御勅使南公園の中にも、将棋頭から続く御勅使川右岸を守る石積みの堤防があります。
公園の管理事務所の南、駐車場の入り口付近から東西に堤防を見ることができます。この堤防の北側は現在では様々な遊具や、ラグビー場などが広がりますが、昭和初期まで御勅使川の河原が広がっていました。
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西に大塚遺跡、南に野牛島・大塚遺跡、東に石橋北屋敷遺跡に囲まれた遺跡。古墳時代前期や奈良・平安時代、中世の集落跡。遺跡内の小さな谷底から破片どうしが融着し形が歪んだ須恵器の大甕片が出土し、遺跡周辺に須恵器窯が存在する可能性が指摘されている。また注目される遺構として、炭焼の平窯や和鏡が副葬された土坑墓、中世の道路跡なども発見されている。
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平安時代から中世の集落跡 調査では80個体を超えるウマ・ウシの骨が出土し、「八田牧」の存在を彷彿させ、ウマの存在が甲斐源氏活躍のを裏付ける。
写真は 炉から出土したタイの堆骨(縄文時代後期)
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奈良・平安時代から中世までの集落跡。奈良・平安時代の住居跡は現在の甲西バイパスより西側に広がるのに対し、中世の溝跡や土坑墓はより能蔵池に近いバイパスの東側を中心に発見されている。野牛島集落の発祥は能蔵池北側であるとの伝承があるが、遺跡の調査結果からその伝承は中世以降能蔵池周辺に集落が移動した後の状況を伝えていると考えられる。写真は平安時代の住居跡。
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今から約1400年前の古墳で、墳丘はほぼ削平され、横穴式石室の周囲で東西4.5m、南北8.9m、高さ2.3mのみが遺されています。
円墳とみられ、石室は露出しており、古くから「大西のおかま」と呼ばれていました。(「大西」というのは現在古墳の真正面にある個人宅の屋号です)
現存する石室規模は玄室の長軸が4.5m、幅は奥壁で1.58m、開口部で1.55mを測り、羨道部はほとんど遺されていません。遺物も過去に乱掘を受けており不明です。
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ほたるみ館(長田口遺跡)とあやめが丘(六科丘遺跡)とを結ぶこの道路周辺は新居田A遺跡と呼ばれ、平成12年の道路拡幅工事の際には発掘調査が実施されています。
道路西端では長田口遺跡の集落と同じ集落とみられる縄文時代中期前半の竪穴建物跡と、弥生時代終わりから古墳時代の竪穴建物跡が発見されました。また、畑の畝とみられる遺構も発見されました。
六科丘遺跡に程近い、調査区中央付近では縄文時代中期の住居跡がポツンと一軒だけ離れて確認されました。
どういった性格の建物なのかは今後の調査で判明できることでしょう。
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漆川のすぐ上、崖線にそってある遺跡で、平成13年に農道の建設工事に伴って発掘調査が行われ、縄文時代中期から古墳時代初頭の住居跡が発見されています。
この一帯でも、特に漆川を望む崖線際に縄文時代晩期の営みの跡が発見されます。
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市之瀬台地の裾、傾斜地から扇状地にかけて広がる遺跡で、旧石器から縄文時代の全ての時期、さらに弥生時代、古墳時代にいたるまでの資料が出土する遺跡です。
中心となるのは主に二つの時期で、縄文時代中期後半の環状に広がるとみられる集落と、弥生時代から古墳出現期にかけての集落です。
縄文時代中期の集落には平面形六角形で五本柱の住居跡が特徴的で山梨県内でもまだ数例しか見つかっていない発見例となりました。
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現甲西バイパス・中部横断道の建設に伴って平成6・7年に発掘調査が行われました。
古代から近世のムラの跡が発見され、鎌倉時代の水田を守るために築かれた護岸用の網代や、洪水の土砂で埋まりながらもそのつど復旧し、水田やムラを守り続けてきた人々の逞しさを知ることができる調査成果となりました。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
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鎌倉時代の杭で護岸された水田跡や水路跡、そして低地の開発を主導した有力者の屋敷と推測される建物跡が発見されています。水田跡からは五芒星「★」を記した呪符木簡(じゅふもっかん)や人形(ひとがた)、斎串(いぐし)などまじないに使われた木製品が多く出土しており、この地に暮らした人々の切実な願いが伝わってきます。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
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平成5・6年発掘調査実施
現甲西バイパス・中部横断道
弥生時代から平安時代のムラの跡
弥生時代中期の地震の痕跡や古墳時代後期の祭祀跡、平安時代の水田跡などが発見され、弥生時代から連綿と生活が営まれていたことがわかります。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
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平安時代から江戸時代の水田跡、戦国時代から江戸時代の寺院
跡が発見されています。
寺院は、加賀美遠光の館跡とされる法善寺の子院の一つであっ
た「福寿院」の跡です。この寺院は江戸時代末に火災で焼失したとされます。
遺跡からは16世紀を中心とした木棺墓、井戸、周囲をめぐらした溝、掘立柱建物跡などの施設のほか、陶磁器・かわらけ・内耳土器・すり鉢、石臼、摺臼、漆器、下駄等の生活道具や卒塔婆、五輪塔、銭貨などが見つかっています。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
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法善寺の塔頭(たっちゅう)「福寿院」の西側に位置する。中世の水田とともに溝によって区画された戦国時代の寺院跡が発見され、「福寿院」が東側へ広がることが明らかとなった。寺域内からは火葬骨を埋葬した木棺が出土。木棺には梵字や真言の偈文(げもん)が墨で書かれ、その内容は当時の葬送の手順を書いた元興寺極楽坊所蔵の『入棺作法』の内容とほぼ一致している。こうした状況から、寺院と関係した人物が葬られた可能性が高い。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
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住吉遺跡は南アルプス市南部、甲西地区のほぼ中央にあり、若宮八幡神社を含め、その南側に広がる遺跡で、標高約245mを測ります。周囲は水田地帯ですが、網の目状に流れる小河川によって造られた微高地上に立地し、周囲には村東遺跡や、清水遺跡、西川遺跡など、同じく微高地上の遺跡が分布しています。
住吉遺跡は弥生時代後期、東海地方との関係を示す豊富な土器群に象徴される特徴的な集落遺跡です。
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水の豊かな湧水地帯を利用して営まれた、弥生時代から江戸時代までの水田跡が発見されています。
水田は、現在と比べ非常に小さく、畦で囲まれた一枚の水田は最大でも6m×5m程度でした。
当時の技術では広大な面積を整地するのが困難だったのです。
わずかな地形の勾配にも苦労しながら、新天地を開墾していった弥生人の姿が垣間見られます。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)
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鋳物師屋遺跡出土の縄文時代中期(およそ今から5000年ほど前)のサルの顔をした土製品で、国の重要文化財に指定されています。
全国の遺跡(主に本州)から縄文時代のサルの骨などは出土しており、その存在は証明されていますが、サルを模した土製品はそれほど多くはありません。
また、サルの土製品とされているものでも、サル似の人?のようなものが多く、ここまでリアルにサルを表現しているものは全国でも大変珍しいです。
ほほの下の鳴き袋まで表現されているのです。
右耳は欠損しており、後で復元修復しています。
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南アルプス市ふるさと文化伝承館では令和5年7月14日から12月20日まで、テーマ展『南アルプス山麓の古代牧』を開催しました。
御勅使川扇状地での牧(牧場)の存在は、百々遺跡で発掘された出土資料によって、平安時代にさかのぼる可能性があると考えられていますが、江戸時代以降も牛馬利用の伝統は続いています。さらに、もっと身近な昭和30年代頃まで市内で使われていた民具をみることで、牛馬と市民との関わりを知ることができます。
[南アルプス市ふるさと文化伝承館で令和5年7月14日から12月20日まで開催された、テーマ展『南アルプス山麓の古代牧』における民具コーナー]
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「ふるさと文化伝承館」が新しく生まれ変わって平成21年6月にリニューアルオープンしました。
愛称は「みなでん」
これからも皆さんとともに作り上げたい!という願いもこめて
「み・ん・な・で、み・な・で・ん」
って覚えてください!
世界的に知られる国重要文化財の「鋳物師屋遺跡出土品」をはじめ、市内の遺跡から出土した土器や石器、昔懐かしい民具などを展示しています。
当館では展示パネルを少なくし、スタッフによる展示案内などお客様とのコミュニケーションを大切にしています。不必要な場合にはお申し付けいただき、また、ご質問などはお気軽にお問い合わせいただければと思います。
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