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種別・テーマで選ぶ - 治水

ふるさと文化伝承館(市文化財センター)

「ふるさと文化伝承館」が新しく生まれ変わって平成21年6月にリニューアルオープンしました。
愛称は「みなでん」
これからも皆さんとともに作り上げたい!という願いもこめて
「み・ん・な・で、み・な・で・ん」
って覚えてください!

世界的に知られる国重要文化財の「鋳物師屋遺跡出土品」をはじめ、市内の遺跡から出土した土器や石器、昔懐かしい民具などを展示しています。

当館では展示パネルを少なくし、スタッフによる展示案内などお客様とのコミュニケーションを大切にしています。不必要な場合にはお申し付けいただき、また、ご質問などはお気軽にお問い合わせいただければと思います。

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野牛島バス停(前御勅使川)

 野牛島バス停の前の道、県道甲斐芦安線は御勅使川の古い流路で、「前御勅使川」、ちょっとなまって「まえみでえ」と呼ばれています。
戦国時代には御勅使川の本流であったと言われますが、明治31年に六科将棋頭の上流が締切られ、前御勅使川の歴史に幕が下ろされました。
昭和に入るとこの河原を利用し四間(約7.2m)道路が敷設され、戦後に開発が進み、現在への街並みへと変わっていきます。
写真は昭和12年頃の野牛島停留所前。旧河川に道路が作られた直後であり、河川の面影を見ることができる。

[画像:個人所有]

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県道甲斐芦安線(前御勅使川)

芦安から信玄橋へ通じる県道甲斐芦安線は御勅使川の古い流路で、「前御勅使川」、ちょっとなまって「まえみでえ」と呼ばれています。戦国時代、御勅使川の本流はこの前御勅使川だったと云われています。江戸時代から明治時代には、本流は現在の御勅使川に移り、増水時のみ水が流れていたようです。明治31年に六科将棋頭の上流が締切られ、前御勅使川の歴史に幕が下ろされました。昭和40年代ごろまでは旧河原の両岸に不連続の堤防、かすみ堤が残されていましたが、現在ほとんどの堤防は削平され、道路として利用されています。
写真は明治29年に起きた大水害後、堤防を復旧している様子が写されたもの。旧運転免許センター(野牛島)付近。

[画像:個人所有」

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石積出

砂礫と石で造られた堤防で、一番堤から五番堤まで残されている。武田信玄の築堤と伝えられるが、史料で裏づけられていない。少なくとも江戸時代には築堤され、有野の田畑や集落、さらに下流の御勅使川扇状地に立地する21ヶ村を守る役割を果たしていた。国指定史跡(一~三番堤)

[県立博物館蔵]

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将棋頭(六科水田)

将棋頭は、その名のとおり将棋の駒に見立てられた石積みの堤防で、国の史跡に指定されている。武田信玄が築堤し、御勅使川の流れを分流したと伝えられてきたが、史料的裏付けがなく初現は不明である。

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不連続堤

途切れることなく一直線に延びる堤防。洪水から人々や町を守る堤防がこうした姿であることは現在では当たり前ですが、少なくとも江戸時代から明治時代の堤防では、途切れ途切れの姿が普通でした。この不連続の堤防は明治時代ごろから「霞堤」と呼ばれるようになります。
御勅使川の堀切橋付近を見てみましょう。前御勅使川に比べると、堤防と堤防の間、つまり遊水地が広く確保されています。増水した時には途切れた部分から水を逆流させ、一時的に水を蓄える機能も果たしていたと考えられます。このように霞堤は、先人の長い経験を踏まえながら「あふれる」ことも考えて造られた堤防でもあるのです。

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石積出 一番堤

石積出の中で、最も上流に築かれた石積みの堤防。現存している長さは約70m。3段構造で、2段目に石の大きさ、積み方の違いが見られ、少なくとも2回修復されていることがわかる。

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石積出 二番堤

地表に露出している部分だけでは、1段積みの構造。水流があたる川表側に補強の石積みが行われている。

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石積出 三番堤

二段積みの石積み堤防。現存している長さは約100m。先端部の一部が発掘されており、堤防の基礎を守る根固めに井桁状に丸太を組み合わせ、中に石を詰める「木工沈床」が用いられていることがわかっている。

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桝形堤防

徳島堰の工事にとって最大の難所は、川幅の広い御勅使川の横断であった。完成当初は溝を掘り板で堰きとめる「板関」と呼ばれる開渠で通水していたが、少なくとも18世紀初頭には木製の埋樋(暗渠)に変更される。幕末頃には暗渠の壁が石積みとなり、明治から大正時代に入ると粗石をアーチ状に積む「眼鏡」と呼ばれる工法に改修される。
六科村や野牛島村は、その立地から御勅使川の河原の中で暗渠となっている徳島堰を一度開口して取水しなければならず、増水時にその取水口を守る将棋の駒の形をした堤防が枡形堤防である。取水された水は後田堰を通して六科将棋頭の中に導水され、水田に利用されてきた。
平成26年10月6日に国指定史跡に追加指定されました。

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芦安堰堤

芦安堰堤アーチ式工事写真。大正14年7月23日撮影。

[画像:個人所有]

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源堰堤

大正9年に竣工。高さ7m、長さ109.1mある大型の堰堤。芦安、藤尾堰堤とともに現在でも大正期の姿をとどめている数少ない堰堤のひとつ。芦安堰堤と並び、「御勅使川治水の双璧」と呼ばれていた。現在でも私たちの生活を支えている。

[画像:個人所有]

○博アーカイブはこちら

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市之瀬川の石堤

市之瀬川に沿って、県道伊奈ケ湖公園線を伊奈ケ湖に向かって上っていくと、上市之瀬の集落を抜けた左手に「県営砂防事業発祥之地」という石碑が現れ、川の対岸には歴史の厚みを感じさせる苔むした石積みを見ることができます。

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石積出 四番堤

先端部の一部で発掘調査が実施されている。調査の結果、石積みの土台として梯子土台が用いられ、根固めには木工沈床が使われ、さらに川表側には鉄線の蛇籠が並べられていた強固な構造であることが明らかとなっている。

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お熊野堤

野牛島にある旧運転免許センター南側の土手は、
明治31年まで流れていた前御勅使川の右岸を守る堤
防跡です。
古くは「お熊野堤」と呼ばれていました。

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流転の村 ~釜無川の流れに翻弄された浅原村~①(ふるさとメール2008年9月12日号)

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流転の村 ~釜無川の流れに翻弄された浅原村~②(ふるさとメール2008年10月1日号)

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信玄伝承の治水事業 ~暴れ川御勅使川を治める~(ふるさとメール2007年12月14日号)

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近代水害の記憶 明治29年の大水害と前御勅使川の終焉(ふるさとメール2008年10月15日号)

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御勅使川扇状地の生命線 石積出(いしつみだし)(ふるさとメール2007年12月29日号)

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近代の治水技術 芦安堰堤と源堰提(ふるさとメール2008年10月31日号)

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堤の原風景 霞堤(かすみてい)(ふるさとメール2008年11月14日号)

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堤の原風景(2) 現代に残る霞堤(ふるさとメール2008年12月1日号)

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竹蛇籠 ~現代に残る伝統の治水の技術~(ふるさとメール2009年1月1日号)

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南アルプス市と天井川 (ふるさとメール2009年5月15日号)

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南アルプス市と天井川 その2 (ふるさとメール2009年6月15日号)

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南アルプス市と天井川 その3(ふるさとメール2009年7月15日号)

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御勅使川扇状地の物語 ~1.御勅使川と集落~ (ふるさとメール2010年6月15日号)

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新発見レポート ~水と木と石が紡ぐ物語~(ふるさとメール2015年3月16日号)

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俳人「福田甲子雄」にみる南アルプス市の風土(一) (ふるさとメール2018年3月15日号)

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俳人「福田甲子雄」にみる南アルプス市の風土(二) (ふるさとメール2018年4月13日号)

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何気ない街角に歴史あり(その1)隧道(ずいどう)の記憶 (ふるさとメール2018年5月15日号)

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何気ない街角に歴史あり(その3)村落移転の記憶を伝える道祖神 (ふるさとメール2018年7月13日号)

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何気ない街角に歴史あり(その4)道路が、家の敷地より高いところにある源地区の街角 (ふるさとメール2018年8月15日号)

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何気ない街角に歴史あり(その6)御勅使川扇状地東端部の崖線 (ふるさとメール2018年10月15日号)

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何気ない街角に歴史あり(その2)樋門(ひもん)の記憶(ふるさとメール2018年6月15日号)

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まちの宝箱~「ふるさと文化伝承館」リニューアルオープン~(ふるさとメール5月15日号)

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防災へのみちしるべ~昭和34年台風7号と台風15号の記憶と記録~(ふるさとメール2019年11月15日号)

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無病息災を願って~八王子社の茅の輪くぐり~(ふるさとメール2020・7月15日号)

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開削350年 徳島堰 (2)

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時を超えて響く言葉~なにげない日常をつなぐために~(ふるさとメール2021年3月15日号)

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学び人を育む力~天民義塾と綿引健~(ふるさとメール2021年5月15日号)

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明治29年大水害の記録 その1~水害タイムライン~(ふるさとメール2021年7月15日号)

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駿信往還(西郡路)、荊沢宿の旅2(ふるさとメール2021年12月15日号)

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滝沢川を潜る田島・西南湖・和泉の隧道

南アルプス市は市域西部が急峻な山々に占められ、そこから発する河川が市の南東部に集まるため、市の南東部に位置する甲西地区は、上流から流されてきた砂礫の堆積により、いくつもの天井川が連なる土地となりました。年々河床が上がるたびにどんどん高さの増していく堤防は、甲西地区を行き交う人々、特に滝沢川の両岸にある集落(田島・西南湖・和泉)に住む人たちにとって、田畑に往き来したり、駿信往還に出たりするのにも、家の屋根より高い所を流れる川の土手を登ったり降りたりして越えなければならず、たいへん大きな障壁でした。
そこで、昭和時代に入ると、滝沢川の河床の下に、トンネルを掘って道を通す工事が3か所で行われました。かつて「田島隧道(ずいどう)」「南湖隧道」「和泉隧道」という3つのトンネルが、昭和時代に滝沢川の下を通っていました。
その後、これら3つのトンネルは、昭和46年より行われた滝沢川の天井川を完全に解消する大改修事業によって、川の河床がだいぶ低くなったために廃止されました。現在では、滝沢川にトンネルの跡形は何もなく、同じ場所に川の上を渡る「田島橋」「南湖橋」「和泉橋」が設置されています。

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徳島堰ウォーク#1 頭首工(取水口)~小水力発電施設

徳島堰は、韮崎市上円井の釜無川から取水し、南アルプス市曲輪田新田まで伸びる役17kmのかんがい用水路です。寛文5年(1665)、江戸深川の町人徳嶋兵左衛門が甲府藩の許可を得て工事に着手し、寛文7年には曲輪田の大輪沢(堰尻川)まで通水したといわれています。
それから昭和40年代に釜無川右岸土地改良事業によってコンクリート化され、「原七郷はお月夜でも焼ける」といわれた御勅使川扇状地扇央部の常襲干ばつ地域にスプリンクラー網が整備されるまで、開削から300年の間に大雨による埋没など度重なる逆境乗り越え、現在の徳島堰の形となりました。
そんな南アルプス市の豊かな田園や果樹園の景観を守り続けてきた徳島堰ですが、実際どのようにして取水され、どんな旅路を経て私たちの暮らす南アルプス市までその水がやってくるのでしょうか!?今回はそんな徳島堰を流れる水の旅路を追ってご紹介していきます!

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徳島堰ウォーク#2 入戸野バス停~旧樋口村八峰

堰沿いにある入戸野バス停
3つの発電所で大役を終えた徳島堰の水たち。そこからもう少し下流、入戸野沢との立体交差地点に差し掛かると丁度辺りは入戸野地区の集落となります。入戸野沢が水路橋で徳島堰を渡っているすぐ先。堰沿いには石造物とバス停、また集落中心地のシンボルである火の見櫓が並んで現れます。入戸野の町並みと徳島堰の変遷を見守ってきたであろう石造物の背面を流れる徳島堰。堰沿いの民家を見てみると、庭から堰の水面まで降りてこられるよう「つけえばた(洗い場)」が造られている箇所も多く、この徳島堰が集落の生活にいかに根ざし、溶け込んでいるかが伺える場所です。

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徳島堰ウォーク#3 竪沢暗渠~甘利沢暗渠

竪沢暗渠
大難所を乗り越えここらでひと息・・・とは行かないのがタフな徳島堰です!清哲町水上に入ってすぐに、また大きなカーブと描きながら竪沢暗渠へと突入していきます!今はほとんど水の流れが見えない竪沢、その上流に向かって大きく湾曲していくこの光景は確か前にもどこかで見たような・・・。そう、戸沢暗渠と同じような手法を駆使して沢を乗り越えていると考えられますね!

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徳島堰ウォーク#4 大門沢暗渠~御勅使川暗渠出口

大門沢暗渠
旭町上条南割まで指しかかった徳島堰。もう少しで南アルプス市!と言うところで韮崎市区間最後の暗渠が現れます。山梨県指定の一級河川大門沢を潜る大門沢暗渠。大門沢はほんの少しだけ水の流れがある程度の水無川で、周辺の民家などと見比べると天井川化しています。この大門沢暗渠を越えた向こう側にはいよいよ私たちの南アルプス市が見えてきます!徳島堰の水たちもラストスパートです!

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徳島堰ウォーク#5 釜無川右岸第一調整池~徳島堰を跨ぐ掛樋

釜無川右岸第一調整池
徳島堰本体から分水された水たちがようやく辿り付くのは「畑地かんがい調整池」の通称第一調整池です。この調整地から南アルプス市扇状地の地下にはり巡らされたパイプラインを通って果樹園のスプリンクラーへと水が送られていきます!開削から約300年、「南アルプス市を潤す」かんがい用水路として悲願の任務達成となったのです!長い旅路を経てここまでたどり着いた徳島堰。でも皆さん、徳島堰はまだ続いているのを忘れてはいけませんよ!

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徳島堰ウォーク#6 釜無川右岸第二調整池~徳島堰流末地点

釜無川右岸第二調整池
南アルプス市飯野新田地区に入った徳島堰は最後の任務に向けて第二調整池へ分水をしていきます!しかしよく見ると調整池といっているのに溜まっている水の姿が見えないどころか、一面綺麗に整地されたグランドになってしまってるのは一体!?・・。実は第二調整地はこのグランドの地下に貯水のタンクが作られており、グランド自体は地域の人たちへ無料で開放しているとのこと。どこまでも地域想いで太っ腹な徳島堰!この調整ここでも貯められた水たちは地下パイプライン網を通ってスプリンクラーへと送られていきます。頭首工からここまで約16kmの旅路の中幾度となく難所を乗り越えながら、髄所で取水の任務を果たしてきた徳島堰。最後の大役を無事勤め上げてそのエンディングへと進んでいきます!

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桝形堤防史跡整備の歩み その1~水の世紀を生きる道標~(ふるさとメール2022年9月15日号)

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