芦安から信玄橋へ通じる県道甲斐芦安線は御勅使川の古い流路で、「前御勅使川」、ちょっとなまって「まえみでえ」と呼ばれています。戦国時代、御勅使川の本流はこの前御勅使川だったと云われています。江戸時代から明治時代には、本流は現在の御勅使川に移り、増水時のみ水が流れていたようです。明治31年に六科将棋頭の上流が締切られ、前御勅使川の歴史に幕が下ろされました。昭和40年代ごろまでは旧河原の両岸に不連続の堤防、かすみ堤が残されていましたが、現在ほとんどの堤防は削平され、道路として利用されています。
写真は明治29年に起きた大水害後、堤防を復旧している様子が写されたもの。旧運転免許センター(野牛島)付近。
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徳島堰は韮崎市上円井(かみつぶらい)で釜無川から取水し、南アルプス市曲輪田新田(くるわだしんでん)まで約17kmを結ぶ灌漑用水路。
江戸時代の寛文5年(1665)江戸深川の徳島兵左衛門(とくしまひょうざえもん)によって開削が始められた。
2年後には曲輪田まで通水に成功するが、大雨によって二度堰が埋没すると兵左衛門は事業から手を引き、その後甲府藩が事業を引き継ぐ。
甲府城代から堰の復旧工事を命じられた有野村の矢崎又衛門(やざきまたえもん)は、私財を投じて工事に取組み、寛文10年に工事が完成し,翌11年に「徳島堰」と命名された。
堰の開削によって耕地が広がり、曲輪田新田や飯野新田、六科新田など新たな村々が開かれるなど、水不足に悩む地域に多大な恩恵がもたらされた。
現在でも徳島堰の水は、水田だけでなくスプリンクラーに導水され、市内の桃やさくらんぼを潤し、フルーツ王国南アルプス市を支えている。
大正9年に竣工。高さ7m、長さ109.1mある大型の堰堤。芦安、藤尾堰堤とともに現在でも大正期の姿をとどめている数少ない堰堤のひとつ。芦安堰堤と並び、「御勅使川治水の双璧」と呼ばれていた。現在でも私たちの生活を支えている。
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冬に吹き下ろす「八ヶ岳颪(やつがたけおろし)を考え、八ヶ岳にむかって設計された幅100m、長さ1500mの滑走路。中央に設けられた誘導路は、今でも農道として利用されている。
現在でも、所々に60数年前動員され人々が造成した滑走路の盛土がそのまま残っている。平成17年度に実施した発掘調査の結果、当時の人々が滑走路両側の土を掘って滑走路に積み上げたたことがわかったほか、土が沈まないように締め固めたような跡も見つかり、当時の人々が行った作業工程を垣間見ることができた。
また、平成23年度には、滑走路北端付近で調査が行われ、滑走路西側を削り、その土を東側に盛って、傾斜をならす工事が行われた痕跡が確認された。
冬季の季節風(八ヶ岳おろし)に対応するため、滑走路はまっすぐ八ヶ岳の方向に向けて造られています。
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櫛形山中腹の標高約800m~900mに立地する集落です。
かつては「鷹尾」と表記されており、これは、昔、日本武尊が酒折の宮から櫛形山を眺め、鷹が巣に座している姿に見えたことから「鷹座巣山」と呼ばれたという伝承によるもので、尾の北側にある集落を「北鷹尾」、つまり現在の「高尾」地区と呼ぶようになったと言い伝えられています。ちなみに南高尾は平林地区(現富士川町)です。
集落の西端には式内社に推定される穂見神社が佇み、東南方向に傾斜し眺望が開ける位置に広がります。
江戸時代を通しておおよそ20戸前後があったとされ、林業が盛んとなった昭和の戦後まもなくにかけては最も戸数が多く、30戸を超えていました。
写真は昭和33年頃の様子です。静けさの中にも子供たちの声が聞こえてきそうな昔懐かしい「高尾」の風景です。
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古道である高尾道から高尾山林道までを結ぶ作業道を下ると、林道上の崖上にたどり着く。見晴らしが良く、正面に富士山を望めることから、この場所を富士見平(ふじみでえら)と呼ぶ。
丁度、富士山の手前にみえる谷地形が逆さ富士のように見えることから
「高尾の逆さ富士」として一部に人気のスポットである
高尾古道再生プロジェクトでは、この付近の林道沿いに石標を設置しているのでこれを目安にしてください。石標横のはしごを上り、道なりに数十mの地点で、鋭角に古道が折れ曲がる角の地点です。眺望をお楽しみください。
本州中部のアルプスなど標高およそ2,500メートル以上の高山帯に生息している。ライチョウははじめ北方に広く棲んでいたが、氷河期とともに南下し、再び地球が暖かくなったときには大陸から独立してしまったので高山に残されたものである。昭和30年に「国の特別天然記念物」に指定されている。
生活史は、まず4月につがい形成がおこなわれ、5月から繁殖期に入ります。やがて交尾が行われ、雄が見張りをする間に雌は巣作りと産卵を行い、7月上旬にふ化し、雛はすぐに歩いて餌をついばむようになる。雄は家族と離れて雄同士で群れをつくる。したがって雌のみが雛を育てることとなる。やがて、10月には雛は一人前に成長し、ここで家族は離散する。
南アルプス北部では北岳、間の岳、農鳥岳などいわゆる白根三山をはじめ、仙丈ヶ岳、駒ヶ岳、鳳凰三山などに分布している。
学名/ライチョウ(Lagopus mutus・ライチョウ科・Tetraonidae)
指定年月日/大正12年3月7日
写真撮影/森本聖治氏
甲斐犬は大正の末期頃、虎毛の日本犬として発見された。甲斐犬の特徴として体高は32センチメートルから51センチメートル、体重は12キログラムから24キログラム、耳はやや長く、四肢は強健で飛節が発達し、尾は差尾又は巻尾、毛は虎模様で粗剛。血統が山野にクマ、イノシシ、シカなどを追う山犬だけに、猟にかけては特に優れており、また警察犬や番犬としても物覚えのよさ、主人への服従の点からも優れていると云われている。
甲斐犬の原産地は山梨県南アルプス市、早川町、上九一色村、牧丘町、甲府市宮元などの山間僻地にのみ限られているが、中でも南アルプス市のものが最も勝れていると云われている。
昭和9年1月22日、甲斐犬の優れている性質を認めて、「生きた天然記念物」に指定され、その繁殖と保護に力をいれている。
名称/ 甲斐犬
指定年月日/昭和9年1月22日
備考/「生きた天然記念物」
写真撮影/三井孝司氏
長谷寺は新義真言宗智山派の古寺である。大和国(現在の奈良県)長谷寺に倣って豊山長谷寺と名付けられたが、その後この土地が八田の庄であることから「八田山長谷寺」と改称し現在に至っている。
本尊には十一面観音菩薩が祀られ、「原七郷の守り観音」として古くから篤く信仰されてきた。
原七郷(上八田・西野・在家塚・上今井・吉田・小笠原・桃園)は御勅使川扇状地の中央に位置するため、旱魃に悩まされてきた一帯で、長谷寺では古くから雨ごいの祈祷が行われてきた。
開創は、寺記によれば天平年間で、僧行基が甲斐国の治水事業のため留錫した際、当地で十一面観音を彫刻したのがはじまりと伝えられている。現在の本堂は昭和24年の解体修理の際に発見された旧材によって、大永4年(1524)に再興されたことが明らかとなっている。
所在地/南アルプス市榎原442
所有者、管理者/長谷寺
指定年月日/昭和25年8月29日
下高砂地区で染色捺染業(型染)を営み、平成4年3月21日、旧八田村教育委員会より江戸小紋染師として無形文化財保持者に認定指定された。
内田氏は、父であり師でもあった内田秀一氏(山梨県指定無形文化財保持者)の後継者として引杢(ひきもく)等の染めの技術を継承し、日本の伝統工芸である江戸小紋型染に専念従事するようになる。
小紋とは型紙などを用いて染め出したがらの細かな模様、そしてその模様が染め上げられた着物を意味する。江戸時代、武士の礼装である裃(かみしも)に小紋が用いられ、各藩が独自の小紋を競い合うことで、技術的に大きな発展を遂げた。
昭和29年、こうした柄の細かな小紋を他の小紋と区別するため、江戸時代の代表的な染めであることから「江戸小紋」という名称がつけられた。
江戸小紋は、縮緬(ちりめん)を代表する絹地織物に繊細な柄模様を単調な色彩で染め抜く伝統技術である。江戸小紋の特徴はこの柄の細繊さにあり、遠くで見ると無地に見えるが、近くで見ると柄が現れるのが上品あるいは「粋」とされた。
染めに使われる型紙は「伊勢型紙」といわれ、現在の三重県鈴鹿市白子で製作されてきた。型彫りには「引き彫り」、「錐彫り」、「突き彫り」、「道具彫り」等の高度な技術が必要であり、染め師と同様に無形文化財に指定されている彫り師もいる。
所在地/南アルプス市
所有者、管理者/
指定年月日/平成4年3月21日
備考/
水宮神社は有野部落の北部、御勅使川近く鎮座し、水波能女命(みずはのめのみこと)を祭神とする水害防護の神社である。御勅使川は大扇状地をつくっただけに、有史以来も大氾濫をくりかえし、特に天長11年(834年)の洪水は大惨事をもたらし、救恤のため勅使が派遣された。時の国司藤原貞雄は治水に努力し、当社に配祀されている。江戸時代、有野ほか21ケ村の鎮守として、御勅使川の共同水防が行われてきた。また、当社の森社叢は、マツが主要樹木だが、その他にアサダ2本、クマシデ3本、モミ10本、ケヤキ1本で構成されたいます。この中のアサダはクマシデ科の落葉高木で、本県では珍しい樹種で貴重な存在です。
所在地/南アルプス市有野1298
所有者、管理者/水宮神社
指定年月日/昭和61年9月12日
ひとくちに桃といっても、7月から9月まで時期によって旬の品種は移っていきます。
現在南アルプス市で栽培されている桃の代表的な品種には、「日川白鳳」「夢みずき」「白鳳」「あかつき」「川中島白桃」等がありますが、どの品種も色つきが良く、糖度が高いのはもちろんで、その上、日持ちが良い硬質の果肉であることが人気栽培品種の条件となっています。
そう、最近の桃はとっても甘いのに、リンゴのように皮をむいてカリカリと食べられるのです。
昔食べた、果汁が滴り落ちるような柔らかい桃は現在の市場では出回りません。
いまどきの流通システムに対応した共同選果が、傷がつきやすく痛みやすい桃に不向きだからです。そのために、かつて水密桃といわれたような、食べると果汁で口の周りがベタベタするような果肉の柔らかい品種の桃は淘汰されていきました。
その淘汰された桃の品種のひとつに「西野白桃(にしのはくとう)」があります。
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かつて、収穫時に雨が降るとどんなに大変だったかを何人もの人から聞きました。
その中のお一人で、サクランボ栽培者の相川泉さん宅に、これまでの雨との闘いの歴史を教えてもらいに行きました。(平成30年9月7日訪問撮影)
色づきはじめた桜桃の実に雨粒が当たったり、降雨で土壌の水分量が急増すると、桜桃の実は瞬く間に破裂して、腐りはじめてしまいます。
相川さんによると、「サクランボはとてもとてもデリケートで微妙な作物。桃やブドウより難しい。」といいます。
しかも、寒いところが適すので、栽培南限の山梨では基本的に気候が合わず、さらにさらに難しくてリスクが大きいのだそうです。
桜桃は夏の間に花芽の分化をしており、猛暑で乾燥と高温だった場合の翌年のさくらんぼは高温障害が出て、出荷できない双子果が多くなりますが、農家にはどうしようもありません。
さらに、サクランボの実をもぐときにも細心の注意をしないと翌年に実がつかなくなってしまうので、サクランボ狩りで素人が収穫するのも大変なリスクがじつはあるそうです。
そして、一般的に「なりどし」と「うらどし」があるといわれています。南アルプス市ではそんなに大変で気難しい桜桃の栽培を、どんな知恵と工夫で乗り超えたのでしょう?
昭和40年代はじめまでの桜桃には、まだ人工授粉や雨除け対策というものはされておらず、自然環境に左右されましたが、当時はまだ殺虫剤をそれほど使用していなかったので、花粉を媒介する虫も数多くおり、自然授粉でも大丈夫だったそうです。
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南アルプス市白根地区西野区内に大正時代初期に、開店したばかりの喜久屋商店。
大正時代から昭和10年代まで営業されていた喜久屋商店は櫛形山の中腹にある高尾の夜祭で有名な穂見神社に向かう通称高尾街道沿いにあります。
甲府方面から釜無川を渡って参詣する主要ルートであったため、西野区内でもこの街道に面する家では喜久屋商店の他、呉服屋や薬屋を営むものが2・3軒ありました。
喜久屋では、創業した芳明氏が甲府一高で同級生だった倉庫町の山梨商会経営者の協力を得て、駿信往還沿いの倉庫町にも進出し、タクシー業務部と臨時支店をもちました。
現在でも11月22日~23日にかけて、高尾穂見神社の夜祭が行われます。
かつては高尾山にある穂見神社を目指して、提灯を持った人々の行列が夜通し街道を多く行き交ったといいます。
[画像:個人所有]
南アルプス市といえばいまは果樹栽培地として有名ですが、
水はけの良過ぎる御勅使川扇状地で生き抜いてきた先人たちがいままでに栽培した代表的な作物には、小麦・藍・煙草・綿花などがあり、明治以降、昭和40年代くらいまでは養蚕が盛んに行われていました。
しかし、全国的に昭和50年代に入ると、化学繊維の台頭によって海外生糸輸出は停止し、和装離れによって国内需要も著しく低下しましたので、現在は蚕糸業(養蚕業から製糸業という一連の流れをまとめて呼んだ業種名)という産業そのものが実質的に消滅したといわれています。
南アルプス市では、水の豊富な中南部を中心に明治20年頃には、大規模な製糸場2社がすでにあり、大正、昭和初期には規模の大きなもの(50釜以上)だけでも20社ほど存在しました。
戦後も市内には中小15社以上ありました。
それに伴う製糸場の原料を供給する力=繭の生産力も大きかったということです。
しかし、蚕糸業が終焉を迎えてから50年ほど経ち、市内各地どこもかしこも桑畑の風景は一掃され、あれほど身近だった養蚕風景も、製糸場から漂うあの独特なにおいも、経験できないものになってしまいました。
それでも、八田地区内にまだ養蚕の痕跡を見つけることができました。
スピードスプレーヤー、通称エスエス(以下、SS)は薬剤噴霧器を搭載した特殊車両のことです。
果樹地帯である南アルプス市内では、春先から晩秋にかけて、道路ですれ違ったり、交差点で信号待ちしていると前後に挟まれたりなんかして真っ赤なダンゴムシみたいなかわいい車体のSSに、普通に遭遇します。
SSの大手メーカーさんに聞いたのですが、「山梨はSSの年間販売台数が全国一ダントツに多い」というのです!
大手3社合わせて年間約300台も売れる県は他にないのだそうです。
隣県の長野県や静岡県では年間100台にも届かないそうです。
山梨以外の日本の名だたる果樹栽培県では、集約した農地を持つ比較的規模の大きな農家が積載容量1000リットルキャビンタイプ等、大型のものを買う傾向にあるのに比べ、山梨は500リットルタイプの小容量が主流ですが、果樹栽培一家に一台ほぼ存在しているので、販売台数が多くなるようです。
そういえば、この辺の住宅街の車庫には普通乗用車の横にSSが停めてあるのを見るのはフツーです。
上高砂集落センターにて枯露柿生産農家のノリコさんとお話しました。
その時に「わたし、女子挺身隊だったのよ。終戦の時に愛知にいたのよ」と教えてくれました。
女子挺身隊とは、戦争中に軍需工場へ勤労動員された14歳以上の未婚女性の団体のことです。
高砂名物枯露柿のお話を伺おうとしていたので、突然現れた「女子挺身隊(じょしていしんたい)」という聞きなれない単語に一瞬とまどいながらも、またとない機会に遭遇できたことに感謝しました。
冷戦後しばらく安定していた世界情勢ですが、その変化を実感するいま、戦争を知らない私たちにとって、戦争経験者の証言を直に聞くことができるのは貴重な体験です。
大東亜戦争が終結してもう70年以上経っていますから。
上高砂集落内の小さな交差点に道標あります。
「左甲府」とわかるのですが、「右???」が読めません。
道標に和紙をのせ、拓本を取ってみると、「左 甲府」「右 小笠原」と読めました。(「原」の字の半分がアスファルトに埋まっています)
しかし、今ある位置では方向が違うので、別の場所から移動してきたとわかります。上高砂地区でご存知の方を探して教えていただきましたところ、新しい道標を建てたために不要になったのでこの地に運んできたとわかりました。
その場所とは、龍王から信玄橋をわたって上高砂地域にはいり、左側にあるスーパーオギノの手前を入る道の隅(上高砂の消防小屋の前)でした。
現在建っている道標を読むと、「昭和4年3月17日に御影消防団第三部建」とありますので、その時からこの場を離れ、いまは上高砂集落内にひっそりと佇んでいたのです。
地図で見ると、釜無川を渡って旧道が下高砂方面に曲がる当たりの南側にあたり、位置的にも方向的にも矛盾がないことを確認できました。
長い間路傍にあり、多くの人々の旅の安全を守りながら役に立ってきた道標を、新しいものができたからといってそのまま打ち捨ててしまうことができなかったのでしょう。
当時の上高砂の人々の心情が時を超えて伝わります。
上八田薬師堂にある那賀都神社(なかとじんじゃ)では、大嶽講(だいたけこう)がいまも行われています。
ろうそくに火をともし、太鼓をたたく音に合わせて「ダーイターケサーンナーカトーノジーンジャー、オーヤーマズーミノーカミー、オーイーカヅチノカミ、タカオーカミノーカミ、ロッコーンショージョー、ツツシミウヤマイテ、キーガーンタテーマツールー」と節をつけて何度も祝詞を唱和します。
講の手順をまとめると、「講の仲間が集まったら堂の中に入り、年長者が太鼓をたたいて音頭をとって、『大嶽山那賀都神社祝詞』を10回皆で唱える。
その際、回数を間違えないように、白い碁石を並べて数える。さいごにもう一度みなでゆっくり同じ祝詞をあげておしまいにする」というものです。
最近は、スーパーに並ぶ果物に「糖度保証」のシールが貼られているものが増えてきました。
少々高めのお値段なのですが、ついついそちらに手が伸びてしまいます。果実を傷つけずに食べる前から甘さを保証できるなんて、ふしぎ~ですよね。
現在では、桃・林檎・梨・蜜柑といった多くの果物の選果に使用されている非破壊式の糖度センサーですが、最初は外見からではわからない食味のバラつきに悩まされていた桃のために開発されました。
昭和62年から山梨県と山梨県果実農業協同組合連合会(果実連)・三井金属鉱業株式会社が協同して開発がはじめられ、一宮と西野の農協で測定実験が行われた後、平成元年にさっそく本格導入したのは、旧白根町にあった西野農協(現南アルプス市)が最初でした。
「人工衛星から電波を発信して地球の鉱物資源探査をしている特殊光線を利用することで,桃を破壊せずに糖度を測定できるのではないか」
という話を三井金属工業の技術者から聞き、これに賛同した山梨県の果樹産業関係者とはじめたプロジェクトだったそうです。
ちょうど桃の出荷中だった8月1日に、世界で初めて平成元年に桃の非破壊式糖度センサーを導入したJA南アルプス市西野支所(導入時:西野農協)へ、現在の稼働状況を取材に行きました。
現在、南アルプス市域では、あんぽ柿・枯露柿が盛んです.
その原料となる渋柿には、9月終わりから12月にかけて、刀根早生・平核無・勝平・大和百目・甲州百目・武田などの品種が移り変わっていきます。
そのうち、勝平と大和百目の原木は南アルプス市白根地区にあったものです。
とくに大和百目は、甲州百目とならんで、現在山梨を代表する大型の枯露柿の原料として大変人気があり、南アルプス市域で多く生産されている品種の一つです。
大和百目という品種の歩みは、西野に近接する上今諏訪の手塚半氏の竹林の中にあった一本の柿の木からはじまりました。
この木は甲州百目の枝代わりと言われていましたが、果実はそれ以上の大きさで、その上、核(種)が少なく、甲州百目よりも早く熟します。
枯露柿用として用いると、果肉が非常になめらかで食感がよく、色も鮮やかに仕上ります。
この樹の柿に魅せられた西野の手塚光彰氏が、今諏訪の原木から穂木をとって苗木に仕立てて、大正7年3月に、現在の桃ノ丘団地付近に50本の苗木を植え、当時としては珍しい柿の園地を造成しました。
県道甲斐芦安線を挟んで六科の八幡神社の向かい側にある清水油店タンク奥をよく見ると、レトロな倉庫があります。
もとは現在の下高砂集落センター隣の徳永地区に建っていました。その前には所有者の 現在は倉庫として使われています。
実はこの建物、昭和4年に若尾逸平の娘婿若尾金造がキリスト教伝道等を目的として建てた講堂(青年道場)でした。
南に富岳を朝夕仰ぐその名も「南岳荘(なんがくそう)」。
甲斐山岳会の会長もつとめた若尾金造は外国人を引き連れて南アルプスの山々を開発する際、若尾銀行の番頭で田之岡村徳永出身であった清水謹一の縁でこの地を事前宿泊地とし、南岳荘と呼んだのがはじまりです。
清水謹一氏の息子で、現在この南岳荘を六科に移転して所有し、徳永のかつての所在地であった場所にお住いの清水禎次郎さんから、いろいろと教えていただきました。
白根地区飯野に、昭和30年代から開塾しているそろばん教室に資料を見せていただきにまいりました。
そろばん教師の相川さんは全国的な和算の研究会にも所属され、そろばんに関するありとあらゆる資料を収集されている有名な方です。
かつて習い事は「お習字かそろばんか」という時代が長く、そろばん教室が各地で盛んに開かれてました。
相川さんのお話によると、明治以降に東京などの都会に出て一旗揚げたいという人も、まずは「読み書きそろばんを身に着けてから」でないと話にならなかったとのこと。
戦後も個人で使える電子計算機のなかった時代、金融機関でも行員がそろばんを使っていた昭和30年代には、複数の場所に教場を持っているような大手のそろばん塾が現在の南アルプス市内に5~6軒ほどもあったそうです。
昭和50年代になり、ピアノや水泳など習い事の選択肢が増えたきたころから、そろばん教室の状況はかなり変化してきたようですが、相川さんが開いていらっしゃる飯野にある珠算学院には、現在も小学生を中心に生徒さんが元気よく通っていらっしゃるとのことでした。
西野にある保坂呉服店は昭和2年に高尾街道沿いの椚に開店しました。←昭和20年代終わりころから30年代はじめの撮影と思われる保坂呉服店の様子。(保坂和子家アルバムより)
西野区内の高尾街道沿いには、保坂呉服店さんの他に、乾物屋、酒屋、薬屋、日用雑貨店などがありましたが、現在も営業されているのは、保坂呉服店のみです。
甲府から高尾穂見神社に参詣する人々が釜無川を渡って今諏訪の坂を上り、慈眼寺のあたりで戸田街道から離れるように右に曲がって西野へと進む道が、高尾街道です。保坂呉服店はその街道の通り道にある西野の椚(くぬぎ)集落にありました。
和子さんが「11月の半ばに行われる高尾の夜祭に出かける人々向けて、街道沿いに面する商店の前では「茅飴(かやあめ)」を売っていたみたいよ」と教えてくださいました。
かつては茅飴づくり用と伝わるおおきな鉢がお宅に残されていたそうです。
提灯を持ったたくさんの人々がこのお店の前を行き交ったのでしょうね。
[画像:個人所有]
南アルプス市内のあちこちで見かけるSS(スピードスプレーヤー)を使った農作業の様子です。
SSは、潅水や防虫害除けのための薬剤散布をするための作業車ですが、中でも南アルプス市域において最も所有率の高い500リットルタイプの小型SSの使用状況を、上今諏訪の原家所有のサクランボ園で見せていただきました。
山梨県のサクランボ栽培は、通常サイドレスハウス内で行われているので、小回りが利く小型のSSが重宝されています。
SSはサクランボ以外にも果樹全般(モモ、スモモ、ブドウ、カキ、キウイフルーツ)の作業に頻繁に使われます。非常に細かい霧状の水が後方についているノズルから180度放出されるしくみです。
西南湖にある重要文化財安藤家住宅で行われる「安藤家住宅ひなまつり」では、貴重な横沢雛が飾られます。
甲州で明治大正期に多く作られた横沢雛には童子をモデルとした人形が一番多いのですが、他に、成人女性や男性、妊婦、長生きの象徴としての老夫婦、七福神などの神様などモチーフに多くのバリエーションがあります。
その中でも、ひときわ異質なのが、赤い髪の中国の伝説の妖怪、猩々(しょうじょう)のお人形がです。
猩々は、能の演目にも真っ赤な装束で登場する中国の伝説上の生き物のことで、赤毛で人間のような容姿をしており、酒を好むとされます。
また、赤いものを嫌う疱瘡神を追い払うという伝承もあり、子供の健やかな成長を願って送られたものと思われます。
乾繭場(かんけんじょう)とは、養蚕農家から集めた生繭を熱風で乾燥させ、中のさなぎが羽化して出てくる前に刹蛹(さつよう)し、さらに水分を除去することでカビが生えたりするのを防ぎ、長期間の保存に耐えるように処理をする工場のことです。
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加賀美の瓦製造は、江戸時代(天保期1835頃から)甲府城に使用する瓦生産を農閑期に行ったのをはじまりに、昭和50年代初めまで行われました。
最も盛んに行われたのは明治中頃から昭和40年代末くらいまでの100年間ほどですが、作業風景を写した画像や記録は少ないです。
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沢登の龍沢寺には、伝説の男「せとじゅうさん」が瀬戸地蔵として祀られています。
←櫛形町誌(昭和41年刊)の瀬戸地蔵画像。この地蔵は昭和24年12月6日に建立したという。
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若草地区加賀美では昭和50年代まで40箇所以上の瓦製造所がある、瓦の街でした。加賀美地区は瓦作りに適した良質な粘土と豊富な水、焼き上げる際に必要な燃料を採取できる山が近いなど、好条件を備える土地でした。
その中でも、神山家は昭和初め頃から平成2年まで操業を続け、この地で最後まで瓦を焼いていた家です。
←昭和初期から平成2年まで操業した神山家の瓦製造工房内
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通称「ボロ電」とは、昭和5年から昭和37年までの32年間、西郡を甲府方面・峡南方面へと結んでいた路面電車のことです。
運行会社は、山梨電気鉄道→峡西電気鉄道→山梨交通へと変遷しました。
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白根地区今諏訪は、御勅使川扇状地の扇端部が釜無川によって削られてできた浸食崖沿いに、南北に広がる集落です。
この地では浸食崖の上に集落がありましたが、崖直下からは豊富な湧水があり、明治期には、この水力を動力とした水車小屋=搗屋(つきや)が崖下にいくつも並んでいたそうです。すべてが同時期操業であったわけではありませんが、全部数えあげると、昭和30年代までに7カ所もあったようです。
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現在は営業していませんが、櫛形地区上市之瀬にある、道に面した大きなパステルグリーンの観音扉が印象的なその野々瀬郵便局は、形西小学校の向かいに、県道伊奈ヶ湖公園線を挟んで立っています。
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多くの人や車が往来する富士川街道沿いで、地域の誰もが見知る街の電気屋さんである「(株)齊藤テレビ」の、昭和20年代末から30年代末までの変遷とアルバム写真データを大まかな年順に整理しました。
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伝単とは、敵の国民や兵士に降伏をうながしたり、戦意を喪失させる意図で、空から撒いたり街に掲示したりする、宣伝謀略用の印刷物(ビラ)のことです。
この「桐一葉」は、若草地区下今井出身で、太平洋戦争中に陸軍航空本部技手であった志村太郎さんが、太平洋北部のアリューシャン列島にあるキスカ(鳴神)島で拾ったもので、戦場で数多くばらまかれた伝単の中でも、ひときわ芸術性・文学性が高いものです。
色と形が桐の葉そっくりに作られているだけでなく、当時有名だった歌舞伎の演目「桐一葉」の内容を想起させる格調高い短文を付して、日本兵に軍部の衰退と滅亡を予感させています。
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南アルプス市は市域西部が急峻な山々に占められ、そこから発する河川が市の南東部に集まるため、市の南東部に位置する甲西地区は、上流から流されてきた砂礫の堆積により、いくつもの天井川が連なる土地となりました。年々河床が上がるたびにどんどん高さの増していく堤防は、甲西地区を行き交う人々、特に滝沢川の両岸にある集落(田島・西南湖・和泉)に住む人たちにとって、田畑に往き来したり、駿信往還に出たりするのにも、家の屋根より高い所を流れる川の土手を登ったり降りたりして越えなければならず、たいへん大きな障壁でした。
そこで、昭和時代に入ると、滝沢川の河床の下に、トンネルを掘って道を通す工事が3か所で行われました。かつて「田島隧道(ずいどう)」「南湖隧道」「和泉隧道」という3つのトンネルが、昭和時代に滝沢川の下を通っていました。
その後、これら3つのトンネルは、昭和46年より行われた滝沢川の天井川を完全に解消する大改修事業によって、川の河床がだいぶ低くなったために廃止されました。現在では、滝沢川にトンネルの跡形は何もなく、同じ場所に川の上を渡る「田島橋」「南湖橋」「和泉橋」が設置されています。
「地方病とたたかうポスター」をご覧にいただきたいと思います。山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。
山梨県が製作したこの地方病予防広報・啓発ポスターを見出し部分から読んでみますと、『三百余年前から蝕ばまれ悩まされ続けて来た地方病 今こそ完全撲滅の絶好の機会!!県政の重大施策としてとりあげてここに三年、有病地の指定解除、宮入貝の減少、患者の著減等々成果は上々である。 この好期をおいていつの世に根絶することができよう、みんなで力を併せて一挙に駆逐するよう今一段の努力をいたしましょう。』とあります。
このポスターには製作年が記載されていないのですが、見出しの文面と、「現在実施している予防対策」の項にPCBという薬剤によるミヤイリガイの刹貝と、コンクリート溝梁化工事に年間一億のお金をかけている」といった文言があること、当該資料の含まれる資料群全体の年代構成からかんがみて、この地方病対策ポスターは、だいたい昭和30年代中頃に作られたものではないかと考えています。
雛人形が入っている箱に地元の呉服屋さんの名前が記されていることがあります。当時の呉服店は、節句人形の販売代理店としての機能も担っていたようで、西郡地域の人々が飾ったお人形は甲府の雛問屋で作られたものに加え、鰍沢の春木屋などの商家を経由して入ってくる駿河で製作された人形も多く流通していたと考えられます。明治大正期に昭和初期頃の西郡の人々が人形を求めるときには、
① 甲府の雛問屋か鰍沢の商家に買いに行く。
② 甲府の雛問屋から「ひなんどー、ひなんどー」との掛け声で、安価な横沢雛を籠に担いでやってくる売子から買う。
③ 初節句の晴れ着などを購入するのに合わせて、近所の呉服屋で売っている人形を買う。
の3つの購入方法があったのだと思います。
徳島堰は、韮崎市上円井の釜無川から取水し、南アルプス市曲輪田新田まで伸びる役17kmのかんがい用水路です。寛文5年(1665)、江戸深川の町人徳嶋兵左衛門が甲府藩の許可を得て工事に着手し、寛文7年には曲輪田の大輪沢(堰尻川)まで通水したといわれています。
それから昭和40年代に釜無川右岸土地改良事業によってコンクリート化され、「原七郷はお月夜でも焼ける」といわれた御勅使川扇状地扇央部の常襲干ばつ地域にスプリンクラー網が整備されるまで、開削から300年の間に大雨による埋没など度重なる逆境乗り越え、現在の徳島堰の形となりました。
そんな南アルプス市の豊かな田園や果樹園の景観を守り続けてきた徳島堰ですが、実際どのようにして取水され、どんな旅路を経て私たちの暮らす南アルプス市までその水がやってくるのでしょうか!?今回はそんな徳島堰を流れる水の旅路を追ってご紹介していきます!
堰沿いにある入戸野バス停
3つの発電所で大役を終えた徳島堰の水たち。そこからもう少し下流、入戸野沢との立体交差地点に差し掛かると丁度辺りは入戸野地区の集落となります。入戸野沢が水路橋で徳島堰を渡っているすぐ先。堰沿いには石造物とバス停、また集落中心地のシンボルである火の見櫓が並んで現れます。入戸野の町並みと徳島堰の変遷を見守ってきたであろう石造物の背面を流れる徳島堰。堰沿いの民家を見てみると、庭から堰の水面まで降りてこられるよう「つけえばた(洗い場)」が造られている箇所も多く、この徳島堰が集落の生活にいかに根ざし、溶け込んでいるかが伺える場所です。
釜無川右岸第二調整池
南アルプス市飯野新田地区に入った徳島堰は最後の任務に向けて第二調整池へ分水をしていきます!しかしよく見ると調整池といっているのに溜まっている水の姿が見えないどころか、一面綺麗に整地されたグランドになってしまってるのは一体!?・・。実は第二調整地はこのグランドの地下に貯水のタンクが作られており、グランド自体は地域の人たちへ無料で開放しているとのこと。どこまでも地域想いで太っ腹な徳島堰!この調整ここでも貯められた水たちは地下パイプライン網を通ってスプリンクラーへと送られていきます。頭首工からここまで約16kmの旅路の中幾度となく難所を乗り越えながら、髄所で取水の任務を果たしてきた徳島堰。最後の大役を無事勤め上げてそのエンディングへと進んでいきます!
「ふるさと文化伝承館」が新しく生まれ変わって平成21年6月にリニューアルオープンしました。
愛称は「みなでん」
これからも皆さんとともに作り上げたい!という願いもこめて
「み・ん・な・で、み・な・で・ん」
って覚えてください!
世界的に知られる国重要文化財の「鋳物師屋遺跡出土品」をはじめ、市内の遺跡から出土した土器や石器、昔懐かしい民具などを展示しています。
当館では展示パネルを少なくし、スタッフによる展示案内などお客様とのコミュニケーションを大切にしています。不必要な場合にはお申し付けいただき、また、ご質問などはお気軽にお問い合わせいただければと思います。