甲西地区の西端にそびえる雨鳴山。この尾根上に今から800年ほど前に活躍した甲斐源氏、秋山光朝ゆかりの山城「雨鳴城」はあります。
秋山光朝は、若草地区加賀美に居を構えた加賀美遠光の長男で、同じく遠光の子、小笠原長清の兄にあたります。光朝自身は現在の甲西地区秋山を拠点とし、現在の秋山熊野神社がその館跡だったといわれています。雨鳴城はその館の西側にせまる雨鳴山の尾根上にあり、さらに奥の城山山頂にある「中野城」とともに、有事の際に立て篭もるための城だったといわれています。
実際に、鎌倉幕府ができる過程で、初代将軍となる源頼朝は甲斐源氏の強大な勢力を警戒し、自らの基盤を固めるため、甲斐源氏の有力武将を次々と失脚させますが、光朝もまた平家との関係が深かったことなどを理由に、鎌倉方に攻められ、雨鳴城もしくはその後背に構えた中野城に追い詰められて自害したと伝えられます。
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加賀美遠光の長子としてうまれ、成長して南アルプス市秋山に拠点を構え、「秋山」の姓を名乗ったとされます。
「吾妻鏡」によれば、治承・寿永の内乱以降は、弟の長清と共に京で平清盛の四男に仕えており後世の資料の「甲斐国志」では清盛の嫡男 重盛の娘を娶ったと伝えられるなど、平氏政権の一翼を担っていたと考えられます。
こうした状況からか、治承四年(一一八〇)の頼朝挙兵時に長清が比較的早く京を離れ頼朝と合流したのに対し、光朝は京に留まり、是が後に頼朝から疎まれる要因となったと言われています。
文治元年(一一八五)に頼朝が弟の範頼に出した手紙には「光朝は、平家につき、又木曽に付きて、心不善につかいたりし人にて候えば、所知など奉るべきには及ばぬ人」と厳しく評されています。
この後の光朝の動向や没年などはわかっていません。
本像は椅子上に座禅を組む姿勢をとり、法衣を垂下させている。
坐高82.5センチメートル、材質は桧材を用いた寄木造、挿首、玉眼をはめ込み黒漆塗りが施され、頭頂はとがり、細面の容貌やなで肩など国師の特徴をよくふまえている。穏やかな表情でありながら、禅僧としての気構えや峻厳なまなざしに気迫さえ感じる。天保7年(1836年)に加修の銘札が胎内に納められている。
天保七丙申六月日
此尊像経幾百星故漸々破壊
雖奉恐不忍拝見欽奉加修利者也
慎仙庵謹誌之
名称/木造夢窓国師坐像
所在地/南アルプス市鮎沢505
所有者、管理者/古長禅寺
指定年月日/昭和58年6月6日
備考/1357(延文2年)
神部神社は大物主命を祭神とし、「延喜式神名帳」に記載された巨摩郡五座のなかのひとつである。
毎年3月第1日曜日に(往古は2月2日)に行われる曳舟祭は、大和国からご神体を奉遷した古事にならってその様子を再現している。神主が数本の矢を放ち悪魔を祓い、諸々の贖罪、五穀豊穣、天下奉平を祈願する。神事において、木舟を神主、氏子らが引くというのは、恐らく当時の運搬手段のひとつとして、木舟を用いて内陸まで出入りしていた様子を演出しているものと考えられ、当時の交通運搬や文化流入を知るうえで貴重である。古代における神の遷座の状況を神事として残す祭祀は類例を見ない。
所在地/南アルプス市下宮地563
所有者、管理者/神部神社
指定年月日/平成6年6月28日
この経塚の遺品は慶安年間(1648年から1652年)に秋山熊野神社境内より発見されたと伝えられている。光朝は甲斐源氏加々美遠光の長男、経筒銘にある光経は光朝の弟で、遠光の四男である。本経筒は銘文に建久8年(1198年)の年号があり、鎌倉初期の経塚造営の状況を知るのに貴重な資料となっている。
経筒には次の銘文が刻まれている。
信心大施主…源朝臣光経
芳縁源氏…所生愛子等
現在悲母…禅定此丘尼
建久八年十月十一日
出土品には宝珠型のつまみのついた蓋が2点、短刀3口、陶製の壺1点がある。
所在地/南アルプス市秋山596
所有者、管理者/個人
指定年月日/昭和47年1月27日
西南湖にある重要文化財安藤家住宅で行われる「安藤家住宅ひなまつり」では、貴重な横沢雛が飾られます。
甲州で明治大正期に多く作られた横沢雛には童子をモデルとした人形が一番多いのですが、他に、成人女性や男性、妊婦、長生きの象徴としての老夫婦、七福神などの神様などモチーフに多くのバリエーションがあります。
その中でも、ひときわ異質なのが、赤い髪の中国の伝説の妖怪、猩々(しょうじょう)のお人形がです。
猩々は、能の演目にも真っ赤な装束で登場する中国の伝説上の生き物のことで、赤毛で人間のような容姿をしており、酒を好むとされます。
また、赤いものを嫌う疱瘡神を追い払うという伝承もあり、子供の健やかな成長を願って送られたものと思われます。
この足袋型紙は戦時中に、蚕の種紙で作られたものです。
この足袋型紙は戦時中に使われたもので、蚕の種紙が再利用されています。
戦時中は物資不足であることから、足袋は各家庭の手作りであり、その型紙を再利用紙でつくるのは、当然のことだったと思われます。
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稚蚕飼育所(ちさんしいくじょ)とは、養蚕における、稚蚕期の飼育のために造られた建物のことです。蚕は孵化直後の稚蚕期の飼育が最も難しいため、昭和20年代以降は集落ごとに24時間管理で稚蚕を飼育するための共同施設が多く建設されました。
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こちらは大正時代の大井村(現甲西地区古市場)にあった茶舗麻野屋の茶銘柄定価表です。
日本三大銘茶といわれる宇治茶・狭山茶・静岡茶の各種銘柄が並んでいます。宇治茶と狭山茶は一斤(600グラム)、粉茶の川根茶(静岡茶)は百目(375グラム)の値段が掲載されています。
この他、このチラシをよくみると、麻野屋では醤油も売っていたことも分かります。
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「甲西町の今むかし」という1995年に甲西町文化協会が発行した冊子の中にある、「風邪治しの神様として信仰された大きな岩」で、地域の人たちから「おしゃぶきさん」と呼ばれた岩があります。
『その昔、悪い風邪が流行って塚原村の人々が苦しんでいると、働き者のおじいさんの夢に、お姫様が現れました。そして、「西の山の中腹にある大きな岩の前に葱が植えてあるの。それを持ってきて煎じて飲んでみてごらんなさい。 私の来たしるしに、岩の上に足跡を残しておくから。願い事のある時は、その足跡を小石でたたきながら祈ってね!」というような、お告げがあったそうです。
翌朝、おじいさんが西の小高い山に登ってみると、はたして、葱の植わった大きな岩があり、足跡もありました。 そこで、夢のお告げにあったように小石でたたいてみると、木履(ポックリ)をやさしくたたいた時のようにぽこぽこと響いたのだとか。
おじいさんは風邪が治りますようにとお祈りして、葱を持って帰って煎じて飲んでみると、三日ばかりで長く苦しんでいた風邪が良くなったので、葱を倍にしてお返ししたそうな。
このことがだんだん広まり、お祈りする人が多くなったので、塚原村の人々は相談して岩の上に祠を立て、岩を岩永姫(いわながひめ)の化身と信じ、秋には感謝の祭りを行っていたそうです。(「甲西町の今昔」しゃぶきばあさんの項より〇博調査員の要約)』
南アルプス市は市域西部が急峻な山々に占められ、そこから発する河川が市の南東部に集まるため、市の南東部に位置する甲西地区は、上流から流されてきた砂礫の堆積により、いくつもの天井川が連なる土地となりました。年々河床が上がるたびにどんどん高さの増していく堤防は、甲西地区を行き交う人々、特に滝沢川の両岸にある集落(田島・西南湖・和泉)に住む人たちにとって、田畑に往き来したり、駿信往還に出たりするのにも、家の屋根より高い所を流れる川の土手を登ったり降りたりして越えなければならず、たいへん大きな障壁でした。
そこで、昭和時代に入ると、滝沢川の河床の下に、トンネルを掘って道を通す工事が3か所で行われました。かつて「田島隧道(ずいどう)」「南湖隧道」「和泉隧道」という3つのトンネルが、昭和時代に滝沢川の下を通っていました。
その後、これら3つのトンネルは、昭和46年より行われた滝沢川の天井川を完全に解消する大改修事業によって、川の河床がだいぶ低くなったために廃止されました。現在では、滝沢川にトンネルの跡形は何もなく、同じ場所に川の上を渡る「田島橋」「南湖橋」「和泉橋」が設置されています。
南アルプス市甲西地区湯沢にある、お舟に乗ったお地蔵様。
こちらの「湯沢の舟乗り地蔵」については、平成7年に中巨摩郡文化協会連合会郷土研究部が発行した「中巨摩の石造文化財」にも取り上げられていて、そこには『安山岩製で高さ88cm、舟の長さ85cmで、水難守護・諸病平癒と祈願した。昔、旅をする時に、この地蔵にお参りして出発した』と記されています。
造立年は、舟の側面に銘があり、『享保四已亥年中 セ主湯沢村 塚原村』と記されています(岡野秀典氏『山梨県の岩船地蔵』 1999 山梨県考古学論集Ⅳ 山梨県考古学協会より)。このような御舟に乗ったお地蔵様は、「岩船地蔵」と呼ばれることも多く、享保四年(1719)造立のものが大多数です。岩船地蔵の造立は、享保四年に関東地方西部から中部地方東部にかけて流行した岩船地蔵信仰に由来するからです。
日本全国のどこにでも存在する火の見櫓(ひのみやぐら)は、各地域の住民たち自らが建てた防災施設の一つです。
江戸時代以前の古くから見張り台としての目的をもっていました。火災などの災害の早期発見をし、その上部に備え付けられた鐘を鳴らすことで地域に差し迫った危険を知らせたり、消防団員を招集するのに使用されてきたわけです。
地域の持ち物として、コミュニティの中心場にあることの多い火の見櫓は、まち歩きの際の重要なチェックポイントであるとともに、集落を象徴する景観の中に溶け込み一体化していることが多くあります。(甲西地区清水の火の見櫓※防火水槽上)
南アルプス市内にもたくさんの火の見櫓が点在しています。おそらくどれも昭和20~40年代に建てられ、使用されてきた火の見櫓がほとんどかと思われます。
「地方病とたたかうポスター」をご覧にいただきたいと思います。山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。
山梨県が製作したこの地方病予防広報・啓発ポスターを見出し部分から読んでみますと、『三百余年前から蝕ばまれ悩まされ続けて来た地方病 今こそ完全撲滅の絶好の機会!!県政の重大施策としてとりあげてここに三年、有病地の指定解除、宮入貝の減少、患者の著減等々成果は上々である。 この好期をおいていつの世に根絶することができよう、みんなで力を併せて一挙に駆逐するよう今一段の努力をいたしましょう。』とあります。
このポスターには製作年が記載されていないのですが、見出しの文面と、「現在実施している予防対策」の項にPCBという薬剤によるミヤイリガイの刹貝と、コンクリート溝梁化工事に年間一億のお金をかけている」といった文言があること、当該資料の含まれる資料群全体の年代構成からかんがみて、この地方病対策ポスターは、だいたい昭和30年代中頃に作られたものではないかと考えています。
雛人形が入っている箱に地元の呉服屋さんの名前が記されていることがあります。当時の呉服店は、節句人形の販売代理店としての機能も担っていたようで、西郡地域の人々が飾ったお人形は甲府の雛問屋で作られたものに加え、鰍沢の春木屋などの商家を経由して入ってくる駿河で製作された人形も多く流通していたと考えられます。明治大正期に昭和初期頃の西郡の人々が人形を求めるときには、
① 甲府の雛問屋か鰍沢の商家に買いに行く。
② 甲府の雛問屋から「ひなんどー、ひなんどー」との掛け声で、安価な横沢雛を籠に担いでやってくる売子から買う。
③ 初節句の晴れ着などを購入するのに合わせて、近所の呉服屋で売っている人形を買う。
の3つの購入方法があったのだと思います。
七月といえば、 昭和二十年 (一九四五) の七月六日の夜から七日の未明にかけて行われた甲府空襲が思い出されます。 この時は、甲府市街地が大きな被害を受け、 灰燼にきしています。
一方で、 南アルプス市域には、 アジア太平洋戦争による直接の被害はなかったと思われている方も多いと思います。 しかし、 記録をひもといてみると、 もうひとつの空襲が あったことがわかりまsu.
それは、 昭和二十年 (一九四五) 七月三十日。 アメリカ軍の艦載機が、 駿信往還 (旧国道五十二号、 現県道四十二号線) にそって南下し、現在の百々、 上八田、 鏡中条、 甲西地区南部、 そして富士川町の各地域を襲い、 爆撃と機銃掃射による被害をもたらしました。
特に甲西地区の荊沢では、 爆撃により民家二軒が破壊され、 三人の子どもが亡くなる痛ましい被害を出しています。
現在市が保管する、 大明小学校 (旧国民学校) の昭和二十年度の 『学校日誌』 の同日の項にも、
「午前六時半ヨリ三回ニ亘リ空襲アリ午後四時迄デノ空襲ニ於テ 初四 五味倫 爆撃ニ依リ破片ノタメ頭部ヲ粉砕セラレ即死ス 其ノ他 初六 土屋晴男 高二土屋けい子 死亡ス 学校ヨリ即刻見舞ヲナス 県ニ対シ電話及書類ヲ以テ報告ス」と記され、 当時の国民学校初等科四年生の五味倫( 九 )さん、 同六年生の土屋晴男 (十一 ) さん、 高等科二年の土屋けい子 (十五) さんが亡くなったことがわかります。 土屋晴さんとけい子さんは姉弟でした。
戦争による直接の被害がなかったかに見える南アルプス市域でも、 このような痛ましい事件があったことは記憶に残しておかなければなりません。 そしてアジア太平洋戦争全体を見渡せば、 市域出身のじつに千三百人以上の人々が世界各地で戦死したともいわれています。
8月24日は今から186年前の天保7年(1836年)、山梨県では天保騒動という大規模な騒乱のさ中で、ちょうど現在の南アルプス市域が被害をこうむった日です。
天保騒動は、江戸時代後期の天保7年(1836)8月17日に郡内白野村での百姓一揆からはじまった騒動です。しかし、山梨郡熊野堂村の米穀商打ちこわしという当初の目的を果たした郡内の百姓たちが帰村した8月22日頃になると、騒動に乗じて参加した無宿人らが暴徒化して、大規模な強盗集団となり、国中(甲府盆地内部の村々)を暴れまわって、甲州の人々を恐怖に陥れました。
八田地区野牛島中島家文書の中に、要助さんという当時名主を務めた人物の日記帳があります。
(八田地区野牛島中島家文書「去申用気帳」)
秋山地区集落上手、櫛形山の山裾から突き出した小丘状のたかまりにあり、眺望が素晴らしく、藤川流域を眼下に一望することができます。
当地は秋山光朝の館の跡といわれ、現在は熊野神社が建っています。
三方を崖に囲まれたこの丘は後背の山地には中野城、雨鳴城といった山城の遺構が山沿いに連なります。
熊野神社は、江戸時代にその境内から建久8年(1197)の銘をもつ経筒が発見されたことでも有名です。
秋山光朝は加賀美遠光の長男として京で実績を積み、平家の棟梁である平重盛の娘と結婚します。しかし、頼朝による平家討伐の機運が高まり、光朝は悲劇への道を歩むとされています。