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3.時代を駆ける武士団

甲斐源氏ゆかりの史跡を歩く

小笠原 長清

小笠原氏の始祖。
加賀美遠光の次男として応保二年、三月五日に生まれ、母は和田清盛の娘とも三浦義澄の娘とも言われます。原小笠原荘(南アルプス市小笠原)を拠点とし、小笠原長清と称しました。
「御所庭(ごしょには)」や「的場(まとば)」という地名の残る小笠原小学校付近に館を構えたと考えられています。

兄である秋山光朝とともに在京し、平知盛に家礼として出仕していましたが、平氏追討の令旨には加賀美一族ではいち早く呼応しています。

(写真は開善寺所蔵「加賀美遠光・小笠原長清父子像」)
長清は父遠光とともに鎌倉幕府の創建に活躍し、源頼朝の絶大な信頼を得ます。治承五年(一一八一)には頼朝の声かけにより有力御家人の上総介広常の娘と結婚し、また、文治元年(一一八五)、平家討伐で頼朝の弟範頼の配下にいる際には、頼朝が範頼に宛て、長清に対し特別に目をかけるよう手紙を送っています。
さらに、東大寺の再建にかかり、長清には多聞天の寄進を割り当てているなど、『吾妻鏡』からは、頼朝の身近な行事に多く関わっていたことがうかがえます。

父遠光の信濃守着任に続き、長清が佐久伴野荘の地頭となったことをきっかけに、小笠原氏は信濃へと進出し基盤を築きます。
長清は弓馬の術に優れており、武田信光などとともに「弓馬の四天王」に数えられたとされ、建久四年(一一九三)には、頼朝が下野国那須野ほかで巻狩りをした際に弓箭の所持を許可された二二名に選ばれています。また、長清以降、弓馬術の伝統は代々小笠原家に受け継がれていくこととなるのです。

承久の乱において、武田信光とともに東山道大将軍として活躍し、鎌倉幕府の軍勢を率いて上洛した後、長清は京都に生活の基盤を築きます。
仁治三年(一二四二)七月十五日、八一歳で逝去し、京都の清水坂に自ら建てた長清寺に葬られたといわれ、応仁期の地図には、信光寺と並び長清寺が描かれていることがわかります。

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