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時代で選ぶ - 江戸

にしごおり果物の軌跡は「柿の野売り」による行商活動からはじまった

022年12月まで開催していた南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「にしごおり果物のキセキ」で展示されていた古文書、『菓もの類野うり免許状』2点、『曝柿直売免許状』1点、『原七郷議定書之事』をご紹介します。これらの古文書を読み解くと、にしごおり果物の軌跡が「柿の野売り」による行商活動からはじまっていることがわかります。
古来より、砂、砂利、礫、粘土に覆われたにしごおりの原七郷では、その恵まれない自然条件下によるギリギリの土地利用のなかで、最大限の効果を挙げようと努力する人々の姿がありました。柿などの作物を加工したり、売る時期をずらすなどして、商品価値を高め、農閑期に村外まで売り歩く行商によって、村の生産力以上の人口を維持してきたのです。南アルプス市域で最も古くから盛んに作られた果物は、この行商用商品として加工するための柿でした。

古文献にも、西郡(にしごおり)の柿についての記述は見られ、

「裏見寒話巻之四」1754年宝暦4年 野田成方 「甲斐志料集成三 地理部2」昭和8年 甲斐志料刊行会・大和屋書店に収録の
甲斐料集成P226には『西郡晒柿 渋柿を藁灰にて晒して売る。此処は田畑なく、柿を売る事を免許されしといふ。』
甲斐料集成P229には『晒柿 渋柿を藁汁にて製して晒す。佳味也。西郡原方より出づ。』とあります。これらの記述から、にしごおりの人々が売り歩いた柿は渋柿を加工したもので、「晒柿(さわしがき・さらしがき)」と称されていたことがわかります。

 行商の商品として「にしごおり果物」を生産したことは、明治以降に当地で勃興するフルーツ産業に、様々なプラス作用を及ぼしました。商機があればどこにでも出かけていく、風の如く機敏なフットワークと開拓心によって磨かれた、にしごおり行商人たちの経済観念の強さは、市場の動向にもまた機敏な果物栽培を初期段階から実現し、現在の南アルプス市における独創的なフルーツ産業の在り方へとつながっています。
[南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「にしごおり果物のキセキ」より、柿売人に関する文献の展示コーナー]


○博アーカイブはこちら
まずは、原七郷のの者どもへ武田信玄が出したという、いわゆる「野売り免許状」と呼ばれるたぐいのものを3点ご覧いただきます。
1 「菓もの類野うり免許状 十五所澤登家所蔵」 天文10年8月 1541
    七郷の者に与えられたという果物売りの行商免許(御朱印)状
『其村々より年々飼馬
献上致候段神妙之至
向後三郡九すし之内
菓もの類野うり糶売
免許之事

小幡山城 奉之

天文拾年    
  辛丑八月日 

          七郷之もの共』
[1 「菓もの類野うり免許状 十五所澤登家所蔵」 天文10年8月 1541:七郷の者に与えられたという果物売りの行商免許(御朱印)状]
2 「菓もの類野うり免許状 桃園区有文書55-16」 天文10年8月 1541
    七郷の者に与えられたという果物売りの行商免許(御朱印)状
『其村々より年々飼馬
献上致候段神妙之至
向後三郡九筋之内
菓もの類野売糶売
免許之事
小幡山城 奉之
天文十年辛丑八月日    
              七郷之 もの江』

3 「瀑柿直売免許状 桃園区有文書55-1」 天文18年8月 1549
    七郷の者に与えられたという柿売りの行商免許(御朱印)状
『巨摩郡西郡筋原七郷者
雖乾水場所他邦会戦之節
夫持軍役等無遅滞因
先功瀑柿直売并諸商令
免許之旨御下知不可有
相違弥以此趣軍用可相勤条
依執達如件

天文十八年酉八月十五日   小幡因幡守
                奉之

              巨摩郡
               原七郷者江』

 「野売り免許状」とは、「飼馬を献上した等の功績により、原七郷に住む者どもに、果物類、晒柿その他の野売、せり売が信玄により免許されたという御朱印状のことで、1の免許状(朱印状)は現在でも櫛形地区の個人宅で大切に保管されているものです。これまでに※文献等に紹介された、同様の野売り免許状を集成すると、天文10年から永禄11年迄で計9点が確認できますが・・・。しかし、現今では偽書であるとの判断がなされています。このような偽の信玄免許状が流布するようになるのは、文化6(1809)年10月に起きた市川大門柿売人との縄張り争い以降であるとされます。 ※文献3)4) 
 ちなみに、野売り免許状に記載されている「天文10年」は、6月に武田晴信(後の武田信玄)は父の信虎を追放して当主となり信濃侵攻を開始した年です。「小幡山城」とは、武田家の家臣で小幡虎盛という人物を指します。

※ 野売り免許状についての記述のある文献:
1)「豊村」 豊村役場 昭和35年
2)「行商人の生活」 塚原美村 雄山閣 昭和45年
3)「甲州商人の特権伝説をめぐる一考察」 笹本正治 山梨郷土研究会甲斐路第59号 昭和62年
4)「山梨県史資料編11近世4在方Ⅱ」 山梨県 平成12年

 それでは次に、以上1・2・3のような偽書といわれる「信玄の野売り免許状」が、つくられる契機となった文化6年のある事件についての文書をご紹介します。
[『1・2菓もの類野うり免許状』2点、『3曝柿直売免許状』1点、『5原七郷議定書之事』1点]
4「信玄の偽免許状発給のきっかけ事件」文化6年10月 1809 『4柿売一件』桃園区有文書55-5
:八代郡東油川村で起きた市川大門とにしごおりの柿売人との間に起きた縄張り争いを巡る喧嘩についての文書
にしごおり柿売人が絡んだ争いの、最古の記録とされる。 ※文献1)3)

『八代郡市川大門村惣右衛門吉右衛門御訴訟奉申
上候趣意ハ祐助安五郎外五人者共晩十六日
八代郡東油川村近辺江柿売ニ罷出候処同商
売之もの原方七郷之者之よし申之大勢
理不尽難題申懸勇助安五郎両人之柿籠
奪取候間外立会候者共種々懸合候所一向
不取用小人数御座候得ハ大勢ニ而悪口申募
られ理非不相分両人之者共西郡原方ヘ一同
右連申候ニ付外五人之者共罷帰右両人親々江
相話し候ニ付右之始末御吟味奉請度段御訴訟
奉申上候儀之小笠原村江御出役様御越
被遊御吟味可被為極候処隣村之義故気の毒ニ
奉存江原村察右衛門御吟味延奉願小笠原村
安五郎十五所村八五郎右両人供場ニ而引
合候由承候ニ付右始末相尋候処右両人
申候ニハ其方共何れも相尋候間西郡原方より
相咎候得ハ西郡者笛吹より東ハ入込申
間敷と申私共柿籠ふみつふし以来
西郡者ハ差留メ申候間此段相心得可申与
申候間急度差押候ハバ其段書付差出し
可申間申候得ハ途中之事故此者両人遣候間
其地ニ而相糺可申与申候間無拠一同仕申
候由申之候右之趣多方申争ひ御吟味
奉請候而者不宣奉存双方異見差加ヘ内済
仕候起ハ

一 原七郷村々柿野売之義ハ往古より申奉も
有之作間渡世堅目籠ニ而手広之仕来ニ
御座候野売致候義ハ原方ニ限リ近郷ニ而茂
相弁ひ罷有候市川大門村之義ハ柿籠を以商い
渡来リ候段申之以来相互ニ馴合柿在売之義
迄者双方共故障申間敷候右之趣双方得心
仕相済申候且又此度申争ひ其外憤リ所ハ
扱人貰請重而意趣遺恨無ニ趣和融之上
内済仕候右之通双方并引合之者共迄一同
内済仕候ニ付何卒御慈悲を以テ内済御聞済
御下置願書御下ヶ被下置候様奉願上候然上ハ
右一件ニ付重而御願ヶ間敷義も願無御座候
誠ニ御威光ト有難仕合ニ奉存候之一同連印
を以御願下ゲ済口差上申処如件

文書の内容: 原七郷の柿売人が八代郡東油川村へ出向いたところ、市川大門の柿売りと鉢合わせて、縄張り争いとなる。市川大門の柿売り達が、「西郡者は笛吹川を越えて売りに来てはならない」といって、柿籠を踏みつぶして大喧嘩となったのだ。その折、小笠原村の安五郎たちは、けんか相手の市川大門の2人を西郡に連れて帰ってしまったので、市川大門方は代官所に訴えた。結果、仲裁人が入り、「西郡者は堅目籠を用い、市川大門方は柿籠を使って、互いに紛らわしくないようにして商売するよう」に決めて一応の決着をみた。

 この事件は、原七郷の人々に、生活基盤の一つである野売り商いの将来的なあり方への危機感を煽ることとなりました。そのため、この事件を契機として、信玄の野売り免許状なるものの流布が見られるようになったと考えられています。 ※文献3)
[4『4柿売一件』 桃園区有文書55-5 文化6年10月 1809]
よその土地に商売に出かけていくということには、相応の勇気と商才が必要です。信玄以前には「勅使による商売許可」というものもあり、「武田信玄の野売免許」とあわせた、それらの伝説の醸成した原七郷の特権意識は、西郡の行商人を精神的に支えました。

次の文書は、行商の特権意識を持つにしごおりの村々が団結して自衛する動きを示すものです。
[柿の野売りに使用された籠(南アルプス市文化財課蔵):この籠のタイプが文化6年当時に「竪目籠」とよばれたものかは不明。]
5「野売免許状を持つ原七郷の村々九村で商いの組合をつくった」文化6年10月 1809 『原七郷議定書之事』 桃園区有文書55-22
 内容:4の市川大門柿売人との縄張り争いの事件を受けて、危機感の募った原七郷の柿売人たちが、「野売免許状を持つ原七郷の村々九村」として、商いの組合をつくり、作間稼ぎの野売に関する決め事を記した。
『文化六巳十月柿売一件取極書 桃園村
原七郷糶定書之事
一 従御公儀様被仰渡候御法度之
  義者不及申何事によらす諸商ひ
  等ニ罷出候節随分相慎ミがさつ
  かましき義仕間敷別而
  御朱印等申立候義者重き御義ニ
  候間此旨得与相弁可申事
一 柿野売場先ニ而何事ニよらす何れ之
  村方より一件差発候節ハ組合村評議之上
  品ニより諸入用等組合割ニ司仕事
一 柿商売仕候者共江一村限り得与申聞置
場先ニ而御朱印を申立かさつ
成始末并不埒之取計仕候者
有之者詮議之上諸入用共者
壱人懸リ品により組合入用迄かけ
可申事
右之通組合付相談之上取極候上ハ
一村限り小前壱人別ニ申聞麁略無之様ニ
可仕若不埒之村方有之候ハ組合村ニテ
申立作間稼之商ひ一村差留メ可申候
為其組合連印為取替諠定書
仍如件
      文化六巳十月      在家塚村 
                    名主 林右衛門
                  上八田村
                    名主 幸右衛門
                  上今井村
                    名主 庄左衛門
                  桃園村
                    名主 庄八 
                  小笠原村
                    名主 源左衛門
                  吉田村
                    名主 清左衛門
                  飯野村
                    名主 忠左衛門
                  十五所村
                    名主 作右衛門
                  西野村
                   名主 佐治兵衛
端裏書
  文化六巳十月柿売一件取極書 桃園村        』

 その他、にしごおりの柿売人に関する文書について、文献等に既出のものを数え上げると、江戸期から明治初年頃にかけてのもので27点になりました。信玄の免許状だけでも9点ありました。いかに柿(果物類)の野売りによる利益がにしごおりの人々の生活に欠かせないものであったかが理解できると思います。
[『5原七郷議定書之事』桃園区有文書55-22 文化6年10月 1809]
江戸期に活発に行われていたにしごおりの人々による柿の野売りは、明治期に甲府に青物市場が整備されるまで続きました。
 野売りが行われなくなった後も、この行商文化で磨いたにしごおりの人々の売り込み精神や商才は、進取の気性・卓越した経済観念としてその心に宿り続け、現在まで続く当地の独創的なとフルーツ産業の発展に貢献しているのです。
[柿売人の登場する文献のリスト(展示中)(南アルプス市○博担当作成)]

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