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時代で選ぶ - 江戸

高砂渡場橋梁渡船賃銭表(たかすなわたしばきょうりょうとせんちんせんひょう)

現在、南アルプス市八田地区に、昭和7年にコンクリート製の旧信玄橋が開通するまで、上高砂と龍王を隔てる釜無川を渡るには、「高砂渡し(たかすなのわたし)」を利用する必要がありました。
[「大正5年頃の高砂の渡しの様子」(南アルプス市文化財課蔵)]


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その高砂の渡しには利用料も必要で、釜無川の水量の状態や利用する人の条件によって料金が細かく設定されていました。
[「高砂渡場橋梁渡船賃銭表看板 大正7年」(南アルプス市文化財課所蔵):釜無川の右岸にある高砂と左岸側の竜王へと結ぶために運営されていた渡し場に掲げられていた料金表の看板]


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『 山梨県許可
 橋梁渡船賃銭表
 橋梁之部
人壱人  金二銭
牛馬一頭 金四銭
人力車一輌 金四銭
自転車一輌 金二銭
荷車一輌  金五銭 
客馬車一輌 金七銭
荷馬車一輌 金十銭

 渡船之部
 常水三尺以下二人越
人壱人  金三銭
牛馬一頭  金四銭
人力車一輌 金四銭
自転車一輌 金二銭
荷車一輌  金五銭
 増水三尺五寸以下三人越
人壱人  金四銭
牛馬一頭  金五銭
人力車一輌 金五銭
自転車一輌 金三銭
荷車一輌  金六銭
 増水四尺以下四人越
 人壱人  金五銭
牛馬一頭  金七銭
人力車一輌 金七銭
自転車一輌 金四銭
荷車一輌  金八銭
増水四尺五寸以下五人越
 人壱人  金六銭
牛馬一頭  金九銭
人力車一輌 金九銭
自転車一輌 金五銭
荷車一輌  金十二銭
増水五尺以下六人越
 人壱人  金七銭
牛馬一頭  金十一銭
人力車一輌 金十一銭
自転車一輌 金六銭
荷車一輌  金十四銭

備考荷車並荷馬車空車ナルトキハ総テ半額トス
右之通り
大正七年四月廿七日  高砂渡場     
          山梨県龍王警察署□印 』
[「高砂渡場橋梁渡船賃銭表看板 大正7年」(南アルプス市文化財課所蔵):釜無川の右岸にある高砂と左岸側の竜王へと結ぶために運営されていた渡し場に掲げられていた料金表の看板]
ただの料金の羅列ですが、最初から最後まで頭を働かせながらゆっくり見ていくと、かなり面白い発見がありました。
①まず、全体の構成から見ると、橋梁の部と渡船の部に分けられていることに気がつきます。「橋があるのに、それよりも1銭も高く支払って船で渡るとはいかに?遊覧船でもあるまいし」と、不思議に思ってしまいますが、ここには理由があって、昭和7年にコンクリート製の永久橋である信玄橋が建設されるまで、橋は、冬期の水量の少ない時期にのみ存在するものでした。春から秋にかけての増水期には、橋は取り払われていました。橋梁の建築技術や素材が未熟だった明治大正期には、春から秋に起こる大雨によって流される危険性が高かったのでしょう。
高砂の渡しの場合、舟が運航するのは5月頃から12月中旬までで、水の少ない12月から4月までは仮橋がかけられていたと八田村誌にあります。そのために、橋の通行料と渡船賃の両方が明記されていたというわけです。
[「高砂渡場橋梁渡船賃銭表看板 大正7年」(南アルプス市文化財課所蔵):釜無川の右岸にある高砂と左岸側の竜王へと結ぶために運営されていた渡し場に掲げられていた料金表の看板]
毎年の橋の架け替えに必要な経費については、橋の通行人が支払うものとは別に、橋を多く利用する近隣村が分け合って負担していたようで、年末にまとめて村が支出していたことが、文化財課保管の村入用夫銭帳などからわかっています。
[「大正5年頃の高砂の渡しの様子」(南アルプス市文化財課蔵)]
上今諏訪の渡し(現在の開国橋あたり)に近い西野村でも、文久2年村入用夫銭帳にて12月に「上高砂 橋掛入用甲銀15匁を支出」の記載があります。この他の年でもだいたい同じような金額を12月にまとめて上高砂村に支払っているようですので、高砂の渡しで毎年建設する橋梁は上高砂村が管理運営していたということだと思います。
[「k-0-0-19-30 1862戌夫銭帳西野村」(南アルプス市文化財課蔵・西野功刀幹浩家資料より)]
②それでは、次に橋梁の部と渡船の部の項目別の料金について見比べてみます。通行人だけでなく、牛馬や人力車、自転車、荷車などの乗り物別に料金設定が異なっている様子がわかりますが、客馬車と、荷馬車は渡船では無理だったようで、橋梁の存在する期間(12月から4月頃)に限って通行可能であったことがわかります。
[「k-0-0-19-30 1862戌夫銭帳西野村」(南アルプス市文化財課蔵・西野功刀幹浩家資料より)]
③さて、次に着目するのは、渡船賃料が、川の水深によって細分されているところです。
三尺以下(90.9cm以下)、三尺五寸(106.1cm以下)、四尺以下(121.2cm以下)、四尺五寸(136.35cm以下)、五尺以下(151.5cm以下)の5段階となっています。このことから、5尺以上(水深151.5cm以上)で渡しは中止されたということが理解できます。
三尺以下の常水では1人3銭であるのが、最も増水している時では一人7銭となり倍以上の料金がかかったということがわかります。

④面白いことに、馬や荷車に乗せた荷物の量や重さは料金に無関係だったようです。荷台はカラであっても満載でも1輌分の料金は変わらないということでしょうか。
[「高砂渡場橋梁渡船賃銭表看板 大正7年」(南アルプス市文化財課所蔵):釜無川の右岸にある高砂と左岸側の竜王へと結ぶために運営されていた渡し場に掲げられていた料金表の看板]
ここで、大正初期当時の高砂の渡し利用状況を具体的にいろいろ想定して、料金を計算してみようと思います。
・夏に収穫した桃を詰めた籠を背負って、晴れた日に甲府の市場に行くために高砂の渡しを使う場合の料金
→3銭
・桃を荷車に積んで船で渡る場合 → 5銭
・甲府へ新春の初売りに行くために橋をわたるとき→ 2銭
・甲府の製糸場へ出荷するため、台風の翌朝に繭を荷車いっぱいに積んで船で渡るとき(釜無川は増水五尺)→14銭
・芦安で切り出した材木を12月に荷馬車で甲府に運ぶ場合→10銭

川を渡るときのお金のかかり具合は、だいたいこんな感じでしょう。しかし、例えば客馬車に乗っているお客さんからも一人当たりの橋梁渡賃2銭を徴収していたのか否か? 荷車の積載量を徴収しないのと同じように、客馬車代を7銭払ってあれば、のせている人の数は不問だったのか?など、気になるところもありますね。

こうしてみてみると、ひと1人で渡る時に一番安く川を渡れるのは、12月から4月までの橋の架かっている時期の2銭で、5月から11月の渡船でいかなくてはならない時期には1銭高くなったということがわかります。一番値段の高くなるのは、増水五尺で1人で7銭、荷車で渡るときは14銭とありますが、『六人越』とありますから、6人の渡し人を使って流れの速い釜無川に船を出すこともあったかと思うと、相当危険でもあったと想像します。
[「大正5年頃の高砂の渡しの様子」(南アルプス市文化財課蔵)]
[「昭和7年信玄橋落成記念」(南アルプス市文化財課蔵・野牛島中島家資料より)]
[昭和7年11月15日信玄橋開通記念:長さ460㍍、幅7メートルの鉄筋コンクリート製の永久橋が完成し、高砂の渡しは終了した。(南アルプス市文化財課蔵)]


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高砂の渡しは、昭和7年にコンクリート製の永久橋が竣工すると終了したと考えられます。この永久橋が初代の信玄橋です。総長455.5m、幅員5.45mで、総工費は約12万円だったそうです。
[昭和7年(1932)旧信玄橋のこの親柱には、頭部に橋灯が設置され夜間の通行の助けになっていたが、戦時中に撤去されたとのこと。(南アルプス市文化財課蔵)]
[現在の信玄橋上からみた高砂の渡しのあった辺り(令和5年11月16日撮影)]
現在の信玄橋は平成4年に2代目として竣工したものですが、1代目と同じく、武田菱や武将の意匠が橋の所どころにデザインされた信玄橋の名にあやかったものとなっています。
[平成4年(1992)に竣工した2代目で現在の信玄橋の親柱には、武田菱がついている(令和5年11月16日撮影)]


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なお、役目を終えた1代目の信玄橋の親柱は、現在、八田児童館の敷地内に移されており、いつでも自由に見ることできるようになっています。
[「昭和7年竣工の旧信玄橋の親柱」八田児童館の敷地内に移されている。(令和5年11月16日)]


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