芦安から信玄橋へ通じる県道甲斐芦安線は御勅使川の古い流路で、「前御勅使川」、ちょっとなまって「まえみでえ」と呼ばれています。戦国時代、御勅使川の本流はこの前御勅使川だったと云われています。江戸時代から明治時代には、本流は現在の御勅使川に移り、増水時のみ水が流れていたようです。明治31年に六科将棋頭の上流が締切られ、前御勅使川の歴史に幕が下ろされました。昭和40年代ごろまでは旧河原の両岸に不連続の堤防、かすみ堤が残されていましたが、現在ほとんどの堤防は削平され、道路として利用されています。
写真は明治29年に起きた大水害後、堤防を復旧している様子が写されたもの。旧運転免許センター(野牛島)付近。
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徳島堰は韮崎市上円井(かみつぶらい)で釜無川から取水し、南アルプス市曲輪田新田(くるわだしんでん)まで約17kmを結ぶ灌漑用水路。
江戸時代の寛文5年(1665)江戸深川の徳島兵左衛門(とくしまひょうざえもん)によって開削が始められた。
2年後には曲輪田まで通水に成功するが、大雨によって二度堰が埋没すると兵左衛門は事業から手を引き、その後甲府藩が事業を引き継ぐ。
甲府城代から堰の復旧工事を命じられた有野村の矢崎又衛門(やざきまたえもん)は、私財を投じて工事に取組み、寛文10年に工事が完成し,翌11年に「徳島堰」と命名された。
堰の開削によって耕地が広がり、曲輪田新田や飯野新田、六科新田など新たな村々が開かれるなど、水不足に悩む地域に多大な恩恵がもたらされた。
現在でも徳島堰の水は、水田だけでなくスプリンクラーに導水され、市内の桃やさくらんぼを潤し、フルーツ王国南アルプス市を支えている。
徳島堰の工事にとって最大の難所は、川幅の広い御勅使川の横断であった。完成当初は溝を掘り板で堰きとめる「板関」と呼ばれる開渠で通水していたが、少なくとも18世紀初頭には木製の埋樋(暗渠)に変更される。幕末頃には暗渠の壁が石積みとなり、明治から大正時代に入ると粗石をアーチ状に積む「眼鏡」と呼ばれる工法に改修される。
六科村や野牛島村は、その立地から御勅使川の河原の中で暗渠となっている徳島堰を一度開口して取水しなければならず、増水時にその取水口を守る将棋の駒の形をした堤防が枡形堤防である。取水された水は後田堰を通して六科将棋頭の中に導水され、水田に利用されてきた。
平成26年10月6日に国指定史跡に追加指定されました。
大正9年に竣工。高さ7m、長さ109.1mある大型の堰堤。芦安、藤尾堰堤とともに現在でも大正期の姿をとどめている数少ない堰堤のひとつ。芦安堰堤と並び、「御勅使川治水の双璧」と呼ばれていた。現在でも私たちの生活を支えている。
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櫛形山中腹の標高約800m~900mに立地する集落です。
かつては「鷹尾」と表記されており、これは、昔、日本武尊が酒折の宮から櫛形山を眺め、鷹が巣に座している姿に見えたことから「鷹座巣山」と呼ばれたという伝承によるもので、尾の北側にある集落を「北鷹尾」、つまり現在の「高尾」地区と呼ぶようになったと言い伝えられています。ちなみに南高尾は平林地区(現富士川町)です。
集落の西端には式内社に推定される穂見神社が佇み、東南方向に傾斜し眺望が開ける位置に広がります。
江戸時代を通しておおよそ20戸前後があったとされ、林業が盛んとなった昭和の戦後まもなくにかけては最も戸数が多く、30戸を超えていました。
写真は昭和33年頃の様子です。静けさの中にも子供たちの声が聞こえてきそうな昔懐かしい「高尾」の風景です。
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木こりの太郎助は、村の衆と山小屋に泊まり込んで山仕事をしていました。12月のお松節句の頃(13日)になると、仲間はいつものように正月準備のため村へ帰ることにします。しかし働き者の太郎助は、もっと稼ごうと1人残ることにしました。村の衆がいなくなった山の中はうって変わって静かになり、夕闇が深くなるにつれ、太郎助は心細くなりました。仕事もそこそこに山小屋に引き上げてきたところに「オーイ」と呼ぶ声。誰かと思い外に出てみると、そこに立っていたのは満月のような目が一つ、口は耳元まで裂けた一つ目小僧でした。恐ろしくて震え出した太郎助は、勇気を振り絞り、燃えさしを怪物の目玉めがけて投げつけます。すぐに鍵をかけ、布団にもぐり込んで、怖さに震えながら一夜を明かすと、朝、一目散に村へ逃げ帰りました。その後、あまりの怖さから太郎助は亡くなってしまいました。村の人々は欲張りの太郎助を一つ目小僧が懲らしめたのだと言ったそうです。
太郎助を「欲張り」と決めつけるのはなんだかあわれな感じもします。「働き者」であった太郎助は、なぜ一つ目小僧のために死んでしまうことになったのでしょうか。それを解く鍵は誰もが知っている「一つ目小僧」にあります。
関東周辺で一つ目小僧が現れる日は実は決まっていて、12月8日と2月8日前後に集中します。沓沢でも師走の他に2月3日節分の日にも一つ目小僧が現れると信じられ、今でもバリバリの木の枝に鰯の頭を刺したものを魔よけとして玄関に飾っています。この信仰は「コト八日」と呼ばれる民間信仰で、古くから日本各地で行われていました。各地でさまざまな言い伝えがあるため、ひとくくりにはできませんが、この日は神様が移動する日とも考えられ、それゆえ人は神の姿を見ないよう家にこもり、物忌みする地域も多いのです。
12月13日に山仕事をせず、正月支度をする沓沢の風習は「コト八日」の慣習の一つであったのでしょう。太郎助が一つ目小僧と出会ってしまったのは、12月13日には山仕事をしないという古い約束事を破ったからなのです。一つ目小僧の昔話は山とともに生き、山の神を信仰してきた沓沢の人々の伝統を今に伝えています。
ちなみに、この一つ目小僧、小正月に行われるどんど焼きにも関係しています。沓沢の言い伝えによれば、12月末に悪神がやってきて、病気になる人を帳面に付けます。その帳面を悪神は正月の間、道祖神に預けますが、村人を守る道祖神はそれをどんど焼きで燃やしてしまい、村人の1年間の健康を保証するのです。別の地域では一つ目小僧を悪神とする例が多く、沓沢でも「一つ目小僧=悪神」であったとも考えられます。
有野の故矢崎徹之介氏の居宅で、甲府盆地西部では最も古い民家である。建てられたのは、江戸時代初期、寛文以前の建築である。
矢崎氏はもと青木氏の出で、武田信玄公の時代に有野に所領を得て、信州からここに移った地侍であった。その後、江戸時代を通じ有力農民として名主を勤めている。
広い屋敷内には南に長屋門を構え、母屋の西北に文庫蔵が続き、北側にも大きな土蔵がある。
古さの見どころは、13本残っている柱にハマグリ手刃の跡が見られること、屋根裏の小屋組は当初のままで、小屋東に貫が離れて交わっていることなどである。
所在地/南アルプス市有野1204
所有者、管理者/個人
指定年月日/昭和53年2月16日
備考/
上高砂集落内の小さな交差点に道標あります。
「左甲府」とわかるのですが、「右???」が読めません。
道標に和紙をのせ、拓本を取ってみると、「左 甲府」「右 小笠原」と読めました。(「原」の字の半分がアスファルトに埋まっています)
しかし、今ある位置では方向が違うので、別の場所から移動してきたとわかります。上高砂地区でご存知の方を探して教えていただきましたところ、新しい道標を建てたために不要になったのでこの地に運んできたとわかりました。
その場所とは、龍王から信玄橋をわたって上高砂地域にはいり、左側にあるスーパーオギノの手前を入る道の隅(上高砂の消防小屋の前)でした。
現在建っている道標を読むと、「昭和4年3月17日に御影消防団第三部建」とありますので、その時からこの場を離れ、いまは上高砂集落内にひっそりと佇んでいたのです。
地図で見ると、釜無川を渡って旧道が下高砂方面に曲がる当たりの南側にあたり、位置的にも方向的にも矛盾がないことを確認できました。
長い間路傍にあり、多くの人々の旅の安全を守りながら役に立ってきた道標を、新しいものができたからといってそのまま打ち捨ててしまうことができなかったのでしょう。
当時の上高砂の人々の心情が時を超えて伝わります。
白根地区飯野に、昭和30年代から開塾しているそろばん教室に資料を見せていただきにまいりました。
そろばん教師の相川さんは全国的な和算の研究会にも所属され、そろばんに関するありとあらゆる資料を収集されている有名な方です。
かつて習い事は「お習字かそろばんか」という時代が長く、そろばん教室が各地で盛んに開かれてました。
相川さんのお話によると、明治以降に東京などの都会に出て一旗揚げたいという人も、まずは「読み書きそろばんを身に着けてから」でないと話にならなかったとのこと。
戦後も個人で使える電子計算機のなかった時代、金融機関でも行員がそろばんを使っていた昭和30年代には、複数の場所に教場を持っているような大手のそろばん塾が現在の南アルプス市内に5~6軒ほどもあったそうです。
昭和50年代になり、ピアノや水泳など習い事の選択肢が増えたきたころから、そろばん教室の状況はかなり変化してきたようですが、相川さんが開いていらっしゃる飯野にある珠算学院には、現在も小学生を中心に生徒さんが元気よく通っていらっしゃるとのことでした。
西南湖にある重要文化財安藤家住宅で行われる「安藤家住宅ひなまつり」では、貴重な横沢雛が飾られます。
甲州で明治大正期に多く作られた横沢雛には童子をモデルとした人形が一番多いのですが、他に、成人女性や男性、妊婦、長生きの象徴としての老夫婦、七福神などの神様などモチーフに多くのバリエーションがあります。
その中でも、ひときわ異質なのが、赤い髪の中国の伝説の妖怪、猩々(しょうじょう)のお人形がです。
猩々は、能の演目にも真っ赤な装束で登場する中国の伝説上の生き物のことで、赤毛で人間のような容姿をしており、酒を好むとされます。
また、赤いものを嫌う疱瘡神を追い払うという伝承もあり、子供の健やかな成長を願って送られたものと思われます。
4月には、さくらんぼの授粉用花粉を集めるための花摘みが行われます。
花を摘んだ後は、農協の施設内にあるにある葯採取機(やくさいしゅき)を使って花から花粉だけを取り出します。
花粉はダチョウの羽を使ってサイドレス(雨除け施設)内に植えられた、高砂・豊錦、佐藤錦、紅秀峰など様々な品種の樹に授粉されます。
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「天神の井」は、豊村誌と櫛形町誌によると、『別名「七ツ池」とも呼ばれ、昔、天神様が七才の童子の夢枕に立ち、その教えに従って之を掘った。後に天神宮を祀って天神の御手洗となった。この水は旱魃にも涸れることがないと言われる。』と記載されています。
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この足袋型紙は戦時中に、蚕の種紙で作られたものです。
この足袋型紙は戦時中に使われたもので、蚕の種紙が再利用されています。
戦時中は物資不足であることから、足袋は各家庭の手作りであり、その型紙を再利用紙でつくるのは、当然のことだったと思われます。
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榊小学校は、現在の南アルプス市櫛形地区上宮地に存在した小学校です。明治12年に榊村誕生とともに創設され、明治33年には榊尋常高等小学校となりましたが、昭和33年に小笠原第二小学校とともに統合されて櫛形北小学校ができ、廃校となりました。
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引札は、江戸時代から大正・昭和時代の初期まで商店や問屋などが広告を印刷にして配布したもので、 新聞広告などの新たなメディアが定着するまでは、広告の花形として用いられていました。 新年のあいさつを兼ねた引札のデザインは、商売繁盛を願ってえびすや大黒などの七福神や福助、 縁起物とされる富士山や松、鶴などが好まれ、当初は江戸時代の多色刷りの浮世絵版画である「錦絵」の技法を取り入れた華やかで美しいものでした。
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通称「ボロ電」とは、昭和5年から昭和37年までの32年間、西郡を甲府方面・峡南方面へと結んでいた路面電車のことです。
運行会社は、山梨電気鉄道→峡西電気鉄道→山梨交通へと変遷しました。
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現在は営業していませんが、櫛形地区上市之瀬にある、道に面した大きなパステルグリーンの観音扉が印象的なその野々瀬郵便局は、形西小学校の向かいに、県道伊奈ヶ湖公園線を挟んで立っています。
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こちらは大正時代の大井村(現甲西地区古市場)にあった茶舗麻野屋の茶銘柄定価表です。
日本三大銘茶といわれる宇治茶・狭山茶・静岡茶の各種銘柄が並んでいます。宇治茶と狭山茶は一斤(600グラム)、粉茶の川根茶(静岡茶)は百目(375グラム)の値段が掲載されています。
この他、このチラシをよくみると、麻野屋では醤油も売っていたことも分かります。
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多くの人や車が往来する富士川街道沿いで、地域の誰もが見知る街の電気屋さんである「(株)齊藤テレビ」の、昭和20年代末から30年代末までの変遷とアルバム写真データを大まかな年順に整理しました。
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伝単とは、敵の国民や兵士に降伏をうながしたり、戦意を喪失させる意図で、空から撒いたり街に掲示したりする、宣伝謀略用の印刷物(ビラ)のことです。
この「桐一葉」は、若草地区下今井出身で、太平洋戦争中に陸軍航空本部技手であった志村太郎さんが、太平洋北部のアリューシャン列島にあるキスカ(鳴神)島で拾ったもので、戦場で数多くばらまかれた伝単の中でも、ひときわ芸術性・文学性が高いものです。
色と形が桐の葉そっくりに作られているだけでなく、当時有名だった歌舞伎の演目「桐一葉」の内容を想起させる格調高い短文を付して、日本兵に軍部の衰退と滅亡を予感させています。
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こちらは、現在整理中の平岡河野家資料にあった、小笠原金丸商店が出した領収書です。
この領収書を見ると、購入した品名の箇所には、「白土、角又、晒、岩城」などの文字が見えます。
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毎年、安藤家住宅のひなまつりで雛人形を展示するたびに、人形が収納されている箱の底に、人形を包んだり、緩衝材としてくしゃくしゃに詰め込まれている包装紙が気になり、ちゃんと広げて記録を取ったところ、その中に、現在も櫛形地区小笠原で営業している和菓子屋さんの、菓子袋と包み紙がありました。
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こちらは、在家塚中込茂家所蔵資料の「文献72 鯛兵衛一件」です。
これは、農業の合間に綿商いを渡世(稼業)としていた在家塚(白根地区)の八百助という人が、仕事で現在の韮崎市方面に出かけた帰り道に、大変なトラブルに巻き込まれてしまった事件に関する、江戸時代(嘉永五年・1852)の文献です。
この文献は、具体的なトラブルの内容以上に、原七郷で江戸時代に行われた綿産業の実態が、八百助という一人の「農間綿商人」の活動を通して垣間見ることができます。
原七郷の産業の中で、養蚕以前では、綿は、煙草・藍と並んで根幹をなすものでした。甲州の西郡綿が、江戸時代の終わり頃に、在地の人々によって、どのような仕組みや過程をもって流通され、商売として成り立っていたのかを知ることができるものだと思われます。
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「甲西町の今むかし」という1995年に甲西町文化協会が発行した冊子の中にある、「風邪治しの神様として信仰された大きな岩」で、地域の人たちから「おしゃぶきさん」と呼ばれた岩があります。
『その昔、悪い風邪が流行って塚原村の人々が苦しんでいると、働き者のおじいさんの夢に、お姫様が現れました。そして、「西の山の中腹にある大きな岩の前に葱が植えてあるの。それを持ってきて煎じて飲んでみてごらんなさい。 私の来たしるしに、岩の上に足跡を残しておくから。願い事のある時は、その足跡を小石でたたきながら祈ってね!」というような、お告げがあったそうです。
翌朝、おじいさんが西の小高い山に登ってみると、はたして、葱の植わった大きな岩があり、足跡もありました。 そこで、夢のお告げにあったように小石でたたいてみると、木履(ポックリ)をやさしくたたいた時のようにぽこぽこと響いたのだとか。
おじいさんは風邪が治りますようにとお祈りして、葱を持って帰って煎じて飲んでみると、三日ばかりで長く苦しんでいた風邪が良くなったので、葱を倍にしてお返ししたそうな。
このことがだんだん広まり、お祈りする人が多くなったので、塚原村の人々は相談して岩の上に祠を立て、岩を岩永姫(いわながひめ)の化身と信じ、秋には感謝の祭りを行っていたそうです。(「甲西町の今昔」しゃぶきばあさんの項より〇博調査員の要約)』
南アルプス市は市域西部が急峻な山々に占められ、そこから発する河川が市の南東部に集まるため、市の南東部に位置する甲西地区は、上流から流されてきた砂礫の堆積により、いくつもの天井川が連なる土地となりました。年々河床が上がるたびにどんどん高さの増していく堤防は、甲西地区を行き交う人々、特に滝沢川の両岸にある集落(田島・西南湖・和泉)に住む人たちにとって、田畑に往き来したり、駿信往還に出たりするのにも、家の屋根より高い所を流れる川の土手を登ったり降りたりして越えなければならず、たいへん大きな障壁でした。
そこで、昭和時代に入ると、滝沢川の河床の下に、トンネルを掘って道を通す工事が3か所で行われました。かつて「田島隧道(ずいどう)」「南湖隧道」「和泉隧道」という3つのトンネルが、昭和時代に滝沢川の下を通っていました。
その後、これら3つのトンネルは、昭和46年より行われた滝沢川の天井川を完全に解消する大改修事業によって、川の河床がだいぶ低くなったために廃止されました。現在では、滝沢川にトンネルの跡形は何もなく、同じ場所に川の上を渡る「田島橋」「南湖橋」「和泉橋」が設置されています。
←「明治31年から39年記武州石川組製糸場女工より葉書表(西野功刀幹弘家資料より南アルプス市文化財課所蔵)
明治時代に、南アルプス市にあった西野村から、埼玉県の製糸場に出稼ぎに行っていた、相川福乃さんという女性がいました。
明治31年ころは、生糸のアメリカ向けの輸出増大で、日本中に大規模製糸場が次々と建設されていた時代。山梨県は、明治7年に県営勧業製糸場が創業(富岡製糸場は明治5年創業)したことで、蚕糸業萌芽期の先進地となり、明治20年代には甲府の製糸家が全国的に台頭するほどまでになっていました。
そのため、地元で器械繰糸技術を習得した山梨県内の女工たちが、次々と県外に新しく建設される製糸場から引き抜かれ、出稼ぎに行きました。
日本全国のどこにでも存在する火の見櫓(ひのみやぐら)は、各地域の住民たち自らが建てた防災施設の一つです。
江戸時代以前の古くから見張り台としての目的をもっていました。火災などの災害の早期発見をし、その上部に備え付けられた鐘を鳴らすことで地域に差し迫った危険を知らせたり、消防団員を招集するのに使用されてきたわけです。
地域の持ち物として、コミュニティの中心場にあることの多い火の見櫓は、まち歩きの際の重要なチェックポイントであるとともに、集落を象徴する景観の中に溶け込み一体化していることが多くあります。(甲西地区清水の火の見櫓※防火水槽上)
南アルプス市内にもたくさんの火の見櫓が点在しています。おそらくどれも昭和20~40年代に建てられ、使用されてきた火の見櫓がほとんどかと思われます。
「地方病とたたかうポスター」をご覧にいただきたいと思います。山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。
山梨県が製作したこの地方病予防広報・啓発ポスターを見出し部分から読んでみますと、『三百余年前から蝕ばまれ悩まされ続けて来た地方病 今こそ完全撲滅の絶好の機会!!県政の重大施策としてとりあげてここに三年、有病地の指定解除、宮入貝の減少、患者の著減等々成果は上々である。 この好期をおいていつの世に根絶することができよう、みんなで力を併せて一挙に駆逐するよう今一段の努力をいたしましょう。』とあります。
このポスターには製作年が記載されていないのですが、見出しの文面と、「現在実施している予防対策」の項にPCBという薬剤によるミヤイリガイの刹貝と、コンクリート溝梁化工事に年間一億のお金をかけている」といった文言があること、当該資料の含まれる資料群全体の年代構成からかんがみて、この地方病対策ポスターは、だいたい昭和30年代中頃に作られたものではないかと考えています。
雛人形が入っている箱に地元の呉服屋さんの名前が記されていることがあります。当時の呉服店は、節句人形の販売代理店としての機能も担っていたようで、西郡地域の人々が飾ったお人形は甲府の雛問屋で作られたものに加え、鰍沢の春木屋などの商家を経由して入ってくる駿河で製作された人形も多く流通していたと考えられます。明治大正期に昭和初期頃の西郡の人々が人形を求めるときには、
① 甲府の雛問屋か鰍沢の商家に買いに行く。
② 甲府の雛問屋から「ひなんどー、ひなんどー」との掛け声で、安価な横沢雛を籠に担いでやってくる売子から買う。
③ 初節句の晴れ着などを購入するのに合わせて、近所の呉服屋で売っている人形を買う。
の3つの購入方法があったのだと思います。
徳島堰は、韮崎市上円井の釜無川から取水し、南アルプス市曲輪田新田まで伸びる役17kmのかんがい用水路です。寛文5年(1665)、江戸深川の町人徳嶋兵左衛門が甲府藩の許可を得て工事に着手し、寛文7年には曲輪田の大輪沢(堰尻川)まで通水したといわれています。
それから昭和40年代に釜無川右岸土地改良事業によってコンクリート化され、「原七郷はお月夜でも焼ける」といわれた御勅使川扇状地扇央部の常襲干ばつ地域にスプリンクラー網が整備されるまで、開削から300年の間に大雨による埋没など度重なる逆境乗り越え、現在の徳島堰の形となりました。
そんな南アルプス市の豊かな田園や果樹園の景観を守り続けてきた徳島堰ですが、実際どのようにして取水され、どんな旅路を経て私たちの暮らす南アルプス市までその水がやってくるのでしょうか!?今回はそんな徳島堰を流れる水の旅路を追ってご紹介していきます!
堰沿いにある入戸野バス停
3つの発電所で大役を終えた徳島堰の水たち。そこからもう少し下流、入戸野沢との立体交差地点に差し掛かると丁度辺りは入戸野地区の集落となります。入戸野沢が水路橋で徳島堰を渡っているすぐ先。堰沿いには石造物とバス停、また集落中心地のシンボルである火の見櫓が並んで現れます。入戸野の町並みと徳島堰の変遷を見守ってきたであろう石造物の背面を流れる徳島堰。堰沿いの民家を見てみると、庭から堰の水面まで降りてこられるよう「つけえばた(洗い場)」が造られている箇所も多く、この徳島堰が集落の生活にいかに根ざし、溶け込んでいるかが伺える場所です。
釜無川右岸第二調整池
南アルプス市飯野新田地区に入った徳島堰は最後の任務に向けて第二調整池へ分水をしていきます!しかしよく見ると調整池といっているのに溜まっている水の姿が見えないどころか、一面綺麗に整地されたグランドになってしまってるのは一体!?・・。実は第二調整地はこのグランドの地下に貯水のタンクが作られており、グランド自体は地域の人たちへ無料で開放しているとのこと。どこまでも地域想いで太っ腹な徳島堰!この調整ここでも貯められた水たちは地下パイプライン網を通ってスプリンクラーへと送られていきます。頭首工からここまで約16kmの旅路の中幾度となく難所を乗り越えながら、髄所で取水の任務を果たしてきた徳島堰。最後の大役を無事勤め上げてそのエンディングへと進んでいきます!
甲府の雛問屋「松米」の引札
甲府の雛問屋「松米」は、江戸時代中期から昭和戦前まで甲府で雛人形や端午の節句飾り、だるまなどを製作して販売した「松城屋」という屋号の雛問屋です。初代から明治の10年代以前は店の通称を「松伝」と名乗っていました。(写真は「松米」の引札『美術 雛人形 ?ニ雛道具各種 甲府八日町 松榮斎松米商店 電話四十六 振替二百三十二番』)
江戸時代から明治、大正・昭和期に存在した甲府の雛問屋は「おかぶと(カナカンブツ)」「横沢びな」「甲州ダルマ」といった独特の在地の節句飾りや雛、玩具を生み出してきました。
「松伝」・「松米」という通称を持った「松城屋」の店の場所については、江戸中期の初代より甲府横沢町にありましたが、明治期に入って、火事によりいったん柳町一丁目に移転。その後、明治5年から16年の間に代替わりして「松米」と改称し、三日町一丁目九番地に出店。さらに、明治24年頃には八日町一丁目に移転したという経緯が判っています。
西野功刀家より寄贈いただいた文書箪笥の中に、西野果実郷の父・小野要三郎直筆の手紙を発見しました。
「小野要三郎直筆功刀家宛書簡」
[明治45年1月17日 西野功刀幹浩家資料(南アルプス市文化財課所蔵)]
拝啓 謹言 昨日 上高砂小沢
伊ハ我承 是桃九十七代ト し
テ 委細ヲ入 金四百円ニテ 買
取呉候様申候 又 四五日
内之 又承知候ハ申付 無高
一寸申入候也
四十五年一月十七日
清水
小野要三郎
功刀七右衛門殿
南アルプス市域の果実郷では、その景観を作り上げた父と呼ばれる、小野要三郎という人物がいます。
石ころだらけで水のない不毛な御勅使川扇状地の土壌に、明治時代後半から次々と様々な果樹を県外から大量に取り寄せては植えて試作し、原七郷を多種栽培を基本とする果実郷に生まれ変わらせた中心人物です。
8月24日は今から186年前の天保7年(1836年)、山梨県では天保騒動という大規模な騒乱のさ中で、ちょうど現在の南アルプス市域が被害をこうむった日です。
天保騒動は、江戸時代後期の天保7年(1836)8月17日に郡内白野村での百姓一揆からはじまった騒動です。しかし、山梨郡熊野堂村の米穀商打ちこわしという当初の目的を果たした郡内の百姓たちが帰村した8月22日頃になると、騒動に乗じて参加した無宿人らが暴徒化して、大規模な強盗集団となり、国中(甲府盆地内部の村々)を暴れまわって、甲州の人々を恐怖に陥れました。
八田地区野牛島中島家文書の中に、要助さんという当時名主を務めた人物の日記帳があります。
(八田地区野牛島中島家文書「去申用気帳」)
白根地区西野村功刀家資料の整理で文書箪笥の中から大正初期(大正3年~昭和10年)の果物出荷に関する書簡が多数(130枚)見つかりました。表に打ち込んでみると、特に昭和5年と7年に、販売先の問屋とやり取りした葉書(以降、「果実売立葉書」と称す)がまとまっており、その年の出荷の動向を見ることができるものでした。
この地域で、大正5年に甲州中巨摩果実組合は発足していましたが、基本的に大正12年に西野果実組合ができるまでは、販路拡大と出荷は個々の家と問屋との、直接交渉・取引で、なされていたものと考えられます。
[大正期の果実売立葉書の一部(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)]
昭和14年(1939)のお正月に配られた引札(ひきふだ)をご紹介します。引札とは、明治期に多く作られ、配られた宣伝広告チラシのことです。
ご紹介する資料は、80年以上前に現在の南アルプス市飯野の倉庫町交差点の北にあった、麻野屋呉服店さんの配ったもので、主に旧正月の二日から五日までの四日間に開催する福引きについての引札です。
[「昭和14年倉庫町麻野屋呉服店引札」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課所蔵):このチラシには電話番号が記載されているので 、白根地区で昭和3年4月11日から電話交換事務が開始されたことを勘案して、卯年の昭和14年のチラシと判断した。]
野牛島バス停の前の道、県道甲斐芦安線は御勅使川の古い流路で、「前御勅使川」、ちょっとなまって「まえみでえ」と呼ばれています。
戦国時代には御勅使川の本流であったと言われますが、明治31年に六科将棋頭の上流が締切られ、前御勅使川の歴史に幕が下ろされました。
昭和に入るとこの河原を利用し四間(約7.2m)道路が敷設され、戦後に開発が進み、現在への街並みへと変わっていきます。
写真は昭和12年頃の野牛島停留所前。旧河川に道路が作られた直後であり、河川の面影を見ることができる。
[画像:個人所有]