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時代で選ぶ - 江戸

野牛島要助さんが日記に書いた天保騒動

8月24日は今から186年前の天保7年(1836年)、山梨県では天保騒動という大規模な騒乱のさ中で、ちょうど現在の南アルプス市域が被害をこうむった日です。
天保騒動は、江戸時代後期の天保7年(1836)8月17日に郡内白野村での百姓一揆からはじまった騒動です。しかし、山梨郡熊野堂村の米穀商打ちこわしという当初の目的を果たした郡内の百姓たちが帰村した8月22日頃になると、騒動に乗じて参加した無宿人らが暴徒化して、大規模な強盗集団となり、国中(甲府盆地内部の村々)を暴れまわって、甲州の人々を恐怖に陥れました。
八田地区野牛島中島家文書の中に、要助さんという当時名主を務めた人物の日記帳があります。
(八田地区野牛島中島家文書「去申用気帳」)


○博アーカイブはこちら
資料は文政7年暮れから天保9年4月までの期間のことが記されており、興味深いので、日付ごとに冒頭文章のインデックスを付けて見やすい様にしてみたり、天気・災害、米などの値段、要助家族、周辺情報、祭り民俗、不思議体験と分類して、内容を整理して読み返しています。
その中から天保騒動についての記録をご紹介しておきたいと思います。
天保7年8月17日~24日
『 一 八月十七日初め郡内白野村与五兵衛野田尻嘉助猿橋武七右三人之者共騒動大□郡内村々之者乱暴人数凡七百人斗ニ而笹尾峠(笹子峠)ニ登りのろしを上げ時こえ上げ谷村?酒屋穀屋油屋其外売買家打潰し先勝沼宿かぎ屋ハこんや質屋穀屋致候家ニせんたい諸賄致潰し不申候』
『同廿二日騒動成等々力村亀屋熊野堂村奥?石和宿沢田屋外ニ宿中火をかけ壱町田中酒屋数多く潰し御陣屋おし入人不残拂 山崎へ押寄甲府勤番頭弐タ頭山崎口へ出張与力同心百姓番非人えたそのひ建打くずし城内へ入』
『八月廿三日込一条町潰し本町へ入近習町和泉や作右衛門を潰し家道り諸帳面金きぬ糸衣類宿へ出し火かけもやし申候其外壱弐軒潰し猥(緑)町竹藤潰し其外町中二文字屋若松屋十一屋 大黒屋せんたいを出し酒肴飯にしめ差出し故か外ハ潰さず新町松田屋こもとや 嶋だや かじや 右四軒潰し龍王へ差向丹沢ニ而諸賄飯酒せんたい 東へ富竹新田迄出し北南へ出ス龍王村中米壱俵づつ残り候籾三斗弐升ニ而売出可申候と申置候 』
キャプ6 写真F
 『同廿三日晩龍王新町半六質屋伊左衛門潰し下今井穂阪酒屋と伊左衛門を潰し韮崎宿ヘ登り嶋や塩惣伊勢や外ニ拾七軒潰し是?南手之方印(す) 壱と手西八幡村
同廿三日晩勘蔵同別家西清五郎右三軒打潰し火をかけ下中郡河東中島成島花輪西東乙黒西条河東大田和逸迄市川村々ニ而壱村ニ付四五軒づつ潰し申候 』
『 同廿四日鰍沢?宿通青柳十日市場長沢荊沢鮎沢小笠原鰍沢文蔵 西(最)勝寺酒屋小笠原ニ而四五軒潰し人数は殊外有申候 騒動人斗り
 廿四日飯野長右衛門桃園村伊助飯野平助百々村幸左衛門西ノ油屋幸蔵右五人家戸障子天ん上なく茶がま衣類書物等不残潰し家も建皆致し御損じ潰され申候油醤油穀不残こぼされ申候百々村人数弐人手負三人西郡之手ハ是ニ而留ル 』
『西郡武川逸見筋西通台ケ原手負切ころし 十四五人同村酒潰し教来石村九郎次潰し同中之産ニ而古渕沢(小淵沢)へ甲府寄力同心かけ付騒動人九拾三人取 諏訪御城内?御出張 野(西)山が原(台が原)出陣有江東原へ御出陣?甲州へ御出張人数御□所 弐拾人取手百六拾人やり持弐百人ニ而御向龍王村ニ而御陣取御座候其外ハ国人足遣此取人七拾人余召とる』
天保7年8月23日~25日
『一 八月廿三日乱防共甲府をあらし弐(ふ)た手に別れ壱手は西八幡へうつり後一と手は龍王村ならや西古手や西丹沢乱防之上衣類を盗夫?信州や中下今井村保阪や乱防之上毀し吉田村幸左衛門乱防し夫より

廿四日韮崎宿塩や惣八伊勢や嶋や布や田助其外拾七軒乱防之上衣類等焼拂夫?逸見筋教来石九郎次を乱防之上強盗いたし夫?

同廿五日産ケ原村酒やこわし夫より小淵沢村乱防し 此節一国乱防ニ付御嶽山?究竟(屈強)之御師弐拾人甲府御陣や願出右乱防御取静御補助仕度旨申出国中へ入渡り右賊盗共を搦捕既ニ逸見筋小淵沢ニ而ハ賊人六拾人余も生捕候風聞候』
『  其外此逸ニ而も六科水防所ニ而も壱人搦捕髻(もとどり)ニ疵を負わせ 当村十兵衛前より池田に下りそれより早く甲府御役所差出候趣御座候
右賊盗衣類は小紋股引島縮緬之小袖弐つ着し 其上皮羽織帯刀ニ而金子弐三両持ち居候と噺しきく』
天保騒動の記録は、山梨県史に網羅されていますので読み比べてみると、暴徒集団の動向等の要助さんの記述は、それらと矛盾ないので、野牛島の名主要助が当時集めた最新情報はとても正確なものだったと言えると思います。

目新しい論点はないのかもしれませんが、要助さんは、自分の住む西郡(にしごおり)内の被害状況を詳しく聴き取りし、近所の六科で暴徒集団の一味を捕らえた状況やその服装、持ち物まで、まるで現場を見て来たかのように細かく記しており、悪党どもが大暴れして怖くて大変だった、天保騒動の状況がよく伝わってきます。

九月一日の記述には、天保騒動を取り鎮めるために駿州沼津城主水野出羽守が出張してきたという情報がある中、 当時、野牛島村惣代であった要助さんは、同じ西郡の曲輪田新田村惣代・徳兵衛とともに、天保7年九月三日に、「天保騒動による乱暴狼藉を江戸表へご注進のため、出府した」と日記にあります。

九月二十五日には石和宿に江戸より乱暴取締役が到着したことをその人物たちと役職名をそれぞれ詳細に記しています。

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