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地区で選ぶ - 白根

石積出

砂礫と石で造られた堤防で、一番堤から五番堤まで残されている。武田信玄の築堤と伝えられるが、史料で裏づけられていない。少なくとも江戸時代には築堤され、有野の田畑や集落、さらに下流の御勅使川扇状地に立地する21ヶ村を守る役割を果たしていた。国指定史跡(一~三番堤)

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水宮神社

御勅使川扇状地の扇頂部に位置し、扇状地全体の治水の要とも言える有野地区には、水害防護の水宮神社が祀られている。寺記では天長11年(834)に起こった大水害の際、天皇より勅使が遣わされ、水の神である水波能女命(うずはのめのみこと)をこの地に祀ったのが始まりと伝えられている。大正15年水宮神社拝殿を改修する際にも、下流の村々から寄付がよせられた。

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矢崎家住宅

江戸時代前期の建物。甲府盆地西部では最も古い民家で、徳島堰を完成させた矢崎又右衛門のゆかりの家でもある。矢崎氏は江戸時代を通じ有力農民として有野村の名主を務めていた。市指定建造物。

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徳島堰

徳島堰は韮崎市上円井(かみつぶらい)で釜無川から取水し、南アルプス市曲輪田新田(くるわだしんでん)まで約17kmを結ぶ灌漑用水路。

江戸時代の寛文5年(1665)江戸深川の徳島兵左衛門(とくしまひょうざえもん)によって開削が始められた。
2年後には曲輪田まで通水に成功するが、大雨によって二度堰が埋没すると兵左衛門は事業から手を引き、その後甲府藩が事業を引き継ぐ。
甲府城代から堰の復旧工事を命じられた有野村の矢崎又衛門(やざきまたえもん)は、私財を投じて工事に取組み、寛文10年に工事が完成し,翌11年に「徳島堰」と命名された。
堰の開削によって耕地が広がり、曲輪田新田や飯野新田、六科新田など新たな村々が開かれるなど、水不足に悩む地域に多大な恩恵がもたらされた。
現在でも徳島堰の水は、水田だけでなくスプリンクラーに導水され、市内の桃やさくらんぼを潤し、フルーツ王国南アルプス市を支えている。

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将棋頭(六科水田)

将棋頭は、その名のとおり将棋の駒に見立てられた石積みの堤防で、国の史跡に指定されている。武田信玄が築堤し、御勅使川の流れを分流したと伝えられてきたが、史料的裏付けがなく初現は不明である。

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御勅使南公園

御勅使南公園の中にも、将棋頭から続く御勅使川右岸を守る石積みの堤防があります。
公園の管理事務所の南、駐車場の入り口付近から東西に堤防を見ることができます。この堤防の北側は現在では様々な遊具や、ラグビー場などが広がりますが、昭和初期まで御勅使川の河原が広がっていました。

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不連続堤

途切れることなく一直線に延びる堤防。洪水から人々や町を守る堤防がこうした姿であることは現在では当たり前ですが、少なくとも江戸時代から明治時代の堤防では、途切れ途切れの姿が普通でした。この不連続の堤防は明治時代ごろから「霞堤」と呼ばれるようになります。
御勅使川の堀切橋付近を見てみましょう。前御勅使川に比べると、堤防と堤防の間、つまり遊水地が広く確保されています。増水した時には途切れた部分から水を逆流させ、一時的に水を蓄える機能も果たしていたと考えられます。このように霞堤は、先人の長い経験を踏まえながら「あふれる」ことも考えて造られた堤防でもあるのです。

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石積出 一番堤

石積出の中で、最も上流に築かれた石積みの堤防。現存している長さは約70m。3段構造で、2段目に石の大きさ、積み方の違いが見られ、少なくとも2回修復されていることがわかる。

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石積出 二番堤

地表に露出している部分だけでは、1段積みの構造。水流があたる川表側に補強の石積みが行われている。

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石積出 三番堤

二段積みの石積み堤防。現存している長さは約100m。先端部の一部が発掘されており、堤防の基礎を守る根固めに井桁状に丸太を組み合わせ、中に石を詰める「木工沈床」が用いられていることがわかっている。

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源堰堤

大正9年に竣工。高さ7m、長さ109.1mある大型の堰堤。芦安、藤尾堰堤とともに現在でも大正期の姿をとどめている数少ない堰堤のひとつ。芦安堰堤と並び、「御勅使川治水の双璧」と呼ばれていた。現在でも私たちの生活を支えている。

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了円寺

徳島堰を作ったの徳島兵左衛門ゆかりのお寺。兵左衛門夫妻のお墓もある。当時このお堂にもロタコ工事で朝鮮人労働者が寝泊りしていた。

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百々・上八田遺跡

平安時代から中世の集落跡 調査では80個体を超えるウマ・ウシの骨が出土し、「八田牧」の存在を彷彿させ、ウマの存在が甲斐源氏活躍のを裏付ける。
写真は 炉から出土したタイの堆骨(縄文時代後期)

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西原五輪塔群

西野西原の円通寺北西には、妙慶院と西野姫の供養塔と伝えられる五輪塔と宝篋印塔がある。

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三宮神社

滑走路南端にあり、御勅使川扇状地上の数少ないランドマークとして、建設工事に動員された地域住民や学生の集合場所のひとつとなった。

滑走路の南端付近は、浅い谷状の地形を埋め立てて造成されており、現在でも当時の盛土の様子をよく残しています。
造成工事にはスコップや「ジョレン」などの道具を用いて行い、土の運搬は「パイスケ」と呼ばれる天秤棒状の道具や「チョウセングルマ」と呼ばれた二輪の手押車やトロッコが活用されました。
造成後はローラーによる締め固めが行われていた部分もあったようです。

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滑走路跡

冬に吹き下ろす「八ヶ岳颪(やつがたけおろし)を考え、八ヶ岳にむかって設計された幅100m、長さ1500mの滑走路。中央に設けられた誘導路は、今でも農道として利用されている。

現在でも、所々に60数年前動員され人々が造成した滑走路の盛土がそのまま残っている。平成17年度に実施した発掘調査の結果、当時の人々が滑走路両側の土を掘って滑走路に積み上げたたことがわかったほか、土が沈まないように締め固めたような跡も見つかり、当時の人々が行った作業工程を垣間見ることができた。
また、平成23年度には、滑走路北端付近で調査が行われ、滑走路西側を削り、その土を東側に盛って、傾斜をならす工事が行われた痕跡が確認された。
冬季の季節風(八ヶ岳おろし)に対応するため、滑走路はまっすぐ八ヶ岳の方向に向けて造られています。

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誘導路1

ロタコ工事の際に作られた飛行機の誘導路のひとつ。その後、多くの施設が畑や田んぼに戻されるなか、戦後も「便利なので」そのままの農道として使われている。

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築山の横穴壕跡1

ロタコの呼応時に伴って掘られた横穴壕は燃料などを隠して備蓄することや航空部品などの地下工場にすることを目的につくられました。ループ橋から、ここ築山付近まで55基以上が掘られたようです。
横穴壕の工事は、大手ゼネコンが陸軍から受注し、ロタコの工事の中では最も早く、昭和19年あきころ(証言によっては、昭和18年中)から建設が始まったといわれています。

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築山の横穴壕跡2

陥没跡の反対側には横穴壕を掘る際に、掘り出された土の形がそのまま残っています。横穴壕は、戦後すべての壕が崩落などによって閉口し、現状では山肌にその痕跡を辛うじて確認できるといった状況にあります。
横穴壕の痕跡は、円形やU字形の陥没地形です。

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福王寺と横穴壕跡

横穴壕の近くにある福王寺の過去帳には、ロタコ工事で亡くなった朝鮮半島出身者の名前ものこっているといいます。横穴壕が掘られた山の斜面は非常に崩れやすい地盤で、横穴の掘削工事は困難を極めました。

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(徳島堰)と掩体壕群

江戸の商人徳島兵左衛門が考案し工事に取りかかり、後に有野の矢崎又右衛門が寛文10年(1670)に完成させた用水路。御勅使川扇状地上の旱魃地帯を潤した。終戦間際には、この徳島堰の堤防に沿って1~3号掩体壕とは異なるこのような形の掩体壕が並んでいた。

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ロタコの製材所跡

ここで、ロタコ工事で使われる木材を一手に製材していた。現在は工場となりその面影はない。

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航空本部跡と兵舎

このあたりに航空本部が置かれた。現在その面影は殆どないが、本部敷地内にあった温室が兵舎に転用され、戦後温室にもどされて、現在まで残っている。
太平洋戦争末期になると日本本土は、米軍から直接爆撃を受けるようになり、東京立川にあった、立川航空工廠の昨日を疎開させ、その存在を隠す目的で構築されたのがロタコ(第2立川航空工廠の暗号名)だといわれています。

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1・2号掩体壕

掩体壕(えんたいごう)とは、飛行機を格納し、隠し、爆風から守る施設です。屋根の無いものや、屋根をコンクリートで造るものなど様々な形が知られています。
畑の中に残る掩体壕の跡。

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3号掩体壕

 現在残る3基の掩体壕のうち、平成17年度に最初に発掘調査が行われ、掩体壕の形や大きさ、基礎の作られ方などが正確に記録されました。
 3号掩体壕は新興住宅街に隣接する空き地にひっそりと眠っており、その基礎は60年あまりの月日を経て文字通りもう半ば埋まりかけていました。

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誘導路2

南半分は地域の人々が常楽寺にむかう「オテラミチ」を拡幅。北半分は、ロタコ工事に際して新設された。新設部分は戦後畑にもどされた。

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西野姫のお経塚

西野の武将、明慶院には西野姫と呼ばれる美しい娘があり、武田信虎に嫁ぐことになっていた。しかし、敵対する大井氏に一族が滅ぼされたため、西野姫は尼僧となり、お経塚で一族の菩提をとむらったと伝えられる。

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石積出 四番堤

先端部の一部で発掘調査が実施されている。調査の結果、石積みの土台として梯子土台が用いられ、根固めには木工沈床が使われ、さらに川表側には鉄線の蛇籠が並べられていた強固な構造であることが明らかとなっている。

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高尾道

甲府や竜王方面から、上今諏訪、西野などを経て高尾を結ぶ道。
現在でも高尾街道と呼ばれます。
写真の道標は高尾集落から遠く離れた上今諏訪の地にあり、高尾道の旧道沿いに今もひっそりと佇みます。
右あしくら 左たかお と記されています。

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飯野専売支局の碑・倉庫町

(原方)
明治政府はたばこを嗜好品として課税対象とし、明治30年には「飯野葉たばこ専売所」が山梨県全体を管轄として飯野周辺に設置されました。山梨県内での一大生産地がこの西郡(にしごおり)の原方地域であったためこの地に設けられたとされます。
 県内から葉たばこが集められるために倉庫が立ち並び、人が集まりました。そこから「倉庫町」という商店街が発達してい9ったのです。、
 明治32年5月には「飯野専売支局」と昇格され、その敷地境を示す石碑が今もひっそりと佇んでいます。
 倉庫町を物語る小さな証人なのです。

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芦澤家住宅

芦澤家住宅は江戸時代に名主や郡中惣代を務めていた旧家。主屋は1933(昭和8)年に建築された木造二階建ての建物で、屋根は切妻造桟瓦葺で、二階の床を支えるために建物の周りに使う部材である銅差が太く重厚な構造。
座敷蔵は明治時代中期の建築。木造2階建てで、外壁の上部が漆喰塗りで下部はモルタル塗り。
接客用の蔵座敷として使われていたが、主屋を再建した時に居室に変えた。

所在地/南アルプス市西野97-1
所有者、管理者/個人
指定年月日/平成20年3月31日
備考/主屋、座敷蔵の2棟が登録

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矢崎家住宅

有野の故矢崎徹之介氏の居宅で、甲府盆地西部では最も古い民家である。建てられたのは、江戸時代初期、寛文以前の建築である。
矢崎氏はもと青木氏の出で、武田信玄公の時代に有野に所領を得て、信州からここに移った地侍であった。その後、江戸時代を通じ有力農民として名主を勤めている。
広い屋敷内には南に長屋門を構え、母屋の西北に文庫蔵が続き、北側にも大きな土蔵がある。
古さの見どころは、13本残っている柱にハマグリ手刃の跡が見られること、屋根裏の小屋組は当初のままで、小屋東に貫が離れて交わっていることなどである。


所在地/南アルプス市有野1204
所有者、管理者/個人
指定年月日/昭和53年2月16日
備考/

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若宮神社本殿

建立年代は不明だが、元禄2年(1689年)奉上葺の棟札があるので建立年代はこれより前の寛文期(1662年から)、」ごろと思われ、様式も一致する。
本殿は一間社流造(ながれづくり)で、桁行1.56メートル、梁間1.40メートル、向拝梁間0.83メートル、建坪約3.48平方メートル。
昭和31年に屋根の修理が行われ、ヒノキ皮葺から銅板葺に替えられた。保存状態もよく、すぐれた形姿をもち、本市では第一級の価値のある社寺建築である。

所在地/南アルプス市飯野2175
所有者、管理者/若宮神社
指定年月日/昭和57年11月30日
備考/

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善応寺宝篋印塔(ほうきょういんとう)

総高1.2メートルの安山岩製で、観音堂の西に接して建てられています。年代は、鎌倉末期のものと推定されます。
塔の各部は別々の石からなり、基礎の上部に径15センチメートル、深さ8センチメートルの円筒形の穴を掘って、経典あるいは舎利奉納の場所が作ってあります。
その形状、形態といい実によく時代の特徴を表わし、風格を持った遺構です。


所在地/南アルプス市大嵐123
所有者、管理者/善応寺
指定年月日/昭和53年3月15日

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木造獅子頭(もくぞうししがしら)

百々諏訪神社所蔵の獅子頭は鎌倉期の嘉元3年(1305年)藤原吉宋の手によって作られた日本でも5番目に古い獅子頭である。
この獅子頭は木彫で、上顎、下顎、舌の三部分からなっている。
用材はヒノキで、その上に彩色をほどこしてある。
規模は面幅20センチメートル、面高23センチメートル、面深29センチメートルとなっている。


所在地/南アルプス市百々1537
所有者、管理者/諏訪神社
指定年月日/昭和43年12月12日

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木造薬師如来像(もくぞうやくしにょらいぞう)

上今諏訪の慈眼寺には、県の文化財に指定された仏像が多くあります。このうち薬師如来坐像は、坐高85センチメートル、材質はヒノキで、頭部と胴体が一つの木で造られている一木造りで、年代は藤原前期のものと推測されている。
慈眼寺は、平安期にさかのぼる真言宗のお寺だったと推定されているが、一時衰退し天文年間(1532年から1554年)に曹洞宗のお寺として再興されている。


所在地/南アルプス市上今諏訪1783
所有者、管理者/慈眼寺
指定年月日/昭和44年11月20日

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木造阿弥陀如来立像

飯野の曹洞宗常楽寺の本堂に安置されている鎌倉期の阿弥陀如来像。
像の総高は132センチメートル、材質はヒノキの寄木造りで玉眼がはめ込まれている。
かつては彩色されていたかと思われるが、現在は色は落ち、像全体に木目が表れていて、ひとしお奥床しさが感じられる。


所在地/南アルプス市飯野1065
所有者、管理者/常楽寺
指定年月日/昭和44年11月20日

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木造菩薩形立像

上今諏訪の諏訪神社本殿に菩薩形と思われる立像一軀(いっく)が所蔵されている。
作風からも藤原仏で、隣接する慈眼寺の仏像群の一体ではないかといわれている。天冠台などに一部残る漆塗の跡に往昔の秀麗優美さがしのばれる。背部に鎌倉期に加修した跡が残る。
材質は樟(くすのき)材の一木造で頭・胴ともに内刳りが施されている。


所在地/南アルプス市上今諏訪1778
所有者、管理者/諏訪神社
指定年月日/昭和44年11月20日

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松声堂跡

松声堂は、江戸時代に創立された西郡地域の勉学の中心となったところである。天保6年(1835年)西野村長百姓幸蔵ら12名は、“勉学によって人倫の道を教え、農民としての自覚を高めたい”として幕府に手習所の創設を出願した。
翌7年に許可され、初代教師に江戸下谷生れの松井喚斉を迎え、西野北村現在の宝珠院で開校した。
天保9年(1838年)には旧西野小学校の地に移り、明治4年(1871年)西野郷学校となるまでの36年間、この地方の庶民教育に果した功績は非常に大きいものがあった。松声堂跡には松井喚斉の碑、松声堂碑などが建立されている。


所在地/南アルプス市西野2783
所有者、管理者/南アルプス市
指定年月日/昭和53年2月16日

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須沢城跡

御勅使川扇状地を見渡せる高台にある山城の跡。城跡らしいものは残っていないが、城の本丸に当たるところに室町初期のものとみられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)、五輪塔が数基建てられている。
城主は、当時西郡地方を支配していたと思われる逸見(へんみ)孫六(まごろく)入道(にゅうどう)と言われている。
正平5年(1350年)12月鎌倉で失脚した高師冬(こうのもろふゆ)がこの城を頼って落ちのび、翌年正月、上杉能憲及び諏訪の祝部(ほうりべ)の連合軍に攻められ落城した。(桜雲記による)


所在地/南アルプス市大嵐
所有者、管理者/西区
指定年月日/昭和55年9月24日

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白山神社

白根町築山に鎮座する神社で、旧社格は村社、祭神は菊理媛神。境内地は150坪と規模は小さいが、一通りの施設が備わっている。
本殿は1間社流造りで、床下に浜床(はまゆか)階段上に母屋床(もやゆか)が張ってある。拝殿は寄棟造り(よせむねづくり)で囲いの壁がなく、吹き抜けになっている。随身門は入母屋造り、鳥居は柱頭に台輪がある稲荷鳥居で、額束(がくづか)に権現社と名記され、元禄11年寅4月1日の年号がある。神燈は鳥居の前にあり、元禄11年寅4月1日の年号がある。境内社として2基の祠があり、1基に寛政5丑巳12月吉日の銘がある。

所在地/南アルプス市築山33
所有者、管理者/白山神社
指定年月日/平成15年2月14日

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鰐口(わにぐち)

鰐口は、古くは金鼓(こんく)と呼ばれ、社殿や仏堂前の軒下につるされた金属製の具であり、その形から鰐口といわれるようになった。
久本寺の鰐口は、享徳3年(1454年)のもので、面径13センチメートル、口径15.1センチメートル、縁高3.6センチメートルである。
表面に記された文字から、子孫繁栄を願って観音堂に奉納されたことが分かる。


所在地/南アルプス市下今諏訪556
所有者、管理者/久本寺
指定年月日/昭和35年11月7日
備考/

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伝保昌(ほうしょう)の刀

鎌倉後半期の大和刀工、保昌の作とされている刀。
長さ73センチメートル、反り2.1センチメートル、形状は鎬(しのぎ)造りで、造り込み格好、その他全て保昌派の特徴をよく示した優作である。


所在地/
所有者、管理者/個人
指定年月日/昭和40年5月15日

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白根のゴヨウマツ

西野北村小路の小野氏宅の前庭に育つ五葉松。松の種類のうち、五枚の葉を持つ種類を五葉松と称し、これはその中のヒメコマツと言う種類の樹木である。
規模は、目通り幹囲1.30メートル、根回り2.95メートル、東へ伸びる枝の長さ15メートル、樹高8.5メートル。手を尽くされ、極めて美しい庭木となっている。


所在地/南アルプス市西野1498
所有者、管理者/
指定年月日/昭和63年7月20日
備考/

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水宮神社の社叢

水宮神社は有野部落の北部、御勅使川近く鎮座し、水波能女命(みずはのめのみこと)を祭神とする水害防護の神社である。御勅使川は大扇状地をつくっただけに、有史以来も大氾濫をくりかえし、特に天長11年(834年)の洪水は大惨事をもたらし、救恤のため勅使が派遣された。時の国司藤原貞雄は治水に努力し、当社に配祀されている。江戸時代、有野ほか21ケ村の鎮守として、御勅使川の共同水防が行われてきた。また、当社の森社叢は、マツが主要樹木だが、その他にアサダ2本、クマシデ3本、モミ10本、ケヤキ1本で構成されたいます。この中のアサダはクマシデ科の落葉高木で、本県では珍しい樹種で貴重な存在です。


所在地/南アルプス市有野1298
所有者、管理者/水宮神社
指定年月日/昭和61年9月12日

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大嵐のビャクシン

臨済宗善応寺の御神木として植栽されたと言われており、樹齢は少なくても500年に達していると思われる。ビャクシンはヒノキ科に入り本県では峡西地方に多く分布している。規模は、根回り幹囲5.8メートル、目通り幹囲3.48メートル、樹高17メートル。翼長は、北へ4.8メートル、南へ5メートル、東へ6メートル、西へ3.5メートル。地上2.5メートルで二つに分岐している。

所在地/ 南アルプス市大嵐123
所有者、管理者/ 善応寺
指定年月日/ 昭和43年2月8日

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八田御牧(はったのみまき)から八田庄(はったのしょう)へ(ふるさとメール2007年8月1日号)

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観応の擾乱(かんのうのじょうらん)の舞台 須沢城(すさわじょう)(ふるさとメール2007年9月14日号)

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古代寺院 善応寺と雨乞い伝承の地、大笹池(ふるさとメール2007年9月30日号)

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戦国時代の哀しきヒロイン 西野姫(せいやひめ)(ふるさとメール2007年10月15日号)

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むかし飛行場があった ~ロタコ(御勅使河原飛行場)~①(ふるさとメール2008年7月15日号)

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むかし飛行場があった ~ロタコ(御勅使河原飛行場)~ ②八ヶ岳に向かいまっすぐ延びる滑走路(ふるさとメール2008年8月1日号)

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むかし飛行場があった ~ロタコ(御勅使河原飛行場)~③横穴壕(よこあなごう)(ふるさとメール2008年8月15日号)

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むかし飛行場があった ~ロタコ(御勅使河原飛行場)~④町のいたるところに見られるロタコの痕跡(ふるさとメール2008年9月1日号)

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信玄伝承の治水事業 ~暴れ川御勅使川を治める~(ふるさとメール2007年12月14日号)

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御勅使川扇状地の生命線 石積出(いしつみだし)(ふるさとメール2007年12月29日号)

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近代の治水技術 芦安堰堤と源堰提(ふるさとメール2008年10月31日号)

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小正月に行われる伝統行事-どんど焼き- (ふるさとメール2010年1月15日号)

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7年に一度の大祭 今諏訪の御柱祭り(ふるさとメール2010年2月15日号)

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西野にあった江戸時代の手習所 ~松声堂~ (ふるさとメール2010年4月15日号)

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百々はなんと読む?(ふるさとメール2008年1月15日号)

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白狐の伝説残る常楽寺(ふるさとメール2008年4月 1日号)

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橋は世につれ世は橋につれ(3)(ふるさとメール2012年9月14日号)

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近代和風建築に命を吹き込む(1) ~白根桃源美術館~(ふるさとメール2013年1月15日号)

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樹木を守り伝えるために(ふるさとメール2013年4月15日号)

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ミクロの世界から見た扇状地の食生活 (ふるさとメール2010年7月15日号)

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御勅使川扇状地を潤す徳島堰 (ふるさとメール2010年9月15日号)

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野呂川話 ~長い長い水を求めた物語 第一幕 江戸時代~(ふるさとメール2013年8月15日号)

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野呂川話~長い長い水を求めた物語ー第二幕明治時代~(ふるさとメール2013年9月15日号)

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野呂川話~長い長い水を求めた物語ー第三幕大正・昭和時代~(ふるさとメール2013年10月16日号)

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野呂川話 ~長い長い水を求めた物語-第四幕 昭和20-40年代~(ふるさとメール2013年11月15日号)

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平安時代の信仰(1) ―御勅使川扇状地の観音信仰―(ふるさとメール2014年4月14日号)

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御勅使川扇状地の物語 ~扇状地で培われた西郡魂~ (ふるさとメール2010年12月15日号)

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新発見レポート ~水と木と石が紡ぐ物語~(ふるさとメール2015年3月16日号)

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平安時代の信仰(3)― 山懐の秘仏 ―(ふるさとメール2014年6月13日号)

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南アルプス市を訪れた人々(1)伊能忠敬 その1(ふるさとメール2016年8月15日号)

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南アルプス市を訪れた人々(2)伊能忠敬 その2(ふるさとメール2016年9月15日号)

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南アルプス市の小正月~道祖神場のお飾りとどんど焼きの風景~(ふるさとメール2017年1月16日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(1) 櫛形西小学校の取り組みから(ふるさとメール2017年2月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(2) 掘り起こし-育み-伝えるプロジェクト(ふるさとメール2017年3月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(3) 掘り起こすということ(ふるさとメール2017年4月14日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(4) まちをめぐり建て物も掘り起こす(ふるさとメール2017年5月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(5) 正しい価値を掘り起こし、育むサイクル(ふるさとメール2017年6月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載 「〇博(まるはく)」への道(6)歴史資源を共感する(ふるさとメール2017年7月14日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(7・最終回)歴史資源を正しく引き継ぎ、市民全員が語り部であるまちを目指して (ふるさとメール2017年8月15日号)

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飯野若宮神社のお灯籠祭り ~道祖神と境界の祭り~ (ふるさとメール2017年9月15日号)

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俳人「福田甲子雄」にみる南アルプス市の風土(一) (ふるさとメール2018年3月15日号)

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俳人「福田甲子雄」にみる南アルプス市の風土(二) (ふるさとメール2018年4月13日号)

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何気ない街角に歴史あり(その4)道路が、家の敷地より高いところにある源地区の街角 (ふるさとメール2018年8月15日号)

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何気ない街角に歴史あり(その6)御勅使川扇状地東端部の崖線 (ふるさとメール2018年10月15日号)

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西野の温室メロン栽培 (ふるさとメール2010年5月14日号)

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柿 kaki caqui cachi ~世界と日本をつなぐ果実~(ふるさとメール2018年11月15日号)

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江戸時代、御勅使川扇状地の畑作文化(ふるさとメール2010年8月13日号)

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まぼろしの西野白桃

ひとくちに桃といっても、7月から9月まで時期によって旬の品種は移っていきます。

現在南アルプス市で栽培されている桃の代表的な品種には、「日川白鳳」「夢みずき」「白鳳」「あかつき」「川中島白桃」等がありますが、どの品種も色つきが良く、糖度が高いのはもちろんで、その上、日持ちが良い硬質の果肉であることが人気栽培品種の条件となっています。
そう、最近の桃はとっても甘いのに、リンゴのように皮をむいてカリカリと食べられるのです。
 昔食べた、果汁が滴り落ちるような柔らかい桃は現在の市場では出回りません。
いまどきの流通システムに対応した共同選果が、傷がつきやすく痛みやすい桃に不向きだからです。そのために、かつて水密桃といわれたような、食べると果汁で口の周りがベタベタするような果肉の柔らかい品種の桃は淘汰されていきました。
その淘汰された桃の品種のひとつに「西野白桃(にしのはくとう)」があります。

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メロンのガラス温室

この写真は昭和9年頃に西野で撮影されたメロン栽培用の温室内での一コマです。
立派なメロンにそっと手を添えている少年はその時、2歳6か月だった功刀幹浩さんです。
ちっちゃなあんよに不釣り合いな大きな下駄もかわいらしいですね。
その後ろで、幼い幹浩さんの背中をやさしく支える男性は、当時功刀家で働いていた文貴男さんです。撮影したのは幹浩さんの父で、温室栽培を南アルプス市に初めて導入した功刀七内という人です。

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雨とサクランボ

かつて、収穫時に雨が降るとどんなに大変だったかを何人もの人から聞きました。

その中のお一人で、サクランボ栽培者の相川泉さん宅に、これまでの雨との闘いの歴史を教えてもらいに行きました。(平成30年9月7日訪問撮影)
色づきはじめた桜桃の実に雨粒が当たったり、降雨で土壌の水分量が急増すると、桜桃の実は瞬く間に破裂して、腐りはじめてしまいます。
相川さんによると、「サクランボはとてもとてもデリケートで微妙な作物。桃やブドウより難しい。」といいます。
しかも、寒いところが適すので、栽培南限の山梨では基本的に気候が合わず、さらにさらに難しくてリスクが大きいのだそうです。

桜桃は夏の間に花芽の分化をしており、猛暑で乾燥と高温だった場合の翌年のさくらんぼは高温障害が出て、出荷できない双子果が多くなりますが、農家にはどうしようもありません。
さらに、サクランボの実をもぐときにも細心の注意をしないと翌年に実がつかなくなってしまうので、サクランボ狩りで素人が収穫するのも大変なリスクがじつはあるそうです。

そして、一般的に「なりどし」と「うらどし」があるといわれています。南アルプス市ではそんなに大変で気難しい桜桃の栽培を、どんな知恵と工夫で乗り超えたのでしょう? 

昭和40年代はじめまでの桜桃には、まだ人工授粉や雨除け対策というものはされておらず、自然環境に左右されましたが、当時はまだ殺虫剤をそれほど使用していなかったので、花粉を媒介する虫も数多くおり、自然授粉でも大丈夫だったそうです。

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喜久屋商店

南アルプス市白根地区西野区内に大正時代初期に、開店したばかりの喜久屋商店。
大正時代から昭和10年代まで営業されていた喜久屋商店は櫛形山の中腹にある高尾の夜祭で有名な穂見神社に向かう通称高尾街道沿いにあります。
甲府方面から釜無川を渡って参詣する主要ルートであったため、西野区内でもこの街道に面する家では喜久屋商店の他、呉服屋や薬屋を営むものが2・3軒ありました。
喜久屋では、創業した芳明氏が甲府一高で同級生だった倉庫町の山梨商会経営者の協力を得て、駿信往還沿いの倉庫町にも進出し、タクシー業務部と臨時支店をもちました。
現在でも11月22日~23日にかけて、高尾穂見神社の夜祭が行われます。
かつては高尾山にある穂見神社を目指して、提灯を持った人々の行列が夜通し街道を多く行き交ったといいます。

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県内初のSS導入

スピードスプレーヤー、通称エスエス(以下、SS)は薬剤噴霧器を搭載した特殊車両のことです。

果樹地帯である南アルプス市内では、春先から晩秋にかけて、道路ですれ違ったり、交差点で信号待ちしていると前後に挟まれたりなんかして真っ赤なダンゴムシみたいなかわいい車体のSSに、普通に遭遇します。

SSの大手メーカーさんに聞いたのですが、「山梨はSSの年間販売台数が全国一ダントツに多い」というのです!
大手3社合わせて年間約300台も売れる県は他にないのだそうです。
隣県の長野県や静岡県では年間100台にも届かないそうです。
山梨以外の日本の名だたる果樹栽培県では、集約した農地を持つ比較的規模の大きな農家が積載容量1000リットルキャビンタイプ等、大型のものを買う傾向にあるのに比べ、山梨は500リットルタイプの小容量が主流ですが、果樹栽培一家に一台ほぼ存在しているので、販売台数が多くなるようです。

そういえば、この辺の住宅街の車庫には普通乗用車の横にSSが停めてあるのを見るのはフツーです。

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源の水路に設けられた蚕具洗い場

有野で養蚕が盛んだった昭和40年代までは、1年に2~4回ほどの飼育期ごとに家前の水路で、蚕具を洗う作業が見られました。蚕はウイルスや細菌にたいへん弱い生き物ですから、飼育の始まる直前には、御勅使川から取水した四ヶ町堰の豊富できれいな水を利用して、養蚕に使う様々な道具を洗浄しました。棚や飼育篭など比較的大きな蚕具でも洗いやすいように、水路から水を引き込む洗い場がコンクリートで広めに区画されています。

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上八田那賀都神社の大嶽講

上八田薬師堂にある那賀都神社(なかとじんじゃ)では、大嶽講(だいたけこう)がいまも行われています。

ろうそくに火をともし、太鼓をたたく音に合わせて「ダーイターケサーンナーカトーノジーンジャー、オーヤーマズーミノーカミー、オーイーカヅチノカミ、タカオーカミノーカミ、ロッコーンショージョー、ツツシミウヤマイテ、キーガーンタテーマツールー」と節をつけて何度も祝詞を唱和します。

 講の手順をまとめると、「講の仲間が集まったら堂の中に入り、年長者が太鼓をたたいて音頭をとって、『大嶽山那賀都神社祝詞』を10回皆で唱える。
その際、回数を間違えないように、白い碁石を並べて数える。さいごにもう一度みなでゆっくり同じ祝詞をあげておしまいにする」というものです。

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西野ブドウ栽培者の流儀

白根地区の果樹栽培者には、「品種の先取りにより、経営を安定させていく」という伝統的な考え方があります。

ブドウの木の経済寿命は30年だということで、常に、次期はどんな品種が流行るか見据えたうえで木の改植を順次行っていかなければならないのだそうです。

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西野のメロン記念碑

大正14年に現南アルプス市西野の功刀七内氏によってはじまったガラス温室によるメロン栽培ですが、昭和初期には西野周辺地域(現白根地区)の名産品として、全国的に名をはせるようになりました。
昭和初期以前から当該地域にお住いの家の方に、古いアルバムを見せていただくと、メロン栽培に関わっていたご先祖の姿が写し出されているのをよく目にします。

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西野巻屋のちょうまたぎ

昭和10年代撮影と思われる西野巻屋地域の「ちょうまたぎ」。

集合写真の後ろに大きな提灯をたくさん吊るした「ちょうまたぎ」が写っています。
かつては西野の八幡神社参道立てられたそうです。
現在市内では飯野若宮神社の夏の祭礼でのみ見ることができますが、かつては白根地区各地で行われていたといわれています。
この写真の存在により、西野地区の「ちょうまたぎ」の存在と姿が明らかになりました。
昭和30年代にはすでに西野のちょうまたぎは消滅していたようです。

※「ちょうまたぎ」とは屋根を持った組み立て式の大きな門で、たくさんの提灯が下げられたもの。

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西野農協の糖度センサー(現南アルプス西野支所)

最近は、スーパーに並ぶ果物に「糖度保証」のシールが貼られているものが増えてきました。
少々高めのお値段なのですが、ついついそちらに手が伸びてしまいます。果実を傷つけずに食べる前から甘さを保証できるなんて、ふしぎ~ですよね。
現在では、桃・林檎・梨・蜜柑といった多くの果物の選果に使用されている非破壊式の糖度センサーですが、最初は外見からではわからない食味のバラつきに悩まされていた桃のために開発されました。

昭和62年から山梨県と山梨県果実農業協同組合連合会(果実連)・三井金属鉱業株式会社が協同して開発がはじめられ、一宮と西野の農協で測定実験が行われた後、平成元年にさっそく本格導入したのは、旧白根町にあった西野農協(現南アルプス市)が最初でした。

「人工衛星から電波を発信して地球の鉱物資源探査をしている特殊光線を利用することで,桃を破壊せずに糖度を測定できるのではないか」
という話を三井金属工業の技術者から聞き、これに賛同した山梨県の果樹産業関係者とはじめたプロジェクトだったそうです。
ちょうど桃の出荷中だった8月1日に、世界で初めて平成元年に桃の非破壊式糖度センサーを導入したJA南アルプス市西野支所(導入時:西野農協)へ、現在の稼働状況を取材に行きました。

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大和百目の園地

現在、南アルプス市域では、あんぽ柿・枯露柿が盛んです.

その原料となる渋柿には、9月終わりから12月にかけて、刀根早生・平核無・勝平・大和百目・甲州百目・武田などの品種が移り変わっていきます。
そのうち、勝平と大和百目の原木は南アルプス市白根地区にあったものです。
とくに大和百目は、甲州百目とならんで、現在山梨を代表する大型の枯露柿の原料として大変人気があり、南アルプス市域で多く生産されている品種の一つです。
大和百目という品種の歩みは、西野に近接する上今諏訪の手塚半氏の竹林の中にあった一本の柿の木からはじまりました。
この木は甲州百目の枝代わりと言われていましたが、果実はそれ以上の大きさで、その上、核(種)が少なく、甲州百目よりも早く熟します。
枯露柿用として用いると、果肉が非常になめらかで食感がよく、色も鮮やかに仕上ります。

この樹の柿に魅せられた西野の手塚光彰氏が、今諏訪の原木から穂木をとって苗木に仕立てて、大正7年3月に、現在の桃ノ丘団地付近に50本の苗木を植え、当時としては珍しい柿の園地を造成しました。

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飯野のそろばん教室

白根地区飯野に、昭和30年代から開塾しているそろばん教室に資料を見せていただきにまいりました。

そろばん教師の相川さんは全国的な和算の研究会にも所属され、そろばんに関するありとあらゆる資料を収集されている有名な方です。
かつて習い事は「お習字かそろばんか」という時代が長く、そろばん教室が各地で盛んに開かれてました。
相川さんのお話によると、明治以降に東京などの都会に出て一旗揚げたいという人も、まずは「読み書きそろばんを身に着けてから」でないと話にならなかったとのこと。
戦後も個人で使える電子計算機のなかった時代、金融機関でも行員がそろばんを使っていた昭和30年代には、複数の場所に教場を持っているような大手のそろばん塾が現在の南アルプス市内に5~6軒ほどもあったそうです。

昭和50年代になり、ピアノや水泳など習い事の選択肢が増えたきたころから、そろばん教室の状況はかなり変化してきたようですが、相川さんが開いていらっしゃる飯野にある珠算学院には、現在も小学生を中心に生徒さんが元気よく通っていらっしゃるとのことでした。

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飯野の雛人形

南アルプス市飯野のあるお宅から90年ほど前の雛人形をご寄贈くださるとの連絡があり、受け取りに伺いました。

奥様が、私たちに見やすいようにと、二十年ぶりに雛たちを箱から出して飾ってくださっていました。
左奥の昭和初期製作と考えられる御殿飾り雛(ごてんかざりびな)は、奥様が韮崎市からお嫁にいらした時に、彼女のお母さまが家にあったお雛様を飯野家への嫁入りに持たせてくれたものだそうです。

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保坂呉服店

西野にある保坂呉服店は昭和2年に高尾街道沿いの椚に開店しました。←昭和20年代終わりころから30年代はじめの撮影と思われる保坂呉服店の様子。(保坂和子家アルバムより)
 西野区内の高尾街道沿いには、保坂呉服店さんの他に、乾物屋、酒屋、薬屋、日用雑貨店などがありましたが、現在も営業されているのは、保坂呉服店のみです。
 甲府から高尾穂見神社に参詣する人々が釜無川を渡って今諏訪の坂を上り、慈眼寺のあたりで戸田街道から離れるように右に曲がって西野へと進む道が、高尾街道です。保坂呉服店はその街道の通り道にある西野の椚(くぬぎ)集落にありました。
 和子さんが「11月の半ばに行われる高尾の夜祭に出かける人々向けて、街道沿いに面する商店の前では「茅飴(かやあめ)」を売っていたみたいよ」と教えてくださいました。
かつては茅飴づくり用と伝わるおおきな鉢がお宅に残されていたそうです。
提灯を持ったたくさんの人々がこのお店の前を行き交ったのでしょうね。

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