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養蚕の錦絵

 江戸時代の浮世絵文化を引き継いだ錦絵は、あでやかな色彩や構図で現代の私たちを美術的に楽しませてくれます。また、それだけでなく、特に養蚕の様子を描いたものは、当時の様々な情報を視覚的に伝えてくれる貴重な資料になります。
←「養蚕図絵第三 にわの休 : 梅堂国政筆 」飯野新田石原家資料より
 この絵は、女性たちが家の中で飼っているカイコに桑の葉を与えている場面です。外には蚕の守り神でもある馬が、桑の葉を背に付けて運んで来ています。
 題名にある「にわ(庭)の休」とは、金色姫伝説に起因する江戸時代における蚕の飼育期を指す言葉で、蚕が繭を作るまでに4回脱皮するうちの、4回目の脱皮前休眠状態期(四眠)のことを示していると思われます。
 この伝説のあらすじは、「継母に疎まれて4度も命を狙われるも、その度に救出された金色姫は、最終的に蚕に生まれ変わり養蚕をもたらした」というものです。
 その中に、「姫は継母に、一度目は獅子などの猛獣がいる山に捨てられ、2度目は鷹などの怖い鳥がいる山かもしくは竹藪に置き去りに、3度目は船に閉じ込められて海に流され、4度目は庭に埋められるのですが、その度に助け出されて生き返る」という文脈があり、この姫の受難は、「死んだようにしばらく眠った後に起きて脱皮することを4回繰り返す、蚕の生育過程」を示しているとされています。
 また、この錦絵には、「金色姫伝説」と並んで、日本における有名なもう一つの養蚕起源説である「馬娘婚姻譚(捜神記)」に由来する「馬」が登場しているところも興味深いです。馬は養蚕と関係の深い動物として、養蚕具に意匠として施されたり、養蚕繁盛の信仰対象になったりもしました。養蚕の文化は奥深いです。
次の錦絵もご覧ください。
←「蚕養草:国利」飯野新田石原家資料より
 この絵の蚕はかなり大きく太っているので、おそらく、繭を作る直前の5齢期だと思われます。枝をかごに入れているところを見ると、そろそろ糸を吐き始めるころなのでしょう。
 養蚕はこの時期が一番忙しいので、子を背負った母の表情にもその余裕のなさが出ている気がします。また、母の気持ちを少しでも自分に手繰り寄せようとする、子のけなげな手の表現にも惹きつけられます。
 題名左の文には、
『かいこおおねむり
 おきしてのちは
 くわの葉をくるる
 ことおおくして猶
 なたねのしべなどを
 入てすをつくる也』
と書いてあると思います。
すなわち、先に1枚目でご紹介した「にわの休み」後の、「五齢」以降の蚕の飼育要領を示した文言だといえます。
 「蚕が大眠り(四眠・にわの休み)から起きた後は、桑の葉を多く与えて、その後は菜種の実を採った後の枝や藁の穂の芯などを入れると、す(繭)をつくる」という意味でしょう。
続いて、3枚目の錦絵もご覧ください。
←「養蚕図絵 第五 あがりの図 : 梅堂国政」飯野新田石原家資料より
 この絵は、粗朶(そだ)につくらせた繭を吊るしてかけて置き、十日ほど経ったところで収穫している場面です。乾燥中の繭はネズミの大好物なので、赤い首輪の猫がきちんと見張っています。
 収繭と並行して、繭を茹で、手回しの座繰り器で糸を繰る作業を行っているところも興味深いです。江戸時代は乾繭技術が未発達でしたから、各家では、繭中のさなぎが羽化する前に煮て糸を繰る作業が必要でした。
 うまく繭が仕上がって満足そうな女性たちの笑顔が印象的です。

 以上3点の養蚕の錦絵はいずれも出版人が「堤吉兵衛 日本橋吉川町五番地」とあり、養蚕図絵2枚の出版届出が「明治二十年九月七日」となっていました。堤吉兵衛は元は浮世絵の版元であったのが、明治時代からは錦絵や絵草紙の問屋になったようです。

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