かつて、収穫時に雨が降るとどんなに大変だったかを何人もの人から聞きました。
その中のお一人で、サクランボ栽培者の相川泉さん宅に、これまでの雨との闘いの歴史を教えてもらいに行きました。(平成30年9月7日訪問撮影)
色づきはじめた桜桃の実に雨粒が当たったり、降雨で土壌の水分量が急増すると、桜桃の実は瞬く間に破裂して、腐りはじめてしまいます。
相川さんによると、「サクランボはとてもとてもデリケートで微妙な作物。桃やブドウより難しい。」といいます。
しかも、寒いところが適すので、栽培南限の山梨では基本的に気候が合わず、さらにさらに難しくてリスクが大きいのだそうです。
桜桃は夏の間に花芽の分化をしており、猛暑で乾燥と高温だった場合の翌年のさくらんぼは高温障害が出て、出荷できない双子果が多くなりますが、農家にはどうしようもありません。
さらに、サクランボの実をもぐときにも細心の注意をしないと翌年に実がつかなくなってしまうので、サクランボ狩りで素人が収穫するのも大変なリスクがじつはあるそうです。
そして、一般的に「なりどし」と「うらどし」があるといわれています。南アルプス市ではそんなに大変で気難しい桜桃の栽培を、どんな知恵と工夫で乗り超えたのでしょう?
昭和40年代はじめまでの桜桃には、まだ人工授粉や雨除け対策というものはされておらず、自然環境に左右されましたが、当時はまだ殺虫剤をそれほど使用していなかったので、花粉を媒介する虫も数多くおり、自然授粉でも大丈夫だったそうです。
[画像:個人所有]
白根地区飯野にある、富士川街道・倉庫街北交差点の北西部にあたるブロックは、明治時代に当市域の主産業であった煙草産業の中心地であり、その場所には山梨県内の農家で収穫された葉煙草が集められる飯野専売支局が置かれていました。
○博アーカイブはこちら
白根地区飯野に、昭和30年代から開塾しているそろばん教室に資料を見せていただきにまいりました。
そろばん教師の相川さんは全国的な和算の研究会にも所属され、そろばんに関するありとあらゆる資料を収集されている有名な方です。
かつて習い事は「お習字かそろばんか」という時代が長く、そろばん教室が各地で盛んに開かれてました。
相川さんのお話によると、明治以降に東京などの都会に出て一旗揚げたいという人も、まずは「読み書きそろばんを身に着けてから」でないと話にならなかったとのこと。
戦後も個人で使える電子計算機のなかった時代、金融機関でも行員がそろばんを使っていた昭和30年代には、複数の場所に教場を持っているような大手のそろばん塾が現在の南アルプス市内に5~6軒ほどもあったそうです。
昭和50年代になり、ピアノや水泳など習い事の選択肢が増えたきたころから、そろばん教室の状況はかなり変化してきたようですが、相川さんが開いていらっしゃる飯野にある珠算学院には、現在も小学生を中心に生徒さんが元気よく通っていらっしゃるとのことでした。
ふれあい情報館を右手に見ながら南へ進み、指定文化財の標柱の角を曲がって細い農道を西に進むと果樹畑の中にひっそりと石丸地蔵が立っている。
高さ120センチメートル、幅37センチメートル、奥行27センチメートル、安山岩製の石仏である。頭部は剃髪を表す円頭で、耳朶が大きい。衲衣を着ており、背面には刻線で衲衣が表現されている。
左手に宝珠、右手には失われているが錫杖を持っていたと思われ、一般的な地蔵苔薩立像の姿を表している。
長年の風雨によって像全体が摩滅しているが、それがかえって柔和な表情を作り出し、親しみやすい雰囲気をかもし出している。
銘文は見られないが、形状から室町時代末期のものと推測される。
伝承によると、榎原に住む石丸一族の守護仏として信仰され、大正年間まで提灯を吊した祭りが行われていたとされる。
所在地/南アルプス市榎原521
所有者、管理者/榎原区
指定年月日/昭和51年3月1日
備考/
上高砂地区、豊光院本堂裏手の墓地に国学者、五百住巨川の墓がある。
五百住巨川は、文政12年(1829年)に江戸藩邸で五百住元卓の次男として生まれた。幼名を栄三郎または丑松といい成長した後巨川と号した。昌平坂学問所で学び、著名な国学者であった平田篤胤に師事して国学を修めた。
巨川は地方の名士と国事を論じるために諸国を巡歴し、安政4年(1857年)に巨麻郡西郡を訪れた。その際、有野村に住む名取理平に引き留められ、上高砂の地に私塾「螺廼舎(しのしゃ)」を開き、算術や漢字、書道などを教えた。塾舎は、明治5年(1872)まで現上高砂バス停留所の隣にあり、最盛期には教師5名、塾生138名を数えた。巨川の影響を強く受けた塾生も多く、彼らは明治維新後の地域名士として、郷土の発展に尽力した。
明治4年、巨川は本県最初の新聞である「峡中新聞」の主筆となる。明治7年には藤村県令の命を受け、県神社局長となり寺社の整理統一に手腕を奮うが、明治8年3月7日47歳で夭逝した。
著書には「なまよみの甲斐」2巻、「私輯大日本史系図」、「大日本史解説」など地方に根差した視点から日本を俯瞰した多数の大著がある。
所在地/南アルプス市上高砂986
所有者、管理者/豊光院
指定年月日/昭和51年3月1日
上八田薬師堂にある那賀都神社(なかとじんじゃ)では、大嶽講(だいたけこう)がいまも行われています。
ろうそくに火をともし、太鼓をたたく音に合わせて「ダーイターケサーンナーカトーノジーンジャー、オーヤーマズーミノーカミー、オーイーカヅチノカミ、タカオーカミノーカミ、ロッコーンショージョー、ツツシミウヤマイテ、キーガーンタテーマツールー」と節をつけて何度も祝詞を唱和します。
講の手順をまとめると、「講の仲間が集まったら堂の中に入り、年長者が太鼓をたたいて音頭をとって、『大嶽山那賀都神社祝詞』を10回皆で唱える。
その際、回数を間違えないように、白い碁石を並べて数える。さいごにもう一度みなでゆっくり同じ祝詞をあげておしまいにする」というものです。
春先の南アルプス市の果樹地帯では、様々な品種のスモモの花が咲き誇り、農作業に忙しく動き回る人々に多く出会います。
上八田でスモモ「貴陽」を栽培する小野家の授粉作業は、3月中旬に受粉専用樹ハリウッドの花摘みからはじまります。
それらを葯(やく)採取機にかけて、花粉の入っている袋=葯(やく)だけを取り出し、その後、二晩かけて家屋内に広げて開葯させたところで、授粉作業に取り掛かります
貴陽の場合、作業は花が満開になるころまでに、同じ樹に5回に分けて行います。
南アルプス市域では、スモモの花の開花を皮切りに、切れ目なく次々とサクランボ、モモ、カキの花が咲きそろい、いろいろな果樹の花が同時に見られます。果樹地帯ならではのお花見もとても美しいものです。
下高砂地区で染色捺染業(型染)を営み、平成4年3月21日、旧八田村教育委員会より江戸小紋染師として無形文化財保持者に認定指定された。
内田氏は、父であり師でもあった内田秀一氏(山梨県指定無形文化財保持者)の後継者として引杢(ひきもく)等の染めの技術を継承し、日本の伝統工芸である江戸小紋型染に専念従事するようになる。
小紋とは型紙などを用いて染め出したがらの細かな模様、そしてその模様が染め上げられた着物を意味する。江戸時代、武士の礼装である裃(かみしも)に小紋が用いられ、各藩が独自の小紋を競い合うことで、技術的に大きな発展を遂げた。
昭和29年、こうした柄の細かな小紋を他の小紋と区別するため、江戸時代の代表的な染めであることから「江戸小紋」という名称がつけられた。
江戸小紋は、縮緬(ちりめん)を代表する絹地織物に繊細な柄模様を単調な色彩で染め抜く伝統技術である。江戸小紋の特徴はこの柄の細繊さにあり、遠くで見ると無地に見えるが、近くで見ると柄が現れるのが上品あるいは「粋」とされた。
染めに使われる型紙は「伊勢型紙」といわれ、現在の三重県鈴鹿市白子で製作されてきた。型彫りには「引き彫り」、「錐彫り」、「突き彫り」、「道具彫り」等の高度な技術が必要であり、染め師と同様に無形文化財に指定されている彫り師もいる。
所在地/南アルプス市
所有者、管理者/
指定年月日/平成4年3月21日
備考/
冬に吹き下ろす「八ヶ岳颪(やつがたけおろし)を考え、八ヶ岳にむかって設計された幅100m、長さ1500mの滑走路。中央に設けられた誘導路は、今でも農道として利用されている。
現在でも、所々に60数年前動員され人々が造成した滑走路の盛土がそのまま残っている。平成17年度に実施した発掘調査の結果、当時の人々が滑走路両側の土を掘って滑走路に積み上げたたことがわかったほか、土が沈まないように締め固めたような跡も見つかり、当時の人々が行った作業工程を垣間見ることができた。
また、平成23年度には、滑走路北端付近で調査が行われ、滑走路西側を削り、その土を東側に盛って、傾斜をならす工事が行われた痕跡が確認された。
冬季の季節風(八ヶ岳おろし)に対応するため、滑走路はまっすぐ八ヶ岳の方向に向けて造られています。
4月には、さくらんぼの授粉用花粉を集めるための花摘みが行われます。
花を摘んだ後は、農協の施設内にあるにある葯採取機(やくさいしゅき)を使って花から花粉だけを取り出します。
花粉はダチョウの羽を使ってサイドレス(雨除け施設)内に植えられた、高砂・豊錦、佐藤錦、紅秀峰など様々な品種の樹に授粉されます。
○博アーカイブはこちら
「天神の井」は、豊村誌と櫛形町誌によると、『別名「七ツ池」とも呼ばれ、昔、天神様が七才の童子の夢枕に立ち、その教えに従って之を掘った。後に天神宮を祀って天神の御手洗となった。この水は旱魃にも涸れることがないと言われる。』と記載されています。
○博アーカイブはこちら
南アルプス市内のあちこちで見かけるSS(スピードスプレーヤー)を使った農作業の様子です。
SSは、潅水や防虫害除けのための薬剤散布をするための作業車ですが、中でも南アルプス市域において最も所有率の高い500リットルタイプの小型SSの使用状況を、上今諏訪の原家所有のサクランボ園で見せていただきました。
山梨県のサクランボ栽培は、通常サイドレスハウス内で行われているので、小回りが利く小型のSSが重宝されています。
SSはサクランボ以外にも果樹全般(モモ、スモモ、ブドウ、カキ、キウイフルーツ)の作業に頻繁に使われます。非常に細かい霧状の水が後方についているノズルから180度放出されるしくみです。
上高砂集落内の小さな交差点に道標あります。
「左甲府」とわかるのですが、「右???」が読めません。
道標に和紙をのせ、拓本を取ってみると、「左 甲府」「右 小笠原」と読めました。(「原」の字の半分がアスファルトに埋まっています)
しかし、今ある位置では方向が違うので、別の場所から移動してきたとわかります。上高砂地区でご存知の方を探して教えていただきましたところ、新しい道標を建てたために不要になったのでこの地に運んできたとわかりました。
その場所とは、龍王から信玄橋をわたって上高砂地域にはいり、左側にあるスーパーオギノの手前を入る道の隅(上高砂の消防小屋の前)でした。
現在建っている道標を読むと、「昭和4年3月17日に御影消防団第三部建」とありますので、その時からこの場を離れ、いまは上高砂集落内にひっそりと佇んでいたのです。
地図で見ると、釜無川を渡って旧道が下高砂方面に曲がる当たりの南側にあたり、位置的にも方向的にも矛盾がないことを確認できました。
長い間路傍にあり、多くの人々の旅の安全を守りながら役に立ってきた道標を、新しいものができたからといってそのまま打ち捨ててしまうことができなかったのでしょう。
当時の上高砂の人々の心情が時を超えて伝わります。
神部神社は大物主命を祭神とし、「延喜式神名帳」に記載された巨摩郡五座のなかのひとつである。
毎年3月第1日曜日に(往古は2月2日)に行われる曳舟祭は、大和国からご神体を奉遷した古事にならってその様子を再現している。神主が数本の矢を放ち悪魔を祓い、諸々の贖罪、五穀豊穣、天下奉平を祈願する。神事において、木舟を神主、氏子らが引くというのは、恐らく当時の運搬手段のひとつとして、木舟を用いて内陸まで出入りしていた様子を演出しているものと考えられ、当時の交通運搬や文化流入を知るうえで貴重である。古代における神の遷座の状況を神事として残す祭祀は類例を見ない。
所在地/南アルプス市下宮地563
所有者、管理者/神部神社
指定年月日/平成6年6月28日
南アルプス市白根地区西野区内に大正時代初期に、開店したばかりの喜久屋商店。
大正時代から昭和10年代まで営業されていた喜久屋商店は櫛形山の中腹にある高尾の夜祭で有名な穂見神社に向かう通称高尾街道沿いにあります。
甲府方面から釜無川を渡って参詣する主要ルートであったため、西野区内でもこの街道に面する家では喜久屋商店の他、呉服屋や薬屋を営むものが2・3軒ありました。
喜久屋では、創業した芳明氏が甲府一高で同級生だった倉庫町の山梨商会経営者の協力を得て、駿信往還沿いの倉庫町にも進出し、タクシー業務部と臨時支店をもちました。
現在でも11月22日~23日にかけて、高尾穂見神社の夜祭が行われます。
かつては高尾山にある穂見神社を目指して、提灯を持った人々の行列が夜通し街道を多く行き交ったといいます。
[画像:個人所有]
南アルプス市といえばいまは果樹栽培地として有名ですが、
水はけの良過ぎる御勅使川扇状地で生き抜いてきた先人たちがいままでに栽培した代表的な作物には、小麦・藍・煙草・綿花などがあり、明治以降、昭和40年代くらいまでは養蚕が盛んに行われていました。
しかし、全国的に昭和50年代に入ると、化学繊維の台頭によって海外生糸輸出は停止し、和装離れによって国内需要も著しく低下しましたので、現在は蚕糸業(養蚕業から製糸業という一連の流れをまとめて呼んだ業種名)という産業そのものが実質的に消滅したといわれています。
南アルプス市では、水の豊富な中南部を中心に明治20年頃には、大規模な製糸場2社がすでにあり、大正、昭和初期には規模の大きなもの(50釜以上)だけでも20社ほど存在しました。
戦後も市内には中小15社以上ありました。
それに伴う製糸場の原料を供給する力=繭の生産力も大きかったということです。
しかし、蚕糸業が終焉を迎えてから50年ほど経ち、市内各地どこもかしこも桑畑の風景は一掃され、あれほど身近だった養蚕風景も、製糸場から漂うあの独特なにおいも、経験できないものになってしまいました。
それでも、八田地区内にまだ養蚕の痕跡を見つけることができました。
芦安から信玄橋へ通じる県道甲斐芦安線は御勅使川の古い流路で、「前御勅使川」、ちょっとなまって「まえみでえ」と呼ばれています。戦国時代、御勅使川の本流はこの前御勅使川だったと云われています。江戸時代から明治時代には、本流は現在の御勅使川に移り、増水時のみ水が流れていたようです。明治31年に六科将棋頭の上流が締切られ、前御勅使川の歴史に幕が下ろされました。昭和40年代ごろまでは旧河原の両岸に不連続の堤防、かすみ堤が残されていましたが、現在ほとんどの堤防は削平され、道路として利用されています。
写真は明治29年に起きた大水害後、堤防を復旧している様子が写されたもの。旧運転免許センター(野牛島)付近。
[画像:個人所有」
スピードスプレーヤー、通称エスエス(以下、SS)は薬剤噴霧器を搭載した特殊車両のことです。
果樹地帯である南アルプス市内では、春先から晩秋にかけて、道路ですれ違ったり、交差点で信号待ちしていると前後に挟まれたりなんかして真っ赤なダンゴムシみたいなかわいい車体のSSに、普通に遭遇します。
SSの大手メーカーさんに聞いたのですが、「山梨はSSの年間販売台数が全国一ダントツに多い」というのです!
大手3社合わせて年間約300台も売れる県は他にないのだそうです。
隣県の長野県や静岡県では年間100台にも届かないそうです。
山梨以外の日本の名だたる果樹栽培県では、集約した農地を持つ比較的規模の大きな農家が積載容量1000リットルキャビンタイプ等、大型のものを買う傾向にあるのに比べ、山梨は500リットルタイプの小容量が主流ですが、果樹栽培一家に一台ほぼ存在しているので、販売台数が多くなるようです。
そういえば、この辺の住宅街の車庫には普通乗用車の横にSSが停めてあるのを見るのはフツーです。
野牛島集落の西はずれの小高い塚上に、「西の神地蔵」と呼ばれる板碑が南面して建てられている。高さ65センチメートル、幅27センチメートル、厚さ14センチメートルの安山岩製である。
頂部は三角形に造られ、その中央に阿弥陀如来を意味する梵字「キリーク」の文字が陰刻されている。頭部と下部を区画した3本の条線の下には、造立主旨が刻まれている。それによるとこの板碑は天文13年(1544)に、多くの信者が円明に入る(悟りに至る)ことを阿弥陀如来に祈願してたてられたものであるという。
すなわち、「西の神地蔵」と呼ばれているこの板碑の本尊は、実は地蔵菩薩ではなく阿弥陀如来なのである。銘文下の方形の龕部(がんぶ)に陽刻された像は、顔の形や衣などがいかにも地蔵風であるが、それは阿弥陀如来に地蔵菩薩が集合したためである。
さらに、この板碑には「西の神」も習合されている。「西の神」とは、村へ入ろうとする悪霊を防ぐ「塞の神」のことであり、道辻に立つ道祖神がそれである。この板碑には庶民の生活に浸透していたさまざまな信仰が幾重にも重なり合っているのである。
なお、造立主旨には八田村の語源となった「八田庄」の文字が見える。「八田庄」は中世に八田から白根、櫛形まで広がっていた荘園といわれるが、それに関する史料は少なく不明な点が多い。その中で「西の神地蔵」は、「八田庄」を記す最も古い史料であり、歴史史料としての価値も高い。
所在地/南アルプス市野牛島2616
所有者、管理者/野牛島区
指定年月日/昭和51年3月1日
備考/
榊小学校は、現在の南アルプス市櫛形地区上宮地に存在した小学校です。明治12年に榊村誕生とともに創設され、明治33年には榊尋常高等小学校となりましたが、昭和33年に小笠原第二小学校とともに統合されて櫛形北小学校ができ、廃校となりました。
○博アーカイブはこちら
時代…享保13年(1728年)4月17日から元文4年(1739年)5月17日
作者…嶽恩和尚・玄嶺和尚
長盛院境内の「経蔵」に嶽恩筆紙本墨書大般若経600巻が収められている。この般若経は亨保年間、長盛院の末寺、正重院の住職であった嶽恩和尚とその意志を継いだ本山玄嶺和尚によって写経されたものである。
嶽恩和尚は本寺の繁栄や天下の泰平、国土の安穏、子孫繁栄、村里の豊饒を祈願し、享保13年(1728年)4月17日、大般若経の筆写をはじめた。長年にわたる写経は心身をさいなむ辛苦を与え、時には天井から吊した縄で筆を持つ腕をささえていたといわれる。
500巻を書き終え、その完成を目前にしながら元文2年(1737年)2月9日、59才で他界した。本山玄嶺和尚はその志を継いで写経を進め、2年後の元文4年(1739年)5月17日、大般若経600巻の写経を完成させた。複数の僧侶によって書かれた大般若経は多数あるが、ほぼ1人の手によって書かれたものは県内でも類例が少ない。
所在地/南アルプス市徳永1678
所有者、管理者/長盛院
指定年月日/昭和51年3月1日
西南湖にある重要文化財安藤家住宅で行われる「安藤家住宅ひなまつり」では、貴重な横沢雛が飾られます。
甲州で明治大正期に多く作られた横沢雛には童子をモデルとした人形が一番多いのですが、他に、成人女性や男性、妊婦、長生きの象徴としての老夫婦、七福神などの神様などモチーフに多くのバリエーションがあります。
その中でも、ひときわ異質なのが、赤い髪の中国の伝説の妖怪、猩々(しょうじょう)のお人形がです。
猩々は、能の演目にも真っ赤な装束で登場する中国の伝説上の生き物のことで、赤毛で人間のような容姿をしており、酒を好むとされます。
また、赤いものを嫌う疱瘡神を追い払うという伝承もあり、子供の健やかな成長を願って送られたものと思われます。
松声堂は、江戸時代に創立された西郡地域の勉学の中心となったところである。天保6年(1835年)西野村長百姓幸蔵ら12名は、“勉学によって人倫の道を教え、農民としての自覚を高めたい”として幕府に手習所の創設を出願した。
翌7年に許可され、初代教師に江戸下谷生れの松井喚斉を迎え、西野北村現在の宝珠院で開校した。
天保9年(1838年)には旧西野小学校の地に移り、明治4年(1871年)西野郷学校となるまでの36年間、この地方の庶民教育に果した功績は非常に大きいものがあった。松声堂跡には松井喚斉の碑、松声堂碑などが建立されている。
所在地/南アルプス市西野2783
所有者、管理者/南アルプス市
指定年月日/昭和53年2月16日
上高砂集落センターにて枯露柿生産農家のノリコさんとお話しました。
その時に「わたし、女子挺身隊だったのよ。終戦の時に愛知にいたのよ」と教えてくれました。
女子挺身隊とは、戦争中に軍需工場へ勤労動員された14歳以上の未婚女性の団体のことです。
高砂名物枯露柿のお話を伺おうとしていたので、突然現れた「女子挺身隊(じょしていしんたい)」という聞きなれない単語に一瞬とまどいながらも、またとない機会に遭遇できたことに感謝しました。
冷戦後しばらく安定していた世界情勢ですが、その変化を実感するいま、戦争を知らない私たちにとって、戦争経験者の証言を直に聞くことができるのは貴重な体験です。
大東亜戦争が終結してもう70年以上経っていますから。
加賀美遠光や小笠原長清などの南アルプス市の甲斐源氏が活躍していた時代に、曽我兄弟の仇討ち事件が富士山麓で起こります。この仇討ちをまとめた「曽我物語」の中には、南アルプス市と深いかかわりのある人物が重要な脇役として登場します。芦安地区の「虎御前」と野牛島地区の「御所五郎丸」。地元に伝えられる歴史上の人物は、歌舞伎の演目でも有名な『曾我物語』の主要キャストです。
『曾我物語』とは曾我兄弟が父親の仇を討つ物語です。皆さんご存知の赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つに挙げられます。仇討ちは『吾妻鏡』にも記録されていますが、物語の成立時期ははっきりしていません。鎌倉時代の終わり頃に物語としてまとめられ、時代とともに様々なエピソードが加えられながら、江戸時代に現在の形に落ち着いていったようです。(写真は、祐経を討ち取る曽我兄弟 歌川広重「曽我物語図絵」)
沢登の龍沢寺には、伝説の男「せとじゅうさん」が瀬戸地蔵として祀られています。
←櫛形町誌(昭和41年刊)の瀬戸地蔵画像。この地蔵は昭和24年12月6日に建立したという。
○博アーカイブはこちら
長谷寺は新義真言宗智山派の古寺である。大和国(現在の奈良県)長谷寺に倣って豊山長谷寺と名付けられたが、その後この土地が八田の庄であることから「八田山長谷寺」と改称し現在に至っている。
本尊には十一面観音菩薩が祀られ、「原七郷の守り観音」として古くから篤く信仰されてきた。
原七郷(上八田・西野・在家塚・上今井・吉田・小笠原・桃園)は御勅使川扇状地の中央に位置するため、旱魃に悩まされてきた一帯で、長谷寺では古くから雨ごいの祈祷が行われてきた。
開創は、寺記によれば天平年間で、僧行基が甲斐国の治水事業のため留錫した際、当地で十一面観音を彫刻したのがはじまりと伝えられている。現在の本堂は昭和24年の解体修理の際に発見された旧材によって、大永4年(1524)に再興されたことが明らかとなっている。
所在地/南アルプス市榎原442
所有者、管理者/長谷寺
指定年月日/昭和25年8月29日
長谷寺十一面観音立像は、長谷寺の本尊として大永4年(1524年)再建の本堂厨子の中に秘仏として祀られている。この十一面観音像は、古くから原七郷の守り観音として多くの人々の信仰を集めており、江戸時代には、甲斐国札所第4番の観音であったという。
本像は、頭頂に仏面、その下に1列に化仏(けぶつ)十面を表す十一面観音である。現在、左右の手は失われているが、造られた当初は、左手には蓮花を挿した水瓶を持っていたと思われる。右手の形ははっきりしない。また、本像の台座が通常の蓮華座ではなく、岩の形を模した岩座であることからは、本像が木の霊性を尊ぶ立木仏として造られたと考えられる。
本像は、像高169.3センチメートル。長身ですんなりとした姿に表される。お顔は優しい中にも厳しさがあり、威厳を感じさせる。天衣(てんね)や下半身に身につける衣の表現は控えめながら柔らかい布の質感を伝えている。
本像の材質はカツラで、左右の手以外のすべてを1本の木から彫り出す一木造という技法で造られている。この一木造のうち、臂を曲げる左手までも同じ木から彫り出すのは、平安時代前期頃に多くみられ、本像もこうした平安前期から中期にかけての造立と考えられる。地域の古い歴史を今に伝える貴重な尊像である。
所在地/南アルプス市榎原442
所有者、管理者/長谷寺
指定年月日/平成16年11月29日
涅槃図は釈迦が入滅する情景を描いたもので、仏教絵画の代表的主題のひとつである。
本図中央には、北を枕にし西を向いて横たわる釈迦が配置され、その周囲には菩薩や諸天、仏弟子、さらに雉や象、獅子などの鳥獣までもが嘆き悲しむ様が描かれている。
右上方には、仏母摩耶夫人(まやぶにん)が悲報を聞いて天上界から飛来した姿が描かれている。上方中央の満月や背後に描かれた跋堤河(ばっでいが)(釈迦が人滅した場所を流れる川)、釈迦を取り囲む8本の沙羅樹は釈迦入滅を表す一連のモチーフである。本図は、豪放さと緻密さを兼ねあわせた優品である。
本図の左下に「維時元禄十三年庚辰七月大吉祥日、山城国愛宕郡平安城万寿寺通高倉西入ル、絵所中西氏家信拝書之」と書かれており、製作年代や作者を知ることができる。
所在地/南アルプス市徳永1683
所有者、管理者/長盛院
指定年月日/昭和59年3月1日
備考/
年代…江戸時代元禄13年(1700年)
作者…中西氏家信
徳島堰は韮崎市上円井(かみつぶらい)で釜無川から取水し、南アルプス市曲輪田新田(くるわだしんでん)まで約17kmを結ぶ灌漑用水路。
江戸時代の寛文5年(1665)江戸深川の徳島兵左衛門(とくしまひょうざえもん)によって開削が始められた。
2年後には曲輪田まで通水に成功するが、大雨によって二度堰が埋没すると兵左衛門は事業から手を引き、その後甲府藩が事業を引き継ぐ。
甲府城代から堰の復旧工事を命じられた有野村の矢崎又衛門(やざきまたえもん)は、私財を投じて工事に取組み、寛文10年に工事が完成し,翌11年に「徳島堰」と命名された。
堰の開削によって耕地が広がり、曲輪田新田や飯野新田、六科新田など新たな村々が開かれるなど、水不足に悩む地域に多大な恩恵がもたらされた。
現在でも徳島堰の水は、水田だけでなくスプリンクラーに導水され、市内の桃やさくらんぼを潤し、フルーツ王国南アルプス市を支えている。
乾繭場(かんけんじょう)とは、養蚕農家から集めた生繭を熱風で乾燥させ、中のさなぎが羽化して出てくる前に刹蛹(さつよう)し、さらに水分を除去することでカビが生えたりするのを防ぎ、長期間の保存に耐えるように処理をする工場のことです。
○博アーカイブはこちら
県道甲斐芦安線を挟んで六科の八幡神社の向かい側にある清水油店タンク奥をよく見ると、レトロな倉庫があります。
もとは現在の下高砂集落センター隣の徳永地区に建っていました。その前には所有者の 現在は倉庫として使われています。
実はこの建物、昭和4年に若尾逸平の娘婿若尾金造がキリスト教伝道等を目的として建てた講堂(青年道場)でした。
南に富岳を朝夕仰ぐその名も「南岳荘(なんがくそう)」。
甲斐山岳会の会長もつとめた若尾金造は外国人を引き連れて南アルプスの山々を開発する際、若尾銀行の番頭で田之岡村徳永出身であった清水謹一の縁でこの地を事前宿泊地とし、南岳荘と呼んだのがはじまりです。
清水謹一氏の息子で、現在この南岳荘を六科に移転して所有し、徳永のかつての所在地であった場所にお住いの清水禎次郎さんから、いろいろと教えていただきました。
最近は、スーパーに並ぶ果物に「糖度保証」のシールが貼られているものが増えてきました。
少々高めのお値段なのですが、ついついそちらに手が伸びてしまいます。果実を傷つけずに食べる前から甘さを保証できるなんて、ふしぎ~ですよね。
現在では、桃・林檎・梨・蜜柑といった多くの果物の選果に使用されている非破壊式の糖度センサーですが、最初は外見からではわからない食味のバラつきに悩まされていた桃のために開発されました。
昭和62年から山梨県と山梨県果実農業協同組合連合会(果実連)・三井金属鉱業株式会社が協同して開発がはじめられ、一宮と西野の農協で測定実験が行われた後、平成元年にさっそく本格導入したのは、旧白根町にあった西野農協(現南アルプス市)が最初でした。
「人工衛星から電波を発信して地球の鉱物資源探査をしている特殊光線を利用することで,桃を破壊せずに糖度を測定できるのではないか」
という話を三井金属工業の技術者から聞き、これに賛同した山梨県の果樹産業関係者とはじめたプロジェクトだったそうです。
ちょうど桃の出荷中だった8月1日に、世界で初めて平成元年に桃の非破壊式糖度センサーを導入したJA南アルプス市西野支所(導入時:西野農協)へ、現在の稼働状況を取材に行きました。
野牛島地区の北西部に能蔵池がある。能蔵池は御勅使川の伏流水が崖下から湧きだした湧水池で、古くから周辺諸村の灌概用水として重宝されていた。この池のほとりに、碑は建てられている。
高さ189センチメートル、底辺幅98センチメートル、安山岩を用いた大きな石碑である。
安政4年(1857年)、ときの市川代官森田行が文章を考案し(撰文)、前任の代官荒井顕道が書をしたため(書)、徽典館(きてんかん)の学頭であった久貝岱(くがいたい)が「能蔵池の碑」という額の文字を書いて(篆額)、完成に至った。その内容を要約すると以下の通りである。
「野牛島に能蔵池という池がある。水は清らかで、どんなに乾燥しても枯れることはない。野牛島をはじめ高砂、榎原、徳永を灌漑してきた。池の中に天女、池の側に蔵王が祀られ、神竜のすむところである。
村人たちもよく農事に励み、この水の如く怠ることがないようにしなさい、そうすれば倉はいつも満ち官も民も乏しいことがなく、不作の年も飢えをまぬがれるであろう。これは村人の幸福である。」
所在地/南アルプス市野牛島2704
所有者、管理者/野牛島区
指定年月日/昭和51年3月1日
備考/
引札は、江戸時代から大正・昭和時代の初期まで商店や問屋などが広告を印刷にして配布したもので、 新聞広告などの新たなメディアが定着するまでは、広告の花形として用いられていました。 新年のあいさつを兼ねた引札のデザインは、商売繁盛を願ってえびすや大黒などの七福神や福助、 縁起物とされる富士山や松、鶴などが好まれ、当初は江戸時代の多色刷りの浮世絵版画である「錦絵」の技法を取り入れた華やかで美しいものでした。
○博アーカイブはこちら
「ふるさと文化伝承館」が新しく生まれ変わって平成21年6月にリニューアルオープンしました。
愛称は「みなでん」
これからも皆さんとともに作り上げたい!という願いもこめて
「み・ん・な・で、み・な・で・ん」
って覚えてください!
世界的に知られる国重要文化財の「鋳物師屋遺跡出土品」をはじめ、市内の遺跡から出土した土器や石器、昔懐かしい民具などを展示しています。
当館では展示パネルを少なくし、スタッフによる展示案内などお客様とのコミュニケーションを大切にしています。不必要な場合にはお申し付けいただき、また、ご質問などはお気軽にお問い合わせいただければと思います。
聖教類には、仏、菩薩、その他諸等に対する礼拝法、供養法、念踊法など実践的な修行方法が示されている。
得度を終了した出家者が所定の行規にしたがって、修行しながら逐次、伝授や講伝を授けられた、いわゆる師資相承の秘法である。
行者は師から授けられた折紙、冊紙、巻紙を書写し、伝授の権威を保つために伝授日時や師資名、道書名を巻末に誌しているものが多い。
この聖教類は、真言宗学問寺として栄えた法善寺にふさわしく一ヶ寺にこれだけのものが残っていることは県下は勿論、全国的にもきわめてまれである。
所在地/南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/法善寺
指定年月日/昭和62年2月10日
西野にある保坂呉服店は昭和2年に高尾街道沿いの椚に開店しました。←昭和20年代終わりころから30年代はじめの撮影と思われる保坂呉服店の様子。(保坂和子家アルバムより)
西野区内の高尾街道沿いには、保坂呉服店さんの他に、乾物屋、酒屋、薬屋、日用雑貨店などがありましたが、現在も営業されているのは、保坂呉服店のみです。
甲府から高尾穂見神社に参詣する人々が釜無川を渡って今諏訪の坂を上り、慈眼寺のあたりで戸田街道から離れるように右に曲がって西野へと進む道が、高尾街道です。保坂呉服店はその街道の通り道にある西野の椚(くぬぎ)集落にありました。
和子さんが「11月の半ばに行われる高尾の夜祭に出かける人々向けて、街道沿いに面する商店の前では「茅飴(かやあめ)」を売っていたみたいよ」と教えてくださいました。
かつては茅飴づくり用と伝わるおおきな鉢がお宅に残されていたそうです。
提灯を持ったたくさんの人々がこのお店の前を行き交ったのでしょうね。
[画像:個人所有]
通称「ボロ電」とは、昭和5年から昭和37年までの32年間、西郡を甲府方面・峡南方面へと結んでいた路面電車のことです。
運行会社は、山梨電気鉄道→峡西電気鉄道→山梨交通へと変遷しました。
○博アーカイブはこちら
徳島堰の工事にとって最大の難所は、川幅の広い御勅使川の横断であった。完成当初は溝を掘り板で堰きとめる「板関」と呼ばれる開渠で通水していたが、少なくとも18世紀初頭には木製の埋樋(暗渠)に変更される。幕末頃には暗渠の壁が石積みとなり、明治から大正時代に入ると粗石をアーチ状に積む「眼鏡」と呼ばれる工法に改修される。
六科村や野牛島村は、その立地から御勅使川の河原の中で暗渠となっている徳島堰を一度開口して取水しなければならず、増水時にその取水口を守る将棋の駒の形をした堤防が枡形堤防である。取水された水は後田堰を通して六科将棋頭の中に導水され、水田に利用されてきた。
平成26年10月6日に国指定史跡に追加指定されました。
ひとくちに桃といっても、7月から9月まで時期によって旬の品種は移っていきます。
現在南アルプス市で栽培されている桃の代表的な品種には、「日川白鳳」「夢みずき」「白鳳」「あかつき」「川中島白桃」等がありますが、どの品種も色つきが良く、糖度が高いのはもちろんで、その上、日持ちが良い硬質の果肉であることが人気栽培品種の条件となっています。
そう、最近の桃はとっても甘いのに、リンゴのように皮をむいてカリカリと食べられるのです。
昔食べた、果汁が滴り落ちるような柔らかい桃は現在の市場では出回りません。
いまどきの流通システムに対応した共同選果が、傷がつきやすく痛みやすい桃に不向きだからです。そのために、かつて水密桃といわれたような、食べると果汁で口の周りがベタベタするような果肉の柔らかい品種の桃は淘汰されていきました。
その淘汰された桃の品種のひとつに「西野白桃(にしのはくとう)」があります。
[画像:個人所有]
水宮神社は有野部落の北部、御勅使川近く鎮座し、水波能女命(みずはのめのみこと)を祭神とする水害防護の神社である。御勅使川は大扇状地をつくっただけに、有史以来も大氾濫をくりかえし、特に天長11年(834年)の洪水は大惨事をもたらし、救恤のため勅使が派遣された。時の国司藤原貞雄は治水に努力し、当社に配祀されている。江戸時代、有野ほか21ケ村の鎮守として、御勅使川の共同水防が行われてきた。また、当社の森社叢は、マツが主要樹木だが、その他にアサダ2本、クマシデ3本、モミ10本、ケヤキ1本で構成されたいます。この中のアサダはクマシデ科の落葉高木で、本県では珍しい樹種で貴重な存在です。
所在地/南アルプス市有野1298
所有者、管理者/水宮神社
指定年月日/昭和61年9月12日
村松家住宅は、駿信往還に沿った桃園集落の中心に位置する。幕末以前は、名主を務めた名家で、明治維新以降は、医業と商家及び村惣代長百姓として生計をたてた。
主屋は嘉永2(1849)年より以前に存在していたことが判っており、現在までに数回改築、曳家をしている。商家蔵は貸付業開業時の店蔵とされたもの。文庫蔵は主屋背面裏庭空間の構成要素として欠くことのできない存在で、厠は屋敷地の西方に所在した酒造場の蔵人用、また店の客用の外便所で、当家の業務事情の一端を物語る遺構のひとつである。
所在地/南アルプス市桃園615-1
所有者、管理者/個人
指定年月日/平成15年2月26日
備考/主屋、商家蔵、文庫蔵、厠4棟が登録
隆円寺所蔵本像は、全体のバランスが良くとれ、しかも引き締まった造形をみせる。像の表面が造立当時のまま伝えられていることも貴重で特に衣の全面には多種類の截金(きりかね)文様が残る。制作年代は鎌倉時代半ば頃と考えられ、端正で洗練された作風から作者は京の仏師と考えられる。また、本像頭部には、文書が2通納入され、うち1通が取り出されている。二紙からなるこの文書には仮名文字で浄土往生を願う願文が記され、本像が当時の浄土信仰のなかでの造立であることがわかる。像内に願文や納入品を奉納した阿弥陀如来像は県内では本像が初めての例であり、阿弥陀如来に寄せる当時の人々の篤い信仰を具体的に伝える貴重な作例といえる。
所在地/南アルプス市下今井841
所有者、管理者/隆円寺
指定年月日/平成20年4月17日
備考/
五智如来(ごちにょらい)とよばれていた宝珠寺の五尊は、平成3年に国の重要文化財に指定されるさいに、大日如来(だいにちにょらい)をとりまく四尊の手の結び方特徴があることにより、大日如来及四波羅蜜菩薩像(だいにちにょらいおよびしはらみつぼさつぞう)と呼ばれるようになりました。
四波羅蜜菩薩(しはらみつぼさつ)
金剛波羅蜜菩薩 宝波羅蜜菩薩 法波羅蜜菩薩 羯磨波羅蜜菩薩
金剛波羅蜜菩薩
(こんごうはらみつぼさつ)
宝波羅蜜菩薩
(ほうはらみつぼさつ)
法波羅蜜菩薩
(ほうはらみつぼさつ)
羯磨波羅蜜菩薩
(かつまはらみつぼさつ)
名称/大日如来
所在地/南アルプス市山寺950
所有者、管理者/宝珠寺
指定年月日/平成3年6月15日
材質/木造(檜)
技法/寄木造・彩色(彩色は江戸時代の補修による)
像高/100.4センチメートル
制作年代/平安時代(1090年から1190年頃)
所蔵/宝珠寺(山梨県南アルプス市山寺)
墨書(像内の体部左側にある)/願主金剛佛子勝阿(勝阿につては不明)
ビャクシンはヒノキ科の高木であるイブキの一品種で、本州、四国、九州の海岸地方に分布する常緑の針葉樹である。
樹形が美しいため庭園や寺社境内に植えられていることが多く、本樹も野牛島地区、御所五郎丸の墓前にある観音堂の庭先に立っている。
幹は地上より10メートルの地点で折れているが、現在も樹勢は極めて旺盛で、枝葉もよく繁り、円錐形の見事な樹形をとっている。
規模は、根廻り4.85メートル、目通り3.25メートル、樹高11.5メートル、樹齢は約400年とも言われる、県下有数の巨木である。
鎌倉時代に野牛島に流罪となったといわれる御所五郎丸が、杖をこの地にさしたところ、それが根づいて現在の大きなビャクシンになったという伝承が残されている。
所在地/南アルプス市野牛島2076
所有者、管理者/野牛島区
指定年月日/昭和35年11月7日
有野の故矢崎徹之介氏の居宅で、甲府盆地西部では最も古い民家である。建てられたのは、江戸時代初期、寛文以前の建築である。
矢崎氏はもと青木氏の出で、武田信玄公の時代に有野に所領を得て、信州からここに移った地侍であった。その後、江戸時代を通じ有力農民として名主を勤めている。
広い屋敷内には南に長屋門を構え、母屋の西北に文庫蔵が続き、北側にも大きな土蔵がある。
古さの見どころは、13本残っている柱にハマグリ手刃の跡が見られること、屋根裏の小屋組は当初のままで、小屋東に貫が離れて交わっていることなどである。
所在地/南アルプス市有野1204
所有者、管理者/個人
指定年月日/昭和53年2月16日
備考/
現在、南アルプス市域では、あんぽ柿・枯露柿が盛んです.
その原料となる渋柿には、9月終わりから12月にかけて、刀根早生・平核無・勝平・大和百目・甲州百目・武田などの品種が移り変わっていきます。
そのうち、勝平と大和百目の原木は南アルプス市白根地区にあったものです。
とくに大和百目は、甲州百目とならんで、現在山梨を代表する大型の枯露柿の原料として大変人気があり、南アルプス市域で多く生産されている品種の一つです。
大和百目という品種の歩みは、西野に近接する上今諏訪の手塚半氏の竹林の中にあった一本の柿の木からはじまりました。
この木は甲州百目の枝代わりと言われていましたが、果実はそれ以上の大きさで、その上、核(種)が少なく、甲州百目よりも早く熟します。
枯露柿用として用いると、果肉が非常になめらかで食感がよく、色も鮮やかに仕上ります。
この樹の柿に魅せられた西野の手塚光彰氏が、今諏訪の原木から穂木をとって苗木に仕立てて、大正7年3月に、現在の桃ノ丘団地付近に50本の苗木を植え、当時としては珍しい柿の園地を造成しました。
徳島堰が御勅使川の下をくぐる前の上流域(韮崎市内部分)には、堰の水を生活に利用するための「ツケエバタ(使い端・洗場)」を設けている場所が多く見られます。
ツケエバタは、家の敷地から階段で堰の水面に降りられるようになっているような個人のお宅専用のものもあれば、公民館の脇や堰と交差する道沿いなどに階段を付設して集落共同で使うものの2種類あります。農機具を洗う他、洗濯や風呂の水を汲むために利用されました。
○博アーカイブはこちら
こちらは、豊村にあったタバコ製造所である河野商店の看板です。
櫛形地区豊は明治後期から昭和40年代まで蚕糸業が盛んな場所でしたが、明治37年以前は煙草製造と販売が主要な産業でした。
豊村誌(昭和35年刊)をみると、明治30年代に煙草製造と煙草草・製造煙草の仲買を含む会社が7社記載されており、その中に、明治27年1月創業 職工男女60人を抱えた河野商会の名がありました。当時の代表者名は看板と同じ河野伴右衛門さんですので、資料の看板も明治時代に作られたものであることが判ります。
また、「河野商店」の名は、同じく豊村誌の昭和33年7月の商業調査においても、煙草小売業リストに記載されています。しかし、この店が、明治27年創業の河野伴右衛門商店の流れを汲む商店であるのかは不明です。
←「KAWANO-SHOTEN 葉煙草売買兼製造業 山梨県中巨摩郡豊村 河野伴右衛門商店」看板
○博アーカイブはこちら
多くの人や車が往来する富士川街道沿いで、地域の誰もが見知る街の電気屋さんである「(株)齊藤テレビ」の、昭和20年代末から30年代末までの変遷とアルバム写真データを大まかな年順に整理しました。
○博アーカイブはこちら
伝単とは、敵の国民や兵士に降伏をうながしたり、戦意を喪失させる意図で、空から撒いたり街に掲示したりする、宣伝謀略用の印刷物(ビラ)のことです。
この「桐一葉」は、若草地区下今井出身で、太平洋戦争中に陸軍航空本部技手であった志村太郎さんが、太平洋北部のアリューシャン列島にあるキスカ(鳴神)島で拾ったもので、戦場で数多くばらまかれた伝単の中でも、ひときわ芸術性・文学性が高いものです。
色と形が桐の葉そっくりに作られているだけでなく、当時有名だった歌舞伎の演目「桐一葉」の内容を想起させる格調高い短文を付して、日本兵に軍部の衰退と滅亡を予感させています。
○博アーカイブはこちら
八田地区榎原の中沢製瓦店跡には、瓦を焼くために、大正時代に造られただるま窯が現存しています。
製瓦業が大正から昭和時代にかけて盛んであった南アルプス市域ですが、大正時代に造られただるま窯が、原型をとどめたまま現存しているのはここだけです。
○博アーカイブはこちら
こちらは、現在整理中の平岡河野家資料にあった、小笠原金丸商店が出した領収書です。
この領収書を見ると、購入した品名の箇所には、「白土、角又、晒、岩城」などの文字が見えます。
○博アーカイブはこちら
毎年、安藤家住宅のひなまつりで雛人形を展示するたびに、人形が収納されている箱の底に、人形を包んだり、緩衝材としてくしゃくしゃに詰め込まれている包装紙が気になり、ちゃんと広げて記録を取ったところ、その中に、現在も櫛形地区小笠原で営業している和菓子屋さんの、菓子袋と包み紙がありました。
○博アーカイブはこちら
こちらは、在家塚中込茂家所蔵資料の「文献72 鯛兵衛一件」です。
これは、農業の合間に綿商いを渡世(稼業)としていた在家塚(白根地区)の八百助という人が、仕事で現在の韮崎市方面に出かけた帰り道に、大変なトラブルに巻き込まれてしまった事件に関する、江戸時代(嘉永五年・1852)の文献です。
この文献は、具体的なトラブルの内容以上に、原七郷で江戸時代に行われた綿産業の実態が、八百助という一人の「農間綿商人」の活動を通して垣間見ることができます。
原七郷の産業の中で、養蚕以前では、綿は、煙草・藍と並んで根幹をなすものでした。甲州の西郡綿が、江戸時代の終わり頃に、在地の人々によって、どのような仕組みや過程をもって流通され、商売として成り立っていたのかを知ることができるものだと思われます。
○博アーカイブはこちら
白根地区西野でかつて種屋とよばれた蚕種家で使用されていた検尺器と顕微鏡。
その前に、この道具を使用した蚕種家についてですが、山梨県蚕糸業概史に記載されている大正14年蚕種製造業者調べによると、山梨県には大正14年に370の蚕種製造業者があり、そのうち現南アルプス市域が含まれる中巨摩郡には23の業者があったようです。
これらの道具は当時の白根地区西野村長谷部家の甲蠶館で使用されていたものです。
もっとも、地域の蚕種業者が活躍できたのは昭和初期まで。『昭和11年頃には蚕種の自家製造と配給を随伴した他県大資本製糸会社(郡是・鐘紡・片倉・東英語・昭栄)の特約取引の進出により(山梨県内の蚕種業者は)古くからの得意先を奪われ壊滅的に』なったとのことで、ちょうどこの頃に、西郡で最も大規模で有名な蚕種家でさえも休業したもようです。(昭和5年生まれの若草地区寺部在住者からの聴き取り等による).
南アルプス市甲西地区湯沢にある、お舟に乗ったお地蔵様。
こちらの「湯沢の舟乗り地蔵」については、平成7年に中巨摩郡文化協会連合会郷土研究部が発行した「中巨摩の石造文化財」にも取り上げられていて、そこには『安山岩製で高さ88cm、舟の長さ85cmで、水難守護・諸病平癒と祈願した。昔、旅をする時に、この地蔵にお参りして出発した』と記されています。
造立年は、舟の側面に銘があり、『享保四已亥年中 セ主湯沢村 塚原村』と記されています(岡野秀典氏『山梨県の岩船地蔵』 1999 山梨県考古学論集Ⅳ 山梨県考古学協会より)。このような御舟に乗ったお地蔵様は、「岩船地蔵」と呼ばれることも多く、享保四年(1719)造立のものが大多数です。岩船地蔵の造立は、享保四年に関東地方西部から中部地方東部にかけて流行した岩船地蔵信仰に由来するからです。
←「明治31年から39年記武州石川組製糸場女工より葉書表(西野功刀幹弘家資料より南アルプス市文化財課所蔵)
明治時代に、南アルプス市にあった西野村から、埼玉県の製糸場に出稼ぎに行っていた、相川福乃さんという女性がいました。
明治31年ころは、生糸のアメリカ向けの輸出増大で、日本中に大規模製糸場が次々と建設されていた時代。山梨県は、明治7年に県営勧業製糸場が創業(富岡製糸場は明治5年創業)したことで、蚕糸業萌芽期の先進地となり、明治20年代には甲府の製糸家が全国的に台頭するほどまでになっていました。
そのため、地元で器械繰糸技術を習得した山梨県内の女工たちが、次々と県外に新しく建設される製糸場から引き抜かれ、出稼ぎに行きました。
日本全国のどこにでも存在する火の見櫓(ひのみやぐら)は、各地域の住民たち自らが建てた防災施設の一つです。
江戸時代以前の古くから見張り台としての目的をもっていました。火災などの災害の早期発見をし、その上部に備え付けられた鐘を鳴らすことで地域に差し迫った危険を知らせたり、消防団員を招集するのに使用されてきたわけです。
地域の持ち物として、コミュニティの中心場にあることの多い火の見櫓は、まち歩きの際の重要なチェックポイントであるとともに、集落を象徴する景観の中に溶け込み一体化していることが多くあります。(甲西地区清水の火の見櫓※防火水槽上)
南アルプス市内にもたくさんの火の見櫓が点在しています。おそらくどれも昭和20~40年代に建てられ、使用されてきた火の見櫓がほとんどかと思われます。
「地方病とたたかうポスター」をご覧にいただきたいと思います。山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。
山梨県が製作したこの地方病予防広報・啓発ポスターを見出し部分から読んでみますと、『三百余年前から蝕ばまれ悩まされ続けて来た地方病 今こそ完全撲滅の絶好の機会!!県政の重大施策としてとりあげてここに三年、有病地の指定解除、宮入貝の減少、患者の著減等々成果は上々である。 この好期をおいていつの世に根絶することができよう、みんなで力を併せて一挙に駆逐するよう今一段の努力をいたしましょう。』とあります。
このポスターには製作年が記載されていないのですが、見出しの文面と、「現在実施している予防対策」の項にPCBという薬剤によるミヤイリガイの刹貝と、コンクリート溝梁化工事に年間一億のお金をかけている」といった文言があること、当該資料の含まれる資料群全体の年代構成からかんがみて、この地方病対策ポスターは、だいたい昭和30年代中頃に作られたものではないかと考えています。
雛人形が入っている箱に地元の呉服屋さんの名前が記されていることがあります。当時の呉服店は、節句人形の販売代理店としての機能も担っていたようで、西郡地域の人々が飾ったお人形は甲府の雛問屋で作られたものに加え、鰍沢の春木屋などの商家を経由して入ってくる駿河で製作された人形も多く流通していたと考えられます。明治大正期に昭和初期頃の西郡の人々が人形を求めるときには、
① 甲府の雛問屋か鰍沢の商家に買いに行く。
② 甲府の雛問屋から「ひなんどー、ひなんどー」との掛け声で、安価な横沢雛を籠に担いでやってくる売子から買う。
③ 初節句の晴れ着などを購入するのに合わせて、近所の呉服屋で売っている人形を買う。
の3つの購入方法があったのだと思います。
徳島堰は、韮崎市上円井の釜無川から取水し、南アルプス市曲輪田新田まで伸びる役17kmのかんがい用水路です。寛文5年(1665)、江戸深川の町人徳嶋兵左衛門が甲府藩の許可を得て工事に着手し、寛文7年には曲輪田の大輪沢(堰尻川)まで通水したといわれています。
それから昭和40年代に釜無川右岸土地改良事業によってコンクリート化され、「原七郷はお月夜でも焼ける」といわれた御勅使川扇状地扇央部の常襲干ばつ地域にスプリンクラー網が整備されるまで、開削から300年の間に大雨による埋没など度重なる逆境乗り越え、現在の徳島堰の形となりました。
そんな南アルプス市の豊かな田園や果樹園の景観を守り続けてきた徳島堰ですが、実際どのようにして取水され、どんな旅路を経て私たちの暮らす南アルプス市までその水がやってくるのでしょうか!?今回はそんな徳島堰を流れる水の旅路を追ってご紹介していきます!
堰沿いにある入戸野バス停
3つの発電所で大役を終えた徳島堰の水たち。そこからもう少し下流、入戸野沢との立体交差地点に差し掛かると丁度辺りは入戸野地区の集落となります。入戸野沢が水路橋で徳島堰を渡っているすぐ先。堰沿いには石造物とバス停、また集落中心地のシンボルである火の見櫓が並んで現れます。入戸野の町並みと徳島堰の変遷を見守ってきたであろう石造物の背面を流れる徳島堰。堰沿いの民家を見てみると、庭から堰の水面まで降りてこられるよう「つけえばた(洗い場)」が造られている箇所も多く、この徳島堰が集落の生活にいかに根ざし、溶け込んでいるかが伺える場所です。
釜無川右岸第二調整池
南アルプス市飯野新田地区に入った徳島堰は最後の任務に向けて第二調整池へ分水をしていきます!しかしよく見ると調整池といっているのに溜まっている水の姿が見えないどころか、一面綺麗に整地されたグランドになってしまってるのは一体!?・・。実は第二調整地はこのグランドの地下に貯水のタンクが作られており、グランド自体は地域の人たちへ無料で開放しているとのこと。どこまでも地域想いで太っ腹な徳島堰!この調整ここでも貯められた水たちは地下パイプライン網を通ってスプリンクラーへと送られていきます。頭首工からここまで約16kmの旅路の中幾度となく難所を乗り越えながら、髄所で取水の任務を果たしてきた徳島堰。最後の大役を無事勤め上げてそのエンディングへと進んでいきます!
昭和二十年 (一九四五) 八月十七日、 豊村満州開拓団本部で開拓団幹部ら百四十人あまりが爆死した悲劇がありました。
かつて原七郷と呼ばれた干ばつ地帯にあって、 養蚕と畑作を主な生業とする零細な農村であった豊村 (現在の南アルプス市上今井、 沢登、 十五所、 吉田) が、 新天地を求め国の政策によって、 旧満州国 (現在の中国東北部) の四道河 (しどうが、 スードーホー)と呼ばれる場所に、 分村入植した歴史があります。
昭和十五年 (一九四〇) 二月に先遣隊が出発し、昭和十七年 (一九四二)四月に本隊が入植、 記録によれば、 その規模は、 開戦時五十五戸、 百六十五人だったと伝えられています。 その後も入植は続き、 終戦時には、 より多くの人が豊村開拓団に暮らしていたことでしょう。
事件は、 終戦直後に起こりました。 昭和二十年には戦局は悪化の一途をたどり、 八月十五日、 ついに日本は無条件降伏をすることになります。 このころには、 旧ソ連も満州に侵攻してきており、 開拓団にも終戦の報は届いていましたが、 他との通信連絡は途絶し、 周辺の治安は極度に悪化していたといわれます。
このような中、 開拓団は度重なる 「土匪」の襲来を受けたといわれ、 応戦しましたが、戦死者もでていました。 弾薬が尽き、 負傷者も増え、 戦力も著しく低下し、 これ以上の交戦は無謀であるし、 重軽傷者を同道しての脱出は不可能であるとして、 追い詰められ孤立した人々は、 自決することに決したのです。 八月十七日、 村人の大部分にあたる百四十名あまりが、 本部建物に集合して防戦用に支給されていたダイナマイトに火をつけ爆死したと伝えられています。 その中には、 一歳に満たない乳児から、 七十歳を超える老人までいたそうです
集団自決の報は、 大やけどを負いながら生き延びた方が、 同胞のいる収容所にたどり着き、 悲劇を伝えて息絶えたことにより、今日に伝えられることになりました。 また自決からのただひとりの生存者であった女児は、 中国人の養父母に引き取られ、 いわゆる中国残留日本人孤児となって、 戦後長く故郷の土を踏むことができませんでした。
昭和三十二年 (一九五七) には、 この事件の慰霊碑が吉田の諏訪神社境内に建立され、その悲劇を今に伝えています。 そして現在も、 事件のあった八月十七日には、 毎年ここで慰霊祭が行われています。
アジア太平洋戦争では、 戦場で亡くなった方以外にも、 このように民間人も数多く亡くなっていることを忘れてはいけません。 この事件は、 民間人も戦争になれば否応なく巻き込まれていくことを我々に教えてくれています。
七月といえば、 昭和二十年 (一九四五) の七月六日の夜から七日の未明にかけて行われた甲府空襲が思い出されます。 この時は、甲府市街地が大きな被害を受け、 灰燼にきしています。
一方で、 南アルプス市域には、 アジア太平洋戦争による直接の被害はなかったと思われている方も多いと思います。 しかし、 記録をひもといてみると、 もうひとつの空襲が あったことがわかりまsu.
それは、 昭和二十年 (一九四五) 七月三十日。 アメリカ軍の艦載機が、 駿信往還 (旧国道五十二号、 現県道四十二号線) にそって南下し、現在の百々、 上八田、 鏡中条、 甲西地区南部、 そして富士川町の各地域を襲い、 爆撃と機銃掃射による被害をもたらしました。
特に甲西地区の荊沢では、 爆撃により民家二軒が破壊され、 三人の子どもが亡くなる痛ましい被害を出しています。
現在市が保管する、 大明小学校 (旧国民学校) の昭和二十年度の 『学校日誌』 の同日の項にも、
「午前六時半ヨリ三回ニ亘リ空襲アリ午後四時迄デノ空襲ニ於テ 初四 五味倫 爆撃ニ依リ破片ノタメ頭部ヲ粉砕セラレ即死ス 其ノ他 初六 土屋晴男 高二土屋けい子 死亡ス 学校ヨリ即刻見舞ヲナス 県ニ対シ電話及書類ヲ以テ報告ス」と記され、 当時の国民学校初等科四年生の五味倫( 九 )さん、 同六年生の土屋晴男 (十一 ) さん、 高等科二年の土屋けい子 (十五) さんが亡くなったことがわかります。 土屋晴さんとけい子さんは姉弟でした。
戦争による直接の被害がなかったかに見える南アルプス市域でも、 このような痛ましい事件があったことは記憶に残しておかなければなりません。 そしてアジア太平洋戦争全体を見渡せば、 市域出身のじつに千三百人以上の人々が世界各地で戦死したともいわれています。
西野功刀家より寄贈いただいた文書箪笥の中に、西野果実郷の父・小野要三郎直筆の手紙を発見しました。
「小野要三郎直筆功刀家宛書簡」
[明治45年1月17日 西野功刀幹浩家資料(南アルプス市文化財課所蔵)]
拝啓 謹言 昨日 上高砂小沢
伊ハ我承 是桃九十七代ト し
テ 委細ヲ入 金四百円ニテ 買
取呉候様申候 又 四五日
内之 又承知候ハ申付 無高
一寸申入候也
四十五年一月十七日
清水
小野要三郎
功刀七右衛門殿
南アルプス市域の果実郷では、その景観を作り上げた父と呼ばれる、小野要三郎という人物がいます。
石ころだらけで水のない不毛な御勅使川扇状地の土壌に、明治時代後半から次々と様々な果樹を県外から大量に取り寄せては植えて試作し、原七郷を多種栽培を基本とする果実郷に生まれ変わらせた中心人物です。
8月24日は今から186年前の天保7年(1836年)、山梨県では天保騒動という大規模な騒乱のさ中で、ちょうど現在の南アルプス市域が被害をこうむった日です。
天保騒動は、江戸時代後期の天保7年(1836)8月17日に郡内白野村での百姓一揆からはじまった騒動です。しかし、山梨郡熊野堂村の米穀商打ちこわしという当初の目的を果たした郡内の百姓たちが帰村した8月22日頃になると、騒動に乗じて参加した無宿人らが暴徒化して、大規模な強盗集団となり、国中(甲府盆地内部の村々)を暴れまわって、甲州の人々を恐怖に陥れました。
八田地区野牛島中島家文書の中に、要助さんという当時名主を務めた人物の日記帳があります。
(八田地区野牛島中島家文書「去申用気帳」)
白根地区西野村功刀家資料の整理で文書箪笥の中から大正初期(大正3年~昭和10年)の果物出荷に関する書簡が多数(130枚)見つかりました。表に打ち込んでみると、特に昭和5年と7年に、販売先の問屋とやり取りした葉書(以降、「果実売立葉書」と称す)がまとまっており、その年の出荷の動向を見ることができるものでした。
この地域で、大正5年に甲州中巨摩果実組合は発足していましたが、基本的に大正12年に西野果実組合ができるまでは、販路拡大と出荷は個々の家と問屋との、直接交渉・取引で、なされていたものと考えられます。
[大正期の果実売立葉書の一部(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)]
昭和14年(1939)のお正月に配られた引札(ひきふだ)をご紹介します。引札とは、明治期に多く作られ、配られた宣伝広告チラシのことです。
ご紹介する資料は、80年以上前に現在の南アルプス市飯野の倉庫町交差点の北にあった、麻野屋呉服店さんの配ったもので、主に旧正月の二日から五日までの四日間に開催する福引きについての引札です。
[「昭和14年倉庫町麻野屋呉服店引札」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課所蔵):このチラシには電話番号が記載されているので 、白根地区で昭和3年4月11日から電話交換事務が開始されたことを勘案して、卯年の昭和14年のチラシと判断した。]
ここをクリックしてください