芦安から信玄橋へ通じる県道甲斐芦安線は御勅使川の古い流路で、「前御勅使川」、ちょっとなまって「まえみでえ」と呼ばれています。戦国時代、御勅使川の本流はこの前御勅使川だったと云われています。江戸時代から明治時代には、本流は現在の御勅使川に移り、増水時のみ水が流れていたようです。明治31年に六科将棋頭の上流が締切られ、前御勅使川の歴史に幕が下ろされました。昭和40年代ごろまでは旧河原の両岸に不連続の堤防、かすみ堤が残されていましたが、現在ほとんどの堤防は削平され、道路として利用されています。
写真は明治29年に起きた大水害後、堤防を復旧している様子が写されたもの。旧運転免許センター(野牛島)付近。
[画像:個人所有」
徳島堰は韮崎市上円井(かみつぶらい)で釜無川から取水し、南アルプス市曲輪田新田(くるわだしんでん)まで約17kmを結ぶ灌漑用水路。
江戸時代の寛文5年(1665)江戸深川の徳島兵左衛門(とくしまひょうざえもん)によって開削が始められた。
2年後には曲輪田まで通水に成功するが、大雨によって二度堰が埋没すると兵左衛門は事業から手を引き、その後甲府藩が事業を引き継ぐ。
甲府城代から堰の復旧工事を命じられた有野村の矢崎又衛門(やざきまたえもん)は、私財を投じて工事に取組み、寛文10年に工事が完成し,翌11年に「徳島堰」と命名された。
堰の開削によって耕地が広がり、曲輪田新田や飯野新田、六科新田など新たな村々が開かれるなど、水不足に悩む地域に多大な恩恵がもたらされた。
現在でも徳島堰の水は、水田だけでなくスプリンクラーに導水され、市内の桃やさくらんぼを潤し、フルーツ王国南アルプス市を支えている。
漆川によって解析された谷地形を利用し、棚田が作られています。市之瀬台地上ではここ上市之瀬や平岡の棚田以外にも中野の棚田も良くその姿を伝えています。
上市之瀬、平岡の棚田は石積みが特徴で人気がありますが、これにも理由があり、かつて市之瀬川の土石流によって何度も砂礫が堆積した地だったことをあらわしているのです。困難を乗り越えた姿が石積みに現れていると思うとまた印象が変わりますよね。
また、新居田B遺跡のページもご参照いただきたいのですが、棚田のすぐ崖上に当たる遺跡からは、弥生時代のはじめの土器に籾の痕跡が残っている例があり、2000年を通して米作りに挑んできた歴史の厚みを感じることも出来ます。
新コース「8神々が宿る高尾の世界」の「高尾集落」ページはこちらから↓
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櫛形山中腹の標高約800m~900mに立地する集落です。
かつては「鷹尾」と表記されており、これは、昔、日本武尊が酒折の宮から櫛形山を眺め、鷹が巣に座している姿に見えたことから「鷹座巣山」と呼ばれたという伝承によるもので、尾の北側にある集落を「北鷹尾」、つまり現在の「高尾」地区と呼ぶようになったと言い伝えられています。ちなみに南高尾は平林地区(現富士川町)です。
集落の西端には式内社に推定される穂見神社が佇み、東南方向に傾斜し眺望が開ける位置に広がります。
江戸時代を通しておおよそ20戸前後があったとされ、林業が盛んとなった昭和の戦後まもなくにかけては最も戸数が多く、30戸を超えていました。
写真は昭和33年頃の様子です。静けさの中にも子供たちの声が聞こえてきそうな昔懐かしい「高尾」の風景です。
[画像:個人所有]
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穂見神社の秋の例大祭はかつては夜通し行われていたことから「夜祭」とか「夜参り」などと呼ばれてきました。
夜祭は五穀豊穣、養蚕成就、商売繁昌にご利益があるとされ、静岡、長野、新潟などの県外からも多く参詣者が訪れています。始まりは定かではありませんが、遅くとも江戸時代の天明8年(1788)までさかのぼる史料があります。また江戸時代の後期にはすでに県内外の各地からの参詣者で賑わっていたようですよ。
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村松家住宅は、駿信往還に沿った桃園集落の中心に位置する。幕末以前は、名主を務めた名家で、明治維新以降は、医業と商家及び村惣代長百姓として生計をたてた。
主屋は嘉永2(1849)年より以前に存在していたことが判っており、現在までに数回改築、曳家をしている。商家蔵は貸付業開業時の店蔵とされたもの。文庫蔵は主屋背面裏庭空間の構成要素として欠くことのできない存在で、厠は屋敷地の西方に所在した酒造場の蔵人用、また店の客用の外便所で、当家の業務事情の一端を物語る遺構のひとつである。
所在地/南アルプス市桃園615-1
所有者、管理者/個人
指定年月日/平成15年2月26日
備考/主屋、商家蔵、文庫蔵、厠4棟が登録
木造地蔵立像として、このような大形のものは県下に稀有のものである。伝承は空也上人作というが、藤原末期から鎌倉初期へかけての作風のようである。桧材、基盤は二段框座。安阿弥陀様式。尊像は全高123センチメートル。光背は後補のものである。現在塗金泥は一部をのぞいて消えうせ、右足部その他破損などみられるが、写実的で、民衆が商売繁昌、家内安全などの祈願をこめて、十日市の市神として、永い間、この仏の像をたのみにした息吹が強く感じられる。厨子は、後補のもので江戸時代作。大型、黒塗り、高さ234センチメートル。
所在地/南アルプス市十日市場1841
所有者、管理者/安養寺
指定年月日/昭和51年1月1日
備考/
涅槃図は釈迦が入滅する情景を描いたもので、仏教絵画の代表的主題のひとつである。
本図中央には、北を枕にし西を向いて横たわる釈迦が配置され、その周囲には菩薩や諸天、仏弟子、さらに雉や象、獅子などの鳥獣までもが嘆き悲しむ様が描かれている。
右上方には、仏母摩耶夫人(まやぶにん)が悲報を聞いて天上界から飛来した姿が描かれている。上方中央の満月や背後に描かれた跋堤河(ばっでいが)(釈迦が人滅した場所を流れる川)、釈迦を取り囲む8本の沙羅樹は釈迦入滅を表す一連のモチーフである。本図は、豪放さと緻密さを兼ねあわせた優品である。
本図の左下に「維時元禄十三年庚辰七月大吉祥日、山城国愛宕郡平安城万寿寺通高倉西入ル、絵所中西氏家信拝書之」と書かれており、製作年代や作者を知ることができる。
所在地/南アルプス市徳永1683
所有者、管理者/長盛院
指定年月日/昭和59年3月1日
備考/
年代…江戸時代元禄13年(1700年)
作者…中西氏家信
有野の故矢崎徹之介氏の居宅で、甲府盆地西部では最も古い民家である。建てられたのは、江戸時代初期、寛文以前の建築である。
矢崎氏はもと青木氏の出で、武田信玄公の時代に有野に所領を得て、信州からここに移った地侍であった。その後、江戸時代を通じ有力農民として名主を勤めている。
広い屋敷内には南に長屋門を構え、母屋の西北に文庫蔵が続き、北側にも大きな土蔵がある。
古さの見どころは、13本残っている柱にハマグリ手刃の跡が見られること、屋根裏の小屋組は当初のままで、小屋東に貫が離れて交わっていることなどである。
所在地/南アルプス市有野1204
所有者、管理者/個人
指定年月日/昭和53年2月16日
備考/
松声堂は、江戸時代に創立された西郡地域の勉学の中心となったところである。天保6年(1835年)西野村長百姓幸蔵ら12名は、“勉学によって人倫の道を教え、農民としての自覚を高めたい”として幕府に手習所の創設を出願した。
翌7年に許可され、初代教師に江戸下谷生れの松井喚斉を迎え、西野北村現在の宝珠院で開校した。
天保9年(1838年)には旧西野小学校の地に移り、明治4年(1871年)西野郷学校となるまでの36年間、この地方の庶民教育に果した功績は非常に大きいものがあった。松声堂跡には松井喚斉の碑、松声堂碑などが建立されている。
所在地/南アルプス市西野2783
所有者、管理者/南アルプス市
指定年月日/昭和53年2月16日
白根町築山に鎮座する神社で、旧社格は村社、祭神は菊理媛神。境内地は150坪と規模は小さいが、一通りの施設が備わっている。
本殿は1間社流造りで、床下に浜床(はまゆか)階段上に母屋床(もやゆか)が張ってある。拝殿は寄棟造り(よせむねづくり)で囲いの壁がなく、吹き抜けになっている。随身門は入母屋造り、鳥居は柱頭に台輪がある稲荷鳥居で、額束(がくづか)に権現社と名記され、元禄11年寅4月1日の年号がある。神燈は鳥居の前にあり、元禄11年寅4月1日の年号がある。境内社として2基の祠があり、1基に寛政5丑巳12月吉日の銘がある。
所在地/南アルプス市築山33
所有者、管理者/白山神社
指定年月日/平成15年2月14日
五味可都里は江戸時代後期、甲州を代表するの俳人ひとり。
名は宗蔵、号は可都里(葛里)。蕪庵(かぶらあん)と称した。
旧巨摩郡藤田村(現南アルプス市藤田)の豪農で、田園風景を素材にした温雅な作品を多く残した。
編著に『農おとこ』、『ななしどり』などがある。
寛保3年(1743)生まれ、文化14年(1817)没。享年75歳。
可都里の没後、「蕪庵」は甥の蟹守が継ぎ、その後の甲州俳壇の指導的役割を担った。
注)なお、現在墓自体は鏡中条の長遠寺境内に移されている。
所在地/南アルプス市藤田410
所有者、管理者/泉能寺
指定年月日/昭和46年1月28日
【参考文献】
池原錬昌編2004『可都里と蟹守』五味企画
清水茂男1963「五味可都里の研究」『山梨大学学芸学部研究報告』14号山梨日日新聞社出版部編2003『可都里と霞外』若草町文化協会
時代…享保13年(1728年)4月17日から元文4年(1739年)5月17日
作者…嶽恩和尚・玄嶺和尚
長盛院境内の「経蔵」に嶽恩筆紙本墨書大般若経600巻が収められている。この般若経は亨保年間、長盛院の末寺、正重院の住職であった嶽恩和尚とその意志を継いだ本山玄嶺和尚によって写経されたものである。
嶽恩和尚は本寺の繁栄や天下の泰平、国土の安穏、子孫繁栄、村里の豊饒を祈願し、享保13年(1728年)4月17日、大般若経の筆写をはじめた。長年にわたる写経は心身をさいなむ辛苦を与え、時には天井から吊した縄で筆を持つ腕をささえていたといわれる。
500巻を書き終え、その完成を目前にしながら元文2年(1737年)2月9日、59才で他界した。本山玄嶺和尚はその志を継いで写経を進め、2年後の元文4年(1739年)5月17日、大般若経600巻の写経を完成させた。複数の僧侶によって書かれた大般若経は多数あるが、ほぼ1人の手によって書かれたものは県内でも類例が少ない。
所在地/南アルプス市徳永1678
所有者、管理者/長盛院
指定年月日/昭和51年3月1日
聖教類には、仏、菩薩、その他諸等に対する礼拝法、供養法、念踊法など実践的な修行方法が示されている。
得度を終了した出家者が所定の行規にしたがって、修行しながら逐次、伝授や講伝を授けられた、いわゆる師資相承の秘法である。
行者は師から授けられた折紙、冊紙、巻紙を書写し、伝授の権威を保つために伝授日時や師資名、道書名を巻末に誌しているものが多い。
この聖教類は、真言宗学問寺として栄えた法善寺にふさわしく一ヶ寺にこれだけのものが残っていることは県下は勿論、全国的にもきわめてまれである。
所在地/南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/法善寺
指定年月日/昭和62年2月10日
マツ科に属する常緑喬木で、我が国の特産で北海道から九州まで産し、中部以南に産するものをヒメコマツ、中部以北に産するものをキタゴヨウマツとして区別することもある。その材は建築、器具の料に供する。又園芸的変種が多く、庭園樹、盆栽として栽培される。本県では富士山をはじめ、各地の高山に多い。此のゴヨウマツは、根本周囲85センチ、幹囲84センチ、樹高11メートル50、枝張り東西11メートル50センチ、南北4メートル60センチ、東にのびた9メートル20センチの枝は特に見事である。(推定300年経過)
所在地/南アルプス市鏡中条461
所有者、管理者/個人
指定年月日/昭和45年10月26日
野牛島地区の北西部に能蔵池がある。能蔵池は御勅使川の伏流水が崖下から湧きだした湧水池で、古くから周辺諸村の灌概用水として重宝されていた。この池のほとりに、碑は建てられている。
高さ189センチメートル、底辺幅98センチメートル、安山岩を用いた大きな石碑である。
安政4年(1857年)、ときの市川代官森田行が文章を考案し(撰文)、前任の代官荒井顕道が書をしたため(書)、徽典館(きてんかん)の学頭であった久貝岱(くがいたい)が「能蔵池の碑」という額の文字を書いて(篆額)、完成に至った。その内容を要約すると以下の通りである。
「野牛島に能蔵池という池がある。水は清らかで、どんなに乾燥しても枯れることはない。野牛島をはじめ高砂、榎原、徳永を灌漑してきた。池の中に天女、池の側に蔵王が祀られ、神竜のすむところである。
村人たちもよく農事に励み、この水の如く怠ることがないようにしなさい、そうすれば倉はいつも満ち官も民も乏しいことがなく、不作の年も飢えをまぬがれるであろう。これは村人の幸福である。」
所在地/南アルプス市野牛島2704
所有者、管理者/野牛島区
指定年月日/昭和51年3月1日
備考/
西南湖にある重要文化財安藤家住宅で行われる「安藤家住宅ひなまつり」では、貴重な横沢雛が飾られます。
甲州で明治大正期に多く作られた横沢雛には童子をモデルとした人形が一番多いのですが、他に、成人女性や男性、妊婦、長生きの象徴としての老夫婦、七福神などの神様などモチーフに多くのバリエーションがあります。
その中でも、ひときわ異質なのが、赤い髪の中国の伝説の妖怪、猩々(しょうじょう)のお人形がです。
猩々は、能の演目にも真っ赤な装束で登場する中国の伝説上の生き物のことで、赤毛で人間のような容姿をしており、酒を好むとされます。
また、赤いものを嫌う疱瘡神を追い払うという伝承もあり、子供の健やかな成長を願って送られたものと思われます。
「天神の井」は、豊村誌と櫛形町誌によると、『別名「七ツ池」とも呼ばれ、昔、天神様が七才の童子の夢枕に立ち、その教えに従って之を掘った。後に天神宮を祀って天神の御手洗となった。この水は旱魃にも涸れることがないと言われる。』と記載されています。
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こちらは、在家塚中込茂家所蔵資料の「文献72 鯛兵衛一件」です。
これは、農業の合間に綿商いを渡世(稼業)としていた在家塚(白根地区)の八百助という人が、仕事で現在の韮崎市方面に出かけた帰り道に、大変なトラブルに巻き込まれてしまった事件に関する、江戸時代(嘉永五年・1852)の文献です。
この文献は、具体的なトラブルの内容以上に、原七郷で江戸時代に行われた綿産業の実態が、八百助という一人の「農間綿商人」の活動を通して垣間見ることができます。
原七郷の産業の中で、養蚕以前では、綿は、煙草・藍と並んで根幹をなすものでした。甲州の西郡綿が、江戸時代の終わり頃に、在地の人々によって、どのような仕組みや過程をもって流通され、商売として成り立っていたのかを知ることができるものだと思われます。
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「ふるさと文化伝承館」が新しく生まれ変わって平成21年6月にリニューアルオープンしました。
愛称は「みなでん」
これからも皆さんとともに作り上げたい!という願いもこめて
「み・ん・な・で、み・な・で・ん」
って覚えてください!
世界的に知られる国重要文化財の「鋳物師屋遺跡出土品」をはじめ、市内の遺跡から出土した土器や石器、昔懐かしい民具などを展示しています。
当館では展示パネルを少なくし、スタッフによる展示案内などお客様とのコミュニケーションを大切にしています。不必要な場合にはお申し付けいただき、また、ご質問などはお気軽にお問い合わせいただければと思います。