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  2. >6.弘法大師伝説

6.弘法大師伝説

弘法大師伝説ゆかりの史跡を歩く
南アルプス市教育委員会

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真豊院

弘法大師が像を安置し創建したと伝えられる寺院。この寺がもとで付近の村の名を北大師と呼ぶようになったと伝えられる。
安政五年正月九日夜の火災のため、すべて堂宇が焼失し、土蔵一棟だけが残った。武田式部大輔信包公の再建、信包の菩提寺となる。


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弘法のすずり田

地表が黒色のため、書家の大家であった弘法大師が毎日墨を洗った場所と伝えられる水田。


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深向院

天長年間、弘法大師創建と伝えられる寺院。武田五郎信光が再興し、天文年間に武田家の重臣であった跡部大炊介が真言宗寺院を改宗して現在の曹洞宗寺院を建立した。


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独鈷ノ井戸

弘法大師が独鈷杵で地面を突いたところ、湧き出たと伝えられる清水。日照りが続いても枯れない井戸として利用されてきた。


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八幡寺

 弘法大師創建の伝説が残る寺院。本尊は地蔵菩薩。武田信武も深く信仰したと伝えられる。八幡寺には次の伝説が残されている。

 大師が当寺を建てた時、見なれない童子が毎日来て手伝ってくれた。完成した夜、その童子が夢に現れて言った。「われは若宮八幡の神なり」。これを知った大師は感銘し、本堂の正面に安置し奉った。これによって清水山八幡寺と号することとなったという。


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清水若宮八幡宮

八幡寺を弘法大師が建てたとき、若宮八幡の化身である童が助けた言い伝えが残されている。


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不動寺

弘法大師が川の中から現れた金色に輝く大日(不動明王)に導かれ、不動明王を彫刻して開いたと伝えられる真言宗の古刹。大日が現れた不動寺西側の川は明王川といわれている。寺内には空海が功徳ための水を汲んだ池があったと伝えられるなど、数々の弘法大師伝説に彩られている。


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古長禅寺

臨済宗寺院。信玄の母、大井夫人の菩提寺であり、夫人の墓がある。もともと長禅寺と称するが、後に甲府に長禅寺が造られたため古長禅寺と称するようになった。母とともに信玄も、時の住職、岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)に深く帰依し、「信玄」の法号も岐秀が授けたものと言われる。県指定史跡。


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西光寺跡

かつては七堂伽藍を備えたといわれる真言宗の大寺院。現在は廃寺となっており、わずかな石造物のみが寺院の面影を今に伝えている。

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金剛寺

弘法大師が、洪水と疫病に苦しむ人々を救済するため薬師如来を彫り、建立したと伝えられる真言宗寺院。


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法善寺

真言宗の寺院。武田氏の氏神武田八幡神社の別当を務め、武田氏の戦勝祈願寺でもあった。信玄が自筆し法善寺へ奉納した和歌百首は文化8年(1811)の火災で焼失したが、焼失前に筆写された木版本が残る。


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跡部大炊介屋敷跡(了泉寺)

 跡部大炊助勝資(生年不詳)は、武田家家臣団の中で最も多くの朱印状を奉じ、外交、内政ありとあらゆる分野に関わった官僚でした。
 信玄、勝頼の二代にわたり、主君の間近に控える側近として活躍しましたが、天正十年(一五八二)武田家滅亡の際に勝頼に従って討死したとされます。


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了泉寺

跡部大炊介の屋敷跡を寺としたと伝えられています。


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加賀美遠光廟所

法善寺の門の正面を南に歩くと門と対面するように祀られており、今も8月にはお祭りが行われる。


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能蔵池

湧き出た御勅使川の伏流水をせき止めて造られたため池。池には赤牛の神様が住むといわれ、赤牛が村人に椀や膳を貸してくれる昔話が今に伝えられている。中島には水神でもある弁才天が祀られている。


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住吉遺跡

住吉遺跡は南アルプス市南部、甲西地区のほぼ中央にあり、若宮八幡神社を含め、その南側に広がる遺跡で、標高約245mを測ります。周囲は水田地帯ですが、網の目状に流れる小河川によって造られた微高地上に立地し、周囲には村東遺跡や、清水遺跡、西川遺跡など、同じく微高地上の遺跡が分布しています。
住吉遺跡は弥生時代後期、東海地方との関係を示す豊富な土器群に象徴される特徴的な集落遺跡です。


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宮東遺跡

古墳時代前期の土器や中世の建物跡、井戸跡、木棺墓などが発見された。不動寺旧境内であることから、不動寺と関係する施設であると推測される。写真は礎石建物跡。

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村内遺跡

古墳時代中期の竪穴住居跡。住居跡から多数の壷や甕、高坏などが発見されている。

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大師東丹保遺跡

鎌倉時代の杭で護岸された水田跡や水路跡、そして低地の開発を主導した有力者の屋敷と推測される建物跡が発見されています。水田跡からは五芒星「★」を記した呪符木簡(じゅふもっかん)や人形(ひとがた)、斎串(いぐし)などまじないに使われた木製品が多く出土しており、この地に暮らした人々の切実な願いが伝わってきます。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)


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宮沢中村遺跡

 現甲西バイパス・中部横断道の建設に伴って平成6・7年に発掘調査が行われました。
 古代から近世のムラの跡が発見され、鎌倉時代の水田を守るために築かれた護岸用の網代や、洪水の土砂で埋まりながらもそのつど復旧し、水田やムラを守り続けてきた人々の逞しさを知ることができる調査成果となりました。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)


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東出口遺跡

小笠原地区の現在の滝沢川沿いにある遺跡で、平成17・18年に発掘調査を実施するまでは詳細が分からなかった遺跡です。調査の結果広い範囲に古代のムラ跡が残っていることがわかりました。

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二本柳遺跡

平安時代から江戸時代の水田跡、戦国時代から江戸時代の寺院
跡が発見されています。
寺院は、加賀美遠光の館跡とされる法善寺の子院の一つであっ
た「福寿院」の跡です。この寺院は江戸時代末に火災で焼失したとされます。
 遺跡からは16世紀を中心とした木棺墓、井戸、周囲をめぐらした溝、掘立柱建物跡などの施設のほか、陶磁器・かわらけ・内耳土器・すり鉢、石臼、摺臼、漆器、下駄等の生活道具や卒塔婆、五輪塔、銭貨などが見つかっています。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)


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向河原遺跡

水の豊かな湧水地帯を利用して営まれた、弥生時代から江戸時代までの水田跡が発見されています。
 水田は、現在と比べ非常に小さく、畦で囲まれた一枚の水田は最大でも6m×5m程度でした。
当時の技術では広大な面積を整地するのが困難だったのです。
わずかな地形の勾配にも苦労しながら、新天地を開墾していった弥生人の姿が垣間見られます。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)


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油田遺跡

平成5・6年発掘調査実施
現甲西バイパス・中部横断道
弥生時代から平安時代のムラの跡
弥生時代中期の地震の痕跡や古墳時代後期の祭祀跡、平安時代の水田跡などが発見され、弥生時代から連綿と生活が営まれていたことがわかります。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)


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