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14.行き交うヒトとモノ

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十五所村に瞽女(ごぜ)がやってきた記録

「瞽女」と書くこの字は、「ごぜ」と読みます。瞽女は、ちょうど手元にあった広辞苑第二版を開くと、『三味線を弾き、唄を歌いなどして銭を乞う盲の女』とあります。「座元」とは元締め、或はまとめ役のことです。この印札はいったい何に使われたのでしょうか?
「瞽女座元印札(横近習町組・飯田新町組)」 慶応4年戊辰9月(1868)(西野功刀幹浩家資料I-13-0-17-15・南アルプス市文化財課蔵)


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この慶応4年の瞽女座元印札は、縦長の紙が二つ折りにされていて、二つの組の座元の印札が組み合わさったものです。したがって、よく見ると、2つの印影は異なっています。
一つは「飯田新町組」、もう片方は、年代のみの記載であるために組名がこの資料だけでは不明です。よく見ると、2つの印影は異なっています。
『乍恐以書付奉御届申上候
 近来座元に無届之他国瞽女、御村内へ
 乱に入込、渡世仕、御助成多分之事故
 中には格別御立腹之御村方も有之
 如何様にも取締仕度、依之一同相談仕、
 此度左之座元印札与置候間、其札持参之
 組江御宿乍御役介被下置候様奉願
 上候已上
         甲府
文久二年    横近習町
  戌二月 日   座元


 御名主様               』
「瞽女座元印札与置ニ付(横近習町瞽女座元)」文久2年戌2月(1862)(西野功刀幹浩家資料I-13-0-17-14・南アルプス市文化財課蔵)
こちらの資料は、江戸時代に甲府横近習町にあった瞽女の組(集団)をまとめていた座元が、地元の組に所属する瞽女であると照合するための印札の発行について、村の名主へ説明する内容の手紙です。
内容をかいつまんで読んでみると、「近頃、甲州以外の他国からの瞽女が入り込むため取締りたいので、この書状にある印と同じ印札を持参した組の瞽女のみを、泊まらせたりお世話していただきたくお願いします。」といった内容だと思います。こちらの送り主は甲府の横近習町組の座元です。
「瞽女座元印札与置ニ付」文久2年戌2月(1862)(西野功刀幹浩家資料I-13-0-17-14・南アルプス市文化財課蔵)
以上2点の資料の情報を踏まえて、次に、甲府の瞽女についての記述を探して、その実態をもう少し詳しく探ってみます。
参考文献:
①「裏見寒話巻之四」1754宝暦4年 野田成方 「甲斐志料集成三 地理部2」1933昭和8年 甲斐志料刊行会・大和屋書店収載版
②「裏見寒話巻之四」1754宝暦4年 野田成方 「甲斐叢書第6巻」1974年 甲斐叢書刊行会編・第一書房収載版
③「甲斐国志巻之百一 人物部附録」 「大日本地誌体系第47巻」 1972年 雄山閣収載版
④「甲斐の落葉」山中共古 有峰堂1975 上巻p:46
⑤「瞽女うた」2014年 ジェラルド・グローマー 岩波新書
⑥「角川日本地名大辞典19山梨県」昭和59年

①②「裏見寒話」には、
『瞽女 配当 横近習町 飯田新町にあり。郭内等へも入来る事あり。』
『配当盲女 横近習町飯田新町等に在り、里俗之を瞽女といふ、唄を歌ふて銭米を乞、夜に至れは、行先の名主に就て泊るを例とす』

③「甲斐国志」には、
『瞽女 府中に居を座元と云う。近習町に一組、飯田新町と云う処に一組あり。夏秋毎に猿貫して州中の村里を廻り、絃歌を以て米銭を乞う物なり。』

④「甲斐の落葉」には、
 『盲女ノ年頭 維新前甲府ノ盲女奉公其他ノ役場へ年始ニ参ルニ盲女ノ頭大門ヨリ玄関ニ到りベニカワ ヲカン年頭申上マスト言ヒ置キ帰ルコトトスこの盲女ノ頭ノ名紅川オカントイフ名ニハアラズ唯此名ヲ申テ年始に来ルナリシト今ハ此事絶たり ベニカワオカンノ名詳ナラズ』

⑤「瞽女うた」には、
『明治六年(1873)五月二日、山梨県は瞽女家業の禁止を命じた(山梨県史第三巻)・・・・それまでは、法令によって、「取締(座元)」に統率される仲間が甲府の横近習町に存在した。瞽女組織は県内の女性視障者を貰い受け弟子にし、「なりものうた(絃歌)」を教え、村々を「たちまわり(徘徊)」させた。やがて米銭を乞う生業となり、当時の人員は二百五十人。失明した娘を瞽女に預けなければ、その家の他の子供も失明するという俗信があり、視力を失った女子はかならず瞽女仲間に加入させられた。・・・・』

⑥「角川日本地名大辞典19山梨県」昭和59年
横近習町の項 『甲府城下下府中・・・瞽女1組があり、慶応4年町内居住瞽女は157人であった。・・・昭和39年中央1~5町目の一部となる』
飯田新町の項『甲府城下西南端の西青沼町から西へ家続きに位置し、甲州街道に沿って立地する。・・・瞽女が町内に一組いた。』

以上、甲府の瞽女たちについてまとめると、

江戸時代には、飯田新町と横近習町に、それぞれ「組」と呼ばれる瞽女集団をつくって住んでおり、この二つの集団を束ねるものは「座元」と呼ばれました。このような瞽女たちの集団は、幕府が認めた組織として存在し、視覚障碍を持つ女性たちの生きる場所のひとつであったということです。瞽女たちは『猿貫して(連なって歩いて)』甲州中の村里に行き、三味線を弾きながら唄をうたって村人を愉しませ、米や銭を稼ぎました。そして、各村の名主家では、瞽女たちが来たならば接待して世話し、泊めることもありました。
瞽女たちは郭内(甲府城内)にも入り込んで、新年などは役場に年始に行ったとあります。
明治6年になると、瞽女家業は禁止となりましたが、当時(明治初期)の瞽女集団の人員は250人であったとのこと。慶応4年時点では、横近習町だけで157人いたということですから、飯田新町には100人ほどの瞽女が住んでいたということですね。
明治6年以降、座元は解体となり、女たちは実家や親類の家に戻されたようです。上記参考文献の⑤「瞽女うた」では、山梨県では『旧籍の村に送る多額の公費が捻出されていた(山梨県史第3巻)』との記述があることを紹介していますが、『(明治6年に)瞽女に「盲児を遣ハす事」は禁じられ、瞽女はそれぞれの生家に帰籍させられた。・・・・こうして二世紀以上存続した甲府の瞽女仲間組織は解体された。』とあります。

江戸時代に、甲府の横近習町や飯田新町から、前を歩く人の着衣の一部や紐を持ったりして連なって歩き、釜無川を渡って、西ごおりの村々を訪れた瞽女たち。
まずは各村の名主宅に件の印札をもって挨拶をし、村人を集めてもらって、芸を披露していたのでしょう。さらに、各村の名主宅は瞽女たちの宿泊や休憩の場所となり、食事を供されることもあったと考えられます。
もしかしたら、瞽女たちの中には、年に何回か、父母や兄弟の住む実家のある村を訪れることを、楽しみにしていたものもあったかもしれません。村人たちもまた、忙しい労働の合間の数少ない娯楽として、瞽女たちの定期的な来訪を心待ちにしていたことでしょう。村の経費が、瞽女の芸の対価としての米や金銭(配当)・接待に使用されることに、江戸時代の社会では何の矛盾もなかったのだと推察されます。甲州での瞽女の座元組織が、社会保障的な役割の一部も担っていた側面が見えてきます。
続いて、櫛形地区にお住いの方のお蔵に保管されている文書を見せていただくと、その中に江戸時代の天明2年(1782)の十五所村夫銭帳がありました。内容をみてみると、瞽女(ごぜ)や虚無僧(こむそう)、浪人、座頭(ざとう)などへの合力金(ごうりききん)、寺社への奉加(寄付)を募って集める行者や御師への出費、御廻状を運ぶ者への駄賃等が記載されていました。いまから240年前のにしごおりの村々にも、甲斐国内だけでなく、遠方からもいろいろな人がやって来ていたようで、殊更瞽女は非常に多く来訪していたことがわかりました。
[天明2年8月から12月までの十五所村夫銭帳 (十五所澤登家文書 個人所有)]
表にしてまとめて分析してみると、
瞽女は8月から9月の猛暑を避け、10月~12月にかけて14組も訪れており、単独ではなく、5人から11人のグループで十五所村にやってきたことがわかります。12月には集中的に10組も訪れていた記録があり、三日に一度は瞽女さんたちが来村していたことになります。また、甲府からだけではなく、なかには、駿河や松本から、はるばる歩いてやってきた瞽女たちもいました。
次に、村からどのくらいの支出を瞽女にしたか?に着目してみると、村で一泊した場合は、一人当たり甲銀6分が宿泊家に村から支払われています。この、「瞽女が泊まった場合一泊で銀6分」という賄金の決まりについては、甲府の「上今井村諸勘定等についての定書(天明元年(1781)12月)・山梨県史資料編10近世3 p1045」の文書中にも、『一 こせとまり之義ハ壱人ニ付、一夜甲六ツゝ、尤座頭茂右同様ニ而相賄可申事』と、記されていましたので、甲斐国内では一律であった可能性があります。
[「12月の瞽女への合力金支出の記述箇所①」天明2年十五所村夫銭帳より (十五所澤登家文書 個人所有)]
一方で、宿泊することなく、芸を披露したあとすぐに別の村に移動していく瞽女たちも多くあり、その場合の合力金(※合力とは、村からの支出で、金銭や物資を与えて助けることをいい、江戸時代には、合力を受けながら各地を流浪、遊行(学)する人々がいました。)は、一人当たりでみてみると、2.8厘から8.5厘までと、金額に3倍以上の差があり、年末に向けて高くなっていく傾向が見られます。この支払額の違いは、瞽女たちの芸の習熟度や完成度による差なのか?、あるいは、観客となった村人の数によるものなのかは、夫銭帳からの情報のみではわかりません。
しかしながら、天明二年の十五所村夫銭帳において、合力を受けにきた虚無僧、浪人、寺社への寄付を募る人々が訪れた総数と比較して、瞽女の来訪人数と回数は圧倒的に多く、宿泊させる場合もよくあり、十五所村の人々が瞽女の受け入れに、前向きだった様子がうかがえます。秋から年末にかけて、少なくとも100人以上の瞽女を受入れ、合力金を渡し、時には食事を供したり、泊めてもてなしたりしているのです。天明2年10月から12月にかけての十五所村の瞽女に対する支出は、〆甲銀15匁7分7厘でした。
[「12月の瞽女への合力金支出の記述箇所②」天明2年十五所村夫銭帳より (十五所澤登家文書 個人所有)]
甲斐国には二つの座元が甲府にあり、視力を失った女子は甲府の座元(瞽女組織)に貰い受けてもらい、弟子として芸を教わり身を立てる、という生き方が不文律のように浸透していたようですので、村人にとっては、甲府の瞽女は広い意味で同じ国の互助組織に属するという雰囲気があって、寄付を集めにやってくる遠方国外の寺社の遣いの人々よりも、頻繁に何回来たとしても、すすんで合力してあげたい存在だったのではないでしょうか。村人の瞽女さんたちへの優しく温かいまなざしを持つ風土が、駿州や信州からやってくる他国の瞽女たちの受け入れ方にも影響していたかもしれませんね。
秋が深まって寒くなってくる頃、次々と村にやって来て、なりものうたを披露して楽しませてくれる瞽女たちの姿は、収穫も終わって安堵した人々の心に賑やかな年末年始の彩りを運び込む風物詩であったに違いありません。    

地域資料を丹念に拾っていると、どの村にもあった夫銭帳(出納帳)のようなものに、いわゆる社会的周縁(マイノリティ)に属する人々に対して先人たちがどのように接し、共存してきたかの歴史を知る鍵もみつけられるのだということを、今回、教えられました。
[天明2年10月4日と10日に瞽女が十五所村に訪れた記録。4日は2組10人の甲府の瞽女が、10日は「するが(駿河)より参り」と書かれている。天明2年十五所村夫銭帳より (十五所澤登家文書 個人所有)]

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