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11.原方

暮らし・産業・文化
ふるさと文化伝承館(市文化財センター)

「ふるさと文化伝承館」が新しく生まれ変わって平成21年6月にリニューアルオープンしました。
愛称は「みなでん」
これからも皆さんとともに作り上げたい!という願いもこめて
「み・ん・な・で、み・な・で・ん」
って覚えてください!

世界的に知られる国重要文化財の「鋳物師屋遺跡出土品」をはじめ、市内の遺跡から出土した土器や石器、昔懐かしい民具などを展示しています。

当館では展示パネルを少なくし、スタッフによる展示案内などお客様とのコミュニケーションを大切にしています。不必要な場合にはお申し付けいただき、また、ご質問などはお気軽にお問い合わせいただければと思います。

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雨とサクランボ

かつて、収穫時に雨が降るとどんなに大変だったかを何人もの人から聞きました。

その中のお一人で、サクランボ栽培者の相川泉さん宅に、これまでの雨との闘いの歴史を教えてもらいに行きました。(平成30年9月7日訪問撮影)
色づきはじめた桜桃の実に雨粒が当たったり、降雨で土壌の水分量が急増すると、桜桃の実は瞬く間に破裂して、腐りはじめてしまいます。
相川さんによると、「サクランボはとてもとてもデリケートで微妙な作物。桃やブドウより難しい。」といいます。
しかも、寒いところが適すので、栽培南限の山梨では基本的に気候が合わず、さらにさらに難しくてリスクが大きいのだそうです。

桜桃は夏の間に花芽の分化をしており、猛暑で乾燥と高温だった場合の翌年のさくらんぼは高温障害が出て、出荷できない双子果が多くなりますが、農家にはどうしようもありません。
さらに、サクランボの実をもぐときにも細心の注意をしないと翌年に実がつかなくなってしまうので、サクランボ狩りで素人が収穫するのも大変なリスクがじつはあるそうです。

そして、一般的に「なりどし」と「うらどし」があるといわれています。南アルプス市ではそんなに大変で気難しい桜桃の栽培を、どんな知恵と工夫で乗り超えたのでしょう? 

昭和40年代はじめまでの桜桃には、まだ人工授粉や雨除け対策というものはされておらず、自然環境に左右されましたが、当時はまだ殺虫剤をそれほど使用していなかったので、花粉を媒介する虫も数多くおり、自然授粉でも大丈夫だったそうです。

[画像:個人所有]

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有野のシクラメンハウス

 有野の花卉栽培農家。

 白根地区の北西部にある有野周辺では、昭和20年代終わりまでは米麦栽培と養蚕が収入の柱でしたが、
昭和30~40年代にかけて、米麦栽培に代わってスモモ栽培や菊花の栽培が行われるようになります。
その後、花卉栽培に関しては、山梨県内屈指の大規模な施設園芸が展開され、切花だけでなく、シクラメンやシンピジウムなどの鉢植えの花の出荷が現在も盛んに行われています。

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飯野のそろばん教室

白根地区飯野に、昭和30年代から開塾しているそろばん教室に資料を見せていただきにまいりました。

そろばん教師の相川さんは全国的な和算の研究会にも所属され、そろばんに関するありとあらゆる資料を収集されている有名な方です。
かつて習い事は「お習字かそろばんか」という時代が長く、そろばん教室が各地で盛んに開かれてました。
相川さんのお話によると、明治以降に東京などの都会に出て一旗揚げたいという人も、まずは「読み書きそろばんを身に着けてから」でないと話にならなかったとのこと。
戦後も個人で使える電子計算機のなかった時代、金融機関でも行員がそろばんを使っていた昭和30年代には、複数の場所に教場を持っているような大手のそろばん塾が現在の南アルプス市内に5~6軒ほどもあったそうです。

昭和50年代になり、ピアノや水泳など習い事の選択肢が増えたきたころから、そろばん教室の状況はかなり変化してきたようですが、相川さんが開いていらっしゃる飯野にある珠算学院には、現在も小学生を中心に生徒さんが元気よく通っていらっしゃるとのことでした。

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飯野の夏の道祖神祭り(若宮神社お灯篭祭り前夜祭)

 白根飯野3地区で行われている、夏の道祖神祭りでは、ちょうど15時位から地域の男性が40人ほど集まり、
「ちょうまたぎ」または「雨屋(あまや)」とよばれる構造物を組み立て始めます。
30分ほどで骨組みが出来上がり、1時間ほどすると、屋根や提灯、風鈴、花などで美しく飾られらた「ちょうまたぎ・あまや」が完成します。

午後5時からは子供たち向けのリクリエーションもその前ではじまり、賑わいます。

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飯野の雛人形

南アルプス市飯野のあるお宅から90年ほど前の雛人形をご寄贈くださるとの連絡があり、受け取りに伺いました。

奥様が、私たちに見やすいようにと、二十年ぶりに雛たちを箱から出して飾ってくださっていました。
左奥の昭和初期製作と考えられる御殿飾り雛(ごてんかざりびな)は、奥様が韮崎市からお嫁にいらした時に、彼女のお母さまが家にあったお雛様を飯野家への嫁入りに持たせてくれたものだそうです。

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石丸銀行

明治以降の産業勃興により、資金調達のための銀行が市内各地に興りました。
明治の中頃、榎原の石丸真吾作も、資本金1万円で、自宅に「有限責任石丸銀行」を創始し、大正時代にわたり営業しました。
しかし繭価の暴落等による農村不況により、昭和初期までに、石丸銀行も含むそのほとんどが倒産しました。

[画像:八田村誌]

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石丸家と恵那蚕種山梨支所

 榎原二組観音小路蚕神のすぐそばの石丸家は、当家の親戚であった建築家内藤多仲がかつて甲府中学に通う際に下宿していたというお宅です。石丸家には古い井戸があり、深さ6.5mほどのところで水が溜まっています。水の乏しい榎原地区でも枯れることのない貴重な水源だったそうです。

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上高砂の枯露柿の輸出

写真は、高砂枯露柿組合作業所前での集合写真です。
枯露柿が出荷用の木箱に詰められ、積み上げられています。
残念ながら高砂枯露柿組合作業所のあった場所は、いまのところわかっていませんが、この写真の存在は、八田地区高砂の枯露柿が昭和初期にアメリカに向けて輸出されていたことを物語る貴重な資料です。

[画像:個人所有]

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上八田の「貴陽」授粉作業

 春先の南アルプス市の果樹地帯では、様々な品種のスモモの花が咲き誇り、農作業に忙しく動き回る人々に多く出会います。
上八田でスモモ「貴陽」を栽培する小野家の授粉作業は、3月中旬に受粉専用樹ハリウッドの花摘みからはじまります。
それらを葯(やく)採取機にかけて、花粉の入っている袋=葯(やく)だけを取り出し、その後、二晩かけて家屋内に広げて開葯させたところで、授粉作業に取り掛かります

貴陽の場合、作業は花が満開になるころまでに、同じ樹に5回に分けて行います。

 南アルプス市域では、スモモの花の開花を皮切りに、切れ目なく次々とサクランボ、モモ、カキの花が咲きそろい、いろいろな果樹の花が同時に見られます。果樹地帯ならではのお花見もとても美しいものです。

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上八田那賀都神社の大嶽講

上八田薬師堂にある那賀都神社(なかとじんじゃ)では、大嶽講(だいたけこう)がいまも行われています。

ろうそくに火をともし、太鼓をたたく音に合わせて「ダーイターケサーンナーカトーノジーンジャー、オーヤーマズーミノーカミー、オーイーカヅチノカミ、タカオーカミノーカミ、ロッコーンショージョー、ツツシミウヤマイテ、キーガーンタテーマツールー」と節をつけて何度も祝詞を唱和します。

 講の手順をまとめると、「講の仲間が集まったら堂の中に入り、年長者が太鼓をたたいて音頭をとって、『大嶽山那賀都神社祝詞』を10回皆で唱える。
その際、回数を間違えないように、白い碁石を並べて数える。さいごにもう一度みなでゆっくり同じ祝詞をあげておしまいにする」というものです。

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上八田の「葱苗」出荷

 葱苗の栽培と販売は、白根地区上八田の伝統的な産業です。
 上八田の葱苗売りは、毎年、三月上旬から五月中頃までの間に行われており、昭和30年代から50年代が最盛期でしたが、平成に入り、葱苗栽培をする農家は少なくなりました。
そんな中、上八田西小路の小野さんの栽培する葱苗は、毎年、富士五湖周辺の二つの農協と大口の取引があり、水はけの良い御勅使川扇状地で栽培する上八田の葱苗の質の高さは今も評判がよいそうです。

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上八田の葱苗畑

 上八田には、原七郷伝統の葱苗栽培の様子を物語る貴重な現場が一ヶ所遺されており、桃畑の樹間に葱の苗がびっしり植えられているのを見ることができます。

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榎原の蚕神

道祖神と並んで立つ榎原の蚕神。

現在は果樹の広がる耕地が、昭和40年代初めまではいちめんの桑畑でした。
蚕神の碑は、病気に弱く、当たりはずれの多い蚕の健やかな成長を願って日本各地に建てられました。
大正から昭和にかけて建てられた養蚕繁盛を願う蚕神(蚕大神)の石造物は、他に上高砂と下高砂、徳永にもありますが、榎原二組観音小路に建立の蚕神が一番古く、大正七年戌午二月十日と刻まれています。

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花卉栽培の歴史

南アルプス市域の北西部で現在10軒ほどの花卉栽培農家があり、鉢植えの花栽培では県内一の生産量を誇っています。

施設を使っての花卉栽培は季節を問わず一年中仕事ができることと、利益率が良いことが魅力です。

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柿の硫黄燻蒸

干し柿作りには硫黄燻蒸が欠かせない工程の一つです。

「ホッタ回し」というへた周りの形状を整える作業後、側面の皮を剥いた柿は、まず硫黄燻蒸されます。大正時代に福島で発明された工程だといわれています。

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柿の屋外干し

 11月から12月、八田・白根地区を歩くと、いたるところで柿剥きが行われている様子が見られます。
そのそばには、剥きあがった鮮やかなオレンジ色の柿が可動式の棚に吊るされて、硫黄燻蒸室に順々に運ばれるのを待っています。
周辺の露地にまで、柿の上品な甘い香りがほのかに漂ってきて、季節感あふれる秋の空気で満たされます。
9月の終わりころから空調管理の整った屋内での乾燥をはじめ、11月に入ってから屋外の干場にようやく柿が吊されます。

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柿干し台の扇風機

 上高砂・下高砂地区では、枯露柿やあんぽ柿を作るために、戸外で柿干しが行われている光景がよくみられます。
今では、専用の火力乾燥施設によって乾燥させる農家が多くなっていますが、上高砂・下高砂地区ではいまだ、天日干しが行われており、11月~12月初めにかけて、各家の干し台に揺れる美しい柿の暖簾を愉しむことができます。
戸外干しの場合(特に上高砂区に多い)には、ブーンという大きな音とともに吊るし柿の傍らに置かれた大型扇風機が大活躍している姿にも驚かれることでしょう。

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上八田の百万遍

 南アルプス市白根地区上八田4区では、所属する薬師小路(やくしこうじ)・西小路(にしこうじ)・大下小路(おおじもこうじ)で百万遍講が小正月の時期に合わせて行われます。
(←西小路の様子)

 百万遍は地域の人々が集まって鉦(かね)と太鼓を鳴らしながら念仏を唱え、疫病退散や家内安全を願う行事です。
年に一度の百万遍講は地区内の当番の家(当家・とうや)の座敷を道場として、一年ごとに順に各家を回って行われています。
その年の道場となった家に男性のみが集まり、座敷内に縄張りがされ、梵天(ぼんてん)と呼ばれるオシンメイ(お注連)や御札、提灯、など独特なしつらえがされます。

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上今諏訪原家のSSと農業の変遷

南アルプス市内のあちこちで見かけるSS(スピードスプレーヤー)を使った農作業の様子です。
SSは、潅水や防虫害除けのための薬剤散布をするための作業車ですが、中でも南アルプス市域において最も所有率の高い500リットルタイプの小型SSの使用状況を、上今諏訪の原家所有のサクランボ園で見せていただきました。

山梨県のサクランボ栽培は、通常サイドレスハウス内で行われているので、小回りが利く小型のSSが重宝されています。

SSはサクランボ以外にも果樹全般(モモ、スモモ、ブドウ、カキ、キウイフルーツ)の作業に頻繁に使われます。非常に細かい霧状の水が後方についているノズルから180度放出されるしくみです。

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上高砂の道標

上高砂集落内の小さな交差点に道標あります。

「左甲府」とわかるのですが、「右???」が読めません。 
道標に和紙をのせ、拓本を取ってみると、「左 甲府」「右 小笠原」と読めました。(「原」の字の半分がアスファルトに埋まっています)
 しかし、今ある位置では方向が違うので、別の場所から移動してきたとわかります。上高砂地区でご存知の方を探して教えていただきましたところ、新しい道標を建てたために不要になったのでこの地に運んできたとわかりました。
その場所とは、龍王から信玄橋をわたって上高砂地域にはいり、左側にあるスーパーオギノの手前を入る道の隅(上高砂の消防小屋の前)でした。
現在建っている道標を読むと、「昭和4年3月17日に御影消防団第三部建」とありますので、その時からこの場を離れ、いまは上高砂集落内にひっそりと佇んでいたのです。
地図で見ると、釜無川を渡って旧道が下高砂方面に曲がる当たりの南側にあたり、位置的にも方向的にも矛盾がないことを確認できました。
長い間路傍にあり、多くの人々の旅の安全を守りながら役に立ってきた道標を、新しいものができたからといってそのまま打ち捨ててしまうことができなかったのでしょう。
当時の上高砂の人々の心情が時を超えて伝わります。

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喜久屋商店

南アルプス市白根地区西野区内に大正時代初期に、開店したばかりの喜久屋商店。
大正時代から昭和10年代まで営業されていた喜久屋商店は櫛形山の中腹にある高尾の夜祭で有名な穂見神社に向かう通称高尾街道沿いにあります。
甲府方面から釜無川を渡って参詣する主要ルートであったため、西野区内でもこの街道に面する家では喜久屋商店の他、呉服屋や薬屋を営むものが2・3軒ありました。
喜久屋では、創業した芳明氏が甲府一高で同級生だった倉庫町の山梨商会経営者の協力を得て、駿信往還沿いの倉庫町にも進出し、タクシー業務部と臨時支店をもちました。
現在でも11月22日~23日にかけて、高尾穂見神社の夜祭が行われます。
かつては高尾山にある穂見神社を目指して、提灯を持った人々の行列が夜通し街道を多く行き交ったといいます。

[画像:個人所有]

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旧六科稚蚕共同飼育所

南アルプス市といえばいまは果樹栽培地として有名ですが、
水はけの良過ぎる御勅使川扇状地で生き抜いてきた先人たちがいままでに栽培した代表的な作物には、小麦・藍・煙草・綿花などがあり、明治以降、昭和40年代くらいまでは養蚕が盛んに行われていました。

しかし、全国的に昭和50年代に入ると、化学繊維の台頭によって海外生糸輸出は停止し、和装離れによって国内需要も著しく低下しましたので、現在は蚕糸業(養蚕業から製糸業という一連の流れをまとめて呼んだ業種名)という産業そのものが実質的に消滅したといわれています。 

南アルプス市では、水の豊富な中南部を中心に明治20年頃には、大規模な製糸場2社がすでにあり、大正、昭和初期には規模の大きなもの(50釜以上)だけでも20社ほど存在しました。

戦後も市内には中小15社以上ありました。
それに伴う製糸場の原料を供給する力=繭の生産力も大きかったということです。 

しかし、蚕糸業が終焉を迎えてから50年ほど経ち、市内各地どこもかしこも桑畑の風景は一掃され、あれほど身近だった養蚕風景も、製糸場から漂うあの独特なにおいも、経験できないものになってしまいました。

それでも、八田地区内にまだ養蚕の痕跡を見つけることができました。

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九頭竜神のおこや

南アルプス市八田地区上高砂区には、洪水除けの神様として勧進された九頭龍神の祠が神明川沿いに3箇所あります。
7月の最終日曜日に、これらの場所で夕方からお祭りが行われています。

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果物の緩衝材「木毛(もくも・もくず)」

 「木毛」とは、木材を糸場に削り、デリケートな果物を梱包する際に詰め物にした緩衝材のことです。
全国的には「木毛」と書いて、「もくめん」とか「もくもう」というようですが、ここ南アルプス市白根地区では「もくも」や「もくず」と呼ばれているようです。
現在では、「ウッドパッキン」として販売されてもいます。

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県内初のSS導入

スピードスプレーヤー、通称エスエス(以下、SS)は薬剤噴霧器を搭載した特殊車両のことです。

果樹地帯である南アルプス市内では、春先から晩秋にかけて、道路ですれ違ったり、交差点で信号待ちしていると前後に挟まれたりなんかして真っ赤なダンゴムシみたいなかわいい車体のSSに、普通に遭遇します。

SSの大手メーカーさんに聞いたのですが、「山梨はSSの年間販売台数が全国一ダントツに多い」というのです!
大手3社合わせて年間約300台も売れる県は他にないのだそうです。
隣県の長野県や静岡県では年間100台にも届かないそうです。
山梨以外の日本の名だたる果樹栽培県では、集約した農地を持つ比較的規模の大きな農家が積載容量1000リットルキャビンタイプ等、大型のものを買う傾向にあるのに比べ、山梨は500リットルタイプの小容量が主流ですが、果樹栽培一家に一台ほぼ存在しているので、販売台数が多くなるようです。

そういえば、この辺の住宅街の車庫には普通乗用車の横にSSが停めてあるのを見るのはフツーです。

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SS導入の歴史

 スピードスプレーヤー、通称エスエス(以下、SS)は薬剤噴霧器を搭載した特殊車両のことです。山梨はSSの年間販売台数が全国一ダントツに多いです。そのため、南アルプス市内でも、春先から晩秋にかけて、日常的に町の中でSSに遭遇します。
 そして、果樹王国山梨県で一番最初にこのSSを導入したのは、我が南アルプス市の西野農協で、昭和33年(1958年)1月25日に導入されました。この日は、西野農協共選所そばの西野小学校校庭に天野山梨県知事を招いて、入魂式がおこなわれたそうです。

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航空本部跡と兵舎

このあたりに航空本部が置かれた。現在その面影は殆どないが、本部敷地内にあった温室が兵舎に転用され、戦後温室にもどされて、現在まで残っている。
太平洋戦争末期になると日本本土は、米軍から直接爆撃を受けるようになり、東京立川にあった、立川航空工廠の昨日を疎開させ、その存在を隠す目的で構築されたのがロタコ(第2立川航空工廠の暗号名)だといわれています。

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猩々の人形と疱瘡神

 西南湖にある重要文化財安藤家住宅で行われる「安藤家住宅ひなまつり」では、貴重な横沢雛が飾られます。
甲州で明治大正期に多く作られた横沢雛には童子をモデルとした人形が一番多いのですが、他に、成人女性や男性、妊婦、長生きの象徴としての老夫婦、七福神などの神様などモチーフに多くのバリエーションがあります。

 その中でも、ひときわ異質なのが、赤い髪の中国の伝説の妖怪、猩々(しょうじょう)のお人形がです。
猩々は、能の演目にも真っ赤な装束で登場する中国の伝説上の生き物のことで、赤毛で人間のような容姿をしており、酒を好むとされます。
また、赤いものを嫌う疱瘡神を追い払うという伝承もあり、子供の健やかな成長を願って送られたものと思われます。

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保坂呉服店

西野にある保坂呉服店は昭和2年に高尾街道沿いの椚に開店しました。←昭和20年代終わりころから30年代はじめの撮影と思われる保坂呉服店の様子。(保坂和子家アルバムより)
 西野区内の高尾街道沿いには、保坂呉服店さんの他に、乾物屋、酒屋、薬屋、日用雑貨店などがありましたが、現在も営業されているのは、保坂呉服店のみです。
 甲府から高尾穂見神社に参詣する人々が釜無川を渡って今諏訪の坂を上り、慈眼寺のあたりで戸田街道から離れるように右に曲がって西野へと進む道が、高尾街道です。保坂呉服店はその街道の通り道にある西野の椚(くぬぎ)集落にありました。
 和子さんが「11月の半ばに行われる高尾の夜祭に出かける人々向けて、街道沿いに面する商店の前では「茅飴(かやあめ)」を売っていたみたいよ」と教えてくださいました。
かつては茅飴づくり用と伝わるおおきな鉢がお宅に残されていたそうです。
提灯を持ったたくさんの人々がこのお店の前を行き交ったのでしょうね。

[画像:個人所有]

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下高砂のホッタ回し名人(あんぽ柿)

八田地区下高砂の柿のホッタ回しの名人、穴水さん。

こちらの名人は機械を使わず、愛用の小刀一つで、シーズン中は毎日、何百個もの渋柿のホッタ回しをなさっています。
穴水さんは昭和30年代前半に下高砂にお嫁に来てから、かれこれ60年もの間、11月には柿仕事をしているそうです。

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昭和11年の中島商店通帳

これは、昭和11年の通帳(かよいちょう)です。
この通帳は野牛島にある中島商店で発行されたものでした。
現在でも、少量ずつですが、魚やお肉、野菜、果物、お菓子に日用雑貨、子供向けの駄菓子もありますし、電化製品だって売っています。
毎日開いているし、まさに地域に不可欠な商店です。

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枯露柿の火力乾燥法の完成

明治以降、甲州枯露柿は山梨の主要輸出品の生糸や水晶等と並んで重要な輸出品のひとつとして数えられていましたが、
大正時代に入ると輸出先での顕微鏡検査で枯露柿の表面に多数の有害微生物がみられるとして、衛生的見地から天日干しという製法の問題点が指摘されるようになっていました。

この問題解決にいちはやく反応した生産者が、白根地区西野の当時30歳代であった手塚光司氏でした。
昭和5年か6年頃から光司氏が枯露柿の火力乾燥に関する研究を行い,昭和9年に乾燥室の装置、加工法、排気装置、温度、燃料等を開発し、火力乾燥法を完成させます。

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女子挺身隊

上高砂集落センターにて枯露柿生産農家のノリコさんとお話しました。
その時に「わたし、女子挺身隊だったのよ。終戦の時に愛知にいたのよ」と教えてくれました。
女子挺身隊とは、戦争中に軍需工場へ勤労動員された14歳以上の未婚女性の団体のことです。
 高砂名物枯露柿のお話を伺おうとしていたので、突然現れた「女子挺身隊(じょしていしんたい)」という聞きなれない単語に一瞬とまどいながらも、またとない機会に遭遇できたことに感謝しました。
冷戦後しばらく安定していた世界情勢ですが、その変化を実感するいま、戦争を知らない私たちにとって、戦争経験者の証言を直に聞くことができるのは貴重な体験です。
大東亜戦争が終結してもう70年以上経っていますから。

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メロンの掛け紙

果物の出荷用掛け紙

西野の芦澤家のお蔵の戸棚から、メロンを出荷する際に使用された、掛け紙が見つかりました。
富士山とブドウ、一番手前にメロンが描かれています。

メロンは大正から昭和初期にかけて西野の特産品でした。
掛け紙の遺されていた芦澤家には、メロン栽培に当時使用していたガラス温室等の写真も残されていました。
収穫され、生産者の名入りの掛け紙をまとったメロンは、昭和5年に開業した峡西電鉄西野駅の引き込み線にあった果物専用貨物ホームから、東京や関西等の大都市部へ出荷されました。

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六科の百貨店「だるまや」

八田地区内の、野牛島なら中島商店、徳永は手塚ストアー、下高砂は杉山商店、榎原は杉山定平商店といったように、それぞれの居住地域には日々のお買い物をする店が必ずありました。

さらに、昭和時代を生きた八田・白根地区の人が、口をそろえて買い物にいったことがあると答える店が六科にありました。その名は「だるまや」。
食料品、日用品をはじめ、衣類や薬など何でもそろう、この辺りでは一番規模の大きい商店だったようです。

[画像:個人所有]

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杉山定平商店

杉山定平商店は、榎原の長谷寺に続くバス通り沿い、榎原上のバス停前にありました。

平成10年ごろに閉店したお店ですが、昭和時代のはじめから終わりまで、地域の多くの人々が、日常的に利用した思い出深い場所です。
 経営者だった杉山定平さんの奥さんの杉山つるこさん(大正8年生)を訪ね、貴重な写真を見せていただきながらお話を伺いました。
こちらの写真の左端で赤ちゃんを抱っこしているのが30代になったばかりのつるこさんです。

[画像:個人所有]

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メロンのガラス温室

この写真は昭和9年頃に西野で撮影されたメロン栽培用の温室内での一コマです。
立派なメロンにそっと手を添えている少年はその時、2歳6か月だった功刀幹浩さんです。
ちっちゃなあんよに不釣り合いな大きな下駄もかわいらしいですね。
その後ろで、幼い幹浩さんの背中をやさしく支える男性は、当時功刀家で働いていた文貴男さんです。撮影したのは幹浩さんの父で、温室栽培を南アルプス市に初めて導入した功刀七内という人です。

[画像:個人所有]

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西野ブドウ栽培者の流儀

白根地区の果樹栽培者には、「品種の先取りにより、経営を安定させていく」という伝統的な考え方があります。

ブドウの木の経済寿命は30年だということで、常に、次期はどんな品種が流行るか見据えたうえで木の改植を順次行っていかなければならないのだそうです。

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大和百目の園地

現在、南アルプス市域では、あんぽ柿・枯露柿が盛んです.

その原料となる渋柿には、9月終わりから12月にかけて、刀根早生・平核無・勝平・大和百目・甲州百目・武田などの品種が移り変わっていきます。
そのうち、勝平と大和百目の原木は南アルプス市白根地区にあったものです。
とくに大和百目は、甲州百目とならんで、現在山梨を代表する大型の枯露柿の原料として大変人気があり、南アルプス市域で多く生産されている品種の一つです。
大和百目という品種の歩みは、西野に近接する上今諏訪の手塚半氏の竹林の中にあった一本の柿の木からはじまりました。
この木は甲州百目の枝代わりと言われていましたが、果実はそれ以上の大きさで、その上、核(種)が少なく、甲州百目よりも早く熟します。
枯露柿用として用いると、果肉が非常になめらかで食感がよく、色も鮮やかに仕上ります。

この樹の柿に魅せられた西野の手塚光彰氏が、今諏訪の原木から穂木をとって苗木に仕立てて、大正7年3月に、現在の桃ノ丘団地付近に50本の苗木を植え、当時としては珍しい柿の園地を造成しました。

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まぼろしの西野白桃

ひとくちに桃といっても、7月から9月まで時期によって旬の品種は移っていきます。

現在南アルプス市で栽培されている桃の代表的な品種には、「日川白鳳」「夢みずき」「白鳳」「あかつき」「川中島白桃」等がありますが、どの品種も色つきが良く、糖度が高いのはもちろんで、その上、日持ちが良い硬質の果肉であることが人気栽培品種の条件となっています。
そう、最近の桃はとっても甘いのに、リンゴのように皮をむいてカリカリと食べられるのです。
 昔食べた、果汁が滴り落ちるような柔らかい桃は現在の市場では出回りません。
いまどきの流通システムに対応した共同選果が、傷がつきやすく痛みやすい桃に不向きだからです。そのために、かつて水密桃といわれたような、食べると果汁で口の周りがベタベタするような果肉の柔らかい品種の桃は淘汰されていきました。
その淘汰された桃の品種のひとつに「西野白桃(にしのはくとう)」があります。

[画像:個人所有]

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百々に遺る「蚕神」

 明治20年代から、現在まで果樹栽培を産業の大きな柱としている山梨県南アルプス市の白根地区ですが、明治30年代までは果樹よりも煙草の栽培の中心地として有名であり、その後、昭和40年代初めまでは養蚕も多く行われ、製糸業も盛んな地でした。中でも、白根地区には蚕糸業にまつわる痕跡がいくつか遺っています。

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タガシラセギ

 『タガシラセギ』とは、在家塚で現在も使われ続けている利水施設のことです。
江戸時代以降、扇状地のど真ん中に位置する在家塚での新田開発を可能にしたこのタガシラセギは、明治・大正・昭和と水田用の灌漑施設として使われ、その後産業の移り変わりとともに、桑栽培、果樹栽培へと使用されています。

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西野巻屋のちょうまたぎ

昭和10年代撮影と思われる西野巻屋地域の「ちょうまたぎ」。

集合写真の後ろに大きな提灯をたくさん吊るした「ちょうまたぎ」が写っています。
かつては西野の八幡神社参道立てられたそうです。
現在市内では飯野若宮神社の夏の祭礼でのみ見ることができますが、かつては白根地区各地で行われていたといわれています。
この写真の存在により、西野地区の「ちょうまたぎ」の存在と姿が明らかになりました。
昭和30年代にはすでに西野のちょうまたぎは消滅していたようです。

※「ちょうまたぎ」とは屋根を持った組み立て式の大きな門で、たくさんの提灯が下げられたもの。

[画像:個人所有]

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諏訪神社のハト瓦

野牛島の諏訪神社の屋根には、美しく高く積み上げられた棟にハトが向かい合ってとまっています。
遠目でみると本物に見えます。さらに、曲線の瓦の絶妙な配置が高く美しい棟を形作っています。
 八田の榎原地区には昭和時代に製瓦業を営んでいた中沢瓦店がありましたから、輸送コストがあまりかからない分、ふんだんに瓦を使った贅沢な屋根が多い地域なのかもしれません。
この鳩瓦も中沢瓦店で作られたものかもしれません。

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ひしけいさんの問屋そろばん

「ヒシケイさん」と呼ばれて地域に愛され、現在も飯野で開業している街の文具屋さんですが、その前身は自転車の販売店でした。

当時を知る斉藤さん、中澤さんにその頃の様子を伺ったところ、昭和20年位(終戦直後)までは地域で一つしかない自転車屋さんだったそうです。
その時、自転車を購入したお客さんに、おまけとして「ゼブラの自転車 ヒシケイ分店 飯野驛北」の名入りの問屋そろばんを配っていました。

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百々と有野のどんど焼き

「百々の北新居のどんど焼き」
 富士川街道と交差する百々交差点を超えたところ行われています。立派な幟が2本たっていましたが、住宅街なので、火はこじんまりと、コンクリート製のブロックの上に鉄板を敷いて燃していました。
 古典的な枝差し型の繭玉をもった小さな子供二人が、大勢の大人たちに見守られながら焼いていました。

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南岳荘

県道甲斐芦安線を挟んで六科の八幡神社の向かい側にある清水油店タンク奥をよく見ると、レトロな倉庫があります。
もとは現在の下高砂集落センター隣の徳永地区に建っていました。その前には所有者の 現在は倉庫として使われています。
実はこの建物、昭和4年に若尾逸平の娘婿若尾金造がキリスト教伝道等を目的として建てた講堂(青年道場)でした。

南に富岳を朝夕仰ぐその名も「南岳荘(なんがくそう)」。

甲斐山岳会の会長もつとめた若尾金造は外国人を引き連れて南アルプスの山々を開発する際、若尾銀行の番頭で田之岡村徳永出身であった清水謹一の縁でこの地を事前宿泊地とし、南岳荘と呼んだのがはじまりです。
清水謹一氏の息子で、現在この南岳荘を六科に移転して所有し、徳永のかつての所在地であった場所にお住いの清水禎次郎さんから、いろいろと教えていただきました。

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ハリウッドの花摘み

 春先に、上八田の果樹地帯を歩くと、スモモの花を枝からもいで集めている上八田の方々に出会います。
花粉を集めるための花摘みは、果樹地帯の春本番を告げる風景です。

 上八田では、昭和40年代後半になると、養蚕をやる家はなくなり、西野や在家塚、百々一帯からつづく一面の果樹地帯となりました。その頃から現在まで、上八田も南アルプス市のスモモ生産量日本一を担う地域の一つとです。

 この「ハリウッド」という品種のスモモの花粉は、同じスモモの「貴陽」の受粉用として白根地区で多く使われています。
この樹の花が果樹地帯で年度末にいち早く咲き始めると、春の訪れを感じさせます。

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西野農協の糖度センサー(現南アルプス西野支所)

最近は、スーパーに並ぶ果物に「糖度保証」のシールが貼られているものが増えてきました。
少々高めのお値段なのですが、ついついそちらに手が伸びてしまいます。果実を傷つけずに食べる前から甘さを保証できるなんて、ふしぎ~ですよね。
現在では、桃・林檎・梨・蜜柑といった多くの果物の選果に使用されている非破壊式の糖度センサーですが、最初は外見からではわからない食味のバラつきに悩まされていた桃のために開発されました。

昭和62年から山梨県と山梨県果実農業協同組合連合会(果実連)・三井金属鉱業株式会社が協同して開発がはじめられ、一宮と西野の農協で測定実験が行われた後、平成元年にさっそく本格導入したのは、旧白根町にあった西野農協(現南アルプス市)が最初でした。

「人工衛星から電波を発信して地球の鉱物資源探査をしている特殊光線を利用することで,桃を破壊せずに糖度を測定できるのではないか」
という話を三井金属工業の技術者から聞き、これに賛同した山梨県の果樹産業関係者とはじめたプロジェクトだったそうです。
ちょうど桃の出荷中だった8月1日に、世界で初めて平成元年に桃の非破壊式糖度センサーを導入したJA南アルプス市西野支所(導入時:西野農協)へ、現在の稼働状況を取材に行きました。

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西野のメロン記念碑

大正14年に現南アルプス市西野の功刀七内氏によってはじまったガラス温室によるメロン栽培ですが、昭和初期には西野周辺地域(現白根地区)の名産品として、全国的に名をはせるようになりました。
昭和初期以前から当該地域にお住いの家の方に、古いアルバムを見せていただくと、メロン栽培に関わっていたご先祖の姿が写し出されているのをよく目にします。

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源の水路に設けられた蚕具洗い場

 有野に遺る蚕具洗い場は、現在は使われていませんが、今も人々が行き交う道脇の水路にあります。白根地区内でも特に養蚕が盛んだった有野では、棚や飼育篭など比較的大きな蚕具でも洗いやすいように、水路から水を引き込む洗い場がコンクリートで広めに区画されています。

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高砂の枯露柿製造工場

八田の高砂地区は、「まるたか(○に高)印の枯露柿」というブランドで、干し柿を生産し、年末のお歳暮用として東京や関西へ、
また戦前はクリスマス向けの贈答品としてアメリカへも出荷しました。

「山梨県中巨摩郡御影村 小澤徳蔵 枯露柿製造工場」と記されたポストカードが遺されています。
画像は昭和初期の様子だと考えられます。
場所は釜無川沿いということですが、柿の後ろに前御勅使川堤防跡である「お熊んどい」の松並木が写りこんでいることを考慮すると、上高砂と下高砂の境に近い地点でしょうか?

[画像:個人所有]

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八田御牧(はったのみまき)から八田庄(はったのしょう)へ(ふるさとメール2007年8月1日号)

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戦国時代の哀しきヒロイン 西野姫(せいやひめ)(ふるさとメール2007年10月15日号)

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むかし飛行場があった ~ロタコ(御勅使河原飛行場)~①(ふるさとメール2008年7月15日号)

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むかし飛行場があった ~ロタコ(御勅使河原飛行場)~ ②八ヶ岳に向かいまっすぐ延びる滑走路(ふるさとメール2008年8月1日号)

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むかし飛行場があった ~ロタコ(御勅使河原飛行場)~③横穴壕(よこあなごう)(ふるさとメール2008年8月15日号)

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むかし飛行場があった ~ロタコ(御勅使河原飛行場)~④町のいたるところに見られるロタコの痕跡(ふるさとメール2008年9月1日号)

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信玄伝承の治水事業 ~暴れ川御勅使川を治める~(ふるさとメール2007年12月14日号)

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御勅使川扇状地の生命線 石積出(いしつみだし)(ふるさとメール2007年12月29日号)

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堤の原風景 霞堤(かすみてい)(ふるさとメール2008年11月14日号)

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能蔵池 赤牛のわん貸し伝説 (ふるさとメール2009年10月15日号)

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小正月に行われる伝統行事-どんど焼き- (ふるさとメール2010年1月15日号)

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7年に一度の大祭 今諏訪の御柱祭り(ふるさとメール2010年2月15日号)

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西野にあった江戸時代の手習所 ~松声堂~ (ふるさとメール2010年4月15日号)

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御勅使川扇状地の物語 ~1.御勅使川と集落~ (ふるさとメール2010年6月15日号)

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百々はなんと読む?(ふるさとメール2008年1月15日号)

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白狐の伝説残る常楽寺(ふるさとメール2008年4月 1日号)

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橋は世につれ世は橋につれ(3)(ふるさとメール2012年9月14日号)

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橋は世につれ世は橋につれ(4)(ふるさとメール2012年10月15日 号)

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橋は世につれ世は橋につれ(5)(ふるさとメール2012年11月15日号)

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近代和風建築に命を吹き込む(1) ~白根桃源美術館~(ふるさとメール2013年1月15日号)

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近代和風建築に命を吹き込む(2) ~デイサービスセンタースマイル~(ふるさとメール2013年2月15日号)

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樹木を守り伝えるために(ふるさとメール2013年4月15日号)

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ミクロの世界から見た扇状地の食生活 (ふるさとメール2010年7月15日号)

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御勅使川扇状地を潤す徳島堰 (ふるさとメール2010年9月15日号)

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野呂川話 ~長い長い水を求めた物語 第一幕 江戸時代~(ふるさとメール2013年8月15日号)

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野呂川話~長い長い水を求めた物語ー第二幕明治時代~(ふるさとメール2013年9月15日号)

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水を求めた扇状地の人々 ~雨乞いのパワースポット長谷寺~ (ふるさとメール2010年10月15日号)

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野呂川話~長い長い水を求めた物語ー第三幕大正・昭和時代~(ふるさとメール2013年10月16日号)

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野呂川話 ~長い長い水を求めた物語-第四幕 昭和20-40年代~(ふるさとメール2013年11月15日号)

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元禄赤穂事件と南アルプス市 ~忠臣蔵のもう一つの楽しみ方~(ふるさとメール2013年12月16日号)

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水を求めた扇状地の人々 ~雨乞いのパワースポット大笹池~ (ふるさとメール2010年11月15日号)

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平安時代の信仰(1) ―御勅使川扇状地の観音信仰―(ふるさとメール2014年4月14日号)

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御勅使川扇状地の物語 ~扇状地で培われた西郡魂~ (ふるさとメール2010年12月15日号)

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南アルプス市の城館跡(1)椿城の伝説1 ~二人の城主~(ふるさとメール2015年2月16日号)

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新発見レポート ~水と木と石が紡ぐ物語~(ふるさとメール2015年3月16日号)

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南アルプス市域を駆けた武田家臣団 その1■真田昌幸(さなだまさゆき)(ふるさとメール2016年2月15日号)

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南アルプス市を駆けた武田家臣団 その4■河村 道雅(かわむらみちまさ)(ふるさとメール2016年5月13日号)

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南アルプス市を駆けた武田家家臣 その5■ 土屋昌続(つちやまさつぐ)(ふるさとメール2016年6月15日号)

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南アルプス市を駆けた武田家家臣 その6■ 土屋惣蔵昌恒(つちやそうぞうまさつね)武田家と命運をともにした武将(ふるさとメール2016年7月15日号)

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平安時代の信仰(3)― 山懐の秘仏 ―(ふるさとメール2014年6月13日号)

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南アルプス市を訪れた人々(1)伊能忠敬 その1(ふるさとメール2016年8月15日号)

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南アルプス市を訪れた人々(2)伊能忠敬 その2(ふるさとメール2016年9月15日号)

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南アルプス市を訪れた人々(3)ローウェンホルスト・ムルデル(ふるさとメール2016年11月15日 号)

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南アルプス市を訪れた人々(4)東山魁夷(ふるさとメール2016年12月15日号)

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南アルプス市の小正月~道祖神場のお飾りとどんど焼きの風景~(ふるさとメール2017年1月16日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(1) 櫛形西小学校の取り組みから(ふるさとメール2017年2月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(2) 掘り起こし-育み-伝えるプロジェクト(ふるさとメール2017年3月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(3) 掘り起こすということ(ふるさとメール2017年4月14日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(4) まちをめぐり建て物も掘り起こす(ふるさとメール2017年5月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(5) 正しい価値を掘り起こし、育むサイクル(ふるさとメール2017年6月15日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載 「〇博(まるはく)」への道(6)歴史資源を共感する(ふるさとメール2017年7月14日号)

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「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載「〇博(まるはく)」への道(7・最終回)歴史資源を正しく引き継ぎ、市民全員が語り部であるまちを目指して (ふるさとメール2017年8月15日号)

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飯野若宮神社のお灯籠祭り ~道祖神と境界の祭り~ (ふるさとメール2017年9月15日号)

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誰がために鐘は鳴る~鎮魂と平和を祈る音の原風景~ (ふるさとメール2017年12月15日号)

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文化財を守る地域の力 ~太平洋戦争と長谷寺本堂解体修理の物語~(ふるさとメール2018年1月15日号)

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文化財を守る地域の力 ~太平洋戦争と長谷寺本堂解体修理の物語その2~(ふるさとメール2018年2月15日号)

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俳人「福田甲子雄」にみる南アルプス市の風土(一) (ふるさとメール2018年3月15日号)

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俳人「福田甲子雄」にみる南アルプス市の風土(二) (ふるさとメール2018年4月13日号)

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何気ない街角に歴史あり(その4)道路が、家の敷地より高いところにある源地区の街角 (ふるさとメール2018年8月15日号)

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何気ない街角に歴史あり(その5)旧荊沢宿の「かねんて」 (ふるさとメール2018年9月15日号)

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何気ない街角に歴史あり(その6)御勅使川扇状地東端部の崖線 (ふるさとメール2018年10月15日号)

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西野の温室メロン栽培 (ふるさとメール2010年5月14日号)

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柿 kaki caqui cachi ~世界と日本をつなぐ果実~(ふるさとメール2018年11月15日号)

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江戸時代、御勅使川扇状地の畑作文化(ふるさとメール2010年8月13日号)

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芦澤家住宅

芦澤家住宅は江戸時代に名主や郡中惣代を務めていた旧家。主屋は1933(昭和8)年に建築された木造二階建ての建物で、屋根は切妻造桟瓦葺で、二階の床を支えるために建物の周りに使う部材である銅差が太く重厚な構造。
座敷蔵は明治時代中期の建築。木造2階建てで、外壁の上部が漆喰塗りで下部はモルタル塗り。
接客用の蔵座敷として使われていたが、主屋を再建した時に居室に変えた。

所在地/南アルプス市西野97-1
所有者、管理者/個人
指定年月日/平成20年3月31日
備考/主屋、座敷蔵の2棟が登録

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新居道下遺跡

古墳時代後期のムラの跡が発見されました。また弥生時代~
古墳時代前期の溝跡なども発見されており、弥生時代以降、
連綿と人々が暮らしていたことがわかります。

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石積出 一番堤

石積出の中で、最も上流に築かれた石積みの堤防。現存している長さは約70m。3段構造で、2段目に石の大きさ、積み方の違いが見られ、少なくとも2回修復されていることがわかる。

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石積出 三番堤

二段積みの石積み堤防。現存している長さは約100m。先端部の一部が発掘されており、堤防の基礎を守る根固めに井桁状に丸太を組み合わせ、中に石を詰める「木工沈床」が用いられていることがわかっている。

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石積出

砂礫と石で造られた堤防で、一番堤から五番堤まで残されている。武田信玄の築堤と伝えられるが、史料で裏づけられていない。少なくとも江戸時代には築堤され、有野の田畑や集落、さらに下流の御勅使川扇状地に立地する21ヶ村を守る役割を果たしていた。国指定史跡(一~三番堤)

[県立博物館蔵]

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石積出 四番堤

先端部の一部で発掘調査が実施されている。調査の結果、石積みの土台として梯子土台が用いられ、根固めには木工沈床が使われ、さらに川表側には鉄線の蛇籠が並べられていた強固な構造であることが明らかとなっている。

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石橋北遺跡

野牛島・大塚遺跡、野牛島・西ノ久保遺跡と隣接した遺跡で、奈良・平安時代から中世までの集落跡が発見されている。とくに注目されるのは、中世の遺構である。13世紀の竪穴建物2軒、14世紀代の幅約4mで東西に走る両側に側溝をもつ道路跡やそれに並んで区画溝が発見されており、この時期に計画的な土地開発が行われた可能性が指摘されている。また16世紀後半の土坑墓も発見されており、この地域が墓域へ移り変わった変遷も明らかとなっている。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)

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石丸地蔵

ふれあい情報館を右手に見ながら南へ進み、指定文化財の標柱の角を曲がって細い農道を西に進むと果樹畑の中にひっそりと石丸地蔵が立っている。
高さ120センチメートル、幅37センチメートル、奥行27センチメートル、安山岩製の石仏である。頭部は剃髪を表す円頭で、耳朶が大きい。衲衣を着ており、背面には刻線で衲衣が表現されている。
左手に宝珠、右手には失われているが錫杖を持っていたと思われ、一般的な地蔵苔薩立像の姿を表している。
長年の風雨によって像全体が摩滅しているが、それがかえって柔和な表情を作り出し、親しみやすい雰囲気をかもし出している。
銘文は見られないが、形状から室町時代末期のものと推測される。
伝承によると、榎原に住む石丸一族の守護仏として信仰され、大正年間まで提灯を吊した祭りが行われていたとされる。

所在地/南アルプス市榎原521
所有者、管理者/榎原区
指定年月日/昭和51年3月1日
備考/

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石積出 二番堤

地表に露出している部分だけでは、1段積みの構造。水流があたる川表側に補強の石積みが行われている。

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1・2号掩体壕

掩体壕(えんたいごう)とは、飛行機を格納し、隠し、爆風から守る施設です。屋根の無いものや、屋根をコンクリートで造るものなど様々な形が知られています。
畑の中に残る掩体壕の跡。

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五百住巨川の墓

上高砂地区、豊光院本堂裏手の墓地に国学者、五百住巨川の墓がある。
五百住巨川は、文政12年(1829年)に江戸藩邸で五百住元卓の次男として生まれた。幼名を栄三郎または丑松といい成長した後巨川と号した。昌平坂学問所で学び、著名な国学者であった平田篤胤に師事して国学を修めた。
巨川は地方の名士と国事を論じるために諸国を巡歴し、安政4年(1857年)に巨麻郡西郡を訪れた。その際、有野村に住む名取理平に引き留められ、上高砂の地に私塾「螺廼舎(しのしゃ)」を開き、算術や漢字、書道などを教えた。塾舎は、明治5年(1872)まで現上高砂バス停留所の隣にあり、最盛期には教師5名、塾生138名を数えた。巨川の影響を強く受けた塾生も多く、彼らは明治維新後の地域名士として、郷土の発展に尽力した。
明治4年、巨川は本県最初の新聞である「峡中新聞」の主筆となる。明治7年には藤村県令の命を受け、県神社局長となり寺社の整理統一に手腕を奮うが、明治8年3月7日47歳で夭逝した。
著書には「なまよみの甲斐」2巻、「私輯大日本史系図」、「大日本史解説」など地方に根差した視点から日本を俯瞰した多数の大著がある。


所在地/南アルプス市上高砂986
所有者、管理者/豊光院
指定年月日/昭和51年3月1日

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江戸小紋染師 内田一雄

下高砂地区で染色捺染業(型染)を営み、平成4年3月21日、旧八田村教育委員会より江戸小紋染師として無形文化財保持者に認定指定された。
内田氏は、父であり師でもあった内田秀一氏(山梨県指定無形文化財保持者)の後継者として引杢(ひきもく)等の染めの技術を継承し、日本の伝統工芸である江戸小紋型染に専念従事するようになる。
小紋とは型紙などを用いて染め出したがらの細かな模様、そしてその模様が染め上げられた着物を意味する。江戸時代、武士の礼装である裃(かみしも)に小紋が用いられ、各藩が独自の小紋を競い合うことで、技術的に大きな発展を遂げた。
昭和29年、こうした柄の細かな小紋を他の小紋と区別するため、江戸時代の代表的な染めであることから「江戸小紋」という名称がつけられた。
江戸小紋は、縮緬(ちりめん)を代表する絹地織物に繊細な柄模様を単調な色彩で染め抜く伝統技術である。江戸小紋の特徴はこの柄の細繊さにあり、遠くで見ると無地に見えるが、近くで見ると柄が現れるのが上品あるいは「粋」とされた。
染めに使われる型紙は「伊勢型紙」といわれ、現在の三重県鈴鹿市白子で製作されてきた。型彫りには「引き彫り」、「錐彫り」、「突き彫り」、「道具彫り」等の高度な技術が必要であり、染め師と同様に無形文化財に指定されている彫り師もいる。


所在地/南アルプス市
所有者、管理者/
指定年月日/平成4年3月21日
備考/

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榎原・天神遺跡

前御勅使川右岸に立地する。平安時代~中世の集落跡。10世紀代の竪穴式住居跡が2軒発見された。またウマの歯が出土した中性の区画溝跡も見つかっている。

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大塚遺跡

(写真は山梨県立考古博物館所蔵)

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小笠原 長清

小笠原氏の始祖。
加賀美遠光の次男として応保二年、三月五日に生まれ、母は和田清盛の娘とも三浦義澄の娘とも言われます。原小笠原荘(南アルプス市小笠原)を拠点とし、小笠原長清と称しました。
「御所庭(ごしょには)」や「的場(まとば)」という地名の残る小笠原小学校付近に館を構えたと考えられています。

兄である秋山光朝とともに在京し、平知盛に家礼として出仕していましたが、平氏追討の令旨には加賀美一族ではいち早く呼応しています。

(写真は開善寺所蔵「加賀美遠光・小笠原長清父子像」)

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小笠原長清公祠堂

山寺八幡神社の北東に位置し、かねてより長清の墳墓と伝承される地でしたが、明治期に開墾した際に石棺が出土し、その地に建てられた祠が小笠原長清公祠堂です。
開墾したのは明治24、25年頃のことといわれ、地域の名士であり、甲州財閥の代表格として著名な若尾逸平を通じて、小笠原家の末裔である子爵小笠原長育へと連絡をとっています。

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小笠原長清公館跡

小学校周辺は「御所庭ごしょうのにわ」や「的場」という地名が残っており、長清公の館跡と伝えられている。

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お熊野堤

野牛島にある旧運転免許センター南側の土手は、
明治31年まで流れていた前御勅使川の右岸を守る堤
防跡です。
古くは「お熊野堤」と呼ばれていました。

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甲斐源氏って?

 清和源氏の一流で、新羅三郎義光を祖とするといわれ、実際には義光の子源義清、その子源清光の頃より甲斐国に入ったとされ、清光の子を甲斐国内各地に配置したことによって甲斐の源氏一族としての地盤を築いたといわれます。

 清光の子には武田信義(この流れが武田信玄へと続く)などがおり、信義の弟にあたる加賀美遠光もまた、甲斐源氏を代表する武将といえます。

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掛絵六地蔵菩薩像6面付厨子・地蔵菩薩像縁起一巻

桧板に描かれた地蔵、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六道衆生救済の地蔵尊像を岩絵具であらわしたものである。それぞれ元和五巳未正月吉日。野呂瀬主税助とある。長さ41.5センチメートル。幅28センチメートル。画像は平均高35センチメートル、縁起は鼻採地蔵縁起と初めに記されてある軸もの、巻子本である。見返りを除いて長さ362センチメートル。幅34センチメートル。末尾に、寛永17癸未霜月甘四日直自とある。地頭野呂瀬主税助直自(徳川家康臣甲府城代平岩親吉家臣)の筆とされる。

所在地/南アルプス市十日市場
所有者、管理者/安養寺
指定年月日/昭和51年1月1日

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笠屋神社

「的場」という地名の地に建つ神社で、延喜式内社の推定社のひとつ。

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滑走路跡

冬に吹き下ろす「八ヶ岳颪(やつがたけおろし)を考え、八ヶ岳にむかって設計された幅100m、長さ1500mの滑走路。中央に設けられた誘導路は、今でも農道として利用されている。

現在でも、所々に60数年前動員され人々が造成した滑走路の盛土がそのまま残っている。平成17年度に実施した発掘調査の結果、当時の人々が滑走路両側の土を掘って滑走路に積み上げたたことがわかったほか、土が沈まないように締め固めたような跡も見つかり、当時の人々が行った作業工程を垣間見ることができた。
また、平成23年度には、滑走路北端付近で調査が行われ、滑走路西側を削り、その土を東側に盛って、傾斜をならす工事が行われた痕跡が確認された。
冬季の季節風(八ヶ岳おろし)に対応するため、滑走路はまっすぐ八ヶ岳の方向に向けて造られています。

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金丸氏館跡(長盛院)

金丸氏は代々武田家に仕える家柄で、現在の長盛院の地に館を築いた。東側は崖の要害で、西側には土塁と堀がめぐらされている。四代金丸虎義の次男が武田二十四将にも数えられる土屋右衛門尉昌続、五男が土屋惣蔵。

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からかさ地蔵

高さ200cmの丸彫りのお地蔵様です。台座も含めれば、全高は330㎝あります。右手に錫杖、左手に赤子をのせており、子安地蔵のお姿です。地域の守り神として住民が安全を願う対象でもあり、毎年、8月15日に盛大な夜祭りが行われています。
 かつて、祭りの日の晩には毎年雨が降ったことから、からかさ地蔵と名づけられたといわれています。また、建立した太郎兵衛という人物が祭りに来た人に傘を貸したからだとも伝えられています。

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神部神社の算額

わが国古来の数学である算額は江戸時代に関孝和らを中心に発達した。和算家が自分で発見した問題や解法を絵馬に書き寺社に奉納したものを「算額」と言った。
神部神社の算額は文化三年(1806年)に上州の和算家清水直次郎央七が奉納したものである。


所在地/南アルプス市下宮地563
所有者、管理者/神部神社
指定年月日/平成5年3月28日
備考/

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神部神社 曳舟神事

小笠原長清と縁の深いとされる下宮地の神部神社。に伝わる「曳舟神事」。古くは「船祭」「舟引祭」とも呼ばれ、水のないところで舟を曳く、それは珍しい神事なのです。
 かつては旧暦の2月2日に行われており、現在は3
月2日に近い日曜日に行われています。
※駐車場はありません。地域で受け継がれてきた神事です。ご理解をお願いいたします。

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神部神社曳舟神事

神部神社は大物主命を祭神とし、「延喜式神名帳」に記載された巨摩郡五座のなかのひとつである。
毎年3月第1日曜日に(往古は2月2日)に行われる曳舟祭は、大和国からご神体を奉遷した古事にならってその様子を再現している。神主が数本の矢を放ち悪魔を祓い、諸々の贖罪、五穀豊穣、天下奉平を祈願する。神事において、木舟を神主、氏子らが引くというのは、恐らく当時の運搬手段のひとつとして、木舟を用いて内陸まで出入りしていた様子を演出しているものと考えられ、当時の交通運搬や文化流入を知るうえで貴重である。古代における神の遷座の状況を神事として残す祭祀は類例を見ない。

所在地/南アルプス市下宮地563
所有者、管理者/神部神社
指定年月日/平成6年6月28日

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曲輪田峰村小路の獅子舞

起源は天明年間といわれ、家庭の和と社会平和の護り神として毎年正月14日、15日の道祖神祭の日に舞が行われる。また、娯楽の一つとして道化万才等の余興も演じられる。


所在地/南アルプス市曲輪田峰村小路
所有者、管理者/曲輪田峰村小路獅子舞保存会
指定年月日/平成3年12月25日

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県道甲斐芦安線(前御勅使川)

芦安から信玄橋へ通じる県道甲斐芦安線は御勅使川の古い流路で、「前御勅使川」、ちょっとなまって「まえみでえ」と呼ばれています。戦国時代、御勅使川の本流はこの前御勅使川だったと云われています。江戸時代から明治時代には、本流は現在の御勅使川に移り、増水時のみ水が流れていたようです。明治31年に六科将棋頭の上流が締切られ、前御勅使川の歴史に幕が下ろされました。昭和40年代ごろまでは旧河原の両岸に不連続の堤防、かすみ堤が残されていましたが、現在ほとんどの堤防は削平され、道路として利用されています。
写真は明治29年に起きた大水害後、堤防を復旧している様子が写されたもの。旧運転免許センター(野牛島)付近。

[画像:個人所有」

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さいの神

野牛島集落の西はずれの小高い塚上に、「西の神地蔵」と呼ばれる板碑が南面して建てられている。高さ65センチメートル、幅27センチメートル、厚さ14センチメートルの安山岩製である。

頂部は三角形に造られ、その中央に阿弥陀如来を意味する梵字「キリーク」の文字が陰刻されている。頭部と下部を区画した3本の条線の下には、造立主旨が刻まれている。それによるとこの板碑は天文13年(1544)に、多くの信者が円明に入る(悟りに至る)ことを阿弥陀如来に祈願してたてられたものであるという。

すなわち、「西の神地蔵」と呼ばれているこの板碑の本尊は、実は地蔵菩薩ではなく阿弥陀如来なのである。銘文下の方形の龕部(がんぶ)に陽刻された像は、顔の形や衣などがいかにも地蔵風であるが、それは阿弥陀如来に地蔵菩薩が集合したためである。
さらに、この板碑には「西の神」も習合されている。「西の神」とは、村へ入ろうとする悪霊を防ぐ「塞の神」のことであり、道辻に立つ道祖神がそれである。この板碑には庶民の生活に浸透していたさまざまな信仰が幾重にも重なり合っているのである。

なお、造立主旨には八田村の語源となった「八田庄」の文字が見える。「八田庄」は中世に八田から白根、櫛形まで広がっていた荘園といわれるが、それに関する史料は少なく不明な点が多い。その中で「西の神地蔵」は、「八田庄」を記す最も古い史料であり、歴史史料としての価値も高い。

所在地/南アルプス市野牛島2616
所有者、管理者/野牛島区
指定年月日/昭和51年3月1日
備考/

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坂ノ上姥神遺跡

御勅使川扇状地上に3遺跡が隣接している。縄文時代後期や古墳時代後期、奈良・平安時代から中世まで複数の時代に渡る遺跡である。特に縄文時代後期の敷石住居跡の炉から鯛の堆骨が発見され、海産魚を食料とした県内最古級の資料として注目された。奈良・平安時代では多数の住居跡や溝跡も発見されており、溝からは馬の歯も出土した。

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沢登 六角堂

(原方)
 聖徳太子信仰を伝える六角堂建築として貴重であり、堂内には聖徳太子像と太子が信仰した如意輪観音が祀られているとされてきました。
 天正18年(1590年)七ツ内地内の龍沢寺東方にあった堂は、寛文4年(1664年)にこの地に移されましたが、文化4年(1807年)の大火により焼失しました。「西郡沢登六角堂造営奉化帳」によりますと、翌年より再建が計画され、多くの方々の寄進により、文化7年(1810年)大工棟梁田嶋村九兵衛の手により再建されました。

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沢登六角堂

聖徳太子信仰を伝える六角堂建築として貴重であり、堂内には聖徳太子像と太子が信仰した如意輪観音が祀られている。
天正18年(1590年)七ツ内地内の龍沢寺当方にあった堂は、寛文4年(1664年)にこの地にうつされたが、文化4年(1807年)の大火により焼失した。翌年より再建が計画され文化7年(1810年)に再建された。
1辺が約3.06メートルの六角平面形を成し、柱も六角柱で造られている。
建物は戦後に一部修理が施されたが江戸後期の数少ない六角堂形式の建造物として貴重なものである。


所在地/南アルプス市沢登663
所有者、管理者/沢登区
指定年月日/平成9年7月30日
備考/

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3号掩体壕

 現在残る3基の掩体壕のうち、平成17年度に最初に発掘調査が行われ、掩体壕の形や大きさ、基礎の作られ方などが正確に記録されました。
 3号掩体壕は新興住宅街に隣接する空き地にひっそりと眠っており、その基礎は60年あまりの月日を経て文字通りもう半ば埋まりかけていました。

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四間道路

明治31年に石縦堤とよばれる堤防が築かれ、ふだんは水のないのに、増水時には暴れ川と化していた前御勅使川は封鎖されました。
 四間道路は、その前御勅廃河川路を昭和5年に主要道路として整備、開設したものです。当初は、河原の真っただ中を広い砂礫の道が延び、両側には月見草が咲き満ちていたそうですが、四間道路の開通により、その両脇にはみるみる桑園や梅園などの耕地が広がっていきました。

[画像:個人所有]

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紙本墨書長盛院の大般若経

時代…享保13年(1728年)4月17日から元文4年(1739年)5月17日
作者…嶽恩和尚・玄嶺和尚
長盛院境内の「経蔵」に嶽恩筆紙本墨書大般若経600巻が収められている。この般若経は亨保年間、長盛院の末寺、正重院の住職であった嶽恩和尚とその意志を継いだ本山玄嶺和尚によって写経されたものである。
嶽恩和尚は本寺の繁栄や天下の泰平、国土の安穏、子孫繁栄、村里の豊饒を祈願し、享保13年(1728年)4月17日、大般若経の筆写をはじめた。長年にわたる写経は心身をさいなむ辛苦を与え、時には天井から吊した縄で筆を持つ腕をささえていたといわれる。
500巻を書き終え、その完成を目前にしながら元文2年(1737年)2月9日、59才で他界した。本山玄嶺和尚はその志を継いで写経を進め、2年後の元文4年(1739年)5月17日、大般若経600巻の写経を完成させた。複数の僧侶によって書かれた大般若経は多数あるが、ほぼ1人の手によって書かれたものは県内でも類例が少ない。


所在地/南アルプス市徳永1678
所有者、管理者/長盛院
指定年月日/昭和51年3月1日

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清水池

ここは南アルプス市榎原660にある清水池(しみずいけ)です。

水神さんも祀ってあります。でんでん山を八雲神社方面に降りていく道の途中の左側竹藪の手前にあります。清水池は榎原地区の重要な湧水ポイントで古くから水の乏しいこの地区の人々に、その貴重な水が利用されてきました。
現在は湧水量が減ってしまったため唯の水たまりのようにみえます。
しかし、この地の先人たちが代々利用してきた重要な場所として、今は地区の方々がこのような囲いを作って、水神さんとともに大切に守っています。

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清水八幡の夫婦ケヤキ

清水八幡神社境内に東西に自生する老木である。西側が夫で、かつては樹高27メートル、根回り20メートル、目通り7.4メートルを誇ったが、近年、強風により根の部分を残し倒壊してしまった。樹齢は約650年である。
東側が婦で樹高25メートル、根回り12.1メートル、目通り4.4メートル、樹齢が約450年である。境内に仲良く並んで自生しているため「夫婦ケヤキ」と呼ばれ地域に親しまれている。


所在地/南アルプス市清水92
所有者、管理者/清水区
指定年月日/昭和42年10月1日
備考/

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将棋頭(六科水田)

将棋頭は、その名のとおり将棋の駒に見立てられた石積みの堤防で、国の史跡に指定されている。武田信玄が築堤し、御勅使川の流れを分流したと伝えられてきたが、史料的裏付けがなく初現は不明である。

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松声堂跡

松声堂は、江戸時代に創立された西郡地域の勉学の中心となったところである。天保6年(1835年)西野村長百姓幸蔵ら12名は、“勉学によって人倫の道を教え、農民としての自覚を高めたい”として幕府に手習所の創設を出願した。
翌7年に許可され、初代教師に江戸下谷生れの松井喚斉を迎え、西野北村現在の宝珠院で開校した。
天保9年(1838年)には旧西野小学校の地に移り、明治4年(1871年)西野郷学校となるまでの36年間、この地方の庶民教育に果した功績は非常に大きいものがあった。松声堂跡には松井喚斉の碑、松声堂碑などが建立されている。


所在地/南アルプス市西野2783
所有者、管理者/南アルプス市
指定年月日/昭和53年2月16日

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白根のゴヨウマツ

西野北村小路の小野氏宅の前庭に育つ五葉松。松の種類のうち、五枚の葉を持つ種類を五葉松と称し、これはその中のヒメコマツと言う種類の樹木である。
規模は、目通り幹囲1.30メートル、根回り2.95メートル、東へ伸びる枝の長さ15メートル、樹高8.5メートル。手を尽くされ、極めて美しい庭木となっている。


所在地/南アルプス市西野1498
所有者、管理者/
指定年月日/昭和63年7月20日
備考/

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神明神社正徳四年再興棟礼 1枚

棟札とは、建物を新築・再建した際に、施主や大工の名前、工事の日付、経緯などを記録するために作られ、天井の棟木などに打ち付けられる板札である。
神明神社の棟札には、正徳3年(1713年)8月に起こった洪水によって現在の神明神社から5丁(約545メートル)ほど東にあった本殿が流失し、正徳3年12月に現在地へ移転、正徳4年に棟札が奉納され、神社が再興された事績が記されている。
釜無川の河道変遷やそれに伴う上高砂集落の移転を考える上で、貴重な歴史資料である。


所在地/南アルプス市上高砂958-1
所有者、管理者/神明神社
指定年月日/平成14年11月12日

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十五所の甲州囃子

十五所区に伝わり別に長男囃子とも呼ばれ、200年程前に村人が京都の祇園囃子に感じ入って作り出したものである。五つの囃子で構成され、大太鼓・小太鼓・笛などの楽器が用いられ踊りも入る。


所在地/南アルプス市十五所
所有者、管理者/十五所甲州囃子保存会
指定年月日/昭和56年4月1日
備考/

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成妙寺の松

宗持山成妙寺に自生する松は垂れクロマツの傾向を持ち、根回り3.6メートル、目通り2.9メートル、樹高17メートル、樹齢約200年で地上約1メートルのところで東西2幹に分岐している。


所在地/南アルプス市落合150
所有者、管理者/成妙寺
指定年月日/昭和49年1月29日
備考/

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常楽寺

飯野小学校が接収されたため、子どもたちは、机にするミカンバコを持ち寄って、お寺で勉強したこともあったという。本尊の阿弥陀如来立像は県指定文化財。

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すむじ街道

八田地区にある高砂の渡しから韮崎方面へとまっすぐ北西に伸びる道をすむじ街道といいます。
甲府市街から武川、信州方面へ通じる甲州街道とは別に南側のルートをとる裏街道でした。

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角力場第2遺跡

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市内に広がる曾我物語の世界

 加賀美遠光や小笠原長清などの南アルプス市の甲斐源氏が活躍していた時代に、曽我兄弟の仇討ち事件が富士山麓で起こります。この仇討ちをまとめた「曽我物語」の中には、南アルプス市と深いかかわりのある人物が重要な脇役として登場します。芦安地区の「虎御前」と野牛島地区の「御所五郎丸」。地元に伝えられる歴史上の人物は、歌舞伎の演目でも有名な『曾我物語』の主要キャストです。
 『曾我物語』とは曾我兄弟が父親の仇を討つ物語です。皆さんご存知の赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つに挙げられます。仇討ちは『吾妻鏡』にも記録されていますが、物語の成立時期ははっきりしていません。鎌倉時代の終わり頃に物語としてまとめられ、時代とともに様々なエピソードが加えられながら、江戸時代に現在の形に落ち着いていったようです。(写真は、祐経を討ち取る曽我兄弟 歌川広重「曽我物語図絵」)

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飯野専売支局の碑・倉庫町

(原方)
明治政府はたばこを嗜好品として課税対象とし、明治30年には「飯野葉たばこ専売所」が山梨県全体を管轄として飯野周辺に設置されました。山梨県内での一大生産地がこの西郡(にしごおり)の原方地域であったためこの地に設けられたとされます。
 県内から葉たばこが集められるために倉庫が立ち並び、人が集まりました。そこから「倉庫町」という商店街が発達してい9ったのです。、
 明治32年5月には「飯野専売支局」と昇格され、その敷地境を示す石碑が今もひっそりと佇んでいます。
 倉庫町を物語る小さな証人なのです。

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蔵珠院六地蔵幢

安山岩製で高さ1.75メートル、基礎の一部が埋没している。幢身に応永28年(1421年)の銘、「延命地蔵経」の句節、施主名などが陰刻されている。県内でも数少ない室町中期の遺品である。


所在地/南アルプス市桃園740
所有者、管理者/蔵珠院
指定年月日/昭和52年3月31日

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高尾道

甲府や竜王方面から、上今諏訪、西野などを経て高尾を結ぶ道。
現在でも高尾街道と呼ばれます。
写真の道標は高尾集落から遠く離れた上今諏訪の地にあり、高尾道の旧道沿いに今もひっそりと佇みます。
右あしくら 左たかお と記されています。

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高砂渡し

昭和7年にコンクリート製の旧信玄橋が開通するまでは、上高砂と龍王を隔てる釜無川を渡るには、「高砂渡し」と呼ばれる渡船を利用する必要がありました。ただし、渡しが運航するのは5月頃から12月中旬までで、水の少ない12月から4月までは仮橋がかけられていました。

[画像:八田村誌]
 

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立石下遺跡

平安時代の集落跡。13軒の住居跡や炭焼窯が発見された。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)

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鋳造の金灯籠

全長123センチメートル、鋳造で造られた鉄製の灯籠を笠には製作年代と思われる「天正15年(1587年)6月」の銘がある。隣に人名らしき文字も見られるが、判読できない。
鋳造の金灯籠は県下でも珍しく、中世のものは他に知られていない。
この灯籠はもともと酒造業を経営する六科区笹本米蔵氏の庭に置かれていた。笹本家は以前刀鍛冶を営んでいたと伝えられており、この金灯籠となんらかの関係があると思われる。


所在地/南アルプス市野牛島2727 ふるさと文化伝承館内
所有者、管理者/南アルプス市
指定年月日/平成10年2月2日
備考/

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長谷寺

長谷寺は新義真言宗智山派の古寺である。大和国(現在の奈良県)長谷寺に倣って豊山長谷寺と名付けられたが、その後この土地が八田の庄であることから「八田山長谷寺」と改称し現在に至っている。
本尊には十一面観音菩薩が祀られ、「原七郷の守り観音」として古くから篤く信仰されてきた。
原七郷(上八田・西野・在家塚・上今井・吉田・小笠原・桃園)は御勅使川扇状地の中央に位置するため、旱魃に悩まされてきた一帯で、長谷寺では古くから雨ごいの祈祷が行われてきた。
開創は、寺記によれば天平年間で、僧行基が甲斐国の治水事業のため留錫した際、当地で十一面観音を彫刻したのがはじまりと伝えられている。現在の本堂は昭和24年の解体修理の際に発見された旧材によって、大永4年(1524)に再興されたことが明らかとなっている。


所在地/南アルプス市榎原442
所有者、管理者/長谷寺
指定年月日/昭和25年8月29日

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長谷寺木造十一面観音像

長谷寺十一面観音立像は、長谷寺の本尊として大永4年(1524年)再建の本堂厨子の中に秘仏として祀られている。この十一面観音像は、古くから原七郷の守り観音として多くの人々の信仰を集めており、江戸時代には、甲斐国札所第4番の観音であったという。
本像は、頭頂に仏面、その下に1列に化仏(けぶつ)十面を表す十一面観音である。現在、左右の手は失われているが、造られた当初は、左手には蓮花を挿した水瓶を持っていたと思われる。右手の形ははっきりしない。また、本像の台座が通常の蓮華座ではなく、岩の形を模した岩座であることからは、本像が木の霊性を尊ぶ立木仏として造られたと考えられる。

本像は、像高169.3センチメートル。長身ですんなりとした姿に表される。お顔は優しい中にも厳しさがあり、威厳を感じさせる。天衣(てんね)や下半身に身につける衣の表現は控えめながら柔らかい布の質感を伝えている。
本像の材質はカツラで、左右の手以外のすべてを1本の木から彫り出す一木造という技法で造られている。この一木造のうち、臂を曲げる左手までも同じ木から彫り出すのは、平安時代前期頃に多くみられ、本像もこうした平安前期から中期にかけての造立と考えられる。地域の古い歴史を今に伝える貴重な尊像である。


所在地/南アルプス市榎原442
所有者、管理者/長谷寺
指定年月日/平成16年11月29日

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長盛院の絹本著色仏涅槃図

涅槃図は釈迦が入滅する情景を描いたもので、仏教絵画の代表的主題のひとつである。
本図中央には、北を枕にし西を向いて横たわる釈迦が配置され、その周囲には菩薩や諸天、仏弟子、さらに雉や象、獅子などの鳥獣までもが嘆き悲しむ様が描かれている。
右上方には、仏母摩耶夫人(まやぶにん)が悲報を聞いて天上界から飛来した姿が描かれている。上方中央の満月や背後に描かれた跋堤河(ばっでいが)(釈迦が人滅した場所を流れる川)、釈迦を取り囲む8本の沙羅樹は釈迦入滅を表す一連のモチーフである。本図は、豪放さと緻密さを兼ねあわせた優品である。
本図の左下に「維時元禄十三年庚辰七月大吉祥日、山城国愛宕郡平安城万寿寺通高倉西入ル、絵所中西氏家信拝書之」と書かれており、製作年代や作者を知ることができる。


所在地/南アルプス市徳永1683
所有者、管理者/長盛院
指定年月日/昭和59年3月1日
備考/
年代…江戸時代元禄13年(1700年)
作者…中西氏家信

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辻嵐外の墓

成妙寺の山門をくぐると「笹の葉や今に鶯年よらず」と詠われた句碑がある。
辻嵐外は江戸後期の俳人である。嵐外は明和8年(1771年)敦賀に生まれ、年に甲斐を訪れ若草町藤田の五味可都里を頼り、その後75歳まで落合を中心に甲斐の俳諧文化の向上に努めた。嵐外は俳諧結社安楽林社との交友が深く、弘化2年(1845年)11月26日成妙寺に「嵐外日哉の墓」を建立した。


所在地/南アルプス市落合150
所有者、管理者/成妙寺
指定年月日/昭和49年1月29日

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土屋惣蔵の墓

土屋惣蔵は武田家滅亡の最後まで勝頼に仕えた武将。織田軍を防ぎ、勝頼に自害の時を与えた「片手千人斬り」の伝説を残す。惣蔵の墓の他、次兄昌続ら金丸氏一族の墓がある。
市指定史跡

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伝保昌(ほうしょう)の刀

鎌倉後半期の大和刀工、保昌の作とされている刀。
長さ73センチメートル、反り2.1センチメートル、形状は鎬(しのぎ)造りで、造り込み格好、その他全て保昌派の特徴をよく示した優作である。


所在地/
所有者、管理者/個人
指定年月日/昭和40年5月15日

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登録有形文化財「松寿軒長崎」

荊沢に所在する松寿軒長崎は明治24年に創業された和菓子の老舗である。
店舗の老朽化に伴い一部改築はされているが、大阪などで見られる土蔵を模した外観は寄せ棟、漆喰仕上げで創業当時の外観をほぼ現在に伝えている。
松寿軒長崎が所在する荊沢はかつて駿信往還の宿場町であり、鰍沢舟運が隆盛の頃、この荊沢宿も多くの物資の流通や交通でにぎわいを見せた。


名称/登録有形文化財「松寿軒長崎」
所在地/南アルプス市荊沢319
所有者、管理者/個人
登録年月日/平成10年2月12日
備考/建築1926年

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十日市

戦国時代以前から続く伝統の市。
現在も2月の10・11日の両日に開かれ、甲府盆地に春を呼ぶお祭りとして親しまれている。
昔から十日市で売られていないのは「猫の卵と馬の角」と言われるくらい、何でもそろう盛大な市である。
古くは、法憧院の天文3年(1534年)の厨子銘に十日市場の村名が見える。

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十日市跡

所在地/
所有者、管理者/ 加賀美・法善寺
指定年月日/ 昭和46年1月28日

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十日市場の大ケヤキ

この大けやきは、樹齢五百年と推測される。樹高22メートル、根廻り11.30メートル、3本の巨枝が大きく四方に延びて、東西、南北とも24メートルに及んでいる。錯綜した根は60センチメートル以上に盛り上がっている。樹勢は極めて旺盛で、壮年期性を持つ地方の崇敬の対象となっている名木である。


所在地/南アルプス市十日市場1959
所有者、管理者/石動神社
指定年月日/昭和61年3月19日

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徳島堰

徳島堰は韮崎市上円井(かみつぶらい)で釜無川から取水し、南アルプス市曲輪田新田(くるわだしんでん)まで約17kmを結ぶ灌漑用水路。

江戸時代の寛文5年(1665)江戸深川の徳島兵左衛門(とくしまひょうざえもん)によって開削が始められた。
2年後には曲輪田まで通水に成功するが、大雨によって二度堰が埋没すると兵左衛門は事業から手を引き、その後甲府藩が事業を引き継ぐ。
甲府城代から堰の復旧工事を命じられた有野村の矢崎又衛門(やざきまたえもん)は、私財を投じて工事に取組み、寛文10年に工事が完成し,翌11年に「徳島堰」と命名された。
堰の開削によって耕地が広がり、曲輪田新田や飯野新田、六科新田など新たな村々が開かれるなど、水不足に悩む地域に多大な恩恵がもたらされた。
現在でも徳島堰の水は、水田だけでなくスプリンクラーに導水され、市内の桃やさくらんぼを潤し、フルーツ王国南アルプス市を支えている。

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(徳島堰)と掩体壕群

江戸の商人徳島兵左衛門が考案し工事に取りかかり、後に有野の矢崎又右衛門が寛文10年(1670)に完成させた用水路。御勅使川扇状地上の旱魃地帯を潤した。終戦間際には、この徳島堰の堤防に沿って1~3号掩体壕とは異なるこのような形の掩体壕が並んでいた。

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百々・上八田遺跡

平安時代から中世の集落跡 調査では80個体を超えるウマ・ウシの骨が出土し、「八田牧」の存在を彷彿させ、ウマの存在が甲斐源氏活躍のを裏付ける。
写真は 炉から出土したタイの堆骨(縄文時代後期)

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仲田遺跡

中世の水田跡。水田に規則的に並ぶ足跡も発見された。水田は砂礫層をはさんで何層か発見されており、そうした堆積状況は、御勅使川の洪水によって砂礫で埋ってはその上に田んぼが作れてきた水害と復興の歴史を物語っている。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)

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西野姫のお経塚

西野の武将、明慶院には西野姫と呼ばれる美しい娘があり、武田信虎に嫁ぐことになっていた。しかし、敵対する大井氏に一族が滅ぼされたため、西野姫は尼僧となり、お経塚で一族の菩提をとむらったと伝えられる。

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西原五輪塔群

西野西原の円通寺北西には、妙慶院と西野姫の供養塔と伝えられる五輪塔と宝篋印塔がある。

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西吉田の「おあみださん」(阿弥陀尊祭典)

天井の中央から「檀紙」を細く切り延ばした切り紙(紙垂)を放射状に広げ天蓋のようにに吊るします。
この様子からこの天井飾りや、切り紙そのものを「くもの巣」と呼んでいるようで、別名「くもの巣まつり」とも呼ばれています。

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二本柳遺跡

平安時代から江戸時代の水田跡、戦国時代から江戸時代の寺院
跡が発見されています。
寺院は、加賀美遠光の館跡とされる法善寺の子院の一つであっ
た「福寿院」の跡です。この寺院は江戸時代末に火災で焼失したとされます。
 遺跡からは16世紀を中心とした木棺墓、井戸、周囲をめぐらした溝、掘立柱建物跡などの施設のほか、陶磁器・かわらけ・内耳土器・すり鉢、石臼、摺臼、漆器、下駄等の生活道具や卒塔婆、五輪塔、銭貨などが見つかっています。
(写真は山梨県立考古博物館所蔵)

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能蔵池

湧き出た御勅使川の伏流水をせき止めて造られたため池。池には赤牛の神様が住むといわれ、赤牛が村人に椀や膳を貸してくれる昔話が今に伝えられている。中島には水神でもある弁才天が祀られている。

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能蔵池の碑

野牛島地区の北西部に能蔵池がある。能蔵池は御勅使川の伏流水が崖下から湧きだした湧水池で、古くから周辺諸村の灌概用水として重宝されていた。この池のほとりに、碑は建てられている。
高さ189センチメートル、底辺幅98センチメートル、安山岩を用いた大きな石碑である。
安政4年(1857年)、ときの市川代官森田行が文章を考案し(撰文)、前任の代官荒井顕道が書をしたため(書)、徽典館(きてんかん)の学頭であった久貝岱(くがいたい)が「能蔵池の碑」という額の文字を書いて(篆額)、完成に至った。その内容を要約すると以下の通りである。

「野牛島に能蔵池という池がある。水は清らかで、どんなに乾燥しても枯れることはない。野牛島をはじめ高砂、榎原、徳永を灌漑してきた。池の中に天女、池の側に蔵王が祀られ、神竜のすむところである。
村人たちもよく農事に励み、この水の如く怠ることがないようにしなさい、そうすれば倉はいつも満ち官も民も乏しいことがなく、不作の年も飢えをまぬがれるであろう。これは村人の幸福である。」


所在地/南アルプス市野牛島2704
所有者、管理者/野牛島区
指定年月日/昭和51年3月1日
備考/

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能蔵のエドヒガンザクラ

本樹は能蔵池の北西隅にある。江戸彼岸桜という名称は、「東国(関東)の彼岸桜」という意味で、ゆえに「東(あづま)彼岸桜」ともいう。
根回り4.5メートル、目通り1m、樹高8メートルの大樹である。樹勢は旺盛で、毎年4月上旬に薄紅色の美しい花を咲かせる。

所在地/南アルプス市野牛島2704
所有者、管理者/野牛島区
指定年月日/昭和51年3月1日
備考/

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八王子権現の剣

長さ28センチメートル、元幅2.8センチメートル、先幅2.7センチメートル
表面に銘濃州関住兼次、裏面に大永六年(1526年)六月日の銘文が刻まれている。
この刀剣の由緒の中に「武田信虎公大永六丙戌年在銘兼次ノ剣」とある。
地鉄の鍛え、刃文、やすり、銘、年紀、茎の特色から室町時代に活躍した志津兼氏一門の系譜を引く刀工の手によるものと思われ当時の製作手法に基づく作品として貴重である。


所在地/南アルプス市落合1092
所有者、管理者/落合八王子社
指定年月日/平成元年7月19日

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東出口遺跡

小笠原地区の現在の滝沢川沿いにある遺跡で、平成17・18年に発掘調査を実施するまでは詳細が分からなかった遺跡です。調査の結果広い範囲に古代のムラ跡が残っていることがわかりました。

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福王寺と横穴壕跡

横穴壕の近くにある福王寺の過去帳には、ロタコ工事で亡くなった朝鮮半島出身者の名前ものこっているといいます。横穴壕が掘られた山の斜面は非常に崩れやすい地盤で、横穴の掘削工事は困難を極めました。

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不連続堤

途切れることなく一直線に延びる堤防。洪水から人々や町を守る堤防がこうした姿であることは現在では当たり前ですが、少なくとも江戸時代から明治時代の堤防では、途切れ途切れの姿が普通でした。この不連続の堤防は明治時代ごろから「霞堤」と呼ばれるようになります。
御勅使川の堀切橋付近を見てみましょう。前御勅使川に比べると、堤防と堤防の間、つまり遊水地が広く確保されています。増水した時には途切れた部分から水を逆流させ、一時的に水を蓄える機能も果たしていたと考えられます。このように霞堤は、先人の長い経験を踏まえながら「あふれる」ことも考えて造られた堤防でもあるのです。

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宝珠寺木造毘沙門天立像

身を甲冑にかため、右手に宝珠を捧げて鬼形上に立つ。内刳りのある寄木造で、肢体服装に強い動きを示す堂々たる作風である。「宝珠寺二尊縁起」にいう元禄年間の修理が巧みでないのが遺憾である。

所在地/南アルプス市山寺950
所有者、管理者/宝珠寺
指定年月日/昭和51年3月2日
備考/

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法善寺伝承本真言宗諸流聖教類769点

聖教類には、仏、菩薩、その他諸等に対する礼拝法、供養法、念踊法など実践的な修行方法が示されている。
得度を終了した出家者が所定の行規にしたがって、修行しながら逐次、伝授や講伝を授けられた、いわゆる師資相承の秘法である。
行者は師から授けられた折紙、冊紙、巻紙を書写し、伝授の権威を保つために伝授日時や師資名、道書名を巻末に誌しているものが多い。
この聖教類は、真言宗学問寺として栄えた法善寺にふさわしく一ヶ寺にこれだけのものが残っていることは県下は勿論、全国的にもきわめてまれである。


所在地/南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/法善寺
指定年月日/昭和62年2月10日

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堀切

韮崎から続く竜岡台地を信玄が掘り抜いたとの伝承が残る水路。近年では御勅使川の水流によって、自然に掘りぬかれたとする説もある。人為的にせよ、自然にせよ、堀切北東に隣接する御座田(みさだ)遺跡の発掘調査によって、すでに13世紀には、堀切が存在していた可能性が指摘されている。

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桝形堤防

徳島堰の工事にとって最大の難所は、川幅の広い御勅使川の横断であった。完成当初は溝を掘り板で堰きとめる「板関」と呼ばれる開渠で通水していたが、少なくとも18世紀初頭には木製の埋樋(暗渠)に変更される。幕末頃には暗渠の壁が石積みとなり、明治から大正時代に入ると粗石をアーチ状に積む「眼鏡」と呼ばれる工法に改修される。
六科村や野牛島村は、その立地から御勅使川の河原の中で暗渠となっている徳島堰を一度開口して取水しなければならず、増水時にその取水口を守る将棋の駒の形をした堤防が枡形堤防である。取水された水は後田堰を通して六科将棋頭の中に導水され、水田に利用されてきた。
平成26年10月6日に国指定史跡に追加指定されました。

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水宮神社

御勅使川扇状地の扇頂部に位置し、扇状地全体の治水の要とも言える有野地区には、水害防護の水宮神社が祀られている。寺記では天長11年(834)に起こった大水害の際、天皇より勅使が遣わされ、水の神である水波能女命(うずはのめのみこと)をこの地に祀ったのが始まりと伝えられている。大正15年水宮神社拝殿を改修する際にも、下流の村々から寄付がよせられた。

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水宮神社の社叢

水宮神社は有野部落の北部、御勅使川近く鎮座し、水波能女命(みずはのめのみこと)を祭神とする水害防護の神社である。御勅使川は大扇状地をつくっただけに、有史以来も大氾濫をくりかえし、特に天長11年(834年)の洪水は大惨事をもたらし、救恤のため勅使が派遣された。時の国司藤原貞雄は治水に努力し、当社に配祀されている。江戸時代、有野ほか21ケ村の鎮守として、御勅使川の共同水防が行われてきた。また、当社の森社叢は、マツが主要樹木だが、その他にアサダ2本、クマシデ3本、モミ10本、ケヤキ1本で構成されたいます。この中のアサダはクマシデ科の落葉高木で、本県では珍しい樹種で貴重な存在です。


所在地/南アルプス市有野1298
所有者、管理者/水宮神社
指定年月日/昭和61年9月12日

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御勅使南公園

御勅使南公園の中にも、将棋頭から続く御勅使川右岸を守る石積みの堤防があります。
公園の管理事務所の南、駐車場の入り口付近から東西に堤防を見ることができます。この堤防の北側は現在では様々な遊具や、ラグビー場などが広がりますが、昭和初期まで御勅使川の河原が広がっていました。

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三恵の大ケヤキ

樹高25メートル、樹齢千年とも言われる。落雷を受けながらも天高く枝を張り、風土を守ってきた。「三恵の大ケヤキのように」と語り伝えられ、人生の手本にも、励ましにもなってきた。


所有者、管理者/南アルプス市
指定年月日/昭和2年11月30日

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三宮神社

滑走路南端にあり、御勅使川扇状地上の数少ないランドマークとして、建設工事に動員された地域住民や学生の集合場所のひとつとなった。

滑走路の南端付近は、浅い谷状の地形を埋め立てて造成されており、現在でも当時の盛土の様子をよく残しています。
造成工事にはスコップや「ジョレン」などの道具を用いて行い、土の運搬は「パイスケ」と呼ばれる天秤棒状の道具や「チョウセングルマ」と呼ばれた二輪の手押車やトロッコが活用されました。
造成後はローラーによる締め固めが行われていた部分もあったようです。

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村北第2遺跡

現在の鏡中条地区と下今井地区の間に位置する。50㎡の小規模な調査ながら、平安時代の住居跡1軒と中世の土坑慕が発見された。それぞれの墓には六道銭とよばれる銅銭が6枚ずつ埋められ、片方の墓にはその他に香炉や土器が一緒に副葬されていた。

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村松家住宅

村松家住宅は、駿信往還に沿った桃園集落の中心に位置する。幕末以前は、名主を務めた名家で、明治維新以降は、医業と商家及び村惣代長百姓として生計をたてた。
主屋は嘉永2(1849)年より以前に存在していたことが判っており、現在までに数回改築、曳家をしている。商家蔵は貸付業開業時の店蔵とされたもの。文庫蔵は主屋背面裏庭空間の構成要素として欠くことのできない存在で、厠は屋敷地の西方に所在した酒造場の蔵人用、また店の客用の外便所で、当家の業務事情の一端を物語る遺構のひとつである。


所在地/南アルプス市桃園615-1
所有者、管理者/個人
指定年月日/平成15年2月26日
備考/主屋、商家蔵、文庫蔵、厠4棟が登録

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木造阿弥陀如来坐像

隆円寺所蔵本像は、全体のバランスが良くとれ、しかも引き締まった造形をみせる。像の表面が造立当時のまま伝えられていることも貴重で特に衣の全面には多種類の截金(きりかね)文様が残る。制作年代は鎌倉時代半ば頃と考えられ、端正で洗練された作風から作者は京の仏師と考えられる。また、本像頭部には、文書が2通納入され、うち1通が取り出されている。二紙からなるこの文書には仮名文字で浄土往生を願う願文が記され、本像が当時の浄土信仰のなかでの造立であることがわかる。像内に願文や納入品を奉納した阿弥陀如来像は県内では本像が初めての例であり、阿弥陀如来に寄せる当時の人々の篤い信仰を具体的に伝える貴重な作例といえる。


所在地/南アルプス市下今井841
所有者、管理者/隆円寺
指定年月日/平成20年4月17日
備考/

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木造阿弥陀如来立像

飯野の曹洞宗常楽寺の本堂に安置されている鎌倉期の阿弥陀如来像。
像の総高は132センチメートル、材質はヒノキの寄木造りで玉眼がはめ込まれている。
かつては彩色されていたかと思われるが、現在は色は落ち、像全体に木目が表れていて、ひとしお奥床しさが感じられる。


所在地/南アルプス市飯野1065
所有者、管理者/常楽寺
指定年月日/昭和44年11月20日

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木造獅子頭(もくぞうししがしら)

百々諏訪神社所蔵の獅子頭は鎌倉期の嘉元3年(1305年)藤原吉宋の手によって作られた日本でも5番目に古い獅子頭である。
この獅子頭は木彫で、上顎、下顎、舌の三部分からなっている。
用材はヒノキで、その上に彩色をほどこしてある。
規模は面幅20センチメートル、面高23センチメートル、面深29センチメートルとなっている。


所在地/南アルプス市百々1537
所有者、管理者/諏訪神社
指定年月日/昭和43年12月12日

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木造大日如来及四波羅蜜菩薩坐像

五智如来(ごちにょらい)とよばれていた宝珠寺の五尊は、平成3年に国の重要文化財に指定されるさいに、大日如来(だいにちにょらい)をとりまく四尊の手の結び方特徴があることにより、大日如来及四波羅蜜菩薩像(だいにちにょらいおよびしはらみつぼさつぞう)と呼ばれるようになりました。

四波羅蜜菩薩(しはらみつぼさつ)

金剛波羅蜜菩薩 宝波羅蜜菩薩 法波羅蜜菩薩 羯磨波羅蜜菩薩
金剛波羅蜜菩薩
(こんごうはらみつぼさつ)
宝波羅蜜菩薩
(ほうはらみつぼさつ)
法波羅蜜菩薩
(ほうはらみつぼさつ)
羯磨波羅蜜菩薩
(かつまはらみつぼさつ)


名称/大日如来
所在地/南アルプス市山寺950
所有者、管理者/宝珠寺
指定年月日/平成3年6月15日
材質/木造(檜)
技法/寄木造・彩色(彩色は江戸時代の補修による)
像高/100.4センチメートル
制作年代/平安時代(1090年から1190年頃)
所蔵/宝珠寺(山梨県南アルプス市山寺)
墨書(像内の体部左側にある)/願主金剛佛子勝阿(勝阿につては不明)

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木造野中地蔵菩薩坐像

山寺野中一族の仏神。内刳りのある寄木造で、胡粉地彩色、下地に紙を用いた室町時代の手法で造られ、永正十5年(1517年)開眼後再度補修彩色が施される。像高82センチメートル。胎内に梵字による光明真言等の墨書がある。


所在地/南アルプス市山寺92
所有者、管理者/
指定年月日/昭和52年11月22日
備考/

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木造菩薩形立像

上今諏訪の諏訪神社本殿に菩薩形と思われる立像一軀(いっく)が所蔵されている。
作風からも藤原仏で、隣接する慈眼寺の仏像群の一体ではないかといわれている。天冠台などに一部残る漆塗の跡に往昔の秀麗優美さがしのばれる。背部に鎌倉期に加修した跡が残る。
材質は樟(くすのき)材の一木造で頭・胴ともに内刳りが施されている。


所在地/南アルプス市上今諏訪1778
所有者、管理者/諏訪神社
指定年月日/昭和44年11月20日

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木造薬師如来像(もくぞうやくしにょらいぞう)

上今諏訪の慈眼寺には、県の文化財に指定された仏像が多くあります。このうち薬師如来坐像は、坐高85センチメートル、材質はヒノキで、頭部と胴体が一つの木で造られている一木造りで、年代は藤原前期のものと推測されている。
慈眼寺は、平安期にさかのぼる真言宗のお寺だったと推定されているが、一時衰退し天文年間(1532年から1554年)に曹洞宗のお寺として再興されている。


所在地/南アルプス市上今諏訪1783
所有者、管理者/慈眼寺
指定年月日/昭和44年11月20日

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野牛島・大塚遺跡

奈良・平安時代から中世までの集落跡。奈良・平安時代の住居跡は現在の甲西バイパスより西側に広がるのに対し、中世の溝跡や土坑墓はより能蔵池に近いバイパスの東側を中心に発見されている。野牛島集落の発祥は能蔵池北側であるとの伝承があるが、遺跡の調査結果からその伝承は中世以降能蔵池周辺に集落が移動した後の状況を伝えていると考えられる。写真は平安時代の住居跡。

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野牛島・西ノ久保遺跡

西に大塚遺跡、南に野牛島・大塚遺跡、東に石橋北屋敷遺跡に囲まれた遺跡。古墳時代前期や奈良・平安時代、中世の集落跡。遺跡内の小さな谷底から破片どうしが融着し形が歪んだ須恵器の大甕片が出土し、遺跡周辺に須恵器窯が存在する可能性が指摘されている。また注目される遺構として、炭焼の平窯や和鏡が副葬された土坑墓、中世の道路跡なども発見されている。

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野牛島のお浅間さん

野牛島のお浅間さんは現在は民家の間にひっそりと存在していますが、この場所は、かつては見晴らしのよかったであろう前御勅使川(御勅使川の旧流路)の野牛島側堤防上です。富士山の眺望も楽しめたことでしょう。
 野牛島のお浅間さんには、富士塚も造られており、地域の富士信仰の拠点でした。
 野牛島の中島家に残されていた日記には、江戸時代の1835年(天保6)6月29日~31日にかけて大風が吹いて川々が大荒となり「前御勅使川通富士塚弐番三番堤急破いたし・・・」と記されており、当時より堤防上に富士塚が存在していたことがわかります。

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野牛島のビャクシン

ビャクシンはヒノキ科の高木であるイブキの一品種で、本州、四国、九州の海岸地方に分布する常緑の針葉樹である。
樹形が美しいため庭園や寺社境内に植えられていることが多く、本樹も野牛島地区、御所五郎丸の墓前にある観音堂の庭先に立っている。
幹は地上より10メートルの地点で折れているが、現在も樹勢は極めて旺盛で、枝葉もよく繁り、円錐形の見事な樹形をとっている。
規模は、根廻り4.85メートル、目通り3.25メートル、樹高11.5メートル、樹齢は約400年とも言われる、県下有数の巨木である。
鎌倉時代に野牛島に流罪となったといわれる御所五郎丸が、杖をこの地にさしたところ、それが根づいて現在の大きなビャクシンになったという伝承が残されている。


所在地/南アルプス市野牛島2076
所有者、管理者/野牛島区
指定年月日/昭和35年11月7日

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野牛島バス停(前御勅使川)

 野牛島バス停の前の道、県道甲斐芦安線は御勅使川の古い流路で、「前御勅使川」、ちょっとなまって「まえみでえ」と呼ばれています。
戦国時代には御勅使川の本流であったと言われますが、明治31年に六科将棋頭の上流が締切られ、前御勅使川の歴史に幕が下ろされました。
昭和に入るとこの河原を利用し四間(約7.2m)道路が敷設され、戦後に開発が進み、現在への街並みへと変わっていきます。
写真は昭和12年頃の野牛島停留所前。旧河川に道路が作られた直後であり、河川の面影を見ることができる。

[画像:個人所有]

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矢崎家住宅

江戸時代前期の建物。甲府盆地西部では最も古い民家で、徳島堰を完成させた矢崎又右衛門のゆかりの家でもある。矢崎氏は江戸時代を通じ有力農民として有野村の名主を務めていた。市指定建造物。

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矢崎家住宅

有野の故矢崎徹之介氏の居宅で、甲府盆地西部では最も古い民家である。建てられたのは、江戸時代初期、寛文以前の建築である。
矢崎氏はもと青木氏の出で、武田信玄公の時代に有野に所領を得て、信州からここに移った地侍であった。その後、江戸時代を通じ有力農民として名主を勤めている。
広い屋敷内には南に長屋門を構え、母屋の西北に文庫蔵が続き、北側にも大きな土蔵がある。
古さの見どころは、13本残っている柱にハマグリ手刃の跡が見られること、屋根裏の小屋組は当初のままで、小屋東に貫が離れて交わっていることなどである。


所在地/南アルプス市有野1204
所有者、管理者/個人
指定年月日/昭和53年2月16日
備考/

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流鏑馬専用馬場

櫛形総合公園内にある流鏑馬専用の馬場です。
南アルプス市では毎年5月のアヤメフェア(現あやめ・流鏑馬フェア)で「小笠原流流鏑馬」が披露されています。
流鏑馬は小笠原家惣領家(江戸時代の小倉藩主)直伝のもので、現在も福岡を拠点に活躍をされている源長統一門によって行われています。

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山寺八幡神社のシラカシ林

神社南西部を中心にして、シラカシの群生がみられる。目通り幹囲3.4メートル、樹高23メートルを筆頭に35本が群生している。暖地性植物カシ林は、盆地周辺が北限で植物分類地理学上貴重である。


所在地/南アルプス市下宮地470
所有者、管理者/山寺八幡神社
指定年月日/昭和54年2月15日

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山寺八幡神社太太神楽

氏子による神楽部によって、例祭4月29日、12月31日(午後11時30分から午前1時30分)頃に奉納される。20数種の舞に応じて面・冠・衣装があり、刀・扇子などの採り物がある。


所在地/南アルプス市山寺
所有者、管理者/山寺八幡神社神楽部
指定年月日/昭和61年9月1日
備考/

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誘導路1

ロタコ工事の際に作られた飛行機の誘導路のひとつ。その後、多くの施設が畑や田んぼに戻されるなか、戦後も「便利なので」そのままの農道として使われている。

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誘導路2

南半分は地域の人々が常楽寺にむかう「オテラミチ」を拡幅。北半分は、ロタコ工事に際して新設された。新設部分は戦後畑にもどされた。

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隆昌院本堂の桟唐戸

桟唐戸は鎌倉時代に禅宗が渡来した折りにその建築様式とともに伝えられたもので、禅宗様扉とも呼ばれ、その後他宗の寺院や神社等でも広く用いられるようになった。隆昌院の桟唐戸は様式からして桃山時代(1574年から1614年)の頃に製作されたものと考えられる。高さ2.53メートル、幅0.45メートル両折両開で黒漆仕上げ、上部の花狭間や八双金物に打ち抜かれた猪目形など美しく優れた作品である。


所在地/南アルプス市江原1550
所有者、管理者/隆昌院
指定年月日/昭和49年1月29日
備考/

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了円寺

徳島堰を作ったの徳島兵左衛門ゆかりのお寺。兵左衛門夫妻のお墓もある。当時このお堂にもロタコ工事で朝鮮人労働者が寝泊りしていた。

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ロタコの製材所跡

ここで、ロタコ工事で使われる木材を一手に製材していた。現在は工場となりその面影はない。

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六角堂の切子

 「切子」は切り紙細工の一種で寛文4年(1664)頃から六角堂の護符として地域に伝えられ(当時に代官に献上していたとする伝承が伝わります)、現在でも10月13日の例祭には六角堂に奉納してできばえを競ったあと、区内全戸にお守りとして配布されます。
 この「切子」は、美濃和紙を5枚~10枚程重ねて、手作りの切り出しや「つきのみ」と言う刃物を使い、図柄や模様などを「切り透かし」ていくまことに繊細な美しいもので、光に透くことから別に「おすかし」とも言われています。

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若宮神社本殿

建立年代は不明だが、元禄2年(1689年)奉上葺の棟札があるので建立年代はこれより前の寛文期(1662年から)、」ごろと思われ、様式も一致する。
本殿は一間社流造(ながれづくり)で、桁行1.56メートル、梁間1.40メートル、向拝梁間0.83メートル、建坪約3.48平方メートル。
昭和31年に屋根の修理が行われ、ヒノキ皮葺から銅板葺に替えられた。保存状態もよく、すぐれた形姿をもち、本市では第一級の価値のある社寺建築である。

所在地/南アルプス市飯野2175
所有者、管理者/若宮神社
指定年月日/昭和57年11月30日
備考/

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鰐口(わにぐち)

鰐口は、古くは金鼓(こんく)と呼ばれ、社殿や仏堂前の軒下につるされた金属製の具であり、その形から鰐口といわれるようになった。
久本寺の鰐口は、享徳3年(1454年)のもので、面径13センチメートル、口径15.1センチメートル、縁高3.6センチメートルである。
表面に記された文字から、子孫繁栄を願って観音堂に奉納されたことが分かる。


所在地/南アルプス市下今諏訪556
所有者、管理者/久本寺
指定年月日/昭和35年11月7日
備考/

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