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地区で選ぶ - 櫛形

アヤメが丘団地(六科丘遺跡)

丘を削平して新たに誕生した住宅街で、昭和58年、開発に伴い発掘調査がおこなわれました。今から約1700年前の弥生時代終末~古墳出現期のムラの跡です。二つの河川に挟まれた舌状台地は先端で丘状に高まり、その丘の南西面に竪穴住居が建てられており、同じ舌状台地上でも長田口遺跡と向き合う位置関係となります。約25,000㎡を対象とした発掘調査ではほぼムラの全貌が調査され、33軒の竪穴住居が発見されました。

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六科丘古墳

市之瀬(イチノセ)台地の先端部、標高435mに造られた古墳で、調査の後に古墳公園として保存整備されています。
古墳は、造出しのついた径24mの円墳で、その周りを幅約2mの礫帯が巡っています。旧地表面を整地した後に土を盛って築き、表面に葺石を施したとみられます。埴輪は確認されませんでした。

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長田口遺跡(ほたるみ館)

漆川と深沢川とに挟まれた舌状台地上、標高約440mに立地し、平岡集落の南の端にあたります。
これまで、広域農道建設、ほたるみ館建設、多目的広場駐車場建設の3地点(計約12,600㎡)で発掘調査を実施しています。ほたるみ館建設に伴う発掘調査は平成10年に行われました。

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長田口遺跡(西地区多目的広場・広域農道)

漆川と深沢川とに挟まれた舌状台地上、標高約440mに立地しています。
これまで、広域農道建設、ほたるみ館建設、多目的広場駐車場建設の3地点(計約12,600㎡)で発掘調査を実施し、縄文時代中期の竪穴住居跡9軒以上、弥生時代~古墳時代の竪穴住居跡80軒以上が調査されており、この2時期を中心とした複合遺跡といえます。

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棚田の景観(ほたるみ橋公園)

漆川によって解析された谷地形を利用し、棚田が作られています。市之瀬台地上ではここ上市之瀬や平岡の棚田以外にも中野の棚田も良くその姿を伝えています。
上市之瀬、平岡の棚田は石積みが特徴で人気がありますが、これにも理由があり、かつて市之瀬川の土石流によって何度も砂礫が堆積した地だったことをあらわしているのです。困難を乗り越えた姿が石積みに現れていると思うとまた印象が変わりますよね。
また、新居田B遺跡のページもご参照いただきたいのですが、棚田のすぐ崖上に当たる遺跡からは、弥生時代のはじめの土器に籾の痕跡が残っている例があり、2000年を通して米作りに挑んできた歴史の厚みを感じることも出来ます。


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妙了寺

高峯山妙了寺もまた山梨を代表する寺院の一つです。日蓮宗の触頭(ふれがしら)を勤め、山梨県内では身延山久遠寺に次ぐ位置付けといえ、又の名を「うらみのぶ」とも呼ばれています。昭和24年の火災により伽藍(がらん)の多くが焼けてしまいましたが、かつては塔頭(たっちゅう)も六坊あるなど広大な境内を有し、25カ寺の末寺がありました。
妙了寺はもともと中野地区にあった妙竜寺という真言宗の寺院でしたが、鎌倉時代に日了によって新たに日蓮宗として再興されたものです。その日了の母・日仏は中野地区の出身ですが日蓮宗の開祖日蓮の直弟子です。


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椿城跡(上野城跡)

上野の地に小笠原長清の孫盛長によって築かれた城で上野城といい、周りに椿の花が多かったことから別名椿城とも呼ばれています。
 鎌倉時代のもので、細長い台地の上に堀や土塁で各スペースが区切られていたもので、石垣や天守閣があるようなものとは違います。堀や土塁の位置はレーダー探査によっておおよその位置が把握されています(写真)。
 周辺には地下式坑といって地下室が転々と造られており、時々陥没することから椿城には秘密の抜け穴があると伝えられてきました。市指定史跡。

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椿城跡(本重寺)

朱色に光る屋根が特徴の本重寺。もともとは本覚寺といい、鎌倉時代、秋山光朝の子とされる光定によって建てられた日蓮宗のお寺です。
 光定が日興上人から譲り受けた板本尊(いたほんぞん)は市の文化財に指定されています。武田晴信の母大井夫人の父親でもある大井信達(のぶさと)の法名が「本秀院」とあることから、寺院名を変える際に本重寺としたと伝わります。

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椿城跡(五輪塔群)

小笠原長清の孫盛長が城を構えたといわれ、上野盛長と称するようになります。上野家は3代で途絶え、その後は養子を取った秋山家へと移ります。道の北側には代々秋山家が守る五輪等群があります。

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上ノ東古墳

椿城跡から物見塚古墳へと続く道の途中にひっそりと佇む古墳。市之瀬台地は山から離れるほどに徐々に下ってゆきますが、台地の先端付近で再び盛り上がって一気に下ってゆきます。その盛り上がった頂上にこの古墳は築かれます。台地上に存在することから5世紀台とみられますが詳細は不明です。

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物見塚古墳

 甲府盆地を一望する市之瀬台地の先端部、標高375mの地点に造られた全長48mほどの前方後円墳で、前方部がやや短く、葺石が施されていました。このちいきで現存する前方後円墳は唯一です。
 周溝・埴輪は確認されず、内部主体は粘土槨とみられます。調査では鉄剣3口、直刀1振、玉類、土師器片などが出土しました。過去に捩文鏡1面、玉類の出土が伝えられています。

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塚原上村古墳

 今から約1400年前の古墳で、墳丘はほぼ削平され、横穴式石室の周囲で東西4.5m、南北8.9m、高さ2.3mのみが遺されています。
 円墳とみられ、石室は露出しており、古くから「大西のおかま」と呼ばれていました。(「大西」というのは現在古墳の真正面にある個人宅の屋号です)
 現存する石室規模は玄室の長軸が4.5m、幅は奥壁で1.58m、開口部で1.55mを測り、羨道部はほとんど遺されていません。遺物も過去に乱掘を受けており不明です。


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鋳物師屋遺跡

 市之瀬台地の縁に近い扇状地にある縄文時代中期中葉(約5000年前)のムラの跡で、直径130メートルの範囲に32軒の竪穴建物跡(隣接する〆木遺跡を含む)が発見されました。
 住居は真中に広場をもってドーナツ状に分布して建てられていきました。
 膨大な量の土器が発見され、日用品から祈り事用とみられるものまであり、205点の出土品が国の重要文化財に指定されています。
なかでも、「円錐形土偶」、「人体文様付有孔鍔付土器」は、当時の精神文化を知る貴重な資料であり、世界中の博物館で紹介されました。

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伝嗣院大日如来坐像

「おでいにっちゃん」との愛称で親しまれている石造仏で宝永年間を示す銘が刻まれている。また、この石造仏が鎮座する高まりは古墳とみられています。

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伝嗣院

中世からの由緒を誇り、サクラの美しさでも有名な古刹。台地の上から人々の暮らしを見守り続けてきました。
下宮地にある神部神社の 山宮にあたる場所でこのことから上宮地の地名となったようです。


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ほたるみ館

アヤメの里活性化施設「ほたるみ館」は農業の活性化や地産地消の拠点施設として平成11年に誕生しました。
もともと地域の農家の方々が集まり、地産地消やさくらんぼジャムなどの加工品をまちの特産品にしようとあやめの里特産品加工組合を設立したころから継続した活動を続けています。現在は南アルプス特産品企業組合となりほたるみ館の運営を始め、特産品の普及、地域農業活性化の中心として活躍しています。
ほたるみ館の毎週土曜日朝8時にはじまる「朝市」は人気で、県外からも地の野菜やジャム、よもぎ饅頭などを求めに大勢のお客様が集まります。


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ほたるみ橋公園

漆川によって解析された谷地形を利用し、棚田が作られています。石積みが特徴で、市之瀬台地上ではここの他にも中野区の棚田も良くその姿を伝えています。ほたるみ橋の下には近年ほたるが復活したようですが、これら環境整備も含めて整備されたほたるみ橋公園は全米ランドスケープアーキテクト協会により、2002年全米優秀賞を受賞している。


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上市之瀬のイトザクラ

市之瀬台地の最上部、山地との境付近にあり市之瀬台地全体を見渡すことのできる場所に根を張るイトザクラです。
一名シダレザクラともいいます。
根元の周囲4.4メートル、目通り幹囲3.6メートル、樹高10メートル。枝張りは四方に広がり、特に枝垂れは長く優美です。


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中野のカキ

市之瀬台地の最上段、中野の個人宅の庭にあつカキの木 
 根元の周囲5.3メートル、目通り幹囲3.5メートル。幹は空洞となり南西部を欠くが復元すれば、4メートル以上の巨木となる。この地方で「エブク」という在来種で、昔の栽培種を知る好資料です。


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市之瀬川の石堤

市之瀬川に沿って、県道伊奈ケ湖公園線を伊奈ケ湖に向かって上っていくと、上市之瀬の集落を抜けた左手に「県営砂防事業発祥之地」という石碑が現れ、川の対岸には歴史の厚みを感じさせる苔むした石積みを見ることができます。

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宝珠寺

山寺区にある名刹。
境内に入るとまず目を引くのは県指定文化財のマツ。古木ですので現在は支柱などの様々な保護措置を施していますが枝を広げた姿は優美そのものです。
また、奥左手のお堂にある国重要文化財「木造大日如来及四波羅蜜菩薩坐像」は普段は非公開ですが、平安時代終わりごろの作で、甲斐源氏加賀美遠光ゆかりのものと考えられています。
また、毘沙門天立像はその子、当地周辺を本拠としていた武将小笠原長清により作られたものと考えられています。
 長清は源頼朝の命により奈良東大寺の毘沙門天(多聞天)を作らせており、本拠である小笠原の地と縁を結んだものが当寺毘沙門天立像だろうと考えられています。制作年代も鎌倉期初頭と合致しています。


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新居田A遺跡

ほたるみ館(長田口遺跡)とあやめが丘(六科丘遺跡)とを結ぶこの道路周辺は新居田A遺跡と呼ばれ、平成12年の道路拡幅工事の際には発掘調査が実施されています。
道路西端では長田口遺跡の集落と同じ集落とみられる縄文時代中期前半の竪穴建物跡と、弥生時代終わりから古墳時代の竪穴建物跡が発見されました。また、畑の畝とみられる遺構も発見されました。
六科丘遺跡に程近い、調査区中央付近では縄文時代中期の住居跡がポツンと一軒だけ離れて確認されました。
どういった性格の建物なのかは今後の調査で判明できることでしょう。


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中畑遺跡

 櫛形西地区多目的広場の建設に伴って平成14年に発掘調査が行われました。
 縄文時代前期前半(約6,000年前)という市内で最も古い住居址群が発見されています。その他、縄文時代中期から後期、晩期、弥生時代中期から古墳時代初頭までの集落など、連綿と人々の暮らしが営まれていたことがわかりました。

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上の山遺跡

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古屋敷遺跡

市之瀬台地の上、中野にある遺跡で、縄文時代中期後半の集落跡が発見されています。写真は平成5年に建設された広域農道の範囲で住居跡が2軒発見されました。また、近年ではクラインガルテン(滞在型農園)の建設に関しても行われ、クラインガルテンの敷地内に保存されています。

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鋳物師屋古墳

市道建設すの際に発掘調査が行われた古墳で、古墳の東側半分が道路部分にで調査され、西側半分はまだ畑の中に埋まっているようです。
 昭和29年に削られたため 古墳の高まりはありませんでしたが、石で作られた横穴式石室(よこあなしきせきしつ)の基礎の部分や、 古墳の周溝が発見されました。周溝の形から方墳(ほうふん)といった四角い形をした古墳ということが判明しました。およそ6世紀後半のものです。ちょうど遺跡情報発信オブジェの真下に古墳があったのです。

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曽根遺跡

市之瀬台地の裾、傾斜地から扇状地にかけて広がる遺跡で、旧石器から縄文時代の全ての時期、さらに弥生時代、古墳時代にいたるまでの資料が出土する遺跡です。
中心となるのは主に二つの時期で、縄文時代中期後半の環状に広がるとみられる集落と、弥生時代から古墳出現期にかけての集落です。
縄文時代中期の集落には平面形六角形で五本柱の住居跡が特徴的で山梨県内でもまだ数例しか見つかっていない発見例となりました。


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北原C遺跡

市之瀬台地の北側縁辺部の下、扇状地に立地する約4,500年前の縄文時代中期のムラ跡です。
直径100mを越す大規模な環状集落になるとみられ、その一部が道路建設により発掘調査が実施されました。
その結果18軒の竪穴建物跡などが発見されました。

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小笠原長清公祠堂

山寺八幡神社の北東に位置し、かねてより長清の墳墓と伝承される地でしたが、明治期に開墾した際に石棺が出土し、その地に建てられた祠が小笠原長清公祠堂です。
開墾したのは明治24、25年頃のことといわれ、地域の名士であり、甲州財閥の代表格として著名な若尾逸平を通じて、小笠原家の末裔である子爵小笠原長育へと連絡をとっています。


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笠屋神社

「的場」という地名の地に建つ神社で、延喜式内社の推定社のひとつ。


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小笠原長清公館跡

小学校周辺は「御所庭ごしょうのにわ」や「的場」という地名が残っており、長清公の館跡と伝えられている。


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椿城跡

上野の地に小笠原長清の孫盛長によって築かれた城で上野城といい、周りに椿の花が多かったことから別名椿城とも呼ばれています。
 鎌倉時代のもので、細長い台地の上に堀や土塁で各スペースが区切られていたもので、石垣や天守閣があるようなものとは違います。堀や土塁の位置はレーダー探査によっておおよその位置が把握されています(写真)。
 周辺には地下式坑といって地下室が転々と造られており、時々陥没することから椿城には秘密の抜け穴があると伝えられてきました。市指定史跡。


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本重寺

朱色に光る屋根が特徴の本重寺。もともとは本覚寺といい、鎌倉時代、秋山光朝の子、光定によって建てられた日蓮宗のお寺です。光定が日興上人から譲り受けた板本尊(いたほんぞん)は市の文化財に指定されています。武田晴信の母大井夫人の父親でもある大井信達(のぶさと)の法名が「本秀院」とありここ本重寺のことを示すとされています


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東出口遺跡

小笠原地区の現在の滝沢川沿いにある遺跡で、平成17・18年に発掘調査を実施するまでは詳細が分からなかった遺跡です。調査の結果広い範囲に古代のムラ跡が残っていることがわかりました。

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甲斐源氏って?

 清和源氏の一流で、新羅三郎義光を祖とするといわれ、実際には義光の子源義清、その子源清光の頃より甲斐国に入ったとされ、清光の子を甲斐国内各地に配置したことによって甲斐の源氏一族としての地盤を築いたといわれます。

 清光の子には武田信義(この流れが武田信玄へと続く)などがおり、信義の弟にあたる加賀美遠光もまた、甲斐源氏を代表する武将といえます。


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流鏑馬専用馬場

櫛形総合公園内にある流鏑馬専用の馬場です。
南アルプス市では毎年5月のアヤメフェア(現あやめ・流鏑馬フェア)で「小笠原流流鏑馬」が披露されています。
流鏑馬は小笠原家惣領家(江戸時代の小倉藩主)直伝のもので、現在も福岡を拠点に活躍をされている源長統一門によって行われています。


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高尾集落

新コース「8神々が宿る高尾の世界」の「高尾集落」ページはこちらから↓

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 櫛形山中腹の標高約800m~900mに立地する集落です。

かつては「鷹尾」と表記されており、これは、昔、日本武尊が酒折の宮から櫛形山を眺め、鷹が巣に座している姿に見えたことから「鷹座巣山」と呼ばれたという伝承によるもので、尾の北側にある集落を「北鷹尾」、つまり現在の「高尾」地区と呼ぶようになったと言い伝えられています。ちなみに南高尾は平林地区(現富士川町)です。



 集落の西端には式内社に推定される穂見神社が佇み、東南方向に傾斜し眺望が開ける位置に広がります。
 江戸時代を通しておおよそ20戸前後があったとされ、林業が盛んとなった昭和の戦後まもなくにかけては最も戸数が多く、30戸を超えていました。
 写真は昭和33年頃の様子です。静けさの中にも子供たちの声が聞こえてきそうな昔懐かしい「高尾」の風景です。

[画像:個人所有]

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高尾 穂見神社

高尾集落の北西端、標高870mの地点に穂見神社があります。
穂見神社は平安時代に編さんされた延喜式に掲載されている式内社と伝わる由緒ある神社で、その雰囲気は神々しく、高尾集落の象徴ともいえます。

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中野城

中野城は、鎌倉幕府成立期にあって、平重盛の娘を娶り重盛に仕え、平家と深い関係があったことなどから源頼朝に排斥された甲斐源氏の一流、秋山太郎光朝が鎌倉勢に追い詰められ、ついにはここで自害したとの伝承が残る古代の城址です。

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穂見神社本殿 附棟札二枚

県指定文化財(建造物)
昭和40年8月19日指定
桁行5.10メートル、梁間3.20メートル、棟高9.30メートル、建坪25,91平方メートルの三間社流造の建物です。
銅板葺で乱石積の基壇上に建ち、寛文五年(1665年)信州系大工によって建てられた豪壮なものといえます。

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御崎古墳・御崎神社

市之瀬台地の先端にある御崎神社。
正面には富士を、眼下には甲府盆地を見渡せる絶景の地に佇む神社です。

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牛捕淵(うしとりぶち)

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高尾山林道の中腹、青野集落の下に位置します。
深澤川が高さ15mほどの滝のようになっており、滝つぼも深いことから、村人たちは山から鹿を追いやってこの滝つぼに落として捕獲したという伝説があります。
「うし」とあるのに「鹿」を捕ったということは「カモシカ」をとったいたのではないかという説もあります。
写真はその上部付近で、
淵付近は近年の大規模な崖崩れにより、埋まっており、往時よりも浅い雰囲気となっています。

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高尾道

甲府や竜王方面から、上今諏訪、西野などを経て高尾を結ぶ道。
現在でも高尾街道と呼ばれます。
写真の道標は高尾集落から遠く離れた上今諏訪の地にあり、高尾道の旧道沿いに今もひっそりと佇みます。
右あしくら 左たかお と記されています。


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上宮地道・平岡道

小笠原方面や、秋山・中野方面と高尾集落を結ぶ道で、上宮地区の田頭地区から山道が続いている。
この道沿いにもかつては家々が並んでおり、今ではその名残ともいえる石積みの跡や、庭先と見られる空間が残されている(写真)。

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富士見平(ふじみでえら)

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古道である高尾道から高尾山林道までを結ぶ作業道を下ると、林道上の崖上にたどり着く。見晴らしが良く、正面に富士山を望めることから、この場所を富士見平(ふじみでえら)と呼ぶ。
丁度、富士山の手前にみえる谷地形が逆さ富士のように見えることから
「高尾の逆さ富士」として一部に人気のスポットである
高尾古道再生プロジェクトでは、この付近の林道沿いに石標を設置しているのでこれを目安にしてください。石標横のはしごを上り、道なりに数十mの地点で、鋭角に古道が折れ曲がる角の地点です。眺望をお楽しみください。


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青野集落跡

高尾集落と市之瀬台地とを結ぶ古道、上宮地道・平岡道を下ると、その行程のおおよそ半分で急きょ視界の開ける広い空間が現れる。
ここはかつて青野集落という集落があった場所で、厳密には上宮地(かつての上宮地村)の一部といえる。
現在はその広大な土地を活かし、牧場として活用されている

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山の暮らし

高尾集落は、
穂見神社の神前に広がる集落であるとともに
山と共に生きた集落といえます。

高尾には、魅力ある山の暮らし 魅力ある伝統がありました。
かつては「西を向いて」暮らし、
戦後は「東を向いて」暮らしたと言われるように、
かつては山とともに生き、林業や、炭焼き、天然氷などの生業が行われていました。


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穂見神社神楽殿

市指定文化財
明治24年(1891)の建立で、桁行1間、梁間1間、四面入母屋造の建物で、入母屋(いりもや)の軒には唐破風をつけ、東西南北に四神(朱雀・玄武・白虎・青龍)が彫刻されています。春と秋の例大祭では太太神楽(市指定無形民俗文化財)が奉納されている。

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平岡の柚子

山梨で柚子というと、現在は富士川町の柚子が有名ですが、
かつては、南アルプス市(旧櫛形町)の平岡の柚子が有名だったのです。
甲州盆唄にはこんな歌詞があります

「なんたる江戸の絵描きでも 平岡のゆずのきゃ 絵には描けめぇ」

「ゆずのきゃ」については「木や」もしくは「香」と解釈されていて、柚子の香りに包まれた様子が伺えますね。

今では柚子畑はほとんど見られなくなりましたが、それでも平岡のむらなかを歩くの多くの柚子の木に出会うことができますよ。


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沢登 六角堂

(原方)
 聖徳太子信仰を伝える六角堂建築として貴重であり、堂内には聖徳太子像と太子が信仰した如意輪観音が祀られているとされてきました。
 天正18年(1590年)七ツ内地内の龍沢寺東方にあった堂は、寛文4年(1664年)にこの地に移されましたが、文化4年(1807年)の大火により焼失しました。「西郡沢登六角堂造営奉化帳」によりますと、翌年より再建が計画され、多くの方々の寄進により、文化7年(1810年)大工棟梁田嶋村九兵衛の手により再建されました。


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六角堂の切子

 「切子」は切り紙細工の一種で寛文4年(1664)頃から六角堂の護符として地域に伝えられ(当時に代官に献上していたとする伝承が伝わります)、現在でも10月13日の例祭には六角堂に奉納してできばえを競ったあと、区内全戸にお守りとして配布されます。
 この「切子」は、美濃和紙を5枚~10枚程重ねて、手作りの切り出しや「つきのみ」と言う刃物を使い、図柄や模様などを「切り透かし」ていくまことに繊細な美しいもので、光に透くことから別に「おすかし」とも言われています。


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鋳物師屋遺跡のサル形土製品

鋳物師屋遺跡出土の縄文時代中期(およそ今から5000年ほど前)のサルの顔をした土製品で、国の重要文化財に指定されています。
全国の遺跡(主に本州)から縄文時代のサルの骨などは出土しており、その存在は証明されていますが、サルを模した土製品はそれほど多くはありません。
 また、サルの土製品とされているものでも、サル似の人?のようなものが多く、ここまでリアルにサルを表現しているものは全国でも大変珍しいです。
ほほの下の鳴き袋まで表現されているのです。
右耳は欠損しており、後で復元修復しています。


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小笠原 長清

小笠原氏の始祖。
加賀美遠光の次男として応保二年、三月五日に生まれ、母は和田清盛の娘とも三浦義澄の娘とも言われます。原小笠原荘(南アルプス市小笠原)を拠点とし、小笠原長清と称しました。
「御所庭(ごしょには)」や「的場(まとば)」という地名の残る小笠原小学校付近に館を構えたと考えられています。

兄である秋山光朝とともに在京し、平知盛に家礼として出仕していましたが、平氏追討の令旨には加賀美一族ではいち早く呼応しています。

(写真は開善寺所蔵「加賀美遠光・小笠原長清父子像」)


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高尾の夜祭

穂見神社の秋の例大祭はかつては夜通し行われていたことから「夜祭」とか「夜参り」などと呼ばれてきました。
夜祭は五穀豊穣、養蚕成就、商売繁昌にご利益があるとされ、静岡、長野、新潟などの県外からも多く参詣者が訪れています。始まりは定かではありませんが、遅くとも江戸時代の天明8年(1788)までさかのぼる史料があります。また江戸時代の後期にはすでに県内外の各地からの参詣者で賑わっていたようですよ。

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西吉田の「おあみださん」(阿弥陀尊祭典)

天井の中央から「檀紙」を細く切り延ばした切り紙(紙垂)を放射状に広げ天蓋のようにに吊るします。
この様子からこの天井飾りや、切り紙そのものを「くもの巣」と呼んでいるようで、別名「くもの巣まつり」とも呼ばれています。

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御北穂坂家住宅主屋(国登録文化財)

【国登録文化財】
高尾集落のうちもっとも穂見神社に近い二軒のうちのひとつで、江戸期の絵図に「名主」と記されている家である。
 当家は古くから穂見神社の鍵を保管し、御北(オキタ)と呼ばれ、高尾集落で御の字がついて呼ばれる家は当家とすぐ西に隣接する御西と呼ぶ家だけである。
(画像は県)


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村松家住宅

村松家住宅は、駿信往還に沿った桃園集落の中心に位置する。幕末以前は、名主を務めた名家で、明治維新以降は、医業と商家及び村惣代長百姓として生計をたてた。
主屋は嘉永2(1849)年より以前に存在していたことが判っており、現在までに数回改築、曳家をしている。商家蔵は貸付業開業時の店蔵とされたもの。文庫蔵は主屋背面裏庭空間の構成要素として欠くことのできない存在で、厠は屋敷地の西方に所在した酒造場の蔵人用、また店の客用の外便所で、当家の業務事情の一端を物語る遺構のひとつである。


所在地/南アルプス市桃園615-1
所有者、管理者/個人
指定年月日/平成15年2月26日
備考/主屋、商家蔵、文庫蔵、厠4棟が登録

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宝珠寺木造毘沙門天立像

身を甲冑にかため、右手に宝珠を捧げて鬼形上に立つ。内刳りのある寄木造で、肢体服装に強い動きを示す堂々たる作風である。「宝珠寺二尊縁起」にいう元禄年間の修理が巧みでないのが遺憾である。

所在地/南アルプス市山寺950
所有者、管理者/宝珠寺
指定年月日/昭和51年3月2日
備考/


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本重寺板本尊

縦78.3センチメートル、幅41.1センチメートルで用材は桂である。弘安5年(1282年)に日蓮が日興に与えたものと同じ様式で、正中2年(1325年)に秋山与一光定に日興が与えたものといわれている。


所在地/ 南アルプス市上野347
所有者、管理者/ 本重寺
指定年月日/ 昭和52年11月22日
備考/


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木造野中地蔵菩薩坐像

山寺野中一族の仏神。内刳りのある寄木造で、胡粉地彩色、下地に紙を用いた室町時代の手法で造られ、永正十5年(1517年)開眼後再度補修彩色が施される。像高82センチメートル。胎内に梵字による光明真言等の墨書がある。


所在地/南アルプス市山寺92
所有者、管理者/
指定年月日/昭和52年11月22日
備考/


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木造大日如来及四波羅蜜菩薩坐像

五智如来(ごちにょらい)とよばれていた宝珠寺の五尊は、平成3年に国の重要文化財に指定されるさいに、大日如来(だいにちにょらい)をとりまく四尊の手の結び方特徴があることにより、大日如来及四波羅蜜菩薩像(だいにちにょらいおよびしはらみつぼさつぞう)と呼ばれるようになりました。

四波羅蜜菩薩(しはらみつぼさつ)

金剛波羅蜜菩薩 宝波羅蜜菩薩 法波羅蜜菩薩 羯磨波羅蜜菩薩
金剛波羅蜜菩薩
(こんごうはらみつぼさつ)
宝波羅蜜菩薩
(ほうはらみつぼさつ)
法波羅蜜菩薩
(ほうはらみつぼさつ)
羯磨波羅蜜菩薩
(かつまはらみつぼさつ)


名称/大日如来
所在地/南アルプス市山寺950
所有者、管理者/宝珠寺
指定年月日/平成3年6月15日
材質/木造(檜)
技法/寄木造・彩色(彩色は江戸時代の補修による)
像高/100.4センチメートル
制作年代/平安時代(1090年から1190年頃)
所蔵/宝珠寺(山梨県南アルプス市山寺)
墨書(像内の体部左側にある)/願主金剛佛子勝阿(勝阿につては不明)


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沢登六角堂

聖徳太子信仰を伝える六角堂建築として貴重であり、堂内には聖徳太子像と太子が信仰した如意輪観音が祀られている。
天正18年(1590年)七ツ内地内の龍沢寺当方にあった堂は、寛文4年(1664年)にこの地にうつされたが、文化4年(1807年)の大火により焼失した。翌年より再建が計画され文化7年(1810年)に再建された。
1辺が約3.06メートルの六角平面形を成し、柱も六角柱で造られている。
建物は戦後に一部修理が施されたが江戸後期の数少ない六角堂形式の建造物として貴重なものである。


所在地/南アルプス市沢登663
所有者、管理者/沢登区
指定年月日/平成9年7月30日
備考/


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宗林寺七面明神社本殿

鋳物師屋(いもじや)村の鎮守と言い伝えられ、一間社流造、桁行0.91センチメートル、梁間0.82センチメートル、棟高2.88センチメートルである。各部に濃厚な桃山風の特色の残る江戸初期の建物である。


所在地/南アルプス市下市之瀬240
所有者、管理者/宗林寺
指定年月日/昭和52年11月22日
備考/


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上宮地伝嗣院の大日如来座像

伝嗣院の旧寺領内にあり、御幸道の脇に富士山に向いて建てられている。高さ1.6メートル、幅1.2メートル程である。髪は螺髪で智挙印を結ぶ。右膝部に「寅山代」、像背に「寶永歳」の刻印がある。


所在地/南アルプス市上宮地1408-1
所有者、管理者/伝嗣院
指定年月日/平成元年5月31日
備考/


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上市之瀬八幡神社本殿 1棟 附棟札及び古材

一間社流造の建物で、江戸初期のものとみられる。宝殿地内(上市之瀬1315地先)から現在地に遷されたものといわれ、平成元年原形に忠実な解体修理が行われた。


所在地/南アルプス市上市之瀬1029
所有者、管理者/上市之瀬区
指定年月日/平成2年2月28日
備考/


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諏訪神社の石鳥居

石段の中程にあり、宝永五年(1708年)の銘がある。笠木の上面に一対の竜が彫り出されあり、願い事を呑み込んでくれるとお詣りする人が多かったと言われている。


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所在地/南アルプス市平岡1611
所有者、管理者/平岡区
指定年月日/昭和61年9月1日
備考/

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蔵珠院六地蔵幢

安山岩製で高さ1.75メートル、基礎の一部が埋没している。幢身に応永28年(1421年)の銘、「延命地蔵経」の句節、施主名などが陰刻されている。県内でも数少ない室町中期の遺品である。


所在地/南アルプス市桃園740
所有者、管理者/蔵珠院
指定年月日/昭和52年3月31日


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十五所の甲州囃子

十五所区に伝わり別に長男囃子とも呼ばれ、200年程前に村人が京都の祇園囃子に感じ入って作り出したものである。五つの囃子で構成され、大太鼓・小太鼓・笛などの楽器が用いられ踊りも入る。


所在地/南アルプス市十五所
所有者、管理者/十五所甲州囃子保存会
指定年月日/昭和56年4月1日
備考/

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山寺八幡神社太太神楽

氏子による神楽部によって、例祭4月29日、12月31日(午後11時30分から午前1時30分)頃に奉納される。20数種の舞に応じて面・冠・衣装があり、刀・扇子などの採り物がある。


所在地/南アルプス市山寺
所有者、管理者/山寺八幡神社神楽部
指定年月日/昭和61年9月1日
備考/


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高尾穂見神社太太神楽

氏子による神楽師によって、例祭(11月22日)夜に奉納され夜神楽として有名である。20数種の舞に応じて面・冠・衣装・採り物などがあり、面は24面が保管されている。横笛・鈴などの楽器を用いる。
所在地/南アルプス市高尾485
所有者、管理者/穂見神社神楽会
指定年月日/昭和61年9月1日
備考/

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曲輪田峰村小路の獅子舞

起源は天明年間といわれ、家庭の和と社会平和の護り神として毎年正月14日、15日の道祖神祭の日に舞が行われる。また、娯楽の一つとして道化万才等の余興も演じられる。


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所在地/南アルプス市曲輪田峰村小路
所有者、管理者/曲輪田峰村小路獅子舞保存会
指定年月日/平成3年12月25日

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木造諏訪神社神像

室町時代の特色をよく具えた衣冠束帯姿の簡素な像である。応永十六年(1409年)に本殿建て替えとともに奉納されたもので、「信心大施主藤原吉光与四郎敬白(略)」の墨書がある。


所在地/南アルプス市曲輪田1077
所有者、管理者/諏訪神社
指定年月日/昭和40年5月13日


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穂見神社銅製懸仏

径26.4センチメートル、厚0.3センチメートル、耳口間10センチメートルで2.0センチメートルの突起がある。表面に冠をつけ両手に笏を捧げて台上に座した神像の蹴彫りがあり、「甲斐国八田御牧北鷹尾 天福元年(1233年)云々」の銘がある。


所在地/南アルプス市高尾485
所有者、管理者/穂見神社
指定年月日/昭和40年5月13日

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桜田家鰐口1口

銅製。直径17.2センチメートル、縁厚5.6センチメートル。外帯に「永正二年(1505年)から願主為清敬白。奉主~信州伊那飯嶋郷田切村」の銘がある。桜田家に伝来の由来は不明である。


所在地/南アルプス市下市之瀬872
所有者、管理者/
指定年月日/昭和42年5月29日


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伝嗣院紙本墨書大般若経

各帖縦28.8センチメートル、横10.6センチメートルの折本。大檀那今沢重貞によって奉納されたもので明応十年・文亀元年(共に1501年)の書き付けがのこる。経巻600巻に欠失なく多くの奥書があり、戦国時代の史料としても貴重なものである。


所在地/南アルプス市上宮地1424
所有地、管理者/伝嗣院
指定年月日/昭和40年8月19日


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山寺八幡神社のシラカシ林

神社南西部を中心にして、シラカシの群生がみられる。目通り幹囲3.4メートル、樹高23メートルを筆頭に35本が群生している。暖地性植物カシ林は、盆地周辺が北限で植物分類地理学上貴重である。


所在地/南アルプス市下宮地470
所有者、管理者/山寺八幡神社
指定年月日/昭和54年2月15日


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上市之瀬のイトザクラ

一名シダレザクラともいう。根元の周囲4.4メートル、目通り幹囲3.6メートル、樹高10メートル。枝張りは四方に広がり、特に枝垂れは長く、花色は濃い方で、樹齢約200年。

所在地/南アルプス市上市之瀬1436
所有者、管理者/上市之瀬イトザクラ保存会
指定年月日/昭和51年3月2日


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下市之瀬の獅子舞

享保年間、若者の風紀の乱れを防ぐため、敬神と娯楽を兼ね正月14日の道祖神祭の奉納神楽として始まった。火伏・厄除・悪魔払として舞われ、幕の舞・梵天舞等七種類、女性的な優雅な舞である。


所在地/南アルプス市下市之瀬
所有者、管理者/下市之瀬獅子舞保存会
指定年月日/平成19年4月27日


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宗林寺のイロハモミジ

樹齢300年余。根元の周囲4.9メートル、目通り幹囲2.6メートル、樹高約12メートル。枝張りもよく東西は12メートル以上、秋の紅葉は見事である。


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所在地/南アルプス市下市之瀬240
所有者、管理者/宗林寺
指定年月日/昭和62年12月1日

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平岡のヤシャブシ

標高610メートルの山上に、御神木として保存されている。球果にタンニンを多く含み、この地域では五倍子(フシ)の木と呼ぶ。目通り幹囲3.1メートル、樹高15メートル。枝張りは四方に8メートルあまりの県下まれな巨樹。


所在地/南アルプス市平岡2910
所有者、管理者/平岡区
指定年月日/昭和61年9月1日

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曲輪田諏訪神社のエドヒガン

神社西方の境内樹。地域ではヒガンザクラで通っている。東のモミジと共に農作業の目安として親しまれ、早春の開花は、淡紅色で見事。目通り幹囲2.8メートル、樹高15メートル、枝張りは東西16メートルに及ぶ。

所在地/南アルプス市曲輪田1077-2
所有者、管理者/曲輪田諏訪神社
指定年月日/昭和62年12月1日


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高尾穂見神社の大スギ

社殿前の東に位置する境内一の巨樹で御神木とされてきた。目通り幹囲5.75メートル、根廻6.80メートル、樹高45メートル、枝張り東西25メートル南北20メートル。樹型は直幹、枝張り方錐形の美形である。



所在地/南アルプス市高尾485
所有者、管理者/穂見神社
指定年月日/平成5年11月25日

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中野のカキ

樹齢500年。根元の周囲5.3メートル、目通り幹囲3.5メートル。幹は空洞となり南西部を欠くが復元すれば、4メートル以上の巨木となる。この地方で「エブク」という在来種で、昔の栽培種を知る好資料である。


所在地/南アルプス市中野207
所有者、管理者/
指定年月日/昭和35年11月7日


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宝珠寺のマツ

樹種はクロマツ。根元の周囲4.8メートル、目通り幹囲3.6メートル、地上2メートルの幹囲3.8メートル、枝張りは東へ3メートル、西へ6メートル、北へ7.5メートル、南へ9メートル、樹高15.5メートル。その間、幹枝の屈曲著しく美しい樹形を呈する県下まれな名木。


所在地/南アルプス市山寺950
所有者、管理者/宝珠寺
指定年月日/昭和35年11月7日


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ミヤマシロチョウ

シロチョウ科。白色半透明で、外縁と翅脈にそって黒褐色で裏面は黄色を帯びている。幼虫はメギなどを食べる。本州中部の山岳地帯に分布するが数は少ない。櫛形山の1,000メートルから2,000メートルに生息する。


生息地/櫛形山一帯
指定年月日/昭和52年3月31日


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甲斐源氏秋山光朝ゆかりの城跡を行く (ふるさとメール2009年9月15日号)

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高尾穂見神社の夜祭り (ふるさとメール2009年11月13日号)

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小正月に行われる伝統行事-どんど焼き- (ふるさとメール2010年1月15日号)

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近代和風建築に命を吹き込む(2) ~デイサービスセンタースマイル~(ふるさとメール2013年2月15日号)

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ミクロの世界から見た扇状地の食生活 (ふるさとメール2010年7月15日号)

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野呂川話 ~長い長い水を求めた物語 第一幕 江戸時代~(ふるさとメール2013年8月15日号)

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野呂川話~長い長い水を求めた物語ー第二幕明治時代~(ふるさとメール2013年9月15日号)

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野呂川話~長い長い水を求めた物語ー第三幕大正・昭和時代~(ふるさとメール2013年10月16日号)

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野呂川話 ~長い長い水を求めた物語-第四幕 昭和20-40年代~(ふるさとメール2013年11月15日号)

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元禄赤穂事件と南アルプス市 ~忠臣蔵のもう一つの楽しみ方~(ふるさとメール2013年12月16日号)

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平安時代の信仰(1) ―御勅使川扇状地の観音信仰―(ふるさとメール2014年4月14日号)

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御勅使川扇状地の物語 ~扇状地で培われた西郡魂~ (ふるさとメール2010年12月15日号)

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平安時代の信仰(4)―山懐の秘仏2―(ふるさとメール2014年7月15日号)

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南アルプス市の城館跡(1)椿城の伝説1 ~二人の城主~(ふるさとメール2015年2月16日号)

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縄文の話をしましょう その1~土器の穴ぼこが教えてくれる縄文の食~(ふるさとメール2015年10月15日号)

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縄文の話をしましょう その2~土器の穴ぼこが縄文の醸造説を後押し!~(ふるさとメール2015年11月16日号)

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縄文の話をしましょう その3~来年の干支はサルです 日本を代表する縄文時代のサルのお人形~(ふるさとメール2015年12月15日号)

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縄文の話をしましょう その4~全国の土偶ファンに愛される「子宝の女神 ラヴィ」~縄文ブームふたたび(ふるさとメール2016年1月15日号)

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「根方」の魅力①~その物語を始める前に~ (ふるさとメール2011年1月13日号)

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根方の魅力②~南アルプス市最初の定住者 (ふるさとメール2011年2月14日号)

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根方の魅力③~中畑遺跡が教えてくれる南アルプス市最初の定住生活 (ふるさとメール2011年4月15日号)

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根方の魅力⑤~自然との共生を祈るムラ「北原C遺跡」(前半) (ふるさとメール2011年6月15日号)

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根方の魅力⑥~自然との共生を祈るムラ「北原C遺跡」(後半) (ふるさとメール2011年7月15日号)

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南アルプス市を訪れた人々(1)伊能忠敬 その1(ふるさとメール2016年8月15日号)

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南アルプス市を訪れた人々(2)伊能忠敬 その2(ふるさとメール2016年9月15日号)

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南アルプス市を訪れた人々(3)ローウェンホルスト・ムルデル(ふるさとメール2016年11月15日 号)

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根方の魅力⑦~絶景の地に王は眠る~ (ふるさとメール2011年9月15日号)

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根方の魅力⑧~市之瀬台地の「市之瀬」って? (ふるさとメール2011年10月17日号)

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根方の魅力⑨~高尾穂見神社と村々の祈り(上)(ふるさとメール2011年11月15日号)

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根方の魅力⑩~高尾穂見神社と村々の祈り(下) (ふるさとメール2011年12月15日号)

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根方の魅力⑪~語りつくせぬ魅力の数々 (ふるさとメール2012年1月16日号)

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南アルプス市の小正月~道祖神場のお飾りとどんど焼きの風景~(ふるさとメール2017年1月16日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(1) 櫛形西小学校の取り組みから(ふるさとメール2017年2月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(2) 掘り起こし-育み-伝えるプロジェクト(ふるさとメール2017年3月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(3) 掘り起こすということ(ふるさとメール2017年4月14日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(4) まちをめぐり建て物も掘り起こす(ふるさとメール2017年5月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(5) 正しい価値を掘り起こし、育むサイクル(ふるさとメール2017年6月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載 「〇博(まるはく)」への道(6)歴史資源を共感する(ふるさとメール2017年7月14日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(7・最終回)歴史資源を正しく引き継ぎ、市民全員が語り部であるまちを目指して (ふるさとメール2017年8月15日号)

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高尾穂見神社の夜神楽~櫛形山の中腹で太々神楽のパイオニアがたすきをつなぐ~ (ふるさとメール2017年11月15日号)

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俳人「福田甲子雄」にみる南アルプス市の風土(一) (ふるさとメール2018年3月15日号)

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俳人「福田甲子雄」にみる南アルプス市の風土(二) (ふるさとメール2018年4月13日号)

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つけえば

西地区有名計画のパンフレット(櫛形西小学校6年生作成)

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上市之瀬の道祖神

西地区有名計画のパンフレット(櫛形西小学校6年生作成)

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平岡の諏訪神社

西地区有名計画のパンフレット(櫛形西小学校6年生作成)

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平岡公会堂

西地区有名計画のパンフレット(櫛形西小学校6年生作成)

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下市之瀬の獅子舞

西地区有名計画のパンフレット(櫛形西小学校6年生作成)

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野之瀬の郵便局

西地区有名計画のパンフレット(櫛形西小学校6年生作成)

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西地区の道祖神

西地区有名計画のパンフレット(櫛形西小学校6年生作成)

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櫛形西小学校

西地区有名計画のパンフレット(櫛形西小学校6年生作成)

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上市之瀬 三組道祖神

上市之瀬にある、商店ますやさんの斜め向かいにある
道祖神さん


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塩屋さん

上市之瀬集落は、現在の県道伊奈ヶ湖線に沿って広がっているが、この道は、今から約300年以上前の元禄時代に、集落移転に伴って新たにつくられたもので、道に面して短冊状に敷地が配置された。
その入り口は、妙了寺を避けるようにクランク状の道が配されていた。
この商店はその角に位置しており、現在の店主で3代目になる。
乳牛を飼育したりしながらも、前時代を通して塩を販売しており、「塩屋」と呼ばれる。

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中野の棚田の魅力を発信

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ますや

上市之瀬の集落に60年ほど前からあるお店屋さんで
一番最初に小麦粉のお菓子「ねじりんぼう」と
「よもぎまんじゅう」をつくり今では、お店の看板商品
になっています。

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何気ない街角に歴史あり(その2)樋門(ひもん)の記憶(ふるさとメール2018年6月15日号)

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根方の魅力④~根方を彩る春の風景 (ふるさとメール2011年5月13日号)

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柿 kaki caqui cachi ~世界と日本をつなぐ果実~(ふるさとメール2018年11月15日号)

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江戸時代、御勅使川扇状地の畑作文化(ふるさとメール2010年8月13日号)

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野之瀬大火災

昭和24年4月8日
この日は妙了寺の春祭り
 
午後、催しものの合図で上げた花火の不発花火が竹藪に落下し、
爆発、火災が発生した
強風にあおられ茅葺屋根に引火、
瞬く間に野々瀬集落および近隣地域までに拡大し
大火災となった。

その時の様子を表した野々瀬村火災状況図。
[個人所有]  

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三菱レオ

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中野の棚田

昭和30年代の田植えの様子。

[画像:個人所有]


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幻のオート三輪~人と人がつながり50年ぶりに中野を走る~(ふるさとメール2018年12月14日号)

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小正月の風物詩 下市之瀬の獅子舞(上)(ふるさとメール2019年1月15日号)

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小正月の風物詩 下市之瀬の獅子舞(下)(ふるさとメール2019年2月15日号)

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ウェブサイト「〇博アーカイブ」の発信~地域の歴史資源を掘り起し伝える仕組み~ (ふるさとメール 2019年4月15日号)

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まちの宝箱~「ふるさと文化伝承館」リニューアルオープン~(ふるさとメール5月15日号)

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「相手を思いやる心」を体現するまち~小笠原長清と小笠原流~(ふるさとメール2019年6月14日号)

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市内に広がる祇園信仰(ふるさとメール 2019年7月15日号)

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山梨のお盆と安倍川餅(ふるさとメール2019年8月15日 号)

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南アルプス市妖怪の世界~風土が培う信仰の足跡~(ふるさとメール2019年10月15日号)

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徳島堰開削 350年(ふるさとメール2020年9月15日号)

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国重要文化財 鋳物師屋遺跡の土偶 「子宝の女神 ラヴィ」(ふるさとメール2020.11月16日号)

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国重要文化財 鋳物師屋遺跡の土偶「子宝の女神 ラヴィ」(2)(ふるさとメール2020年12月15日号)

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国重要文化財 鋳物師屋遺跡の土偶「子宝の女神 ラヴィ」(3)(ふるさとメール2020年1月15日号)

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南アルプス市の道祖神さん(ふるさとメール2020年2月15日号)

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時を超えて響く言葉~なにげない日常をつなぐために~(ふるさとメール2021年3月15日号)

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豊村の乾繭場と第二乾繭倉庫

乾繭場(かんけんじょう)とは、養蚕農家から集めた生繭を熱風で乾燥させ、中のさなぎが羽化して出てくる前に刹蛹(さつよう)し、さらに水分を除去することでカビが生えたりするのを防ぎ、長期間の保存に耐えるように処理をする工場のこと。写真はその場内で乾繭倉庫として使われていた豊第二農業倉庫です。

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上今井の天神の井

「天神の井」は、豊村誌と櫛形町誌によると、『別名「七ツ池」とも呼ばれ、昔、天神様が七才の童子の夢枕に立ち、その教えに従って之を掘った。後に天神宮を祀って天神の御手洗となった。この水は旱魃にも涸れることがないと言われる。』と記載されています。

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上今井稚蚕飼育所

南アルプス市内を巡っているコミュニティバスの停留所のひとつに「上今井稚蚕飼育所」があります。

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榊小学校の運動会プログラム

榊小学校は、現在の南アルプス市櫛形地区上宮地に存在した小学校です。明治12年に榊村誕生とともに創設され、明治33年には榊尋常高等小学校となりましたが、昭和33年に小笠原第二小学校とともに統合されて櫛形北小学校ができ、廃校となりました。

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引札(広告主:横内安平)

引札は、江戸時代から大正・昭和時代の初期まで商店や問屋などが広告を印刷にして配布したもので、 新聞広告などの新たなメディアが定着するまでは、広告の花形として用いられていました。 新年のあいさつを兼ねた引札のデザインは、商売繁盛を願ってえびすや大黒などの七福神や福助、 縁起物とされる富士山や松、鶴などが好まれ、当初は江戸時代の多色刷りの浮世絵版画である「錦絵」の技法を取り入れた華やかで美しいものでした。

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市川酒店の祝樽

小笠原の市川酒店さんで昭和時代に使用されていた、一升(1.8l)入りの角樽と二斗(36l)入りの角樽です。どちらもお祝いの席のために誂えられたものです。

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瀬戸地蔵

沢登の龍沢寺には、伝説の男「せとじゅうさん」が瀬戸地蔵として祀られています。

←櫛形町誌(昭和41年刊)の瀬戸地蔵画像。この地蔵は昭和24年12月6日に建立したという。

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野々瀬郵便局

 現在は営業していませんが、櫛形地区上市之瀬にある、道に面した大きなパステルグリーンの観音扉が印象的なその野々瀬郵便局は、形西小学校の向かいに、県道伊奈ヶ湖公園線を挟んで立っています。

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沢登の河野商店

 こちらは、豊村にあったタバコ製造所である河野商店の看板です。
 櫛形地区豊は明治後期から昭和40年代まで蚕糸業が盛んな場所でしたが、明治37年以前は煙草製造と販売が主要な産業でした。
 豊村誌(昭和35年刊)をみると、明治30年代に煙草製造と煙草草・製造煙草の仲買を含む会社が7社記載されており、その中に、明治27年1月創業 職工男女60人を抱えた河野商会の名がありました。当時の代表者名は看板と同じ河野伴右衛門さんですので、資料の看板も明治時代に作られたものであることが判ります。
 また、「河野商店」の名は、同じく豊村誌の昭和33年7月の商業調査においても、煙草小売業リストに記載されています。しかし、この店が、明治27年創業の河野伴右衛門商店の流れを汲む商店であるのかは不明です。

←「KAWANO-SHOTEN 葉煙草売買兼製造業 山梨県中巨摩郡豊村 河野伴右衛門商店」看板

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沢登の齊藤ラジオ店

 多くの人や車が往来する富士川街道沿いで、地域の誰もが見知る街の電気屋さんである「(株)齊藤テレビ」の、昭和20年代末から30年代末までの変遷とアルバム写真データを大まかな年順に整理しました。

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キスカ島で拾った伝単「桐一葉」

 伝単とは、敵の国民や兵士に降伏をうながしたり、戦意を喪失させる意図で、空から撒いたり街に掲示したりする、宣伝謀略用の印刷物(ビラ)のことです。
 この「桐一葉」は、若草地区下今井出身で、太平洋戦争中に陸軍航空本部技手であった志村太郎さんが、太平洋北部のアリューシャン列島にあるキスカ(鳴神)島で拾ったもので、戦場で数多くばらまかれた伝単の中でも、ひときわ芸術性・文学性が高いものです。
 色と形が桐の葉そっくりに作られているだけでなく、当時有名だった歌舞伎の演目「桐一葉」の内容を想起させる格調高い短文を付して、日本兵に軍部の衰退と滅亡を予感させています。

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小笠原の金丸商店

 こちらは、現在整理中の平岡河野家資料にあった、小笠原金丸商店が出した領収書です。
 この領収書を見ると、購入した品名の箇所には、「白土、角又、晒、岩城」などの文字が見えます。

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小笠原の村田屋本舗

 毎年、安藤家住宅のひなまつりで雛人形を展示するたびに、人形が収納されている箱の底に、人形を包んだり、緩衝材としてくしゃくしゃに詰め込まれている包装紙が気になり、ちゃんと広げて記録を取ったところ、その中に、現在も櫛形地区小笠原で営業している和菓子屋さんの、菓子袋と包み紙がありました。

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上宮地のキウイ栽培

 上宮地区内で果樹農家を営む野田家シュンゾウさんにお話を伺い、10月のキウイの収穫中の農園に案内していただきました。目の前に広がる農園を見渡すとたわわに実った、すずなりの「ゴールデンキングキウイ」。「ゴールデンキングキウイ」は黄色い果肉で酸味の少ない最近流行の品種、野田家では今から15年ほど前(平成17年頃)から生産しているそうです。


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原七郷の七種の商物に「塩」?~南アルプス市の名産をたどる~(ふるさとメール2022年2月15日号)

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にしごおりの「糸つむぎ唄」

明治時代に綿産業が盛んだったにしごおりには、「糸つむぎ唄」という労働唄が伝わっています。当時家庭の女性(母親)は日中の家事を終えると、夜な夜な家族が使う衣服などをつくる糸を綿から紡ぐ作業をしていました。そうした夜なべ仕事は、家族団らんのひと時でもあったのではないでしょうか。


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真っ赤な種痘の接種済証

ひときわ目を引く真っ赤な紙。大正時代初期に行われた種痘(天然痘の)の接種済証です。
2期に分けて行われていた接種のうち、1期目の際に渡された証書はこんなに鮮やかな赤色だったようです。2期目は白い紙だったようですけれど、この1期目接種済証の真っ赤な色づかいが、江戸時代から続く疱瘡除けの習俗を彷彿とさせます。


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西野小学校榊小大正15年の運動会プログラム

大正5年の櫛形地区榊小学校運動会プログラムと大正15年の西野小学校運動会プログラム。昭和50年代くらいまでは10月10日、スポーツの日前後が多かったようです。


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各地を旅する舟乗り地蔵さん

南アルプス市甲西地区湯沢にある、お舟に乗ったお地蔵様。
こちらの「湯沢の舟乗り地蔵」については、平成7年に中巨摩郡文化協会連合会郷土研究部が発行した「中巨摩の石造文化財」にも取り上げられていて、そこには『安山岩製で高さ88cm、舟の長さ85cmで、水難守護・諸病平癒と祈願した。昔、旅をする時に、この地蔵にお参りして出発した』と記されています。
造立年は、舟の側面に銘があり、『享保四已亥年中 セ主湯沢村 塚原村』と記されています(岡野秀典氏『山梨県の岩船地蔵』 1999  山梨県考古学論集Ⅳ 山梨県考古学協会より)。このような御舟に乗ったお地蔵様は、「岩船地蔵」と呼ばれることも多く、享保四年(1719)造立のものが大多数です。岩船地蔵の造立は、享保四年に関東地方西部から中部地方東部にかけて流行した岩船地蔵信仰に由来するからです。


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防火水槽を跨ぐ火の見櫓

日本全国のどこにでも存在する火の見櫓(ひのみやぐら)は、各地域の住民たち自らが建てた防災施設の一つです。
江戸時代以前の古くから見張り台としての目的をもっていました。火災などの災害の早期発見をし、その上部に備え付けられた鐘を鳴らすことで地域に差し迫った危険を知らせたり、消防団員を招集するのに使用されてきたわけです。
地域の持ち物として、コミュニティの中心場にあることの多い火の見櫓は、まち歩きの際の重要なチェックポイントであるとともに、集落を象徴する景観の中に溶け込み一体化していることが多くあります。(甲西地区清水の火の見櫓※防火水槽上)
南アルプス市内にもたくさんの火の見櫓が点在しています。おそらくどれも昭和20~40年代に建てられ、使用されてきた火の見櫓がほとんどかと思われます。


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上宮地産キウイの選別から箱詰め

キウイは収穫作業後、選別・出荷作業へと入ります。こちらは集荷したばかりのキウイを重さで選別する機械です。収穫したばかりのキウイを一つづつチェックしながら、選別機の皿にのせていきます。


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菅原道真公と天神様

もともと天神様は、農耕に必要な雨と水をもたらす雷神として、農民の信仰を集めていました。その後、不遇のまま死亡した菅原道真の怨霊が雷神になったとする御霊信仰と結びつき、学問に秀でていた菅原道真公を祀った天神社は学問の神としての信仰を集めるようにもなりました。菅原道真公の信徳をたたえた天神講も庶民に広く行われるようになったそうです。南アルプス市内にも多くの天神社が存在します。

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地方病とたたかうポスター

「地方病とたたかうポスター」をご覧にいただきたいと思います。山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。
山梨県が製作したこの地方病予防広報・啓発ポスターを見出し部分から読んでみますと、『三百余年前から蝕ばまれ悩まされ続けて来た地方病 今こそ完全撲滅の絶好の機会!!県政の重大施策としてとりあげてここに三年、有病地の指定解除、宮入貝の減少、患者の著減等々成果は上々である。 この好期をおいていつの世に根絶することができよう、みんなで力を併せて一挙に駆逐するよう今一段の努力をいたしましょう。』とあります。
このポスターには製作年が記載されていないのですが、見出しの文面と、「現在実施している予防対策」の項にPCBという薬剤によるミヤイリガイの刹貝と、コンクリート溝梁化工事に年間一億のお金をかけている」といった文言があること、当該資料の含まれる資料群全体の年代構成からかんがみて、この地方病対策ポスターは、だいたい昭和30年代中頃に作られたものではないかと考えています。


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西郡の呉服屋さんで買えた雛人形

雛人形が入っている箱に地元の呉服屋さんの名前が記されていることがあります。当時の呉服店は、節句人形の販売代理店としての機能も担っていたようで、西郡地域の人々が飾ったお人形は甲府の雛問屋で作られたものに加え、鰍沢の春木屋などの商家を経由して入ってくる駿河で製作された人形も多く流通していたと考えられます。明治大正期に昭和初期頃の西郡の人々が人形を求めるときには、
① 甲府の雛問屋か鰍沢の商家に買いに行く。
② 甲府の雛問屋から「ひなんどー、ひなんどー」との掛け声で、安価な横沢雛を籠に担いでやってくる売子から買う。
③ 初節句の晴れ着などを購入するのに合わせて、近所の呉服屋で売っている人形を買う。
の3つの購入方法があったのだと思います。


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地方病と溝渠のコンクリート化

山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。この病を克服する作戦が本格的にはじまって、100年以上もかかったのです。


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南アルプス市の縄文人は、いつ、どこに?(ふるさとメール2022年4月15日号)

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徳島堰ウォーク#1 頭首工(取水口)~小水力発電施設

徳島堰は、韮崎市上円井の釜無川から取水し、南アルプス市曲輪田新田まで伸びる役17kmのかんがい用水路です。寛文5年(1665)、江戸深川の町人徳嶋兵左衛門が甲府藩の許可を得て工事に着手し、寛文7年には曲輪田の大輪沢(堰尻川)まで通水したといわれています。
それから昭和40年代に釜無川右岸土地改良事業によってコンクリート化され、「原七郷はお月夜でも焼ける」といわれた御勅使川扇状地扇央部の常襲干ばつ地域にスプリンクラー網が整備されるまで、開削から300年の間に大雨による埋没など度重なる逆境乗り越え、現在の徳島堰の形となりました。
そんな南アルプス市の豊かな田園や果樹園の景観を守り続けてきた徳島堰ですが、実際どのようにして取水され、どんな旅路を経て私たちの暮らす南アルプス市までその水がやってくるのでしょうか!?今回はそんな徳島堰を流れる水の旅路を追ってご紹介していきます!


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徳島堰ウォーク#2 入戸野バス停~旧樋口村八峰

堰沿いにある入戸野バス停
3つの発電所で大役を終えた徳島堰の水たち。そこからもう少し下流、入戸野沢との立体交差地点に差し掛かると丁度辺りは入戸野地区の集落となります。入戸野沢が水路橋で徳島堰を渡っているすぐ先。堰沿いには石造物とバス停、また集落中心地のシンボルである火の見櫓が並んで現れます。入戸野の町並みと徳島堰の変遷を見守ってきたであろう石造物の背面を流れる徳島堰。堰沿いの民家を見てみると、庭から堰の水面まで降りてこられるよう「つけえばた(洗い場)」が造られている箇所も多く、この徳島堰が集落の生活にいかに根ざし、溶け込んでいるかが伺える場所です。


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徳島堰ウォーク#3 竪沢暗渠~甘利沢暗渠

竪沢暗渠
大難所を乗り越えここらでひと息・・・とは行かないのがタフな徳島堰です!清哲町水上に入ってすぐに、また大きなカーブと描きながら竪沢暗渠へと突入していきます!今はほとんど水の流れが見えない竪沢、その上流に向かって大きく湾曲していくこの光景は確か前にもどこかで見たような・・・。そう、戸沢暗渠と同じような手法を駆使して沢を乗り越えていると考えられますね!


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徳島堰ウォーク#4 大門沢暗渠~御勅使川暗渠出口

大門沢暗渠
旭町上条南割まで指しかかった徳島堰。もう少しで南アルプス市!と言うところで韮崎市区間最後の暗渠が現れます。山梨県指定の一級河川大門沢を潜る大門沢暗渠。大門沢はほんの少しだけ水の流れがある程度の水無川で、周辺の民家などと見比べると天井川化しています。この大門沢暗渠を越えた向こう側にはいよいよ私たちの南アルプス市が見えてきます!徳島堰の水たちもラストスパートです!


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徳島堰ウォーク#5 釜無川右岸第一調整池~徳島堰を跨ぐ掛樋

釜無川右岸第一調整池
徳島堰本体から分水された水たちがようやく辿り付くのは「畑地かんがい調整池」の通称第一調整池です。この調整地から南アルプス市扇状地の地下にはり巡らされたパイプラインを通って果樹園のスプリンクラーへと水が送られていきます!開削から約300年、「南アルプス市を潤す」かんがい用水路として悲願の任務達成となったのです!長い旅路を経てここまでたどり着いた徳島堰。でも皆さん、徳島堰はまだ続いているのを忘れてはいけませんよ!


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徳島堰ウォーク#6 釜無川右岸第二調整池~徳島堰流末地点

釜無川右岸第二調整池
南アルプス市飯野新田地区に入った徳島堰は最後の任務に向けて第二調整池へ分水をしていきます!しかしよく見ると調整池といっているのに溜まっている水の姿が見えないどころか、一面綺麗に整地されたグランドになってしまってるのは一体!?・・。実は第二調整地はこのグランドの地下に貯水のタンクが作られており、グランド自体は地域の人たちへ無料で開放しているとのこと。どこまでも地域想いで太っ腹な徳島堰!この調整ここでも貯められた水たちは地下パイプライン網を通ってスプリンクラーへと送られていきます。頭首工からここまで約16kmの旅路の中幾度となく難所を乗り越えながら、髄所で取水の任務を果たしてきた徳島堰。最後の大役を無事勤め上げてそのエンディングへと進んでいきます!


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鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏 その3(ふるさとメール2022年6月15日号)

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山梨最古の桃とブドウは南アルプス市から~遺跡から見つかる果実~

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忘れたくない記憶~豊村満州開拓団集団自決

 昭和二十年 (一九四五) 八月十七日、 豊村満州開拓団本部で開拓団幹部ら百四十人あまりが爆死した悲劇がありました。
 かつて原七郷と呼ばれた干ばつ地帯にあって、 養蚕と畑作を主な生業とする零細な農村であった豊村 (現在の南アルプス市上今井、 沢登、 十五所、 吉田) が、 新天地を求め国の政策によって、 旧満州国 (現在の中国東北部) の四道河 (しどうが、 スードーホー)と呼ばれる場所に、 分村入植した歴史があります。
 昭和十五年 (一九四〇) 二月に先遣隊が出発し、昭和十七年 (一九四二)四月に本隊が入植、 記録によれば、 その規模は、 開戦時五十五戸、 百六十五人だったと伝えられています。 その後も入植は続き、 終戦時には、 より多くの人が豊村開拓団に暮らしていたことでしょう。
 事件は、 終戦直後に起こりました。 昭和二十年には戦局は悪化の一途をたどり、 八月十五日、 ついに日本は無条件降伏をすることになります。 このころには、 旧ソ連も満州に侵攻してきており、 開拓団にも終戦の報は届いていましたが、 他との通信連絡は途絶し、 周辺の治安は極度に悪化していたといわれます。
 このような中、 開拓団は度重なる 「土匪」の襲来を受けたといわれ、 応戦しましたが、戦死者もでていました。 弾薬が尽き、 負傷者も増え、 戦力も著しく低下し、 これ以上の交戦は無謀であるし、 重軽傷者を同道しての脱出は不可能であるとして、 追い詰められ孤立した人々は、 自決することに決したのです。 八月十七日、 村人の大部分にあたる百四十名あまりが、 本部建物に集合して防戦用に支給されていたダイナマイトに火をつけ爆死したと伝えられています。 その中には、 一歳に満たない乳児から、 七十歳を超える老人までいたそうです
 集団自決の報は、 大やけどを負いながら生き延びた方が、 同胞のいる収容所にたどり着き、 悲劇を伝えて息絶えたことにより、今日に伝えられることになりました。 また自決からのただひとりの生存者であった女児は、 中国人の養父母に引き取られ、 いわゆる中国残留日本人孤児となって、 戦後長く故郷の土を踏むことができませんでした。
 昭和三十二年 (一九五七) には、 この事件の慰霊碑が吉田の諏訪神社境内に建立され、その悲劇を今に伝えています。 そして現在も、 事件のあった八月十七日には、 毎年ここで慰霊祭が行われています。
 アジア太平洋戦争では、 戦場で亡くなった方以外にも、 このように民間人も数多く亡くなっていることを忘れてはいけません。 この事件は、 民間人も戦争になれば否応なく巻き込まれていくことを我々に教えてくれています。


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南アルプスブルーの響き~市民が結ぶ藍染新資料との出会い~(ふるさとメール2022年8月12日号)

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にしごおりの人も愛した甲府の雛問屋「松榮斎 松米」

甲府の雛問屋「松米」の引札
甲府の雛問屋「松米」は、江戸時代中期から昭和戦前まで甲府で雛人形や端午の節句飾り、だるまなどを製作して販売した「松城屋」という屋号の雛問屋です。初代から明治の10年代以前は店の通称を「松伝」と名乗っていました。(写真は「松米」の引札『美術 雛人形 ?ニ雛道具各種 甲府八日町 松榮斎松米商店 電話四十六 振替二百三十二番』)
江戸時代から明治、大正・昭和期に存在した甲府の雛問屋は「おかぶと(カナカンブツ)」「横沢びな」「甲州ダルマ」といった独特の在地の節句飾りや雛、玩具を生み出してきました。
 「松伝」・「松米」という通称を持った「松城屋」の店の場所については、江戸中期の初代より甲府横沢町にありましたが、明治期に入って、火事によりいったん柳町一丁目に移転。その後、明治5年から16年の間に代替わりして「松米」と改称し、三日町一丁目九番地に出店。さらに、明治24年頃には八日町一丁目に移転したという経緯が判っています。


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関屋のさくらまつりのチラシ

昭和40年代中頃に、関屋(せきや)という場所でおこなわれた「さくらまつり」のチラシをご覧ください。
関屋のさくらまつりのチラシ[昭和40年代(南アルプス市文化財課蔵)]


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野牛島要助さんが日記に書いた天保騒動

8月24日は今から186年前の天保7年(1836年)、山梨県では天保騒動という大規模な騒乱のさ中で、ちょうど現在の南アルプス市域が被害をこうむった日です。
天保騒動は、江戸時代後期の天保7年(1836)8月17日に郡内白野村での百姓一揆からはじまった騒動です。しかし、山梨郡熊野堂村の米穀商打ちこわしという当初の目的を果たした郡内の百姓たちが帰村した8月22日頃になると、騒動に乗じて参加した無宿人らが暴徒化して、大規模な強盗集団となり、国中(甲府盆地内部の村々)を暴れまわって、甲州の人々を恐怖に陥れました。
八田地区野牛島中島家文書の中に、要助さんという当時名主を務めた人物の日記帳があります。
(八田地区野牛島中島家文書「去申用気帳」)


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桝形堤防史跡整備の歩み その1~水の世紀を生きる道標~(ふるさとメール2022年9月15日号)

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枡形堤防史跡整備の歩み その2 ~水の世紀を生きる道標~(ふるさとメール2022年10月17日号)

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桝形堤防史跡整備への歩み その3 ~水の世紀を生きる道標(ふるさとメール2022年11月15日号)

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桝形堤防史跡整備の歩み その4 ともに創る史跡整備 ~水の世紀を生きる道標~(ふるさとメール2022年12月15日号)

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柿の野売り籠

「柿の野売り籠」は南アルプス市の果物産業史における重要なキーアイテムです。この資料の大きさは、口径41cm・底径45cm・高さ43cm。にしごおりの人々が、渋抜きした柿を入れ、担いで売り歩いた際に使用しました。籠の内部は、柿の渋が染みて黒くなっています。
 大正時代のはじめまでは、秋になると、渋抜きした柿を籠に入れて担いで、釜無川や笛吹川を渡って行商に出たにしごおりの人々。稲刈りをしているところに行って、柿を売ったり、籾と交換することで、生活を支えていました。
[展示された柿の野売り籠(天秤棒なし)十五所澤登家より寄贈・南アルプス市文化財課所蔵]


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戦争と摺り版(果実出荷木箱印字用金型)

南アルプス市文化財課でで20点以上収蔵している「摺り版(すりばん)[果実出荷木箱印字用金型]」。


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桝形堤防史跡整備の歩み その5 ~水の世紀を生きる道標~(ふるさとメール2023年1月16日号)

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『せんごく』と呼んでいた唐箕(とうみ)

[2023年2月開催の南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「ナニコレ!昔の道具」展における稲作の道具エリアの一部]
鎌(稲刈り) → 扱箸・千歯扱き・足踏み回転脱穀機(脱穀) → 唐箕(地域名:せんごく)(藁くずと選別) → 摺臼(地域名:するす)(もみすり) → 唐箕(地域名:せんごく)・万石通し(籾殻と選別) → 搗臼(精米) → 万石通し・ふるい(糠と選別) → 白米

稲刈りしてから白いお米になるまでに、想像した以上にいくつもの工程と道具が必要であることに驚きます。

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10円切手で声の便りを(昭和の第5種郵便)

こちらは市民の方から寄贈していただいた8ミリ映写機とテープのセット一式です。


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にしごおり果物の軌跡は「柿の野売り」による行商活動からはじまった

022年12月まで開催していた南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「にしごおり果物のキセキ」で展示されていた古文書、『菓もの類野うり免許状』2点、『曝柿直売免許状』1点、『原七郷議定書之事』をご紹介します。これらの古文書を読み解くと、にしごおり果物の軌跡が「柿の野売り」による行商活動からはじまっていることがわかります。
古来より、砂、砂利、礫、粘土に覆われたにしごおりの原七郷では、その恵まれない自然条件下によるギリギリの土地利用のなかで、最大限の効果を挙げようと努力する人々の姿がありました。柿などの作物を加工したり、売る時期をずらすなどして、商品価値を高め、農閑期に村外まで売り歩く行商によって、村の生産力以上の人口を維持してきたのです。南アルプス市域で最も古くから盛んに作られた果物は、この行商用商品として加工するための柿でした。

古文献にも、西郡(にしごおり)の柿についての記述は見られ、

「裏見寒話巻之四」1754年宝暦4年 野田成方 「甲斐志料集成三 地理部2」昭和8年 甲斐志料刊行会・大和屋書店に収録の
甲斐料集成P226には『西郡晒柿 渋柿を藁灰にて晒して売る。此処は田畑なく、柿を売る事を免許されしといふ。』
甲斐料集成P229には『晒柿 渋柿を藁汁にて製して晒す。佳味也。西郡原方より出づ。』とあります。これらの記述から、にしごおりの人々が売り歩いた柿は渋柿を加工したもので、「晒柿(さわしがき・さらしがき)」と称されていたことがわかります。

 行商の商品として「にしごおり果物」を生産したことは、明治以降に当地で勃興するフルーツ産業に、様々なプラス作用を及ぼしました。商機があればどこにでも出かけていく、風の如く機敏なフットワークと開拓心によって磨かれた、にしごおり行商人たちの経済観念の強さは、市場の動向にもまた機敏な果物栽培を初期段階から実現し、現在の南アルプス市における独創的なフルーツ産業の在り方へとつながっています。
[南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「にしごおり果物のキセキ」より、柿売人に関する文献の展示コーナー]


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消防団の古写真

消防団の前身は江戸時代の「町火消」だといわれていますが、明治時代の半ばを過ぎると、消防組織の費用は地域で負担する上で、都道府県知事の管轄下のもとに置かれるようになり、大正時代には地域ごとの消防組の設立が飛躍的に進んでいきました。
[大正9年2月8日豊消防組第四部金馬簾樹立紀念(南アルプス市文化財課所蔵)]

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ハエ捕り棒とハエ捕り瓶とハイトリック

 令和5年6月21日(水)まで開催しておりますテーマ展「ナニコレ!昔の道具」展に展示中の「ハエ捕り瓶」と「ハエ捕り棒」「ハイトリック」について、ご紹介したいと思います。
[展示中のハエ捕り棒とハエ取り瓶]


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野売免許状の龍朱印

 こちらは「菓もの類野うり免許状」とよばれる文書です。信玄が出したものと云われ、天文10年(1541)8月と記され、龍をかたどった印、龍朱印が押されています。
 このような文書の類は、甲州の西郡(にしごおり)と呼ばれる地域(現在の南アルプス市市域)で武田信玄の野売免許状としてたびたび報告されてきた御朱印状です。文献等で報告されたものを数え上げると、これまでに市内で9点ほど見つかっています。しかし、残念ながらこれらの朱印状は信玄の活躍中に出されたものではなく、文化6年(1809)10月以降に作られ流布したものであるとの学術的判断がされています
[「菓もの類野うり免許状 十五所澤登家所蔵」 天文10年8月]


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昭和37年竣工の櫛形西小プールは、棚田view!盆地view!富士山view?

 昭和37年に櫛形西小に竣工したプールの画像をご覧ください。盆地を見下ろす市之瀬台地上に昭和時代30~40年代に存在したこのプールサイドからは、棚田(畑)をまとった丘(六科山)がヌーッと横たわり、その切れ目から遠くに甲府盆地の市街地を一望することができました。そしてさらに東南の方向には、盆地越しの富士山も見ることができたと思われます。
まさに、棚田view!盆地view!富士山view!!
[「昭和37年6月櫛形西小プール竣工記念」(中野山王家画像資料より)]

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背守り

 生後1カ月を過ぎると、このような祝着を赤ちゃんに着せてお宮参りを行いますが、その後もまだまだ7歳くらいになるまで些細なことで死亡してしまうことの多かった魂の安定しない子供の命は、神の手の内にあるといわれてきました。「七歳までは神のうち」という言葉にあるとおりです。
[「背守りのある子どもの祝着」西野芦澤家資料 南アルプス市文化財課蔵]


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かをりよき千代花香油

こちらは、「昭和初期から40年代位までの女性が使っていたヘアオイルを小売りする際に、店頭に置いていた容器」です。
[「かをりよき 千代花香油 東京千代田香油本舗」 130×395×230(mm)]


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豊村から旅立つ満蒙開拓青少年義勇軍

 昭和時代の戦争時に中国大陸に渡る少年たちを撮影した写真をご紹介します。昭和7年から20年の太平洋戦争敗戦までの14年間に27万人もの日本人が、中国大陸に渡りました。昭和恐慌で疲弊した農民を移民によって救済することが第一目的でしたが、同時に、満州国を維持し、ソ連との国境地帯を防衛する意図もありました。
こちらは、いまから80年ほど前に撮影され満蒙開拓少年義勇軍の壮行写真です。満蒙開拓青少年義勇軍は、中国大陸に日本人を移民させる日本政府の国策が推進される中、成人だけでは足りなくなった満州への移民を補う目的で政府が発足させた制度です。彼らは「鍬(くわ)の戦士」とよばれたそうです。
[古市場杉田家所蔵]


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満州開拓女子奉仕隊と豊村分村開拓団

[「県庁前での豊村第一次満州開拓団女子奉仕隊の壮行会」(西野池之端中込家蔵:真ん中に立つ団長であった中込ちか氏は、白根地区西野池之端で喜久屋商店経営中込家の人でした。この画像はそのお孫さんに当たる方からご提供いただいたものです。)]


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「スパイ御用心」戦争中の燐寸(マッチ)

 昭和時代に生活必需品だったマッチを収蔵資料の中からご覧いただきます。
[「スパイ御用心 書類手紙御用心 職場乗物御用 防諜」 二等品 志摩燐寸製造所(南アルプス市文化財課蔵)]


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奉公袋を持つ出征兵とその家族

 昭和時代の戦争に関する資料のひとつ、奉公袋をご紹介したいと思います。まずは、櫛形地区上今井で今から80年ほど前に撮影された出征の時の家族写真をご覧ください。
[出征記念の写真:中央の出征兵は奉公袋を抱えている。(上今井五味家資料 南アルプス市文化財課蔵)]


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戦時の女性たち(大日本国防婦人会と防火訓練)

 こちらは「大日本国防婦人会」の襷(たすき)やこの白い襷をかけた女性たちの記念写真です。
[「モンペに割烹着、大日本国防婦人会の白襷をかけた西野村功刀の婦人たち(昭和15年頃)」(西野功刀幹浩家・南アルプス市文化財課蔵)]


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南プスの岩船地蔵さんめぐり

芦安地区で大切に祀られている「お船地蔵さん」は、立派な木堂の中で他の石造物とともに赤い頭巾と前掛けをつけています。お堂前の急な階段を上って一番右端、前掛けの布の下をよく見ると、一躰だけ御舟の上にある蓮座に立っているので、すぐにわかります。「お船地蔵さん」の脇には丸石も置かれていて、この地蔵堂は甲州伝統の丸石信仰も見ることができます。
[1芦安地区芦倉237「お船地蔵さん」(令和5年12月14日撮影)]


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