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雨鳴城

 甲西地区の西端にそびえる雨鳴山。この尾根上に今から800年ほど前に活躍した甲斐源氏、秋山光朝ゆかりの山城「雨鳴城」はあります。
 秋山光朝は、若草地区加賀美に居を構えた加賀美遠光の長男で、同じく遠光の子、小笠原長清の兄にあたります。光朝自身は現在の甲西地区秋山を拠点とし、現在の秋山熊野神社がその館跡だったといわれています。雨鳴城はその館の西側にせまる雨鳴山の尾根上にあり、さらに奥の城山山頂にある「中野城」とともに、有事の際に立て篭もるための城だったといわれています。
 実際に、鎌倉幕府ができる過程で、初代将軍となる源頼朝は甲斐源氏の強大な勢力を警戒し、自らの基盤を固めるため、甲斐源氏の有力武将を次々と失脚させますが、光朝もまた平家との関係が深かったことなどを理由に、鎌倉方に攻められ、雨鳴城もしくはその後背に構えた中野城に追い詰められて自害したと伝えられます。


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雨鳴山は、雨が降ろうとするときに「鳴る」ことがあり、特に夏には雨の降る前には必ず「鳴る」ことからこの名があるといわれています。この地で没した光朝の霊魂がこの山鳴りをおこすといわれ、悲劇の武将、秋山光朝の伝説を今に伝えています。
 雨鳴山と光朝の物語は、地域では身近な伝説として知られ、甲西地区では光朝を偲ぶ「雨鳴太鼓」や郷土民謡「ああ雨鳴山」などといった地域芸能も伝えられています。
しかし、実際に雨鳴山や山中に今も残る城跡に立ったことがある方は、それほど多くはないかもしれません。
 雨鳴城は、光朝の館跡(熊野神社)と中野城とをつなぐ尾根上につくられています。雨鳴城は、後の戦国時代にも使われたといわれたようで、現在残る遺構が光朝の頃のものかどうかは断定できませんが、秋山の館跡から中野城にいたる古道を通じた敵の侵入を防ぐようにつくられています。

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光朝の頃の遺構とすれば築城から800年余り。現在は植林も進み、その痕跡はわかりにくいのですが、よく見れば現在でも平らに造成された郭や土を盛り上げて防御した土塁、城の出入口である虎口、敵の侵攻を困難にする土橋や空堀などを確認することができます。巧妙に考えられた防御施設からは、当時実際に敵と対峙した緊迫した状況を想像することがき、遥かなる歴史ドラマを今に伝えています。
土橋。
この先に中野城へと続いていたようであるが、現在は整備されていない。
背丈以上の深さを持つ空堀
現在は平林集落の方から天満宮へ向かう参道が整備されており、その奥に雨鳴城跡がひかえています。

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