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時代で選ぶ - 昭和

女子挺身隊

上高砂集落センターにて枯露柿生産農家のノリコさんとお話しました。
その時に「わたし、女子挺身隊だったのよ。終戦の時に愛知にいたのよ」と教えてくれました。
女子挺身隊とは、戦争中に軍需工場へ勤労動員された14歳以上の未婚女性の団体のことです。
 高砂名物枯露柿のお話を伺おうとしていたので、突然現れた「女子挺身隊(じょしていしんたい)」という聞きなれない単語に一瞬とまどいながらも、またとない機会に遭遇できたことに感謝しました。
冷戦後しばらく安定していた世界情勢ですが、その変化を実感するいま、戦争を知らない私たちにとって、戦争経験者の証言を直に聞くことができるのは貴重な体験です。
大東亜戦争が終結してもう70年以上経っていますから。


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昭和2年生まれのノリコさんは「巨摩高(南アルプス市内に現在もある山梨県立巨摩高等学校・当時は女子高)を卒業した次の日に愛知県春日井郡鳥居松にあった軍需工場に、女子挺身隊として派遣」されました。
「鳥居松の軍需工場には、ノリコさんも含めて山梨県の巨摩高出身者は全部で42人いた」そうです。
「来る日も来る日も軍需工場で鉄砲と拳銃の検査をした」「終戦間際は紙を貼り合わせて風船爆弾もつくった」といいます。
「食事は米が全くなく、豆のしぼりかすとみそ汁ばかりで、山梨の実家にいた時よりも食糧事情は悪かった」そうです。
「軍需工場地帯だったから空襲もよく来て、ある時、山梨の子がB29からの爆撃によって破壊された建物の下敷きになって、一人亡くなった」そうです。
もう一人はけがで済みましたが、
「治るまでに何か月もかかったからひどいけがだったんだと思う」と淡々と話してくれました。
それでも、「終戦後に班長さんが2年半分の給金として2600円も実家に持ってきてくれた(ひと月県内40円・県外100円の賃金だった)。
家族が喜んでくれてうれしかった」そうです。男の人だけでなく、戦争では山梨の女の子たちも、親元を離れて工場で戦ったのですね。

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