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1.水とともに生きる

治水・利水の知恵

前御勅使川を封鎖した穴水朝次郎の報徳碑

 八田地区下高砂の広照寺境内に、八田村誌にも掲載されている石碑があります。
[「錦洞翁報徳碑」平成15年八田村誌より]
 令和5年5月の現在も、下高砂の集落内にあるこの山門をくぐって進むと、左手にある桜の木の横に、その大きな石碑を見ることができます。
[「八田地区下高砂広照寺」(令和5年5月22日撮影)]
 近づいて目を凝らしてみると、『故錦洞翁報徳碑』と刻まれています。
[「八田地区下高砂広照寺内にある錦洞翁報徳碑」(令和5年5月22日撮影)]
 この石碑は、『錦洞翁』と称された穴水朝次郎(あなみずともじろう)という人物を讃えるために生家近くの菩提寺に建てられたものです。裏側にまわってみると、なにやら文字がいっぱいですが、その内容は『八田村誌 平成15年』で読むことが出来ます。
[「八田地区下高砂広照寺内にある錦洞翁報徳碑」(令和5年5月22日撮影)]
 甲斐で天保騒動が勃発した天保7年(1836)に生まれた彼は、国学者五百川巨川や江戸の平田篤胤に学んだ後、明治期に山梨県区長総代等を務めました。
[「穴水朝次郎画像」平成15年八田村誌より]
 その後、山梨県庁に入り、土木・勧業課長として辣腕を振るいます。特に明治9年以降は釜無川と御勅使川の築堤をはじめとする山梨の治水事業において多大な功績を遺しています。
[「御影村明治29年水害状況絵図(南アルプス市教育委員会蔵・南アルプス市ふるさと文化伝承館展示)」:この明治29年の大水害が契機となり前御勅使川を封鎖する決定がなされた]
 なかでも、晩年の彼が、八田地区の釜無川に御勅使川が合流する地点にある水害地域を救うべく、増水時に現れる前御勅使川とよばれた流路を封鎖する「石縦堤」を明治31年に完成させた功績は大きく、水害を激減させました。
[「明治29年水害図」平成15年八田村誌より]
 明治33年9月2日、享年63歳で穴水朝次郎は病を得て亡くなります。徳島堰から六科将棋頭までに築かれた石縦堤によって前御勅使川は消滅しましたが、その旧河川路上には、東西に延びる真っすぐな道路がつくられています。その後、昭和7年にコンクリート製の信玄橋が完成したことにより、甲府へのアクセスが飛躍的に向上し現在に至ります。
[「石縦堤他御勅使川の治水事業図(南アルプス市教育委員会編集発行『堤の原風景Ver5』よりp2・3)」]
 報徳碑にも、『防堤を修築し道路を開鑿す。偉業歴々として徴すべし。』と刻まれています。穴水朝次郎の数ある偉業の中でも、特に、築堤によって前御勅使川を廃し道路を建設した功績は、時代が変わってもこの地域に安全に住むことができている人々が、穴水朝次郎を想い起こし確認すべき大事業であったということです。
[「百々地区内の道路に変容した石縦堤跡」平成15年八田村誌より:現在では石縦堤も道路に変容され消滅している]
 この報徳碑には『明治壬子初春』とありますので、没後10年以上経った明治45年(1912)の1月頃に建てられたものです。同じく平田塾の門弟であった尾崎行雄の書による報徳碑の碑文は、朝次郎を敬慕していた身延町出身の政治家望月小太郎によって捧げられました。
[「錦洞翁報徳碑の碑文」(令和5年5月22日撮影)]

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