
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最近は、スーパーに並ぶ果物に「糖度保証」のシールが貼られているものが増えてきました。
少々高めのお値段なのですが、ついついそちらに手が伸びてしまいます。果実を傷つけずに食べる前から甘さを保証できるなんて、ふしぎ~ですよね。
現在では、桃・林檎・梨・蜜柑といった多くの果物の選果に使用されている非破壊式の糖度センサーですが、最初は外見からではわからない食味のバラつきに悩まされていた桃のために開発されました。
昭和62年から山梨県と山梨県果実農業協同組合連合会(果実連)・三井金属鉱業株式会社が協同して開発がはじめられ、一宮と西野の農協で測定実験が行われた後、平成元年にさっそく本格導入したのは、旧白根町にあった西野農協(現南アルプス市)が最初でした。
「人工衛星から電波を発信して地球の鉱物資源探査をしている特殊光線を利用することで,桃を破壊せずに糖度を測定できるのではないか」
という話を三井金属工業の技術者から聞き、これに賛同した山梨県の果樹産業関係者とはじめたプロジェクトだったそうです。
ちょうど桃の出荷中だった8月1日に、世界で初めて平成元年に桃の非破壊式糖度センサーを導入したJA南アルプス市西野支所(導入時:西野農協)へ、現在の稼働状況を取材に行きました。
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榎原二組観音小路蚕神のすぐそばの石丸家は、当家の親戚であった建築家内藤多仲がかつて甲府中学に通う際に下宿していたというお宅です。石丸家には古い井戸があり、深さ6.5mほどのところで水が溜まっています。水の乏しい榎原地区でも枯れることのない貴重な水源だったそうです。
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現在、南アルプス市域では、あんぽ柿・枯露柿が盛んです.
その原料となる渋柿には、9月終わりから12月にかけて、刀根早生・平核無・勝平・大和百目・甲州百目・武田などの品種が移り変わっていきます。
そのうち、勝平と大和百目の原木は南アルプス市白根地区にあったものです。
とくに大和百目は、甲州百目とならんで、現在山梨を代表する大型の枯露柿の原料として大変人気があり、南アルプス市域で多く生産されている品種の一つです。
大和百目という品種の歩みは、西野に近接する上今諏訪の手塚半氏の竹林の中にあった一本の柿の木からはじまりました。
この木は甲州百目の枝代わりと言われていましたが、果実はそれ以上の大きさで、その上、核(種)が少なく、甲州百目よりも早く熟します。
枯露柿用として用いると、果肉が非常になめらかで食感がよく、色も鮮やかに仕上ります。
この樹の柿に魅せられた西野の手塚光彰氏が、今諏訪の原木から穂木をとって苗木に仕立てて、大正7年3月に、現在の桃ノ丘団地付近に50本の苗木を植え、当時としては珍しい柿の園地を造成しました。
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県道甲斐芦安線を挟んで六科の八幡神社の向かい側にある清水油店タンク奥をよく見ると、レトロな倉庫があります。
もとは現在の下高砂集落センター隣の徳永地区に建っていました。その前には所有者の 現在は倉庫として使われています。
実はこの建物、昭和4年に若尾逸平の娘婿若尾金造がキリスト教伝道等を目的として建てた講堂(青年道場)でした。
南に富岳を朝夕仰ぐその名も「南岳荘(なんがくそう)」。
甲斐山岳会の会長もつとめた若尾金造は外国人を引き連れて南アルプスの山々を開発する際、若尾銀行の番頭で田之岡村徳永出身であった清水謹一の縁でこの地を事前宿泊地とし、南岳荘と呼んだのがはじまりです。
清水謹一氏の息子で、現在この南岳荘を六科に移転して所有し、徳永のかつての所在地であった場所にお住いの清水禎次郎さんから、いろいろと教えていただきました。
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白根地区飯野に、昭和30年代から開塾しているそろばん教室に資料を見せていただきにまいりました。
そろばん教師の相川さんは全国的な和算の研究会にも所属され、そろばんに関するありとあらゆる資料を収集されている有名な方です。
かつて習い事は「お習字かそろばんか」という時代が長く、そろばん教室が各地で盛んに開かれてました。
相川さんのお話によると、明治以降に東京などの都会に出て一旗揚げたいという人も、まずは「読み書きそろばんを身に着けてから」でないと話にならなかったとのこと。
戦後も個人で使える電子計算機のなかった時代、金融機関でも行員がそろばんを使っていた昭和30年代には、複数の場所に教場を持っているような大手のそろばん塾が現在の南アルプス市内に5~6軒ほどもあったそうです。
昭和50年代になり、ピアノや水泳など習い事の選択肢が増えたきたころから、そろばん教室の状況はかなり変化してきたようですが、相川さんが開いていらっしゃる飯野にある珠算学院には、現在も小学生を中心に生徒さんが元気よく通っていらっしゃるとのことでした。
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南アルプス市飯野のあるお宅から90年ほど前の雛人形をご寄贈くださるとの連絡があり、受け取りに伺いました。
奥様が、私たちに見やすいようにと、二十年ぶりに雛たちを箱から出して飾ってくださっていました。
左奥の昭和初期製作と考えられる御殿飾り雛(ごてんかざりびな)は、奥様が韮崎市からお嫁にいらした時に、彼女のお母さまが家にあったお雛様を飯野家への嫁入りに持たせてくれたものだそうです。
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西野にある保坂呉服店は昭和2年に高尾街道沿いの椚に開店しました。←昭和20年代終わりころから30年代はじめの撮影と思われる保坂呉服店の様子。(保坂和子家アルバムより)
西野区内の高尾街道沿いには、保坂呉服店さんの他に、乾物屋、酒屋、薬屋、日用雑貨店などがありましたが、現在も営業されているのは、保坂呉服店のみです。
甲府から高尾穂見神社に参詣する人々が釜無川を渡って今諏訪の坂を上り、慈眼寺のあたりで戸田街道から離れるように右に曲がって西野へと進む道が、高尾街道です。保坂呉服店はその街道の通り道にある西野の椚(くぬぎ)集落にありました。
和子さんが「11月の半ばに行われる高尾の夜祭に出かける人々向けて、街道沿いに面する商店の前では「茅飴(かやあめ)」を売っていたみたいよ」と教えてくださいました。
かつては茅飴づくり用と伝わるおおきな鉢がお宅に残されていたそうです。
提灯を持ったたくさんの人々がこのお店の前を行き交ったのでしょうね。
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八田地区内の、野牛島なら中島商店、徳永は手塚ストアー、下高砂は杉山商店、榎原は杉山定平商店といったように、それぞれの居住地域には日々のお買い物をする店が必ずありました。
さらに、昭和時代を生きた八田・白根地区の人が、口をそろえて買い物にいったことがあると答える店が六科にありました。その名は「だるまや」。
食料品、日用品をはじめ、衣類や薬など何でもそろう、この辺りでは一番規模の大きい商店だったようです。
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明治以降、甲州枯露柿は山梨の主要輸出品の生糸や水晶等と並んで重要な輸出品のひとつとして数えられていましたが、
大正時代に入ると輸出先での顕微鏡検査で枯露柿の表面に多数の有害微生物がみられるとして、衛生的見地から天日干しという製法の問題点が指摘されるようになっていました。
この問題解決にいちはやく反応した生産者が、白根地区西野の当時30歳代であった手塚光司氏でした。
昭和5年か6年頃から光司氏が枯露柿の火力乾燥に関する研究を行い,昭和9年に乾燥室の装置、加工法、排気装置、温度、燃料等を開発し、火力乾燥法を完成させます。
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南アルプス市内のあちこちで見かけるSS(スピードスプレーヤー)を使った農作業の様子です。
SSは、潅水や防虫害除けのための薬剤散布をするための作業車ですが、中でも南アルプス市域において最も所有率の高い500リットルタイプの小型SSの使用状況を、上今諏訪の原家所有のサクランボ園で見せていただきました。
山梨県のサクランボ栽培は、通常サイドレスハウス内で行われているので、小回りが利く小型のSSが重宝されています。
SSはサクランボ以外にも果樹全般(モモ、スモモ、ブドウ、カキ、キウイフルーツ)の作業に頻繁に使われます。非常に細かい霧状の水が後方についているノズルから180度放出されるしくみです。
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「ヒシケイさん」と呼ばれて地域に愛され、現在も飯野で開業している街の文具屋さんですが、その前身は自転車の販売店でした。
当時を知る斉藤さん、中澤さんにその頃の様子を伺ったところ、昭和20年位(終戦直後)までは地域で一つしかない自転車屋さんだったそうです。
その時、自転車を購入したお客さんに、おまけとして「ゼブラの自転車 ヒシケイ分店 飯野驛北」の名入りの問屋そろばんを配っていました。
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八田地区下高砂の柿のホッタ回しの名人、穴水さん。
こちらの名人は機械を使わず、愛用の小刀一つで、シーズン中は毎日、何百個もの渋柿のホッタ回しをなさっています。
穴水さんは昭和30年代前半に下高砂にお嫁に来てから、かれこれ60年もの間、11月には柿仕事をしているそうです。
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南アルプス市域の北西部で現在10軒ほどの花卉栽培農家があり、鉢植えの花栽培では県内一の生産量を誇っています。
施設を使っての花卉栽培は季節を問わず一年中仕事ができることと、利益率が良いことが魅力です。
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干し柿作りには硫黄燻蒸が欠かせない工程の一つです。
「ホッタ回し」というへた周りの形状を整える作業後、側面の皮を剥いた柿は、まず硫黄燻蒸されます。大正時代に福島で発明された工程だといわれています。
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白根飯野3地区で行われている、夏の道祖神祭りでは、ちょうど15時位から地域の男性が40人ほど集まり、
「ちょうまたぎ」または「雨屋(あまや)」とよばれる構造物を組み立て始めます。
30分ほどで骨組みが出来上がり、1時間ほどすると、屋根や提灯、風鈴、花などで美しく飾られらた「ちょうまたぎ・あまや」が完成します。
午後5時からは子供たち向けのリクリエーションもその前ではじまり、賑わいます。
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有野の花卉栽培農家。
白根地区の北西部にある有野周辺では、昭和20年代終わりまでは米麦栽培と養蚕が収入の柱でしたが、
昭和30~40年代にかけて、米麦栽培に代わってスモモ栽培や菊花の栽培が行われるようになります。
その後、花卉栽培に関しては、山梨県内屈指の大規模な施設園芸が展開され、切花だけでなく、シクラメンやシンピジウムなどの鉢植えの花の出荷が現在も盛んに行われています。
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果物の出荷用掛け紙
西野の芦澤家のお蔵の戸棚から、メロンを出荷する際に使用された、掛け紙が見つかりました。
富士山とブドウ、一番手前にメロンが描かれています。
メロンは大正から昭和初期にかけて西野の特産品でした。
掛け紙の遺されていた芦澤家には、メロン栽培に当時使用していたガラス温室等の写真も残されていました。
収穫され、生産者の名入りの掛け紙をまとったメロンは、昭和5年に開業した峡西電鉄西野駅の引き込み線にあった果物専用貨物ホームから、東京や関西等の大都市部へ出荷されました。
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写真は、高砂枯露柿組合作業所前での集合写真です。
枯露柿が出荷用の木箱に詰められ、積み上げられています。
残念ながら高砂枯露柿組合作業所のあった場所は、いまのところわかっていませんが、この写真の存在は、八田地区高砂の枯露柿が昭和初期にアメリカに向けて輸出されていたことを物語る貴重な資料です。
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築山のどんど焼きでは、御勅使川扇状地の扇頂部分に近い築山の根方に、もみの木を使った巨大な左義長(さぎちょう)型のオコヤがつくられます。
築山区のオコヤを作るために必要なモミは、数日前に神主さんに見立ててもらい、築山区の山方に生えるものの中から選び出されるそうです。
神木となったもみの木はお神酒をかけてお参りした後、チェーンソーで伐採し根方に降ろされて、どんど焼きの前日に行うオコヤづくりに使われます。
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「百々の北新居のどんど焼き」
富士川街道と交差する百々交差点を超えたところ行われています。立派な幟が2本たっていましたが、住宅街なので、火はこじんまりと、コンクリート製のブロックの上に鉄板を敷いて燃していました。
古典的な枝差し型の繭玉をもった小さな子供二人が、大勢の大人たちに見守られながら焼いていました。
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春先に、上八田の果樹地帯を歩くと、スモモの花を枝からもいで集めている上八田の方々に出会います。
花粉を集めるための花摘みは、果樹地帯の春本番を告げる風景です。
上八田では、昭和40年代後半になると、養蚕をやる家はなくなり、西野や在家塚、百々一帯からつづく一面の果樹地帯となりました。その頃から現在まで、上八田も南アルプス市のスモモ生産量日本一を担う地域の一つとです。
この「ハリウッド」という品種のスモモの花粉は、同じスモモの「貴陽」の受粉用として白根地区で多く使われています。
この樹の花が果樹地帯で年度末にいち早く咲き始めると、春の訪れを感じさせます。
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『タガシラセギ』とは、在家塚で現在も使われ続けている利水施設のことです。
江戸時代以降、扇状地のど真ん中に位置する在家塚での新田開発を可能にしたこのタガシラセギは、明治・大正・昭和と水田用の灌漑施設として使われ、その後産業の移り変わりとともに、桑栽培、果樹栽培へと使用されています。
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葱苗の栽培と販売は、白根地区上八田の伝統的な産業です。
上八田の葱苗売りは、毎年、三月上旬から五月中頃までの間に行われており、昭和30年代から50年代が最盛期でしたが、平成に入り、葱苗栽培をする農家は少なくなりました。
そんな中、上八田西小路の小野さんの栽培する葱苗は、毎年、富士五湖周辺の二つの農協と大口の取引があり、水はけの良い御勅使川扇状地で栽培する上八田の葱苗の質の高さは今も評判がよいそうです。
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西南湖にある重要文化財安藤家住宅で行われる「安藤家住宅ひなまつり」では、貴重な横沢雛が飾られます。
甲州で明治大正期に多く作られた横沢雛には童子をモデルとした人形が一番多いのですが、他に、成人女性や男性、妊婦、長生きの象徴としての老夫婦、七福神などの神様などモチーフに多くのバリエーションがあります。
その中でも、ひときわ異質なのが、赤い髪の中国の伝説の妖怪、猩々(しょうじょう)のお人形がです。
猩々は、能の演目にも真っ赤な装束で登場する中国の伝説上の生き物のことで、赤毛で人間のような容姿をしており、酒を好むとされます。
また、赤いものを嫌う疱瘡神を追い払うという伝承もあり、子供の健やかな成長を願って送られたものと思われます。
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11月から12月、八田・白根地区を歩くと、いたるところで柿剥きが行われている様子が見られます。
そのそばには、剥きあがった鮮やかなオレンジ色の柿が可動式の棚に吊るされて、硫黄燻蒸室に順々に運ばれるのを待っています。
周辺の露地にまで、柿の上品な甘い香りがほのかに漂ってきて、季節感あふれる秋の空気で満たされます。
9月の終わりころから空調管理の整った屋内での乾燥をはじめ、11月に入ってから屋外の干場にようやく柿が吊されます。
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甲州では節分が近くなると、屋根より高いところに、「手すくい」と呼ばれる麺類をすくう竹製の道具や目の粗いザルに、とげとげの葉をもつネズミサシの枝を一緒にくくりつけます。かごの目は鬼の眼であり、今後起こりうる悪いことの「芽」にも見立てています。この目をたくさんつぶすと、一年の災いが減少するという信仰があります。人々はこの「鬼の眼」に向かって「鬼のまなこをぶっつぶせ~」と大声で唱えながら炒った大豆を投げます。
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豊村の蚕糸業が盛んになるな中で、大正時代には組合が設立され、農業倉庫が建てられるようになります。写真は昭和4年に建築された豊村第二農業倉庫で、現存します。
この倉庫には生繭6万貫を収容できるものでした。
またこの頃組合では、乾繭施設の建設が事業計画に盛り込まれます。
乾繭場(かんけんじょう)とは、養蚕農家から集めた生繭を熱風で乾燥させ、中のさなぎが羽化して出てくる前に刹蛹(さつよう)し、さらに水分を除去することでカビが生えたりするのを防ぎ、長期間の保存に耐えるように処理をする工場のこと。
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加賀美の瓦製造は、江戸時代(天保期1835頃から)甲府城に使用する瓦生産を農閑期に行ったのをはじまりに、昭和50年代初めまで行われました。
最も盛んに行われたのは明治中頃から昭和40年代末くらいまでの100年間ほどですが、作業風景を写した画像や記録は少ないです。
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沢登の龍沢寺には、伝説の男「せとじゅうさん」が瀬戸地蔵として祀られています。
←櫛形町誌(昭和41年刊)の瀬戸地蔵画像。この地蔵は昭和24年12月6日に建立したという。
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若草地区加賀美では昭和50年代まで40箇所以上の瓦製造所がある、瓦の街でした。加賀美地区は瓦作りに適した良質な粘土と豊富な水、焼き上げる際に必要な燃料を採取できる山が近いなど、好条件を備える土地でした。
その中でも、神山家は昭和初め頃から平成2年まで操業を続け、この地で最後まで瓦を焼いていた家です。
←昭和初期から平成2年まで操業した神山家の瓦製造工房内
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通称「ボロ電」とは、昭和5年から昭和37年までの32年間、西郡を甲府方面・峡南方面へと結んでいた路面電車のことです。
運行会社は、山梨電気鉄道→峡西電気鉄道→山梨交通へと変遷しました。
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白根地区今諏訪は、御勅使川扇状地の扇端部が釜無川によって削られてできた浸食崖沿いに、南北に広がる集落です。
この地では浸食崖の上に集落がありましたが、崖直下からは豊富な湧水があり、明治期には、この水力を動力とした水車小屋=搗屋(つきや)が崖下にいくつも並んでいたそうです。すべてが同時期操業であったわけではありませんが、全部数えあげると、昭和30年代までに7カ所もあったようです。
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現在は営業していませんが、櫛形地区上市之瀬にある、道に面した大きなパステルグリーンの観音扉が印象的なその野々瀬郵便局は、形西小学校の向かいに、県道伊奈ヶ湖公園線を挟んで立っています。
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多くの人や車が往来する富士川街道沿いで、地域の誰もが見知る街の電気屋さんである「(株)齊藤テレビ」の、昭和20年代末から30年代末までの変遷とアルバム写真データを大まかな年順に整理しました。
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伝単とは、敵の国民や兵士に降伏をうながしたり、戦意を喪失させる意図で、空から撒いたり街に掲示したりする、宣伝謀略用の印刷物(ビラ)のことです。
この「桐一葉」は、若草地区下今井出身で、太平洋戦争中に陸軍航空本部技手であった志村太郎さんが、太平洋北部のアリューシャン列島にあるキスカ(鳴神)島で拾ったもので、戦場で数多くばらまかれた伝単の中でも、ひときわ芸術性・文学性が高いものです。
色と形が桐の葉そっくりに作られているだけでなく、当時有名だった歌舞伎の演目「桐一葉」の内容を想起させる格調高い短文を付して、日本兵に軍部の衰退と滅亡を予感させています。
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上宮地区内で果樹農家を営む野田家シュンゾウさんにお話を伺い、10月のキウイの収穫中の農園に案内していただきました。目の前に広がる農園を見渡すとたわわに実った、すずなりの「ゴールデンキングキウイ」。「ゴールデンキングキウイ」は黄色い果肉で酸味の少ない最近流行の品種、野田家では今から15年ほど前(平成17年頃)から生産しているそうです。
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「ネクタリン」は桃の一種で、分類上はバラ科モモ属のうち果皮にうぶ毛のあるものを「モモ」、うぶ毛のないものを「ネクタリン」と呼ぶそうです。江戸から昭和まで南アルプス市地域原七郷で盛んに栽培されてきました。
昭和18年8月12日に西野功刀家に、伏見宮家から届いた書簡を見ると、西野から献上されたネクタリンが伏見宮殿下の嗜好に適したとして、その思召しに功刀家宛にられてきた郵便小為替証がありました。
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昭和2年6月2日に発行された、竜王駅(現甲斐市)から大阪駅までの小荷物切符です。どうやら功刀家は西瓜(すいか)を29斤(17.4㎏)を大阪の天満市場の「忠佐」という取引先に鉄道便で送りました。
当時は鉄道客車に荷物を載せて目的の駅まで運ぶことを「チッキ便」と云い、国鉄がJRになった際に廃止になった仕組みのようです。
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江戸時代から柿の野売りで知られていた南アルプス市白根地区西野では、明治40年代にはサクランボやモモの栽培も軌道に乗り初め、果実郷といわれるようになっていましたが、大正14年からは全国的にもいち早く温室栽培も導入しました。
南アルプス市の温室栽培史上、昭和16年頃に全盛期であったメロン栽培が最も知られていますが、そもそもメロンを栽培しようとしてガラス温室を大正14年に導入したわけではありません。
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大正5年の櫛形地区榊小学校運動会プログラムと大正15年の西野小学校運動会プログラム。昭和50年代くらいまでは10月10日、スポーツの日前後が多かったようです。
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甲西地区東南湖の横川と西川の間を流れるみぞの側壁についているプレート。これらのプレートは、地方病の予防のために溝梁を自費でコンクリート化した際に寄付者や会社の銘を刻んだものです。
山梨県で地方病終息宣言が出されたのは平成8年のこと。その後、歳月が過ぎ、釜無川流域の人々があれほどまでに苦しめられた地方病の記憶を、実感を持って語る人の数はかなり少なくなってきています。しかし、よく目をこらせば私たちの暮らしのすぐそばに、まだまだかつての地方病との戦いの痕跡が残されていることに気づかされます。
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甲西地区の江原の浅間神社付近の湧水に発し、鮎沢、田島、和泉へと、旧四ケ村を流れる狐川は、常に水量が一定に豊富で、しかも適当な傾斜があったので、最盛期には20軒以上の水車屋が軒を並べていたそう。特に旧田島村には、「搗き屋通り」と呼ばれるほどの名で賑わっていた場所がありました(甲西町誌より)。米麦蕎麦などの籾摺りや粉ひきに、近在の人々が足繫く通った搗き屋は、大正時代に入ると電気を動力とする「電気搗屋」が現れ、数を減らしていきますが、昭和時代までは田島区に「搗き屋通り」の呼び名が残っていたそうです。(写真「田島搗き屋通り図』 甲西町誌昭和48年より)
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南アルプス市は市域西部が急峻な山々に占められ、そこから発する河川が市の南東部に集まるため、市の南東部に位置する甲西地区は、上流から流されてきた砂礫の堆積により、いくつもの天井川が連なる土地となりました。年々河床が上がるたびにどんどん高さの増していく堤防は、甲西地区を行き交う人々、特に滝沢川の両岸にある集落(田島・西南湖・和泉)に住む人たちにとって、田畑に往き来したり、駿信往還に出たりするのにも、家の屋根より高い所を流れる川の土手を登ったり降りたりして越えなければならず、たいへん大きな障壁でした。
そこで、昭和時代に入ると、滝沢川の河床の下に、トンネルを掘って道を通す工事が3か所で行われました。かつて「田島隧道(ずいどう)」「南湖隧道」「和泉隧道」という3つのトンネルが、昭和時代に滝沢川の下を通っていました。
その後、これら3つのトンネルは、昭和46年より行われた滝沢川の天井川を完全に解消する大改修事業によって、川の河床がだいぶ低くなったために廃止されました。現在では、滝沢川にトンネルの跡形は何もなく、同じ場所に川の上を渡る「田島橋」「南湖橋」「和泉橋」が設置されています。
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キウイは収穫作業後、選別・出荷作業へと入ります。こちらは集荷したばかりのキウイを重さで選別する機械です。収穫したばかりのキウイを一つづつチェックしながら、選別機の皿にのせていきます。
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「地方病とたたかうポスター」をご覧にいただきたいと思います。山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。
山梨県が製作したこの地方病予防広報・啓発ポスターを見出し部分から読んでみますと、『三百余年前から蝕ばまれ悩まされ続けて来た地方病 今こそ完全撲滅の絶好の機会!!県政の重大施策としてとりあげてここに三年、有病地の指定解除、宮入貝の減少、患者の著減等々成果は上々である。 この好期をおいていつの世に根絶することができよう、みんなで力を併せて一挙に駆逐するよう今一段の努力をいたしましょう。』とあります。
このポスターには製作年が記載されていないのですが、見出しの文面と、「現在実施している予防対策」の項にPCBという薬剤によるミヤイリガイの刹貝と、コンクリート溝梁化工事に年間一億のお金をかけている」といった文言があること、当該資料の含まれる資料群全体の年代構成からかんがみて、この地方病対策ポスターは、だいたい昭和30年代中頃に作られたものではないかと考えています。
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雛人形が入っている箱に地元の呉服屋さんの名前が記されていることがあります。当時の呉服店は、節句人形の販売代理店としての機能も担っていたようで、西郡地域の人々が飾ったお人形は甲府の雛問屋で作られたものに加え、鰍沢の春木屋などの商家を経由して入ってくる駿河で製作された人形も多く流通していたと考えられます。明治大正期に昭和初期頃の西郡の人々が人形を求めるときには、
① 甲府の雛問屋か鰍沢の商家に買いに行く。
② 甲府の雛問屋から「ひなんどー、ひなんどー」との掛け声で、安価な横沢雛を籠に担いでやってくる売子から買う。
③ 初節句の晴れ着などを購入するのに合わせて、近所の呉服屋で売っている人形を買う。
の3つの購入方法があったのだと思います。
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山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。この病を克服する作戦が本格的にはじまって、100年以上もかかったのです。
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徳島堰は、韮崎市上円井の釜無川から取水し、南アルプス市曲輪田新田まで伸びる役17kmのかんがい用水路です。寛文5年(1665)、江戸深川の町人徳嶋兵左衛門が甲府藩の許可を得て工事に着手し、寛文7年には曲輪田の大輪沢(堰尻川)まで通水したといわれています。
それから昭和40年代に釜無川右岸土地改良事業によってコンクリート化され、「原七郷はお月夜でも焼ける」といわれた御勅使川扇状地扇央部の常襲干ばつ地域にスプリンクラー網が整備されるまで、開削から300年の間に大雨による埋没など度重なる逆境乗り越え、現在の徳島堰の形となりました。
そんな南アルプス市の豊かな田園や果樹園の景観を守り続けてきた徳島堰ですが、実際どのようにして取水され、どんな旅路を経て私たちの暮らす南アルプス市までその水がやってくるのでしょうか!?今回はそんな徳島堰を流れる水の旅路を追ってご紹介していきます!
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堰沿いにある入戸野バス停
3つの発電所で大役を終えた徳島堰の水たち。そこからもう少し下流、入戸野沢との立体交差地点に差し掛かると丁度辺りは入戸野地区の集落となります。入戸野沢が水路橋で徳島堰を渡っているすぐ先。堰沿いには石造物とバス停、また集落中心地のシンボルである火の見櫓が並んで現れます。入戸野の町並みと徳島堰の変遷を見守ってきたであろう石造物の背面を流れる徳島堰。堰沿いの民家を見てみると、庭から堰の水面まで降りてこられるよう「つけえばた(洗い場)」が造られている箇所も多く、この徳島堰が集落の生活にいかに根ざし、溶け込んでいるかが伺える場所です。
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竪沢暗渠
大難所を乗り越えここらでひと息・・・とは行かないのがタフな徳島堰です!清哲町水上に入ってすぐに、また大きなカーブと描きながら竪沢暗渠へと突入していきます!今はほとんど水の流れが見えない竪沢、その上流に向かって大きく湾曲していくこの光景は確か前にもどこかで見たような・・・。そう、戸沢暗渠と同じような手法を駆使して沢を乗り越えていると考えられますね!
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大門沢暗渠
旭町上条南割まで指しかかった徳島堰。もう少しで南アルプス市!と言うところで韮崎市区間最後の暗渠が現れます。山梨県指定の一級河川大門沢を潜る大門沢暗渠。大門沢はほんの少しだけ水の流れがある程度の水無川で、周辺の民家などと見比べると天井川化しています。この大門沢暗渠を越えた向こう側にはいよいよ私たちの南アルプス市が見えてきます!徳島堰の水たちもラストスパートです!
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釜無川右岸第一調整池
徳島堰本体から分水された水たちがようやく辿り付くのは「畑地かんがい調整池」の通称第一調整池です。この調整地から南アルプス市扇状地の地下にはり巡らされたパイプラインを通って果樹園のスプリンクラーへと水が送られていきます!開削から約300年、「南アルプス市を潤す」かんがい用水路として悲願の任務達成となったのです!長い旅路を経てここまでたどり着いた徳島堰。でも皆さん、徳島堰はまだ続いているのを忘れてはいけませんよ!
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釜無川右岸第二調整池
南アルプス市飯野新田地区に入った徳島堰は最後の任務に向けて第二調整池へ分水をしていきます!しかしよく見ると調整池といっているのに溜まっている水の姿が見えないどころか、一面綺麗に整地されたグランドになってしまってるのは一体!?・・。実は第二調整地はこのグランドの地下に貯水のタンクが作られており、グランド自体は地域の人たちへ無料で開放しているとのこと。どこまでも地域想いで太っ腹な徳島堰!この調整ここでも貯められた水たちは地下パイプライン網を通ってスプリンクラーへと送られていきます。頭首工からここまで約16kmの旅路の中幾度となく難所を乗り越えながら、髄所で取水の任務を果たしてきた徳島堰。最後の大役を無事勤め上げてそのエンディングへと進んでいきます!
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昭和二十年 (一九四五) 八月十七日、 豊村満州開拓団本部で開拓団幹部ら百四十人あまりが爆死した悲劇がありました。
かつて原七郷と呼ばれた干ばつ地帯にあって、 養蚕と畑作を主な生業とする零細な農村であった豊村 (現在の南アルプス市上今井、 沢登、 十五所、 吉田) が、 新天地を求め国の政策によって、 旧満州国 (現在の中国東北部) の四道河 (しどうが、 スードーホー)と呼ばれる場所に、 分村入植した歴史があります。
昭和十五年 (一九四〇) 二月に先遣隊が出発し、昭和十七年 (一九四二)四月に本隊が入植、 記録によれば、 その規模は、 開戦時五十五戸、 百六十五人だったと伝えられています。 その後も入植は続き、 終戦時には、 より多くの人が豊村開拓団に暮らしていたことでしょう。
事件は、 終戦直後に起こりました。 昭和二十年には戦局は悪化の一途をたどり、 八月十五日、 ついに日本は無条件降伏をすることになります。 このころには、 旧ソ連も満州に侵攻してきており、 開拓団にも終戦の報は届いていましたが、 他との通信連絡は途絶し、 周辺の治安は極度に悪化していたといわれます。
このような中、 開拓団は度重なる 「土匪」の襲来を受けたといわれ、 応戦しましたが、戦死者もでていました。 弾薬が尽き、 負傷者も増え、 戦力も著しく低下し、 これ以上の交戦は無謀であるし、 重軽傷者を同道しての脱出は不可能であるとして、 追い詰められ孤立した人々は、 自決することに決したのです。 八月十七日、 村人の大部分にあたる百四十名あまりが、 本部建物に集合して防戦用に支給されていたダイナマイトに火をつけ爆死したと伝えられています。 その中には、 一歳に満たない乳児から、 七十歳を超える老人までいたそうです
集団自決の報は、 大やけどを負いながら生き延びた方が、 同胞のいる収容所にたどり着き、 悲劇を伝えて息絶えたことにより、今日に伝えられることになりました。 また自決からのただひとりの生存者であった女児は、 中国人の養父母に引き取られ、 いわゆる中国残留日本人孤児となって、 戦後長く故郷の土を踏むことができませんでした。
昭和三十二年 (一九五七) には、 この事件の慰霊碑が吉田の諏訪神社境内に建立され、その悲劇を今に伝えています。 そして現在も、 事件のあった八月十七日には、 毎年ここで慰霊祭が行われています。
アジア太平洋戦争では、 戦場で亡くなった方以外にも、 このように民間人も数多く亡くなっていることを忘れてはいけません。 この事件は、 民間人も戦争になれば否応なく巻き込まれていくことを我々に教えてくれています。
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七月といえば、 昭和二十年 (一九四五) の七月六日の夜から七日の未明にかけて行われた甲府空襲が思い出されます。 この時は、甲府市街地が大きな被害を受け、 灰燼にきしています。
一方で、 南アルプス市域には、 アジア太平洋戦争による直接の被害はなかったと思われている方も多いと思います。 しかし、 記録をひもといてみると、 もうひとつの空襲が あったことがわかりまsu.
それは、 昭和二十年 (一九四五) 七月三十日。 アメリカ軍の艦載機が、 駿信往還 (旧国道五十二号、 現県道四十二号線) にそって南下し、現在の百々、 上八田、 鏡中条、 甲西地区南部、 そして富士川町の各地域を襲い、 爆撃と機銃掃射による被害をもたらしました。
特に甲西地区の荊沢では、 爆撃により民家二軒が破壊され、 三人の子どもが亡くなる痛ましい被害を出しています。
現在市が保管する、 大明小学校 (旧国民学校) の昭和二十年度の 『学校日誌』 の同日の項にも、
「午前六時半ヨリ三回ニ亘リ空襲アリ午後四時迄デノ空襲ニ於テ 初四 五味倫 爆撃ニ依リ破片ノタメ頭部ヲ粉砕セラレ即死ス 其ノ他 初六 土屋晴男 高二土屋けい子 死亡ス 学校ヨリ即刻見舞ヲナス 県ニ対シ電話及書類ヲ以テ報告ス」と記され、 当時の国民学校初等科四年生の五味倫( 九 )さん、 同六年生の土屋晴男 (十一 ) さん、 高等科二年の土屋けい子 (十五) さんが亡くなったことがわかります。 土屋晴さんとけい子さんは姉弟でした。
戦争による直接の被害がなかったかに見える南アルプス市域でも、 このような痛ましい事件があったことは記憶に残しておかなければなりません。 そしてアジア太平洋戦争全体を見渡せば、 市域出身のじつに千三百人以上の人々が世界各地で戦死したともいわれています。
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白根地区今諏訪の手塚家に訪問調査に伺い、見せていただいたアルバム12冊を含む、たくさんの写真をお借りしました。いま、その内容の記録・分析を行っています。
写真は、おおむね昭和10年代から平成10年代までもので、三世代にわたる家族、地域、民俗行事の記録などが写し出されていました。
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甲府の雛問屋「松米」の引札
甲府の雛問屋「松米」は、江戸時代中期から昭和戦前まで甲府で雛人形や端午の節句飾り、だるまなどを製作して販売した「松城屋」という屋号の雛問屋です。初代から明治の10年代以前は店の通称を「松伝」と名乗っていました。(写真は「松米」の引札『美術 雛人形 ?ニ雛道具各種 甲府八日町 松榮斎松米商店 電話四十六 振替二百三十二番』)
江戸時代から明治、大正・昭和期に存在した甲府の雛問屋は「おかぶと(カナカンブツ)」「横沢びな」「甲州ダルマ」といった独特の在地の節句飾りや雛、玩具を生み出してきました。
「松伝」・「松米」という通称を持った「松城屋」の店の場所については、江戸中期の初代より甲府横沢町にありましたが、明治期に入って、火事によりいったん柳町一丁目に移転。その後、明治5年から16年の間に代替わりして「松米」と改称し、三日町一丁目九番地に出店。さらに、明治24年頃には八日町一丁目に移転したという経緯が判っています。
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昭和40年代まで市内白根地区の果樹地帯でも多く出荷されていた「りんご」。夏の暑い時期に栽培されることから「夏りんご」と呼ばれ、出荷前には温度と日光の加減を人為的に調節して、収穫した果実を赤く発色させる「人工着色」が行われていました。
人工といっても着色料や科学的な薬品は一切使用されてはいません。
[画像:個人所有(昭和36年撮影)]
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昭和40年代中頃に、関屋(せきや)という場所でおこなわれた「さくらまつり」のチラシをご覧ください。
関屋のさくらまつりのチラシ[昭和40年代(南アルプス市文化財課蔵)]
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にしごおりの人々も多く利用した、甲府の百貨店の包紙や紙袋をご紹介します。
松林軒デパートは、昭和12年(1937)に、現在の甲府市櫻町で営業開始しました。昭和20年7月7日の甲府空襲で全焼してしまいましたが、昭和29年に甲府松菱として再開した後、昭和38年に買収されて山交百貨店として甲府南口にその系譜をつなぎますが、残念ながら令和元年に閉店となりました。
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西野功刀家より寄贈いただいた文書箪笥の中に、西野果実郷の父・小野要三郎直筆の手紙を発見しました。
「小野要三郎直筆功刀家宛書簡」
[明治45年1月17日 西野功刀幹浩家資料(南アルプス市文化財課所蔵)]
拝啓 謹言 昨日 上高砂小沢
伊ハ我承 是桃九十七代ト し
テ 委細ヲ入 金四百円ニテ 買
取呉候様申候 又 四五日
内之 又承知候ハ申付 無高
一寸申入候也
四十五年一月十七日
清水
小野要三郎
功刀七右衛門殿
南アルプス市域の果実郷では、その景観を作り上げた父と呼ばれる、小野要三郎という人物がいます。
石ころだらけで水のない不毛な御勅使川扇状地の土壌に、明治時代後半から次々と様々な果樹を県外から大量に取り寄せては植えて試作し、原七郷を多種栽培を基本とする果実郷に生まれ変わらせた中心人物です。
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果実を出荷した木箱にプリントするための金型をご紹介します。
メロン、もも、かき、さくらんぼ、りんご、などの品種名のほか、出荷した家の屋号やかつての村名、出荷組合の名称や記号も見られ、にしごおりでの果物産業が、多品目を組み合わせて栽培することで成り立ってきた、という特徴を物語る資料です。
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これらのたいそう立派で見事な松の前で撮影された集合写真には、2枚ともに、「山梨県蚕種協同組合武川村分場鑑別記念」とあります。撮影年や撮影方向がちょっと違うようです。[昭和29年6月9日 山梨蚕種協同組合武川村分場鑑別記念(今諏訪手塚正彦家資料より)]
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白根地区西野村功刀家資料の整理で文書箪笥の中から大正初期(大正3年~昭和10年)の果物出荷に関する書簡が多数(130枚)見つかりました。表に打ち込んでみると、特に大正5年と7年に、販売先の問屋とやり取りした葉書(以降、「果実売立葉書」と称す)がまとまっており、その年の出荷の動向を見ることができるものでした。
この地域で、大正5年に甲州中巨摩果実組合は発足していましたが、基本的に大正12年に西野果実組合ができるまでは、販路拡大と出荷は個々の家と問屋との、直接交渉・取引で、なされていたものと考えられます。
[大正期の果実売立葉書の一部(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)]
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昭和16年頃に西野村の果実農家が使用した「出荷用ラベル」。 果物出荷木箱一つ一つに貼られた、生産地や生産者が記名されたラベルは、出荷品の質を保障するもので、当時は「保障紙」と云っていたのですね。工業製品で言えば商標のようなものですから、そのデザインには目を引くような美しさがあります。
[昭和15年 桜桃用保障紙(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)]
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昭和14年(1939)のお正月に配られた引札(ひきふだ)をご紹介します。引札とは、明治期に多く作られ、配られた宣伝広告チラシのことです。
ご紹介する資料は、80年以上前に現在の南アルプス市飯野の倉庫町交差点の北にあった、麻野屋呉服店さんの配ったもので、主に旧正月の二日から五日までの四日間に開催する福引きについての引札です。
[「昭和14年倉庫町麻野屋呉服店引札」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課所蔵):このチラシには電話番号が記載されているので 、白根地区で昭和3年4月11日から電話交換事務が開始されたことを勘案して、卯年の昭和14年のチラシと判断した。]
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なにやら大勢の正装した人々が山奥に造られた橋の上を歩いてくるこの写真。万国旗で飾られた橋の下には、建設作業に従事した人々の宿舎のようなものが何棟か建っており、切り拓かれたばかりの生々しい山肌が見えます。
[昭和37年10月31日(西野功刀幹浩家資料より)]
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[2023年2月開催の南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「ナニコレ!昔の道具」展における稲作の道具エリアの一部]
鎌(稲刈り) → 扱箸・千歯扱き・足踏み回転脱穀機(脱穀) → 唐箕(地域名:せんごく)(藁くずと選別) → 摺臼(地域名:するす)(もみすり) → 唐箕(地域名:せんごく)・万石通し(籾殻と選別) → 搗臼(精米) → 万石通し・ふるい(糠と選別) → 白米
稲刈りしてから白いお米になるまでに、想像した以上にいくつもの工程と道具が必要であることに驚きます。
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ご飯を炊いてから食べるまで入れておく道具のお話をしたいと思います。
[・竈(かまど): 鍋・釜をのせて煮炊きに使用する場所。「くど」「へっつい」ともいいます
・火吹き竹: 息を吹き込んで火力を上げるために使う竹筒
・付木(つけぎ): ヒノキ・スギ・マツなどの薄片の先端に硫黄をぬったもので、火種や囲炉裏の炭火などから薪や灯心などに火を移す時に使いました]
電気やガスが使われていなかった時代は、「かまど」に薪を燃やしてご飯を炊きました。伝承館に展示されているかまどの前には「付け木」と「マッチ」「火吹き竹」もセットしてあります。
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昭和8年の御勅使川砂防工事の記念写真をご紹介します。砂防堰堤は流れる土砂を貯めて川の水の流れをゆるくしたり、土砂の流出量をコントロールして、一度に大量の土砂が下流に流れ出て災害を起こさないようにする役目を果たします。
写真に見える昭和8年施工の第八号砂防堰堤は、『第八号砂防堰堤』という名称で、高さ2.5メートル、長さ96.7メートル、塩沢入口交差点北の南甘利山橋の東側下流に見える砂防堰堤です。ちょうど、御勅使川福祉公園の西端部にあたります。
出来上がった砂防堰堤の上に座ったりもたれかかったりと、この写真にはざっと数えても150人以上の人々が写っていますね。
大量の砂や石・セメントを運んだり、手練りでコンクリートを作るなど機械のほとんどなかった昭和初期には、たくさんの人と労力が必要でした。原七郷を含む地元住民の多くが工事労働に従事したそうです。この写真の見つかったお宅のある白根地区飯野でも、大正初期生まれの多数のご先祖様方が、写真の中にいらっしゃることでしょう。
[昭和8年度御勅使川砂防工事実況 (飯野中澤家資料より・南アルプス市文化財課所蔵)]
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白根地区飯野2区のお宅の倉庫から見つかった昭和初期の古写真群中の中から「昭和12年山梨県立農民道場機山寮」というアルバム資料をご紹介します。おそらく、このお宅で生まれ育ったどなたかが、この農民道場1期生の修練生であったと思います。
このアルバム内の写真が撮影された昭和初期、昭和4年にアメリカで起きた世界恐慌は、昭和5~6年以降の日本経済に深刻な影響を及ぼしていました。繭と米の二本柱で成り立っていた日本経済にとって、生糸の最大輸出国であるアメリカへの輸出量の大幅減による打撃に加え、昭和5年の豊作による米価下落、続く翌昭和6年の大凶作は危機的で、深刻な農村疲弊を招きました。
このような昭和初期の農業恐慌を契機に農村更生運動の一環として全国各地に設置されたのが、「農民道場」とよばれた修練場です。 農民道場は昭和9年より、当時の農林省が農村中堅人物の養成を目指して設立した教育施設がはじまりで、徹底した心身鍛錬を主目的としていました。
山梨県においても、まだ念場ケ原と呼ばれていた原野だった清里に、昭和12年5月17日「山梨県立農民学校機山寮」が創立されました。
アルバムの中の画像にある「山梨県立農民道場機山寮」については、国立国会図書館デジタルコレクションでみられる『昭和14年6月 農山漁村中堅人物養成施設に関する調査 修練農場・漁村修練場・山村修練場 農林省経済更生部』という資料にその実態のわかる記述がありました。その内容と照らし合わせながら、清里村八ヶ岳周辺山麓にあった「山梨県立農民道場機山寮」の画像を見ていきたいと思います。
[昭和12年山梨農民道場機山寮アルバム(飯野中澤家資料より・南アルプス市文化財課所蔵)]
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令和5年6月21日(水)まで開催しておりますテーマ展「ナニコレ!昔の道具」展に展示中の「ハエ捕り瓶」と「ハエ捕り棒」「ハイトリック」について、ご紹介したいと思います。
[展示中のハエ捕り棒とハエ取り瓶]
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ふるさと○○博物館では、南アルプス市白根地区の商店名が記されている日本手拭いと団扇を多数収蔵しています。
[重要文化財安藤家住宅で展示中の今諏訪の商店名のある団扇]
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こちらは、「昭和初期から40年代位までの女性が使っていたヘアオイルを小売りする際に、店頭に置いていた容器」です。
[「かをりよき 千代花香油 東京千代田香油本舗」 130×395×230(mm)]
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昭和時代の戦争時に中国大陸に渡る少年たちを撮影した写真をご紹介します。昭和7年から20年の太平洋戦争敗戦までの14年間に27万人もの日本人が、中国大陸に渡りました。昭和恐慌で疲弊した農民を移民によって救済することが第一目的でしたが、同時に、満州国を維持し、ソ連との国境地帯を防衛する意図もありました。
こちらは、いまから80年ほど前に撮影され満蒙開拓少年義勇軍の壮行写真です。満蒙開拓青少年義勇軍は、中国大陸に日本人を移民させる日本政府の国策が推進される中、成人だけでは足りなくなった満州への移民を補う目的で政府が発足させた制度です。彼らは「鍬(くわ)の戦士」とよばれたそうです。
[古市場杉田家所蔵]
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[「県庁前での豊村第一次満州開拓団女子奉仕隊の壮行会」(西野池之端中込家蔵:真ん中に立つ団長であった中込ちか氏は、白根地区西野池之端で喜久屋商店経営中込家の人でした。この画像はそのお孫さんに当たる方からご提供いただいたものです。)]
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昭和時代に生活必需品だったマッチを収蔵資料の中からご覧いただきます。
[「スパイ御用心 書類手紙御用心 職場乗物御用 防諜」 二等品 志摩燐寸製造所(南アルプス市文化財課蔵)]
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昭和時代の戦争に関する資料のひとつ、奉公袋をご紹介したいと思います。まずは、櫛形地区上今井で今から80年ほど前に撮影された出征の時の家族写真をご覧ください。
[出征記念の写真:中央の出征兵は奉公袋を抱えている。(上今井五味家資料 南アルプス市文化財課蔵)]
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こちらは「大日本国防婦人会」の襷(たすき)やこの白い襷をかけた女性たちの記念写真です。
[「モンペに割烹着、大日本国防婦人会の白襷をかけた西野村功刀の婦人たち(昭和15年頃)」(西野功刀幹浩家・南アルプス市文化財課蔵)]
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現在、南アルプス市八田地区に、昭和7年にコンクリート製の旧信玄橋が開通するまで、上高砂と龍王を隔てる釜無川を渡るには、「高砂渡し(たかすなのわたし)」を利用する必要がありました。
[「大正5年頃の高砂の渡しの様子」(南アルプス市文化財課蔵)]
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明治終わりから昭和時代にかけて、県外の製糸場で働きに出ていたにしごおりの女性たち。市内にはそうした出稼ぎ工女たちが故郷に送った葉書が多く残っています。過去に西野村の相川ふくのさんという女性が明治31年から39年の間に武州入間豊岡町にあった石川製糸所から送った葉書をご紹介しましたが、今回は、今諏訪村の手塚家に30名ほどの村出身の女工が明治から昭和時代に掛けて送った80通もの葉書等を新資料として加えて、分析してみよう思います。
[明治41~45年埼玉・長野・山梨(諏訪村:現在の北都留郡上野原町)への出稼ぎ工女から届いた葉書(今諏訪手塚正彦家資料・南アルプス市文化財課蔵)]
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南アルプス市教育委員会文化財課所蔵の昭和34年災害資料より、今回は現在南アルプス市南部に位置する甲西地区での被害状況写真をご覧いただきたいと思います。 甲西地区は市内に降った雨や湧き出た水が集中する場所で、西側には崩れやすく急峻な南アルプスの山々がせまることから、釜無川右岸のいくつもの天井川が集まる常習水害地帯でした。台風7号と15号が山梨県内全域に大きな被害をもたらした昭和34年においては、その前に到来した台風6号も甲西地区五明耕地をすでに冠水させていたようです。
[「台風6号甲西町坪川決壊による五明耕地(宮沢前200町歩冠水状況)」(飯野東条家災害資料甲西町10~16南アルプス市教育委員会文化財課蔵)]
昭和40年代の前半までは、日常の生活で着物を着ている人がまだたくさんいました。通常の洗濯では、たらいと洗濯板を使って「丸洗い」していた着物も、春と秋の季節の変わり目に行う衣替えでは、縫い目をほどいて反物の状態にして「解き洗い」をしたそうです。ほどくと縫い目にたまったほこりや汚れが落としやすくなるからです。
解き洗いの後には、「張り」という独特の干す工程があり、この「解き洗い」から干すまでの一連の作業をまとめて「洗い張り」といいます。
「張り」のやり方は二通りあり、板にぴたっと密着させて張る「板張」と、伸子針(しんしはり)でぴんと張る「伸子張」のいずれかの方法で、糊付けして干しました。
[板張]
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こちらの資料は、大正7年夏に山梨県が発行したお米の安売り券です。表側には、「山梨県中巨摩郡役所」の印が押されています。
この白米廉売券が発行された大正7年の夏は、全国各地で米騒動とよばれる暴動蜂起があった年です。8月2日に政府がシベリア出兵を宣言したため、その後急激に投機目的の米穀の買いや売り惜しみが起こった上に、前年産米の不作などの要因もあり、米価の急高騰が発生する中、日本各地で暴動事件が起きました。
8月15日夜には、甲府でも舞鶴公園で行われようとしていた米価高騰抗議市民大会に刺激された群衆が、山田町13番地にあった若尾家前に集まり暴徒化し、若尾邸を焼き打ち壊すという事件が起きています。(甲府での米騒動が若尾邸焼き討ちに至るまでの様相は山梨県史通史編5近現代1に詳しくまとめられている)
[「大正7年 白米廉売券」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):大正7年夏に山梨県が発行したお米の安売り券]
「ふるさと文化伝承館」が新しく生まれ変わって平成21年6月にリニューアルオープンしました。
愛称は「みなでん」
これからも皆さんとともに作り上げたい!という願いもこめて
「み・ん・な・で、み・な・で・ん」
って覚えてください!
世界的に知られる国重要文化財の「鋳物師屋遺跡出土品」をはじめ、市内の遺跡から出土した土器や石器、昔懐かしい民具などを展示しています。
当館では展示パネルを少なくし、スタッフによる展示案内などお客様とのコミュニケーションを大切にしています。不必要な場合にはお申し付けいただき、また、ご質問などはお気軽にお問い合わせいただければと思います。
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