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種別・テーマで選ぶ - 埋蔵文化財

ふるさと文化伝承館(市文化財センター)

「ふるさと文化伝承館」が新しく生まれ変わって平成21年6月にリニューアルオープンしました。
愛称は「みなでん」
これからも皆さんとともに作り上げたい!という願いもこめて
「み・ん・な・で、み・な・で・ん」
って覚えてください!

世界的に知られる国重要文化財の「鋳物師屋遺跡出土品」をはじめ、市内の遺跡から出土した土器や石器、昔懐かしい民具などを展示しています。

当館では展示パネルを少なくし、スタッフによる展示案内などお客様とのコミュニケーションを大切にしています。不必要な場合にはお申し付けいただき、また、ご質問などはお気軽にお問い合わせいただければと思います。


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御勅使南公園

御勅使南公園の中にも、将棋頭から続く御勅使川右岸を守る石積みの堤防があります。
公園の管理事務所の南、駐車場の入り口付近から東西に堤防を見ることができます。この堤防の北側は現在では様々な遊具や、ラグビー場などが広がりますが、昭和初期まで御勅使川の河原が広がっていました。


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アヤメが丘団地(六科丘遺跡)

丘を削平して新たに誕生した住宅街で、昭和58年、開発に伴い発掘調査がおこなわれました。今から約1700年前の弥生時代終末~古墳出現期のムラの跡です。二つの河川に挟まれた舌状台地は先端で丘状に高まり、その丘の南西面に竪穴住居が建てられており、同じ舌状台地上でも長田口遺跡と向き合う位置関係となります。約25,000㎡を対象とした発掘調査ではほぼムラの全貌が調査され、33軒の竪穴住居が発見されました。

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野牛島・西ノ久保遺跡

西に大塚遺跡、南に野牛島・大塚遺跡、東に石橋北屋敷遺跡に囲まれた遺跡。古墳時代前期や奈良・平安時代、中世の集落跡。遺跡内の小さな谷底から破片どうしが融着し形が歪んだ須恵器の大甕片が出土し、遺跡周辺に須恵器窯が存在する可能性が指摘されている。また注目される遺構として、炭焼の平窯や和鏡が副葬された土坑墓、中世の道路跡なども発見されている。


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大塚遺跡

(写真は山梨県立考古博物館所蔵)


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石橋北遺跡

野牛島・大塚遺跡、野牛島・西ノ久保遺跡と隣接した遺跡で、奈良・平安時代から中世までの集落跡が発見されている。とくに注目されるのは、中世の遺構である。13世紀の竪穴建物2軒、14世紀代の幅約4mで東西に走る両側に側溝をもつ道路跡やそれに並んで区画溝が発見されており、この時期に計画的な土地開発が行われた可能性が指摘されている。また16世紀後半の土坑墓も発見されており、この地域が墓域へ移り変わった変遷も明らかとなっている。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)

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立石下遺跡

平安時代の集落跡。13軒の住居跡や炭焼窯が発見された。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)

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百々・上八田遺跡

平安時代から中世の集落跡 調査では80個体を超えるウマ・ウシの骨が出土し、「八田牧」の存在を彷彿させ、ウマの存在が甲斐源氏活躍のを裏付ける。
写真は 炉から出土したタイの堆骨(縄文時代後期)


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榎原・天神遺跡

前御勅使川右岸に立地する。平安時代~中世の集落跡。10世紀代の竪穴式住居跡が2軒発見された。またウマの歯が出土した中性の区画溝跡も見つかっている。


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坂ノ上姥神遺跡

御勅使川扇状地上に3遺跡が隣接している。縄文時代後期や古墳時代後期、奈良・平安時代から中世まで複数の時代に渡る遺跡である。特に縄文時代後期の敷石住居跡の炉から鯛の堆骨が発見され、海産魚を食料とした県内最古級の資料として注目された。奈良・平安時代では多数の住居跡や溝跡も発見されており、溝からは馬の歯も出土した。

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野牛島・大塚遺跡

奈良・平安時代から中世までの集落跡。奈良・平安時代の住居跡は現在の甲西バイパスより西側に広がるのに対し、中世の溝跡や土坑墓はより能蔵池に近いバイパスの東側を中心に発見されている。野牛島集落の発祥は能蔵池北側であるとの伝承があるが、遺跡の調査結果からその伝承は中世以降能蔵池周辺に集落が移動した後の状況を伝えていると考えられる。写真は平安時代の住居跡。


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六科丘古墳

市之瀬(イチノセ)台地の先端部、標高435mに造られた古墳で、調査の後に古墳公園として保存整備されています。
古墳は、造出しのついた径24mの円墳で、その周りを幅約2mの礫帯が巡っています。旧地表面を整地した後に土を盛って築き、表面に葺石を施したとみられます。埴輪は確認されませんでした。

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長田口遺跡(ほたるみ館)

漆川と深沢川とに挟まれた舌状台地上、標高約440mに立地し、平岡集落の南の端にあたります。
これまで、広域農道建設、ほたるみ館建設、多目的広場駐車場建設の3地点(計約12,600㎡)で発掘調査を実施しています。ほたるみ館建設に伴う発掘調査は平成10年に行われました。

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長田口遺跡(西地区多目的広場・広域農道)

漆川と深沢川とに挟まれた舌状台地上、標高約440mに立地しています。
これまで、広域農道建設、ほたるみ館建設、多目的広場駐車場建設の3地点(計約12,600㎡)で発掘調査を実施し、縄文時代中期の竪穴住居跡9軒以上、弥生時代~古墳時代の竪穴住居跡80軒以上が調査されており、この2時期を中心とした複合遺跡といえます。

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椿城跡(上野城跡)

上野の地に小笠原長清の孫盛長によって築かれた城で上野城といい、周りに椿の花が多かったことから別名椿城とも呼ばれています。
 鎌倉時代のもので、細長い台地の上に堀や土塁で各スペースが区切られていたもので、石垣や天守閣があるようなものとは違います。堀や土塁の位置はレーダー探査によっておおよその位置が把握されています(写真)。
 周辺には地下式坑といって地下室が転々と造られており、時々陥没することから椿城には秘密の抜け穴があると伝えられてきました。市指定史跡。

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上ノ東古墳

椿城跡から物見塚古墳へと続く道の途中にひっそりと佇む古墳。市之瀬台地は山から離れるほどに徐々に下ってゆきますが、台地の先端付近で再び盛り上がって一気に下ってゆきます。その盛り上がった頂上にこの古墳は築かれます。台地上に存在することから5世紀台とみられますが詳細は不明です。

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物見塚古墳

 甲府盆地を一望する市之瀬台地の先端部、標高375mの地点に造られた全長48mほどの前方後円墳で、前方部がやや短く、葺石が施されていました。このちいきで現存する前方後円墳は唯一です。
 周溝・埴輪は確認されず、内部主体は粘土槨とみられます。調査では鉄剣3口、直刀1振、玉類、土師器片などが出土しました。過去に捩文鏡1面、玉類の出土が伝えられています。

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塚原上村古墳

 今から約1400年前の古墳で、墳丘はほぼ削平され、横穴式石室の周囲で東西4.5m、南北8.9m、高さ2.3mのみが遺されています。
 円墳とみられ、石室は露出しており、古くから「大西のおかま」と呼ばれていました。(「大西」というのは現在古墳の真正面にある個人宅の屋号です)
 現存する石室規模は玄室の長軸が4.5m、幅は奥壁で1.58m、開口部で1.55mを測り、羨道部はほとんど遺されていません。遺物も過去に乱掘を受けており不明です。


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鋳物師屋遺跡

 市之瀬台地の縁に近い扇状地にある縄文時代中期中葉(約5000年前)のムラの跡で、直径130メートルの範囲に32軒の竪穴建物跡(隣接する〆木遺跡を含む)が発見されました。
 住居は真中に広場をもってドーナツ状に分布して建てられていきました。
 膨大な量の土器が発見され、日用品から祈り事用とみられるものまであり、205点の出土品が国の重要文化財に指定されています。
なかでも、「円錐形土偶」、「人体文様付有孔鍔付土器」は、当時の精神文化を知る貴重な資料であり、世界中の博物館で紹介されました。

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新居田A遺跡

ほたるみ館(長田口遺跡)とあやめが丘(六科丘遺跡)とを結ぶこの道路周辺は新居田A遺跡と呼ばれ、平成12年の道路拡幅工事の際には発掘調査が実施されています。
道路西端では長田口遺跡の集落と同じ集落とみられる縄文時代中期前半の竪穴建物跡と、弥生時代終わりから古墳時代の竪穴建物跡が発見されました。また、畑の畝とみられる遺構も発見されました。
六科丘遺跡に程近い、調査区中央付近では縄文時代中期の住居跡がポツンと一軒だけ離れて確認されました。
どういった性格の建物なのかは今後の調査で判明できることでしょう。


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新居田B遺跡

 漆川のすぐ上、崖線にそってある遺跡で、平成13年に農道の建設工事に伴って発掘調査が行われ、縄文時代中期から古墳時代初頭の住居跡が発見されています。
 この一帯でも、特に漆川を望む崖線際に縄文時代晩期の営みの跡が発見されます。 


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中畑遺跡

 櫛形西地区多目的広場の建設に伴って平成14年に発掘調査が行われました。
 縄文時代前期前半(約6,000年前)という市内で最も古い住居址群が発見されています。その他、縄文時代中期から後期、晩期、弥生時代中期から古墳時代初頭までの集落など、連綿と人々の暮らしが営まれていたことがわかりました。

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上の山遺跡

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古屋敷遺跡

市之瀬台地の上、中野にある遺跡で、縄文時代中期後半の集落跡が発見されています。写真は平成5年に建設された広域農道の範囲で住居跡が2軒発見されました。また、近年ではクラインガルテン(滞在型農園)の建設に関しても行われ、クラインガルテンの敷地内に保存されています。

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鋳物師屋古墳

市道建設すの際に発掘調査が行われた古墳で、古墳の東側半分が道路部分にで調査され、西側半分はまだ畑の中に埋まっているようです。
 昭和29年に削られたため 古墳の高まりはありませんでしたが、石で作られた横穴式石室(よこあなしきせきしつ)の基礎の部分や、 古墳の周溝が発見されました。周溝の形から方墳(ほうふん)といった四角い形をした古墳ということが判明しました。およそ6世紀後半のものです。ちょうど遺跡情報発信オブジェの真下に古墳があったのです。

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曽根遺跡

市之瀬台地の裾、傾斜地から扇状地にかけて広がる遺跡で、旧石器から縄文時代の全ての時期、さらに弥生時代、古墳時代にいたるまでの資料が出土する遺跡です。
中心となるのは主に二つの時期で、縄文時代中期後半の環状に広がるとみられる集落と、弥生時代から古墳出現期にかけての集落です。
縄文時代中期の集落には平面形六角形で五本柱の住居跡が特徴的で山梨県内でもまだ数例しか見つかっていない発見例となりました。


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北原C遺跡

市之瀬台地の北側縁辺部の下、扇状地に立地する約4,500年前の縄文時代中期のムラ跡です。
直径100mを越す大規模な環状集落になるとみられ、その一部が道路建設により発掘調査が実施されました。
その結果18軒の竪穴建物跡などが発見されました。

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宮沢中村遺跡

 現甲西バイパス・中部横断道の建設に伴って平成6・7年に発掘調査が行われました。
 古代から近世のムラの跡が発見され、鎌倉時代の水田を守るために築かれた護岸用の網代や、洪水の土砂で埋まりながらもそのつど復旧し、水田やムラを守り続けてきた人々の逞しさを知ることができる調査成果となりました。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)


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大師東丹保遺跡

鎌倉時代の杭で護岸された水田跡や水路跡、そして低地の開発を主導した有力者の屋敷と推測される建物跡が発見されています。水田跡からは五芒星「★」を記した呪符木簡(じゅふもっかん)や人形(ひとがた)、斎串(いぐし)などまじないに使われた木製品が多く出土しており、この地に暮らした人々の切実な願いが伝わってきます。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)


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油田遺跡

平成5・6年発掘調査実施
現甲西バイパス・中部横断道
弥生時代から平安時代のムラの跡
弥生時代中期の地震の痕跡や古墳時代後期の祭祀跡、平安時代の水田跡などが発見され、弥生時代から連綿と生活が営まれていたことがわかります。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)


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二本柳遺跡

平安時代から江戸時代の水田跡、戦国時代から江戸時代の寺院
跡が発見されています。
寺院は、加賀美遠光の館跡とされる法善寺の子院の一つであっ
た「福寿院」の跡です。この寺院は江戸時代末に火災で焼失したとされます。
 遺跡からは16世紀を中心とした木棺墓、井戸、周囲をめぐらした溝、掘立柱建物跡などの施設のほか、陶磁器・かわらけ・内耳土器・すり鉢、石臼、摺臼、漆器、下駄等の生活道具や卒塔婆、五輪塔、銭貨などが見つかっています。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)


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新居道下遺跡

古墳時代後期のムラの跡が発見されました。また弥生時代~
古墳時代前期の溝跡なども発見されており、弥生時代以降、
連綿と人々が暮らしていたことがわかります。

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二本柳遺跡(甲西バイパス地点)

法善寺の塔頭(たっちゅう)「福寿院」の西側に位置する。中世の水田とともに溝によって区画された戦国時代の寺院跡が発見され、「福寿院」が東側へ広がることが明らかとなった。寺域内からは火葬骨を埋葬した木棺が出土。木棺には梵字や真言の偈文(げもん)が墨で書かれ、その内容は当時の葬送の手順を書いた元興寺極楽坊所蔵の『入棺作法』の内容とほぼ一致している。こうした状況から、寺院と関係した人物が葬られた可能性が高い。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)


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住吉遺跡

住吉遺跡は南アルプス市南部、甲西地区のほぼ中央にあり、若宮八幡神社を含め、その南側に広がる遺跡で、標高約245mを測ります。周囲は水田地帯ですが、網の目状に流れる小河川によって造られた微高地上に立地し、周囲には村東遺跡や、清水遺跡、西川遺跡など、同じく微高地上の遺跡が分布しています。
住吉遺跡は弥生時代後期、東海地方との関係を示す豊富な土器群に象徴される特徴的な集落遺跡です。


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宮東遺跡

古墳時代前期の土器や中世の建物跡、井戸跡、木棺墓などが発見された。不動寺旧境内であることから、不動寺と関係する施設であると推測される。写真は礎石建物跡。

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村内遺跡

古墳時代中期の竪穴住居跡。住居跡から多数の壷や甕、高坏などが発見されている。

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東出口遺跡

小笠原地区の現在の滝沢川沿いにある遺跡で、平成17・18年に発掘調査を実施するまでは詳細が分からなかった遺跡です。調査の結果広い範囲に古代のムラ跡が残っていることがわかりました。

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向河原遺跡

水の豊かな湧水地帯を利用して営まれた、弥生時代から江戸時代までの水田跡が発見されています。
 水田は、現在と比べ非常に小さく、畦で囲まれた一枚の水田は最大でも6m×5m程度でした。
当時の技術では広大な面積を整地するのが困難だったのです。
わずかな地形の勾配にも苦労しながら、新天地を開墾していった弥生人の姿が垣間見られます。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)


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御崎古墳・御崎神社

市之瀬台地の先端にある御崎神社。
正面には富士を、眼下には甲府盆地を見渡せる絶景の地に佇む神社です。

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角力場第2遺跡

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鋳物師屋遺跡のサル形土製品

鋳物師屋遺跡出土の縄文時代中期(およそ今から5000年ほど前)のサルの顔をした土製品で、国の重要文化財に指定されています。
全国の遺跡(主に本州)から縄文時代のサルの骨などは出土しており、その存在は証明されていますが、サルを模した土製品はそれほど多くはありません。
 また、サルの土製品とされているものでも、サル似の人?のようなものが多く、ここまでリアルにサルを表現しているものは全国でも大変珍しいです。
ほほの下の鳴き袋まで表現されているのです。
右耳は欠損しており、後で復元修復しています。


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八田御牧(はったのみまき)から八田庄(はったのしょう)へ(ふるさとメール2007年8月1日号)

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鎌倉時代の開発集落 大師東丹保遺跡(だいしひがしたんぼいせき)1(ふるさとメール2007年8月15日号)

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鎌倉時代の開発集落 大師東丹保遺跡(だいしひがしたんぼいせき)2(ふるさとメール2007年8月31日号)

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甲斐源氏秋山光朝ゆかりの城跡を行く (ふるさとメール2009年9月15日号)

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ミクロの世界から見た扇状地の食生活 (ふるさとメール2010年7月15日号)

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新発見レポート ~水と木と石が紡ぐ物語~(ふるさとメール2015年3月16日号)

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根方の魅力②~南アルプス市最初の定住者 (ふるさとメール2011年2月14日号)

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根方の魅力③~中畑遺跡が教えてくれる南アルプス市最初の定住生活 (ふるさとメール2011年4月15日号)

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根方の魅力⑤~自然との共生を祈るムラ「北原C遺跡」(前半) (ふるさとメール2011年6月15日号)

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根方の魅力⑥~自然との共生を祈るムラ「北原C遺跡」(後半) (ふるさとメール2011年7月15日号)

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根方の魅力⑦~絶景の地に王は眠る~ (ふるさとメール2011年9月15日号)

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古市場若宮八幡神社と神楽 ~弥生時代から続く土地の力~ (ふるさとメール2017年10月14日号)

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俳人「福田甲子雄」にみる南アルプス市の風土(一) (ふるさとメール2018年3月15日号)

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何気ない街角に歴史あり(その3)村落移転の記憶を伝える道祖神 (ふるさとメール2018年7月13日号)

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まちの宝箱~「ふるさと文化伝承館」リニューアルオープン~(ふるさとメール5月15日号)

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桝形堤防史跡整備への歩み その3 ~水の世紀を生きる道標(ふるさとメール2022年11月15日号)

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桝形堤防史跡整備の歩み その5 ~水の世紀を生きる道標~(ふるさとメール2023年1月16日号)

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牛と馬の道具

 南アルプス市ふるさと文化伝承館では令和5年7月14日から12月20日まで、テーマ展『南アルプス山麓の古代牧』を開催しました。
 御勅使川扇状地での牧(牧場)の存在は、百々遺跡で発掘された出土資料によって、平安時代にさかのぼる可能性があると考えられていますが、江戸時代以降も牛馬利用の伝統は続いています。さらに、もっと身近な昭和30年代頃まで市内で使われていた民具をみることで、牛馬と市民との関わりを知ることができます。
[南アルプス市ふるさと文化伝承館で令和5年7月14日から12月20日まで開催された、テーマ展『南アルプス山麓の古代牧』における民具コーナー]


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